2008/02/29
山田さんの富士さんの本
なんかよくわからないけど、二十一世紀はいいなあとおもった。
《折角のんで、記憶がないとは全くつまらない。例会みたいに、山田稔に記録でもとっておいてもらわねば、わが人生はすっぺらぺんと、どこかへ拡散してしまうわけだ》 (「おれの人生はつまらない」/富士正晴『贋・海賊の歌』未來社、一九六七年刊)
初出は「日本小説を読む会」会報(一九六二年四月)だから、四十六年も前に山田さんは富士正晴から記録係に指名されていた。
2008/02/25
3月のライオン
日曜日の朝、週刊将棋を読んだあと、羽海野チカの『3月のライオン』(白泉社)の第一巻を読んだ。
この漫画、電車の中吊りでも大きく広告されていた。
羽海野チカは、美大生版のトキワ荘というべき『ハチミツとクローバー』(全十巻、集英社)が有名だけど、『3月のライオン』は、将棋漫画である。しかも将棋監修は先崎学八段。盤面解説をかねた「先崎学のライオン将棋コラム」が素晴らしく、故・村山聖とよく似た登場人物のことにふれた文章を読んでいて、泣きそうになった。
まだストーリーの全貌は見えないが、傑作になる予感がする。
人間には成長期というものがある。自分はもうそれが過ぎ去ってしまったとおもうと、ちょっと悲しい。十代二十代のころに、もっと自分を鍛えておきたかったな、と。そんなことを悔やんでも、今さらしかたがないのだが、やりきれない気持になる。
将棋の場合、ひたすら強くなればいい。勝てばいい。でも強さとは何かということになるとむずかしい。どんどん強くなる人がいれば、あるていど強くなるけど、途中で止まってしまう人がいる。いや、将棋にかぎらず、勝負事の世界では、よくある話だ。
『3月のライオン』の主人公の桐山零は、十七歳でプロの五段(C級一組)である。家族を交通事故でなくし、将棋だけが心の支えになっている。
主人公には師匠がいる。師匠の子どもたちもプロ棋士を目指していたが、零にあっさりと追い抜かれ、将棋の世界から遠ざかってゆく。師匠は「自分で自分を説得しながら進んで行ける人間でなければダメなんだ」とまったく手を差しのべようとしない。厳しい。でもそれはそうなのだ。そのとおりなのだ。
一巻の最後のあとがき漫画で作者はなぜこの題材(将棋)を選んだのかと質問されたのだが、うまく説明できないと書いている。
おそらく「才能とは何か」という問いがあり、その題材として将棋を選んだのではないかおもう。『ハチミツとクローバー』のときもその問いは常にあった。
プロ棋士になる。しかしその先のほうがずっと長い。そこで生き残っていくために必要なものは……。
こんなに続きが気になる漫画はひさしぶりだ。
2008/02/24
この春ついに
夜、めちゃくちゃ寒い。
古本酒場コクテイルのホームページで連載中の中川六平さんの「泥鰌のつぶやき」を見たら、三月末刊行予定の扉野良人さんのエッセイ集のことが書いてあった。
今年にはいってから、中川さんと会うたびに、この本の話になる。目次の並びを見て、これはすごい本だと確信する。
扉野さんの書くものは、とにかく時間と手間がかかっていて、読むたびに感心させられてきた。
『sumus』同人で、わたしのいちばん古い知り合いは扉野さんである。まだ扉野さんが東京に住んでいたころ、「思想の科学」の編集者に紹介されて高円寺で飲んだ。会ったその日にアパートに泊っていった。
それからしばらくして同じ飲み屋で岡崎さんと会った。ある日、岡崎さんと飲んでいたとき、「こないだ、京都に行ったら、びっくりするくらい古本のことに詳しい若者がおってなあ」というので、わたしは「○○君(扉野さんの本名)でしょ」と即答した。
「なんや君ら知り合いか」
知り合いといっても東京で飲んだのは一回だけ。それだけ扉野さんの印象は強烈だったのである。
装丁も楽しみだ。
夜、三月一日(土)、二日(日)の池袋古書往来座の「外市」に出す本の値段付をする。一周年、早い。
売る立場でありながら「外市」ではずいぶん本(あとガラクタ)を買っている。長年、古本屋通いをしていても、ほんとうに知らない本がたくさんある。とくに「外市」は、自分のアンテナに引っかからない本と出くわすことが多いのだ。
それから四月五日(土)には、わめぞ新イベントの「月の湯古本まつり」も開催される。
『sumus』同人からは、京都から林哲夫さん、山本善行さん、扉野良人さん、東京から岡崎武志さん、南陀楼綾繁さん、わたしも出品する。さらに今、林さんの作っている『spin』に関わっている「エエジャナイカ」の北村知之君も参加するそうだ。
※詳細は「わめぞ」ブログ(http://d.hatena.ne.jp/wamezo/)にて
2008/02/17
にのいちしんぶん
……のであるが、編集部に原稿を送った翌日から、次々と見つかった。よくあることだ。
新刊本を読んでから、さかのぼって、古本を探す。そのときいつも不覚だとおもう。なぜデビュー作、あるいは出世作が新刊書店に並んだときに、反応できなかったのかと。
*
今週は大阪からBOOKONNの中嶋さんが上京し、三日連続、古本酒場コクテイルで飲んだ。会うたびに、古本の入った袋を持っている。相当、買っているとおもう。わたしも旅先ではそうなる。
中嶋さんから貸本喫茶ちょうちょぼっこの「にのにのいちのに」の「にのいちしんぶん」をもらう。
今日が最終日かあ。行けなくて残念。
「にのいちしんぶん」のモズブックスの松村明徳さんの「古本屋になった今」というエッセイを読んで「うっ」とおもう。
古本屋になる前は、あまり収穫がないと、「つまらなかった」「クズ本の山だ」みたいなことをブログで書いていたが、自分が古本屋をはじめてからは、いい本を並べることがいかに難しいかを痛感したといった内容だった。
昔、一箱古本市のとき、終了まぎわに来たお客さんに「百円でもいらない本ばっかりだなあ」といわれたことがある。
こちらとしては「もっと早く来てれば、けっこういい本もあったのに」と悔しい気持になったが、自分もその客と似たようなことを口には出さないが、心の中でおもうことはよくある。いや、書いたこともある。
やっぱり「目玉商品」はすぐ売れる。「今日はあんまり収穫がなかった」とおもうときは、自分と趣味のちかい何某さんの通った後だったりする。
(※)宮田珠己著『旅の理不尽 アジア悶絶編』(小学館文庫)である。
2008/02/12
鍋
心技体でいうと、こういうとき、頼りになるのは技である。技といっても、いろいろあるが、わたしの場合、とりあえず、自炊をする。
からだの調子がぱっとしなくても、簡単な料理なら、技だけでなんとかなってしまう。たいしたことではないが、ちょっと自信になる。
というわけで、昨日は鍋を作った。
色川武大は、調子のわるかったり、行き詰まったりしたら、バックするといいといっていた。
『うらおもて人生録』(新潮文庫)に書いてあるのだが、この本にはほんとうにお世話になりっぱなしだ。
バックするといっても、初心にかえるというようなことではない。色川武大は「ワンサイクルで燃えつきてしまわないように、適当にサボタージュする必要がある」といっている。
ストリップがだんだん過激になって、気がつくと、行きつくところまで行ってしまう。そうすると、ワンサイクルが終わる。
斬新な表現も、だんだん刺激に慣れ、やっているほうも見ているほうもそのうち飽きる。
この道何十年の職人がいて、毎日毎日同じことを繰り返しているようで、気がつくと、とんでもなく高度な技を身につけていたりする。
同じことをやっても、早くて正確になる。早くて正確になると、すこし余裕ができる。余裕ができると、次の一歩が見えてくる。
低迷しているなあとおもうときは、自分がやりたいことに必要な早さと正確さがまだまだ足りない状態なのかもしれない。
長年、自炊をしているうちに「今日は面倒くさいから、鍋にしよう」とおもえる程度になった。
そうなってくると、「今日は日本酒じゃなくて、焼酎でも入れてみるか」みたいなかんじで、すこしずつ遊ぶ余裕もできてくる。
昨日の鍋はただ豚肉とか白菜とか豆腐とかを煮て、ネギ味噌を焦がしてごま油をいれたものにつけて食った。
そのあと余ったネギ味噌を鍋にいれて、味噌煮込みラーメン(焼きそばの麺)を作ってみた。
わたしは簡単な料理ばかり作る。
簡単な料理を簡単に作ることができるまでは時間がかかった。
いっぽう早寝早起とかハキハキした挨拶とか正しい箸の持ち方とか、人が簡単にやっているようにおもえることが、ちっともできない。
簡単ということがわからなくなってきた。何事もできる人には簡単だが、できない人には難解なのだ。
どうしてこんな簡単なことがわからないのか。
わからないから、わからない。できないから、できない。わからないから、できないし、できないから、わからない。
わかりやすくいうと、ちっとも簡単ではないのだ。
2008/02/05
山川草木
尾崎一雄の「亡友への手紙」(『虫のいろいろ』新潮文庫)に「お互い、ぱっとしたことは出来そうにない方だからね、何とかして長生きして、年月にものを云わせるより手は無い」というTという友人の言葉が出てくるのだが、そんな気分だ。
体力人並以下だから、なるべく消耗しすぎないよう気をつけているのである。ただ怠けているだけともいう。
尾崎一雄はよく色紙に「山川草木」と書いたが、その由来(?)もこの短篇に出てくる。
山川草木転荒涼(さんせんそうもくうたたこうりょう)。乃木大将の詩だそうだ。
それはさておき、「亡友への手紙」のTは誰なのか。いつもニコニコしていて、ハンサムで、戦中になくなった尾崎一雄と仲のよかった作家となると限られている。田畑修一郎である。
先日、酒の席で、人生の転機になったのはなにかというような話になって、とっさには浮かばなかったのだが、高校を卒業して一年浪人したころ、予備校にも行ったり行かなかったりして、今みたいに古本屋に行って、そのあとぶらぶらしていたとき、ふと「なにをやっていても、生きてりゃいいんじゃないか」とおもったことがあった。
当時、東京に行く気はなく、京都の同志社か立命館に行けたらと考えていた。ところが、「なにをやっていても」とおもったとき、ふと「東京に行こう」という気になったのである。
私大の願書のしめきり直前くらいだった。
結果、一浪のときに受験した関西の大学はぜんぶ落ちてしまった。
あの心変わりはなんだったんだろう、と今でもときどき考えることがある。
それから十九年、当時のちょうど倍の年齢になった。
「としをとって了った。としもとったが、それより何より、ただもう弱ってしまった。精神も肉体もだ」(亡友への手紙)
尾崎一雄はそこから自分を立て直すのである。
参考になる。
2008/02/04
充電
日曜日、雪。昨晩カレーを作る。食事の心配もないので一日中家にこもる。一歩も外に出なかった。寝てばかりいた。いつものことだが、寒くて体が動かん。以前はこういう何もしない日があると「ああ、なにやってんだ」と気持が沈みがちだったが、最近はおもいきり休むことの効能を実感し、布団の中で心ゆくまで漫画を読む。
それでまあなんとなくすっきりした。今日、散歩して近所のスーパーで牛乳や卵を買う。ふと気づいたのは、昨日一円もお金をつかわなかったということだ。財布に一度もさわらない日というのは、そうあることではない。都会で生活していれば、何もしなくても、家賃とか電気代とかはかかる。少なく働いて、あんまり無駄づかいをしない生活というのはけっこう楽しいかもしれない。自分の中で怠けることが肯定できたような気がした。
風邪をひいて学校を休んだ日のようなことをやっていたわけだが、風邪がなおったときみたいに翌日からだが軽くなっている。
部屋にこもっていた日、三宅乱丈の『イムリ』(エンターブレイン、現在三巻まで)を読んでいた。ひさしぶりに「今、自分はいい漫画を読んでいるなあ」という気分を味わった。ルーンとマージという星があって、ルーンは昔、激しい戦争があって、凍ってしまう。その住民だったカーマの民は、隣星のマージに移住し、四千年後、またルーンに帰郷しようとするが、かつてカーマと戦ったイムリという原住民がルーンに住んでいる。イムリはもうかつての戦争の記憶は忘れてしまっている。カーマには相手の精神を操る術を持った支配階級がいて、文明化した都市に住んでいるのだが、イムリは土とか木とかいろいろ自然の力を利用する呪術をつかう。どれだけ広大な話になるのか予想もつかない。しかし三宅乱丈は、長引かせず、すぱっと話を終わらせるのではないか。
戦争とか天変地異とかがあって荒廃してしまった世界を舞台にした物語に魅かれてしまうのはなぜだろう。中高生くらいのころ、しょっちゅう、そうした空想の世界にひたっていた。さっき無駄づかいをしないとかなんとか書いたが、ちょっと前に宮崎駿の『未来少年コナン』のDVDボックスを買った。実はビデオも持っている。バカだ。
(付記)『イムリ』を読んだ興奮で萩尾望都の『マージナル』(小学館、全五巻)を再読してしまう。