2023/08/28

阿波踊り

 土曜日、四年ぶりの高円寺阿波踊り。午前中、西部古書会館。辻井浩太郎著『郷土新書24 三重縣新誌』(日本書院、一九五一年)、堀淳一、山口恵一郎、籠瀬良明著『そしえて文庫94 地図の風景 近畿篇Ⅲ 奈良・三重・和歌山』(そしえて、一九八〇年)など、郷土史本を買う。

 午後、阿佐ケ谷散歩。古本屋めぐり後、夕方、高円寺に帰る。茶処つきじで緑茶ハイ(いつもこの店でほうじ茶を買っている)。あづま通りの出店でナポリタン、炒飯など。日曜の阿波踊りでは庚申通りの焼き肉屋の牛カルビ串(一本二百円)を買う。この二日間、祭り飯を堪能した。阿波踊りは歩きながら人だかりの隙間から見たくらい。

 新城常三著『鎌倉時代の交通 日本歴史叢書 新装版』(吉川弘文館、一九九五年)を読む。第一版は一九六七年刊。著者は一九一二年生まれ。三鷹市(井ノ頭)に住んでいた。

《美濃は律令制度上は東山道に属するが、中世においては実質的には東海道である。すなわち鈴鹿峠越えの伊勢路が衰頽して、平安末以降、東海道は尾張を北上、美濃・近江を経由した》

 中世に東海道が伊勢廻りから美濃廻りになった理由が知りたいのだが、よくわからない。中世の交通の発達は都と各地の荘園の輸送が関係している。徒歩の旅ではなく、荷物を運ぶためのルートとなると、鈴鹿峠や木曽三川の河口付近(湿地帯)を通る伊勢廻りより、美濃廻りのほうが楽だったのかもしれない。

 重い荷物を運ぶ。人手も手間もかかる。遠くからものを運ぶ場合、輸送コストの問題も生じる。人件費その他を考えると、遠くから米などの重い荷物を運搬するのは割に合わない。だから地域によって荘園から中央に運ばれる貢納品はちがう。

 たとえば、中世の東北は金や馬が“年貢”だった。馬で移動することを考えると美濃廻りのほうが、川を渡る伊勢廻りよりも安全だった。中世の東海道が、伊勢路から美濃路になったのは馬も関係しているかもしれない(確証はない)。

 東海道は季候が温暖で道も平坦なところも多いが、河川は「年中行事のような増水・氾濫」があり、「交通上の困難と障碍の重み」は予想以上だった。いっぽう道や宿場、橋の整備が進むにつれ、東海道の利用者が急増する。

『鎌倉時代の交通』によると、鈴鹿峠を越える東海道は「平安中期よりこの道路は裏街道化した」とある。
 鎌倉幕府は「美濃路に駅制を設置して公式に新東海道と定めた」そうだ。

 鎌倉期の美濃路廻りが、江戸期に再び伊勢路廻りになる。さらに明治の鉄道の時代になると東海道本線は美濃路、近江路廻りになった(このあたりのことも今調べている)。

 東海道の一地域だけでも時代によってルートが変わる。たぶん今わたしが「わかっている」ことも数ヶ月後には変わっている可能性が高い。
 それでも地理や歴史の知識がすこしずつ増えていくことで『更級日記』や『十六夜日記』など、これまで興味のなかった古典文学が面白くなる。

2023/08/21

柳純三

 八月下旬、猛暑日が続く。例年以上に湿度が高いように感じる。散歩を続けているうちに風通しのいい道とそうでない道があることに気づく。高円寺の場合、東西の道がよく風が通る。

 稲垣達郎著『角鹿の蟹』(筑摩書房、一九八〇年、講談社文芸文庫)に尾崎一雄のことを書いた「本ならびに柳純三」「ある小春日のひとこま」の二篇あり。

 稲垣達郎は早稲田の高等学院時代、尾崎一雄の一年後輩で当時から知り合いだった。稲垣は尾崎の下宿を訪れたとき、(学生でありながら)「下宿に、こんなに本をもっている」ことに驚嘆する。

《明治期の文藝書の、そのころすでに珍本にぞくしていたものや、限定版の詩集——私家版『転身の頌』などのたぐいが豊富だった。『月に吠える』初版のごときは、岩野泡鳴宛の贈呈署名本であり、ところどころに泡鳴の書入れがあった。「ARS」「朱欒」など、手に入れにくくなっていた雑誌もそろっていた》

 そんな回想から尾崎一雄の習作時代の詩や短歌の話になる。詩の題は「焦心」——一九二三年二月「映像」創刊号(文藝部の詩誌)が初出らしい。
 学生時代の尾崎一雄は「柳純三」の筆名をつかっていた。

《をぐらい春の
 うすべにいろの寂しさを
 歪んだこころにしなしなとかんじ
 憂愁の影長く
 とある針葉樹林にさまよひ入った》(「焦心」抜粋)

 尾崎一雄、二十三歳の詩。稲垣は柳純三名義の詩について「朔太郎風」と評している。もし柳純三として詩作を続けていたら、後の「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」は生まれなかった。

「ある小春日のひとこま」は、冒頭付近で明禅法師の「しやせまし、せずやあらまし」(『徒然草』)を引いている。
 するかしないかで悩むようなことは、たいていしないほうがいい。たしかそんな話だ。

 稲垣は「本ならびに柳純三」について余計なことばかり書いてしまったのではないかと……。

「ある小春日の〜」では尾崎一雄が斎藤茂吉の歌を愛唱していた逸話を紹介している。尾崎一雄は、何度となく随筆その他で俳句や短歌の話を書いているが、わたしはそんなに関心がなかったので読み飛ばしていた。最近、昔の詩歌や古典に出てくる地名に興味があって、古書会館でもそういう本に手が伸びるようになった。

2023/08/14

十七年

 二〇〇六年八月にブログをはじめて十七年。十七年、中途半端な数字だなとおもったのだが、ライターの仕事をはじめたのは一九八九年六月だから三十四年——ちょうど半分だと気づいて、あらためて自分以外にはどうでもいい話だなとおもった。

 ふとおもいだしたのだが、二〇〇八年夏、酔っぱらって懐中時計をなくし、しばらくそのかわりになるものを探していた(わたしは腕時計しない派)。あるとき旅先の文房具店でタニタの万歩計を見て時計の機能があることを知り、日々の歩数がわかったら面白そうだなと……。というわけで、万歩計生活は十五年になる。万歩計を持つようになってから散歩の時間が増えた。

 あの日、懐中時計を落とさず、そのまま持ち続けていたら、今とはちがう人生になっていたのかもしれない。たいしたことではないが、それなりの時間を経てふりかえると、ものすごく些細なことがその後の人生を左右していることがある。

 話は変わるが「どこそこに行きたい」みたいなことを書くとそこを訪れる確率が高まるような気がする。あと人名や地名を書くと、いろいろな本を読んでいるときにその言葉が目に入りやすくなる(ふだんはびっくりするくらい読み飛ばしている)。

 しょっちゅう「晴れの日一万歩、雨の日五千歩」と書くのも、それによって意識や行動が変わるのではないかと考えているからだ。何とかの法則みたいな話だが、今は言葉が自分を動かしている感じだ。年をとって各種の欲が衰えたせいか。もともとそういう傾向があったのか。

 思考が漠然としてきたので今日はこのへんでやめる。

2023/08/13

富士川渡る

 金曜、近所の郵便局に行ったら閉まっていて、休日(山の日)と知る。そのまま中野まで散歩し、帰りにヨークフーズ with ザ・ガーデン自由が丘中野店(……正式名称、知らなかった。以前はイトーヨーカドーだった)で食材を買う。

 土曜の昼、西部古書会館。ガレージのところで「少年少女名作全集」(講談社)が大量に出ていた(百円)。坪田譲治訳『源平盛衰記』(一九六〇年)の巻を買う。ビニカバもきれい。美本。
『源平盛衰記』——富士川の戦い、墨俣川の戦いなど、それぞれ川の両岸に陣取り、攻防を繰り広げる場面がちょくちょくある。

 榎原雅治著『中世の東海道をゆく』(中公新書)の富士川に関する記述を読む。

 中世の富士川の河口——飛鳥井雅有の『春の深山路』は「富士河は袖がつくほどの浅さで、心を砕くほどの浪もない。多くの瀬が流れ分かれている中に家が少々ある」と記す。

《弘安三年(一二八〇)十一月に雅有の渡った富士川は、衣の袖がつく程度の浅い流れで、たいした波もなかったのである。そのかわりに多くの流れがあり、「せきの島」と呼ばれる中州には家も点在していたのである。また『十六夜日記』にも「富士川渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる」とあり、富士川の下流が多くの流れに分かれていたことが知られる》

 鎌倉時代の富士川の河口は時季によっては歩いて渡ることができたようだ。すこし前に「田子の浦」で「富士川は船で渡るしかない」(二〇二三年八月四日)と書いたが、『十六夜日記』のころは、そうではなかったことになる。

 先週、書店まわり中、島内景二著『新訳 十六夜日記』(花鳥社)が出ていることを知った。今年の六月刊。目次に「東海道の旅の日録」の章がある。『新訳 更級日記』も気になる。

『十六夜日記』の阿仏尼は醒が井を通り、美濃に入る。中山道の醒ケ井宿は一度歩いたことがある。至るところに水路があるきれいな町だった。
 美濃と尾張の境の洲俣川(墨俣川)は、川に舟を並べた浮橋を渡った。

 これまで縁がなかった地域の歴史や地理を知る。街道趣味の副産物といえるかもしれない。今度三重に帰省したら、岐阜に足をのばし、墨俣のあたりを歩きたい。

2023/08/07

美濃路NOW

 季候、体調によってちょくちょく目標の歩数は変わるが、もうしばらく晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課を続けたい。健康のためというより、気分転換の効果が大きい。

 金曜の夜、荻窪散歩。古書ワルツで新川みのじ会『美濃路NOW』(ブックショップ「マイタウン」、一九九七年)など。荻窪からの帰り道、阿佐ケ谷を通ると七夕祭りでにぎわっていた。前に街道を研究するにあたり古典はなるべく避けたい……みたいなことを書いたのは、興味がないからではなく(興味はめちゃくちゃある)、先行研究が膨大すぎて目を通している時間がないという理由もある。五十代のおっさんが気づくようなことは、たいてい誰かがすでに指摘している。

 平安時代と江戸時代——さらに現在では“東海道”のルートがちがう。『更級日記』の名古屋以西の道のりは桑名や四日市などを通る東海道ではなく、墨俣や大垣など美濃路+中山道を歩いたり、川を渡ったりしている。

『美濃路NOW』は宮(熱田)、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣、垂井と東海道と中山道をつなぐ美濃路の宿場町を徒歩&自転車で綿密に調査している。国土地理院の地図を元にした小冊子も付いている。ブックショップ「マイタウン」は「一人出版社」で「ネット古書店」である。

「墨俣宿」の項に『十六夜日記』の話が出てくる。

《『十六夜日記』を書いた阿仏尼は建治三年(一二七七)十月十九日、墨俣を通っている》

 『更級日記』は上総(現在の千葉、茨城)から京に向かうが、『十六夜日記』は京から鎌倉に向かう。このルートも江戸期の“東海道”ではなく、名古屋以西は大垣や墨俣を通っている。中世の東海道は後の中山道(近江路)+美濃路のルートだったのか。

 榎原雅治著『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』(中公新書、二〇〇八年)に「東海道は『東海道』か」という項がある。同書は『源平盛衰記』などを引き、(鎌倉末期に)「湖東から美濃へ抜ける道は『海道』と呼ばれていたことになるだろう」と記す。

《まさしく中世の東海道は美濃廻りのコースだったのである》

『更級日記』や『十六夜日記』の作者が“東海道”を歩いたという場合、美濃廻りの“東海道”を指す。鉄道の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。墨俣は木曽三川の長良川と揖斐川の間にあり、(京からだと)一宮、清須、名古屋に向かう。

『中世の東海道をゆく』によると、中世の木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)は、今とちがい、揖斐川の分流の杭瀬川が本流だったようだ。同書は揖斐川(杭瀬川)の流れが変わったのは、一五三〇(享禄三)年の大洪水の影響という説(ただし根拠は不明)を紹介している。中世の長良川も今と流れがちがう。東海道は洪水、台風などの水害で時代によってルートが変わる。当然、川の付近の町に与えた影響は甚大だった。川の流路の変化は街道にも大きく関係している。

2023/08/04

田子の浦

 木曜神保町。『星新一展 資料編』(世田谷文学館、二〇一〇年)を七百円(ただし文学館のハンコ付)。先週の『永田耕衣展』に続き、二週連続でほしかった文学展パンフを入手することができ、大満足である。そのあとM出版のMさんに会い、『星新一展』のパンフを自慢すると「このときの世田谷文学館行きました」といわれる。

 今週は晴れの日一万歩をクリアしている。

 話は変わって前回の『日本古典文学紀行』の「火の山富士と田児の浦」(高橋良雄)の続き。高橋良雄は歌枕の研究で有名な人である。しかし古典の研究書、読みたい本がことごとく一万円くらいする。我が道は雑本にありと腹を括る。

 《上古代の田児の浦あたりの東海道は、後に難所の一つとされるようになった薩埵峠を越える山道ではなく、興津・由比・蒲原あたりは、駿河湾沿いの道であり、それは海岸にせり出していた山裾を通る「親不知子不知(おやしらずこしらず)」のような険しい海沿いの難所の道であった》

 田子の浦はJR東海道本線でいえば吉原駅のあたり。富士山の山頂から海に向かってほぼ南に位置する。薩埵峠は由比、興津の間の峠である。

「火の山富士と田児の浦」では「田児の浦ゆ打出て見れば」の歌について薩埵峠のある海岸沿いの難所は船で通過したのではないかと……。

 さらに「『更級日記』にも『田子の浦は、浪高くて、船に漕ぎめぐる』とあるのは、舟遊びなどではなく、難所の海沿いの道を船で通過したことを記すのであろう」と論じている。

『日本古典文学紀行』の「火の山富士と田児の浦」を読むまで『更級日記』の作者は上総から京までひたすら陸路を移動したとおもっていた。街道のことばかり考えていたせいで海のことをすっかり忘れていた。

 山(峠)を行くか海を行くか。田子の浦のすこし先には富士川もある。
 富士川は船で渡るしかない。とすれば、田子の浦から薩埵峠の先まで一気に駿河湾を船で移動していたとしてもおかしくない。

 海の移動か。今後の課題としておこう。

2023/08/01

旅の途中

 話が尻切れトンボになったり、その日買った(読んだ)古本によって話題が変わったり、このブログは散歩の途中のメモくらいの気分で書いている。
 いろいろ道草をしてそこから取捨選択をして……という地道な作業を経て一本の原稿になる……ときもあればならないときもある。

 昨晩、「『更級日記』の話はもう書かないのか」と旧知の編集者にいわれた。すこし前に『更級日記』の名古屋以西のルートを調べていた。六月、京都に行った帰り、大垣駅から岐阜羽島駅までのバスに乗った。岐阜羽島駅からはじめて新幹線に乗った。『更級日記』は途中、大垣市の墨俣を通っている。墨俣といえば木下藤吉郎の一夜城で知られる土地だが、昔から交通の要所だった。

『更級日記』の作者は三重を通る江戸の東海道ではなく、名古屋から西は美濃路+中山道に近いルートを経て京都に向かったとおもわれる。東海道は時代によってコースが変わっている。それを調べるだけでも時間がいくらあっても足りない。

 久保田淳編『日本古典文学紀行』(岩波書店、一九九八年)所収「火の富士と田児の浦」(高橋良雄)に『更級日記』の富士山の火山活動に関する記述の引用あり。『十六夜日記』にも「ふじの山を見れば煙もたゝず」という箇所がある。

 大町桂月に「近藤重蔵の富士山」という随筆がある。

《『田子の浦ゆ打出でて見れば眞白にぞ富士の高根に雪は降りける』。古来富士山を咏じたる詩歌多けれども、これより以上の名吟あるべしとも思われず》

 桂月が紹介しているのは万葉集の元歌。新古今の田子の浦と富士の歌は「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」となっている。わたしは新古今の歌のほうがなじみがある。

 大町桂月もあちこちの街道を歩いている。