2024/04/16

みたかの今昔

 土曜午後三時すぎ、寝起きの頭のまま、西部古書会館。この時間で人がいっぱい。何とか隙間を見つけ、図録の棚を回り、『写真集 みたかの今昔』(三鷹市教育委員会、二〇〇〇年)を買う。一九九〇年刊の『写真集 みたかの今昔』を全面改訂したもの。昔の野川、仙川の改修前の写真を見る。
 一九五八年の狩野川台風で三鷹駅周辺が水没している写真もある。戦前戦中、仙川は何度か氾濫している。

 三鷹——大正期には桑畑、戦後の昭和二十年、三十年代にもかなり大きな田んぼ、麦畑が残っていた。天文台の近くに釣り堀があった(一九六四年の写真)。京王井の頭線の三鷹台駅の古い駅舎がいい感じだった。
 三鷹市、昭和三十年代のはじめ、五年間で人口が四十一%増加した。

 知ってる(つもり)の町の知らない話。世の中の移り変わりを漠然と知ることで、今現在も変化の途中なのだとおもえる。

2024/04/12

蓮華寺

 花粉か黄砂か、目とのどが痛い。昨年、この時期、急性結膜炎になり、体調を崩した。外出時、なるべくマスクをするようにする。それにしても五十代、調子のいい日が四十代の半分あるかどうかだ。スローダウンを心がける。体に心を合わせていく。

 古木鐵太郎著『文芸随想』(非売品、一九八二年)を日本の古本屋(古書うつつ)で買う。発行者は古木春哉。布張りのカバーがいい。最初、裸本かとおもった。「移りゆく武蔵野」(一九三六年)の一節。

《自分が初めて野方に越して来た頃は、家の近くには所々空地があつたが、またゝくうちにその空地にも隈なく家が建つてしまつた。越した当座は、それまでゐた所が高円寺であつた故か、今度の所は如何にも長閑で、一寸別天地といふ様な気もした》

「鷺宮」(一九三九年)という随筆もよかった。

《この鷺宮に越して来てからもうすぐに一年だ。こゝが前居た野方よりいゝ点は、四辺の広々としてゐること、空気のいゝことである。家の前には広い草原があり、その向うが低くなつて田圃、田圃の中には西武電車が走つてゐる》

 古木鐵太郎は高円寺、野方、鷺宮と転々と引っ越している(大和町にも住んでいた時期がある)。特別なことが書いてあるわけではないのだが、こういう文章を読んでいると気持が落ち着く。野方、鷺宮あたりの風景はものすごく変わった。もちろん高円寺も。

 時間が経つにつれ、身辺雑記や日記の中で切り取られた時間が貴重なものになる。古木鐵太郎の文章は素朴でひねりがない。新しさはないが、古くならない。

 土曜昼、西部古書会館の大均一祭(初日)、一冊二百円。七冊。おでん作る。
 日曜日、馬橋公園の桜を見てから早稲田通りの高円寺と阿佐ヶ谷の間あたりのすこし北にある泉光山蓮華寺(中野区大和町)の「花まつり」に行く(一週間前、鷺ノ宮を散歩した帰りにも寄った)。お伊勢の森のバス停のすぐ近く。

「花まつり」は毎年四月の第一日曜に開催している。甘茶を飲む。歴史ユーチューバーのミスター武士道さんがクイズを出していて、子どもたちに大受けだった。ミスター武士道、三重県四日市市出身と知る。
 桜の季節、あっという間に終わる。

2024/04/06

寒暖差

 金曜、正午すぎに寝て午後十時に起きた。四月初旬、寒暖差のせいか、睡眠時間がめちゃくちゃになる。神経痛の兆候もすこし。とりあえず、夜、早稲田通りのお伊勢の森のバス停あたりまで散歩する。高円寺と阿佐ヶ谷の中間くらい。
 東高円寺の天祖神社もそうだが、近所に伊勢(三重県)と関係深い場所がいくつかある。

 すこし前、文芸創作誌『ウィッチンケア』(VOL.14)が届いた。だいたい年一回の発行の文芸誌でわたしは二〇一七年から参加している。
 今回発表した「妙正寺川」はエッセイといえばエッセイなのだけど、いちおう心境小説のつもりで書いた。そもそも心境小説とは何か。正しい答えが知りたいわけではないが、自分なりの答えを見つけたい。

「妙正寺川」では『改造』の編集者でその後作家になった古木鐵太郎のことも紹介している。
 古木は一九五四年三月二日、五十四歳でなくなった。没後七十年。今のわたしも五十四歳。わたしが生まれたとき、志摩に暮らしていた母方の祖母が五十四歳だった。そういう年齢なんだな、五十四歳。

 晩年、古木は鷺ノ宮に住んでいて、妙正寺川沿いの道をよく散歩していた。

 編集者時代の古木は宇野浩二の担当をしていたこともある。ここのところ、宇野浩二が精神に異常をきたし、五、六年小説を書かなった時期(童話は何篇か書いていた)がある。その空白期について考えている。

 書けなくなったのか書かなかったのか。復帰作以降、文体も変わっている。

2024/03/31

雑記

 二十九日金曜、昼すぎ雨が小降りになったので郵便局のち西部古書会館(初日は木曜)。『図録 いま見直す 有島武郎の軌跡』(ニセコ町有島記念館、一九九八年)など。有島図録、副題は「相互扶助(MUTUAL AID)」思想の形成とその実践——。

 夕方、妙正寺川まで散歩。(プロ野球の開幕戦もあるので)橋を渡ってすぐ家に帰るつもりで出かけたのだが、夕陽がきれいだったので西に向かって歩いているうちにマルエツ(中野若宮店)。金トビの名古屋きしめん(乾麺)を買う。

 三十日土曜、部屋の掃除をしながらヤクルト中日戦——延長十二回一対一の引き分け。
 夜、新中野散歩。桃園川の遊歩道から追分公園を通り、肉のハナマサへ。中野坂上のオリンピックに寄り、山手通りを歩いて東中野駅に向かう。山手通りは自転車と歩行者の道が分かれている(時々、歩道を走ってくる自転車もいる)。
 途中、疲れた顔で歩くヤクルトのユニフォーム姿の中年男性とすれちがう。たしかにしんどい試合だった。東中野駅で乗り降りするのは今年初。いつの間にかホームドアが設置されていた(昨年十二月十六日からだそうです)。総武線、何度か乗っているのに気づかなかった。

『老いての物語』(學藝書林)所収「気に入った本を楽しむために」の続き。(学者は)専門書だけでなく、読んでも読まなくてもいい本をたくさん読んだほうがいいとのこと。さらに京都で学生をしていたころの話——。

《私は丸太町通りの古本屋の棚には、どこの店にどんな本があるかすっかり覚え込んでしまったほどよく通いました》

 河盛好蔵は旅先の古本屋に寄るのが好きだった。わたしもたまに今はない古本屋の棚をおもいだすことがある。昔から人の顔をおぼえるのが苦手なのは、そういうところに記憶の容量をつかっているのかもしれない。

2024/03/27

春の雨

 火曜、昼二時すぎ起床。午後三時すぎ歯医者(三ヶ月に一度の検診。先週だったのだが、忘れてしまった)。
 夜七時ごろ、日課の散歩(晴れ一万歩、雨五千歩)。雨は弱くなっていたが、風が強い。南口のアーケード街から桃園川緑道を通り、阿佐ヶ谷まで。ガード下のOna casita(おなかすいた)でビビンバ(半額)、高円寺と阿佐ヶ谷の間のビッグ・エーで調味料を買う。雨の日の遊歩道は人が少なくて快適である。早歩きになる。帰りはガード下を通る。

 新しいパソコン(中古)で初仕事(書評)。書きながら各種機能をカスタマイズする。記号の出し方がまだ慣れない。

 先週土曜日、西部古書会館は河盛好蔵著『老いての物語』(學藝書林、一九九〇年)など。河盛好蔵は一九〇二年大阪生まれ。二〇〇〇年三月二十七日、九十七歳で亡くなった。井伏鱒二よりも長生きした。

《私は寝ころんで本を読むのが好きです。(中略)寝て読むのは、ただ漫然と読む時にそうするので、その方が頭によく入ります。どうも私の頭は横にした方がよくはたらくのではないかと思いますね》(「気に入った本を読むために」/同書)

 わたしも寝転んで本を読む派である。横になったほうが頭が働くかどうかはわからない。読んで得た知識なり技術なりを自分の体質気質に合わせて調整する作業は時間がかかる。頭の中だけでわかっていたつもりのことが、間違えたり失敗したりを繰り返しているうちに「あの本に書いてあったことはそういうことだったのか」と……。

 読んでも忘れてしまうことが多いのだけど、乱読のカケラみたいなものは頭のどこかに残っていて、ふとした瞬間、思い出す。今日はとくに思い出したことはなかった。

2024/03/23

移行中

 十年前に購入したノートパソコンを使い続けていたのだが、さすがにいろいろ不具合が生じてきたので、今週から新しい(中古)パソコンに移行中。メールの設定し、テキストエディタも新しいバージョンに変えた。言葉の変換がおもいどおりにならない。「L」で「ら行」が出なくなった。もどかしい。ユーザー辞書がまっさらな状態なので書くスピードが落ちる。
 キーボード馴らしをかねて高円寺の近況を書くことにする。
 集合住宅のポストに「高円寺マシタ」(中央線のガード下の飲食店街)の開業一周年のチラシが入っていた。もう一年になるのか。
 昨年の今ごろ、岡崎武志さんのユーチューブで高円寺を散歩した。ガード下は工事中だった。撮影のさい、都丸書店(支店)があった店舗の前で二人で話していたら「勝手に撮るな」と工事の人に怒られた。そんなこともあった。
 それからマクドナルド高円寺(駅前)店が三月二十七日に再オープンする。昨年の三月三十一日に閉店した。

 夜、飲み屋に行くさい、マクトナルドの前をよく通る。たまに飲み屋で知り合った若者が歌っているときがある。わたしが高円寺に引っ越してきたのは一九八九年の秋——そのころからマクドナルドはあった。
 高円寺に移り住んで以来、行きつけの喫茶店が次々と閉店した。グッディグッディ、ちびくろサンボ、ボニー、琥珀……。古本屋も減った。琥珀、居心地よかった。

 食事はほぼ自炊なのだが、飲食店では北中通りの味二番、かきちゃん、いつまで営業していたのか。中通りの萬里(北口の別の場所から移転)も好きだった。閉店のとき、皿を何枚かもらった。日々、忘れながら生きている。時々、思い出す。

 この町で暮らす。そのために生きる。それでいい。二十代後半、仕事があったりなかったりして、かつかつの日々を送っていたころ、そうおもうことにした。それから四半世紀過ぎた。

 月日が経つのは早い。五十の坂を越え、急いでもしょうがないという気持が強くなった。日常をのんびり楽しみたい。それでいい。

2024/03/15

釣り人の移住計画

 三月三十日(土)から県立神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」開催。六月二日(日)まで。亡くなったのが二〇一九年一月二十九日だから、もう五年になる。——文学展が開催されることを知らず、『フライの雑誌』の最新号(130)で「川は娯楽である 橋本治の時評から」というエッセイを書いた。二〇〇四年十月に起きた新潟中越地震と川の話である。

 同号の特集は「釣り人の移住計画」——全頁すごい。読みどころばかり。届いてから毎日読んでいる。移住する。当初考えていなかったことが次々と起こる。それでも決断し、新しい生活をはじめる。移住という選択の中には「釣り」が入っている。文中の小見出しに「人間いつ死ぬか分からない」なんて言葉も出てくる。

「東京から香川へ移住した2名の怪人対談」(大田政宏さん、田中祐介さん)で、田中さんが「自分は、仕事ばっかりしている皆が、何が楽しくて生きてるのか分からないです。釣りのために仕事するんじゃないですか」という言葉が印象に残った。
 趣味のために仕事する——それでいいのだ。わたしもそうおもっている。しかし仕事より趣味を優先しすぎると生活が苦しくなりやすい。そのバランスをどうとるか。そんなことばかり考えている(考える時間があるなら、遊ぶか働くかしたほうがいいのだが、どういうわけかそれができない)。

「東京から香川へ」の対談では移住してからの仕事のことも語り合っている。

《田中 地方の中小零細企業はほとんどがワンマンのオーナー会社です。移住者が勤めるのはなかなかつらいと思います。
 大田 手に特別な職があるならいいけど、未経験者が地方でカフェやそば店をやるのは無理だと思います。まず最初に就職先を決めておく、ある程度規模の大きい会社を目指す。仕事が順調でないと釣りも楽しくないから》

 わたしも地方に移住した知り合いが何人かいる。いずれも動きながら考える、あるいは動いてから考えるタイプだ。
 一時期、わたしも移住というか、二拠点生活を考えていた。決断できぬまま月日が流れ、気持がしぼんで今に至る。

2024/03/10

清戸道

 日曜の正午。いい天気。部屋で動かずに考え事をしていると気が滅入ってくるので、妙正寺川のでんでん橋を渡り、野方経由江古田散歩。高円寺から江古田までふらふら歩いて一万歩くらい。
 野方駅の北口の商店街を抜けて環七を歩く。豊玉氷川神社に寄る。豊玉陸橋の目白通りあたりで東京スカイツリーがちらっと見える。
 snowdropで高田宏著『雪日本 心日本』(中公文庫、一九八八年)、百年の二度寝で海野弘著『伝説の風景を旅して』(グラフ社、二〇〇八年)など。『雪日本 心日本』の「雪国考」、読み出した途端、引き込まれる。
 治療施設に入っている認知症の老人の話——。

《老人はむかし漁師であった。そのことを知った治療担当者が、ためしに老人を車にのせて海辺を走ってみたのである。ぼんやりとした老人の顔に生気がもどり、口からは失っていた言葉が切れぎれに出てきた。目に入る海の光景と肌にふれる潮風と耳にきこえる波の音と鼻に吸いこむ磯の匂いと、そしてそれらの感覚のすべてをつらぬく海の時空の感覚のようなものが、衰えしぼんでいた老人の脳をゆさぶり動かしたのであろう》

 そうした逸話のあと、京都生まれ石川県育ちの高田宏は「私は、私がボケ老人になったとき、雪の上に連れていってもらいたいと思う」と書いている。わたしは何だろう。自分の感覚を呼び覚ます場所——西部古書会館か。

『伝説の風景を旅して』は「八百比丘尼の若狭路」「山陽路と三年寝太郎」「小栗判官と熊野路」など、伝説伝承の地をめぐる旅の本。付箋だらけになりそう。

 江古田のスーパーみらべるでカクキューの味噌などを買う。珈琲林檎はしばらく休業か。残念。江古田浅間神社に富士塚(江古田の富士塚)があることを知る(ただし富士塚に登拝できる日は限られている)。
 江古田駅南口に「清戸道」石碑と案内板がある(練馬区に数ヵ所あり)。清戸道——東は江戸川橋(文京区関口)、西は清戸(清瀬市)に至る。道沿いに千川上水が流れていたので「千川通り」とも呼ばれる。
 清戸道を歩いて桜台駅、そこから関東バスで高円寺に帰る。

2024/03/08

大正の作家

 木曜日、珍しく早起きしたので午前十時すぎ、西部古書会館初日。両端の棚が混雑していたので中央の棚から見ると、宇野浩二著『文學の三十年』(中央公論社、一九四二年)があるではないか。早起きしてよかった。リーチ一発ツモの気分だ。
 過去何度となく背表紙を見てきたのだろうが、手にとったことはなかった。興味がないと目に入らない。目に入っても手にとらない。たぶん本にかぎった話ではない。

 単行本は冒頭の六頁が写真。巻末に写真解説もある。装丁は鍋井克之(天王寺中学時代からの宇野浩二の友人)。

 古木鐵太郎著『大正の作家』(桜風社、一九六七年)の「宇野浩二」を読む。

《宇野さんは話好きだ。いったんなにか話し出すと、口を突いて出るような感じである》

《宇野さんの話を聞いていると、よく脇道にそれていって、はじめの話はどこへ行ってしまったのかと思うようなことがあるが、長い話の後に、ぐるっとまわって再びもとの話にもどってくるから面白い》

『大正の作家』の巻末に大河内昭爾の「跋 古木鉄太郎」が収録されている。

 古木の没後刊行された『紅いノート』の記念会に谷崎潤一郎の『痴人の愛』のモデルといわれた小林せい女史がいた。

《小林せい女史は宇野浩二氏の「文学の三十年」(中央公論社刊)にも出てくるが、それには芥川竜之介、宇野浩二、久米正雄、里見弴氏らにかこまれた写真まで掲載されており、大正文壇では相当派手な存在だったことが想像できる》

 この写真について『文學の三十年』では「人物は、むかつて右から、芥川、せい子(当時の谷崎潤一郎夫人の令妹)、宇野、里見、久米、である」と解説している。

 よくあることだが、わたしは『大正の作家』に『文學の三十年』という書名があったのに読み飛ばしていた。
『文學の三十年』は大正から昭和初期にかけての文学の世界が描かれている。自分が文学に興味を持ちはじめたとき、この本の中に出てくる人物はほとんど故人だった。そうした作家が二、三十代の若々しい姿で登場する。百年前の文学が身近におもえる。

 菊富士ホテル時代、宇野浩二はそのころ時事新報の記者だった川崎長太郎と親しくなる。宇野は川崎の師の徳田秋聲の(当時の)恋愛小説をよくおもってなかった。

《それで、その事を川崎にいふと、そのたびに、川崎は強く反対した。しかし、いくら川崎が反駁しても、私も飽くまで自分の意見を述べた。ところが、私がいかに理を説きつくしても、川崎は決して彼の反対意見を撤回しなかつた。(中略)ずつと後に、川崎が、その頃の話をして、あの頃は、誇張していへば、帰りに、悲憤の涙をながした、と云つた》

 相手が大先輩だろうが、文学に関しては意見を曲げない。川崎長太郎らしい。
 その後、川崎長太郎は一九二四(一九二五?)年に「無題」を書いて作家として世に出る。宇野は川崎の小説を読み、彼の苦労を知る。

《川崎のために、心の中で、杯をあげた。——》

2024/03/06

古木と徳廣

『宇野浩二全集』十二巻「文學の三十年」は話が行ったり来たりし、重複箇所も多い。でも筆の勢いで読まされてしまう。知っている名前と知らない名前が次々と出てくる。

《私が、本郷菊坂の菊富士ホテルの一室を仕事部屋のつもりで借りて、そこで殆ど寝起きするやうになつたのは、前にも書いたやうに、大正十二年の四月頃からで、それが五年ほどつづいた。
 川崎長太郎と田畑修一郎を初めて知つたのは、殆ど同じ時分で、大正十二年か十三年頃である》

 宇野浩二は菊富士ホテルの部屋を探すとき、すでに同ホテルにいた高田保を訪ねている。

《それから、これは、たしかに、大正十三年の五月の或る日、この菊富士ホテルの一室で、私は、かういふ人々と逢つた。逢つた順に書くと、中村正常、古木鐵太郎(今の古木鐵也)、柴山武矩、中河與一、その他である》

 そのしばらく後にも「古木」の名が出てくる。

《「改造」の記者といえば、たしか古木が引いてから、古木の代りに、私の係のやうになつて、私のところに来たのは、徳廣巖城であつた。初めに来た頃は、徳廣は、まだ大学生であつたやうに思はれる》

「徳廣」は高知生まれの私小説作家(中央線文士)の本名である。

2024/03/05

文學の三十年

 三月。散歩道の河津桜は葉桜になっていた。

 後藤明生著『しんとく問答』(講談社、一九九五年)所収「十七枚の写真」を読んで、宇野浩二の著作の古書価を「日本の古本屋」で調べる。中央公論社の全集(全十二巻)、一万円以下もちらほら。郷里・鈴鹿に帰省する途中、たまに寄る名古屋の古本屋が出品していた。買った。届いた。

 宇野浩二、一八九一年七月二十六日福岡生まれ。九四年に父が急死し、神戸へ。九五年、四歳のときに大阪市東区糸屋町、一九〇〇年に奈良県の天満村(現・大和高田市)に引っ越す。
 一九一〇年早稲田大学英文科予科入学を機に上京——。

 第十二巻を函から出す。
「文學の三十年」が読みたかった(単行本は中央公論社、一九四二年)。これまで読んできた文芸随筆の中でも『文學の三十年』は屈指の面白さだ(わたしが私小説好きということもあるが)。 読むと単行本もほしくなる。

「文學の三十年」は葛西善蔵の金策についても詳しい。

《原稿料の前借は、葛西が新進作家時代から最後まで常習のごとく連続してゐた訳である。すると、仮りに葛西が小説の名人であつたとすると、彼は前借の名人でもあつた。しかし、前借の方は、彼の力より、友人たちの力の方が多かつた。さうして、私はその片棒を担いだ一人である》(※本文は旧漢字。以降も)

 そのあとしばらくして、古木鐵太郎の名も出てくる(葛西の口述筆記をした人物として)。
 葛西の口述筆記作は「椎の若葉」「弱者」「酔狂者の独白」の三篇——。

《『弱者』の筆記をした人の名は忘れたが、共に名作と云はれてゐる他の二篇のうち、『椎の若葉』は古木鐵太郎(今の鐵也)が、「改造」の記者をしてゐた時に、筆記をしたものであり、『酔狂者の独白』は、嘉村礒多が、暑い盛りの夏の夜を、数十日通ひつづけて、筆記したものである》

 葛西善蔵は小説執筆のため、奥日光に出かける。そのすこし前、宇野浩二のところに金策の相談にきた。そのとき宇野が保証して「世紀」という新雑誌を出す予定の出版社から三百円借りている。その出版社は潰れてしまったので「湖畔手記」は「改造」から出ることになった。担当者は古木鐵太郎だった。
 結果、前借した分に加え、「改造」からも改めて原稿料をもらうことになる。

《かういふ点で、その他いろいろな点で、その一生が不遇であつたと思はれた葛西は、案外得な人であつた》

「椎の若葉」「湖畔手記」はいずれも一九二四年——百年前の作品である。読むとでたらめでいい加減でも生きていける(そんなに長生きはできないが)気になる。ただし、葛西善蔵もそうだけど、でたらめな人のまわりには世話をする人がいた。宇野浩二の助けがあったおかげで「湖畔手記」が生まれた。人付き合い、大事だ。

2024/02/27

しんとく問答

 今年のはじめあたり、西部古書会館で上方史蹟散策の会編『東高野街道』(上下巻、向陽書房、一九九〇年、九一年)を買って積ん読していた。向陽書房は関西の出版社で九〇年代に近畿地方の街道本を何冊か刊行している(今、集めている)。

『東高野街道』の書名——どこかで見た記憶があり、なんとなく重複買いしたかなと気になっていたのだが、後藤明生の『しんとく問答』(講談社、一九九五年)に何度か出てくる本だということを思い出した。

《私の荷物はショルダー一個である。中身はカロリーメイト、缶入りウーロン茶、地図帳(大阪府)、メモ帳、『東高野街道(上)』(編著・上方史蹟散策の会/平成二年九月/向陽書房)、「写ルンです」。「写ルンです」は普通サイズとパノラマの両方を持った。どちらもストロボ付きである。それに今回はエアーサロンパスを加えた。とつぜん起るかも知れない腓返りに備えてである》(「しんとく問答」)

 妙に細かい。

 ほぼ後藤明生とおもわれる作中の「私」は『東高野街道』の上巻を持って「俊徳丸鏡塚」を見に行く。『しんとく問答』の収録作は「単身赴任の初老の男が、大阪地図を片手にあちこち歩き回る話」(「贋俊徳道名所図会」)という設定の短篇集なのだが、表題「しんとく問答」は小説というより歴史紀行エッセイのような風味がある。
「私」は謡曲「弱法師」、説教節「信徳丸」などの舞台となった大阪の地を散策する。週三日俊徳道駅(JRおおさか東線、近鉄大阪線)の次の駅に停車する大学に通っている。おそらくその大学は近畿大学で、もより駅は近鉄の俊徳道駅の隣の長瀬駅である。一九八九年から後藤明生は近畿大学文芸学部で教えていて、九三年から同学部長になっている。

『しんとく問答』所収の「俊徳道」(『群像』一九九四年十月号)、「贋俊徳道名所図会」(『新潮』一九九五年一月号)、「しんとく問答」(一九九五年三月号)など、初出の時期から一九三二年四月生まれの後藤明生、六十二歳のころの作品である。「古典+街道」というテーマは今のわたしの関心事と重なる。

「初老」はもともと数え年四十二歳(満四十歳)の異称だったが、今の感覚だと還暦あたりを示すことが多い——と辞書の定義が変わってきている。

『しんとく問答』所収「十七枚の写真」は、大阪の中央区の宇野浩二文学碑、難波宮などの話で——講演用のノートみたいな作品。宇野浩二の文学碑は「中大江公園」にある。「清二郎 夢見る子」の一節が刻まれている。
 わたしは高円寺、野方、鷺ノ宮あたりを転々と暮らした古木鐵太郎(元『改造』編集者)への興味から、宇野浩二の自伝や随筆を読みたいとおもいつつ、バラで集めるか全集で買うかで迷っているうちに時間が過ぎてしまった。

2024/02/18

練馬駅のバス

 今週は西部古書会館の古書展のない週末(第三週は開催しないことが多い)。
 先週の西部の古書展では梅棹忠夫、多田道太郎編集『論集 日本文化』(energy特別号、エッソ・スタンダード石油株式会社広報部、一九七一年)や「エナジー対話」シリーズの大岡信、谷川俊太郎『詩の誕生』(第一号、一九七五年)、多田道太郎、安田武『関西 谷崎潤一郎にそって』(第十八号、一九八一年)など、エッソの広報部関係の本が大量に出ていたので数冊買った。まとめて売った人がいたのか。

 エッソ石油(現・ENEOS)のPR課は高田宏が長く編集者をつとめていたことでも知られる。

 土曜日、妙正寺川のでんでん橋、野方の商店街を通って練馬散歩。東武ストアでスガキヤのインスタント麺、プラザトキワで衣類を買う。昔は中央線沿線の高円寺の光和堂、阿佐ケ谷のヌマヤなど、近所に衣類、タオル類などを揃えている大きめの総合衣料の店があったが、今はない。

 練馬駅から関東バスで高円寺に帰る。練馬駅発の豊橋、三河田原行きの夜行バス(新宿・豊橋エクスプレスほの国号)があることを知る。
 練馬駅(二十三時五分)、中野駅(二十三時二十五分)、バスタ新宿(二十三時五十五分)を経て、愛知県内だと豊川駅(五時九分)なども通る。豊橋駅(五時四十分)、三河田原は六時二十分着。時期によって値段は変わるが、二月だと三千二百円(火・水曜)という日もある。金・土・日は四千七百円〜五千七百円。
 バスで豊川駅あたりまで行き、東海道を散策しつつ名鉄+近鉄で郷里の三重に帰省するルートはありかも。
 渥美半島の三河田原から伊良湖岬、それから船で鳥羽に渡り、鈴鹿に帰るルートも新幹線より、かなり安く行ける。
 中野駅も通るから、家から徒歩で深夜バスに乗れる。

 一九八九年二月に三重から上京したときは鈴鹿から池袋までの高速バス(西武のバス)に乗った。片道七千円くらいだった。 三十五年前か。その年の十月まで東武東上線の下赤塚駅周辺の寮(家賃千円)にいた。練馬駅からは下赤塚駅経由の成増駅行のバスもある。

 高円寺〜練馬〜下赤塚は南北にほぼ直線。前からバスを乗り継いで行ってみたいとおもいつつ、まだ実行していない。行きは高円寺から練馬駅まで歩いてバスで下赤塚駅、帰りは下赤塚駅から練馬駅まで歩いてバスで高円寺——という散歩がしたい。

2024/02/16

新居格随筆集

 二月十一日(日)、午前八時、高円寺駅の総武線のホームから富士山がきれいに見えた。小田急で小田原駅、JR東海道本線、身延線と乗り継いで西富士宮駅へ。
 この日は「ふじのみや西町ブックストリート」という一箱古本市(わたしも出品した)に参加した。おしるこ食べる。今月、編著の『新居格随筆集 散歩者の言葉』(虹霓社)が刊行――虹霓社も富士宮市の出版社である。二月二十二日発売予定。
 新居格は一八八八年三月、徳島県板野郡(現・鳴門市)生まれ。アナキストで戦後初の杉並区長でもあった。

 二〇一七年十月、秋山清のコスモス忌で虹霓社の古屋さんと会った。新居格著『杉並区長日記 地方自治の先駆者』(虹霓社)が復刊されたのもそのころである。
 新居格は高円寺に暮らし、雑文で生計を立てていた人物ということもあり、特別な親近感がある。

《わたしは微小な存在でしかないところの文士である。わたしは、それ故に、大きな存在でありたく望みはしない。わたしはわたしが書きうるものを書いて行くことでいゝ》(「小さな喜び」/同書)

《過去のことが古いのではなく、今日と明日のことが新しいのでもない。過去のうちにもあまりにも時流を抜いてゐたために埋もれてゐた新しさが無数にあるのだ》(「本と読書の好み」/同書)

 新居格の意見は温和なものが多い。戦前戦中に散歩と読書の日々を送り、平静を保ち続けた。

 西富士宮駅から富士宮駅まで歩く。浅間神社、人がたくさんいた。富士宮は二十代のころから何度か来ているが、町の雰囲気がのんびりしていて心地よい。ニジマスの養殖でも有名な土地だ。
 ペリカン時代で教えてもらった麺屋ブルーズに行きたかったのだが、午後二時から五時までは営業時間外だった。場所は覚えた。次こそは。

 JR在来線で藤沢駅まで行き、駅周辺をうろうろする。小田急で帰る。

2024/02/06

ネリマ市

 寒い寒いとぼやいているうちに二月。外は雪。雨や雪の日はアーケードの商店街やガード下を歩くことが多い。

 先週土曜日、西部古書会館(初日は金曜だった)、『出雲と都を結ぶ道 古代山陰道』(島根県立古代出雲歴史博物館、二〇二二年)、『中村草田男と石田波郷』(松山市立子規記念博物館、一九八五年)など。山陽道と山陰道を結ぶ道は「陰陽連絡路」と呼ばれていることを知る。

 古書会館のあと、午後二時すぎから妙正寺川散歩。鷺ノ宮周辺をうろつき、中野区と杉並区の境を越え、妙正寺公園(この公園内の妙正寺池が妙正寺川の源らしい)、荻窪駅まで歩いて電車で帰る。家を出てすぐは億劫でも歩いているうちに元気になる。体温が上がって脳が活性化するからか。

 アニメ『SSSS.GRIDMAN』(円谷プロダクション、二〇一八年)の舞台は架空のネリマ市だが、鷺ノ宮駅や荻窪駅の周辺の風景、善福寺川っぽい川も出てくる(昨日、全十二話を視聴したばかり。作画がすごい)。自分の夢に出てくる町もこんなふうにいろいろな場所が混ざっていることがある。

 漫画やアニメの架空の風景にはモデルになっている場所があったりなかったりする。知らず知らずのうちにそうした景色が記憶に残っていて、そこを訪れた途端、ふと思い出す。デジャヴ(既視感)と呼ばれる現象にはそういうこともあるのではないか。
 はじめて訪れたはずの町なのに「あれ? この場所、来たことがある」と錯覚するのは、映画やドラマ、なんとなくつけていたテレビで見た(忘れていた)景色の記憶が呼び覚まされた——のかもしれない。

2024/01/31

鷺ノ宮

 二十七日土曜昼すぎ西部古書会館。橋本治著『義経伝説』(河出書房新社、一九九一年)、安田武著『型の文化再興』(筑摩書房、一九七四年)など。『義経伝説』はあまり見かけない本だ。安田武の『型の文化再興』の「士農工商」にこんな一節がある。

《モノの生産に関しても、人間関係においても、総じて人の生活そのものにおいて、ただ損をしないことだけを念頭に行動し、損得を度外視して頑張ったり、そのために時に大損をしても痩我慢をするといった、そういう「風」を失ってしまった人間の群れ、集団が作り出す社会は、それが、どのような制度、組織、あるいは「憲法」をもっていようと、結局のところ、つまらぬ社会でしかありえないのではないだろうか》

 この問題はむずかしい。「損得を度外視して」といっても損が続けば行き詰まるし、といって得ばかり求めていると人間関係その他いろいろ荒む。商売なら「損して得とれ」みたいな考え方もあるが、それはそれでシビアな駆け引きが必要で面倒くさい。損得を考えなくてすむだけの余裕がほしい(それがむずかしい)。

 古書会館のあと日当たりのいい道を歩こうと妙正寺川に沿って鷺ノ宮へ。ジョギングをしている人、犬の散歩をしている人、平日と比べて人が多い。
 妙正寺川は鷺ノ宮駅に近づくにつれ、大きく蛇行する。冬のよく晴れた日に歩くと気持いい。

 鷺ノ宮の白鷺せせらぎ公園〜高円寺北口のコミュニティバス(二時間に一本くらい)が走っている。まだ乗ったことがない。

 西武新宿線の鷺ノ宮駅北口の中杉通りを歩いて西武池袋線の中村橋駅方面を散策する。
 鷺ノ宮は駅周辺は中野区だけど、すこし北に行くと練馬区になる。区が変わっても町の連続性がある。練馬区は一九四七年八月に板橋区から分離独立した区である。

 いなげや中村南店で金トビ名古屋きしめん、お好み焼きなどを買う。ごま油、オリーブオイルなど、油類が値上りしている。

 いなげやの周辺をうろうろして帰りは中村南三丁目から阿佐ケ谷駅行きの関東バスに乗り、駅の手前の世尊院前で降りる。中野区鷺宮と杉並区阿佐谷を通るから「中杉通り」か。

 豊島園(練馬城址)、中村八幡神社、鷺宮八幡神社(鷺宮大明神)、世尊院は鎌倉古道沿いにある。所沢道も気になる。

2024/01/29

体内電池

 毎年一月二月は生活のリズムが不安定になる。
 伊藤比呂美著『たそがれてゆく子さん』(中公文庫)所収「不眠」というエッセイに「昆布の薄皮」という言葉が出てくる(二〇二二年一月十一日のブログでも紹介した)。

《頭のシワに、さば寿司にかかっているような昆布の薄皮がぴったり貼りついた気分である》

 この数年、わたしは晴れの日一万歩(雨の日五千歩)の散歩を続けている。腰のあたりに貼るカイロもつけている。汁もの、炒めものにしょうが入れる。肉を食う。酒を減らす。睡眠をとる。
 冬対策はそれなりにやっているのだが、それでも「昆布の薄皮」状態になる。今年もなってしまった。
 一月二十三日、二十四日、二十五日の三日間——朝寝昼起、昼寝夜起、夜寝朝起と睡眠時間がズレ、体が重く、頭がぼんやりする日が続いた。

 わたしはこの状態を「冬の底」と呼んでいる。

 古くなったバッテリーみたいなもので、こまめに充電していてもすぐ残量が数パーセントになる。不調時に焦ってもしょうがない。今は修復期くらいの気持でだらだら過ごすしかない。

 二十代のころはこの体内電池の残量が五%くらいになっても一晩寝ればフル充電状態に回復する。
 四十代五十代になると電池の残量がわずかになると回復に三日、ヘタすると一週間くらいかかる。

 冬に体調を崩す人が多いのは日照時間が短いとかいろいろな説があるけど、寒中、体温の維持のため、普段以上にエネルギーをつかっているからではないか。体を冷やさず、ちゃんとメシを食い、よく寝る。冬を乗り切るにはそれしかない。

2024/01/22

心細し

 先週、池袋で打ち合わせ。目白駅から池袋まで歩く。途中、古書往来座、カフェ・ベローチェ南池袋一丁目店でコーヒー。池袋はベローチェが八店舗もある。高円寺には一軒もないので羨ましい(中野は三店舗)。

 往来座では森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫、一九七九年)など。学術文庫の『十六夜日記』は現在品切で古書価は定価の四倍くらいになっている。『十六夜日記』は鎌倉中期の日記文学——作者・阿仏尼は十代で出家し、その後、三十歳前後で藤原為家の側室になった。

 一二七九(弘安二)年、阿仏尼は正妻との相続問題を幕府に訴えるため鎌倉に向かう。

 阿仏尼は一二二二(貞応元)年の生まれ(推定)。没年は一二八三(弘安六)年ごろ。

 同書「旅路の章」は不破の関、笠縫の駅、洲俣、一の宮などを通る美濃廻り東海道の旅の記録である。

 時代によって東海道は伊勢廻り、美濃廻りなど、コースがちがう。
 現在の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。
 街道史と鉄道史は密接な関係がある。「駅」という言葉にしても街道由来である。

 洲俣の注に「美濃の国安八郡。源を飛騨山に発し、尾張の国との境を流れる。当時はかなり大河だったらしい。古くは『更級日記』にもみえる」とある。

《二十三日、天竜の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔もおもひいでられて、いと心細し》

《二十四日、昼になりて小夜の中山越ゆ》

 学術文庫の解説では西行の「いのちなりけり小夜の中山」を紹介している。

 西行は一一一八(元永元)年生まれ、一一九〇(文治六年)年没。阿仏尼が生まれる三十年ちょっと前に亡くなっている。年は百歳以上離れている。

 阿仏尼は西行の歌だけでなく、様々な逸話にも精通している。阿仏尼にとって西行は憧れの人だった。

『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』によると、古典語の「心細し」は「『源氏物語』などで一種の美感を示す語として用いられている」とある。
 阿仏尼は西行が天竜川で武士に「人数が多い」と舟を降ろされ、鞭で打たれた逸話を思い出し、心細くなった。でも阿仏尼からすれば、天竜の渡りの「いと心細し」は単なる不安ではなく、かつて西行が渡った川を自分も渡ることにたいする感慨もあったかもしれない。

2024/01/17

上路

 土曜昼すぎ西部古書会館。大均一祭初日(一冊二百円)——『別冊山と溪谷 歩く旅』(NO.1、一九九九年)含め九冊。『歩く旅』の特集は「中山道六十九次を歩く」。綴込付録「中山道533kmを歩く パーフェクト・ガイド&マップ」(三十五頁)。
 午後三時、新中野まで散歩。途中、小雨そのあと雪(霙)がすこし降る。

 室町時代の作・謡曲「山姥」の百万山姥は琵琶湖北岸から礪波山へ。
 礪波の関は万葉集——大友家持の歌「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添え君を留めむ」の歌でも知られる。

 礪波山は越中と加賀の国境にあり、標高二百七十七メートル。もうすこし高い山かとおもっていた。場所は金沢と高岡の中間くらい。北上すれば能登半島である。

 木下良編『古代を考える 古代道路』(吉川弘文館、一九九六年)の「北陸道 その計画性および水運との結びつき」(金坂清則)の付箋を貼ったところを読み返す。

《京への公式日数は、越前が六日、加賀が八日、能登と越中が二七日、越後が三六日、佐渡が四九日であり、越後と佐渡の日数は出羽の五二日次いで長かった》

「加賀が八日、能登と越中が二七日」——地図を見るとこんなに日数の差が出るのは信じ難い。それほど難路だったのか。古代の道、わからない。

 北陸道は「重要な水運ルート」で湊を兼ねる駅が多かった。積雪期に陸路が通れなくなると船で移動した。

 謡曲「山姥」の場合、百万山姥は従者を連れていて、途中、乗物(駕籠?)も利用している。琵琶湖以外は船に乗っていないと仮定すると京から礪波山まで十日、あるいは二週間くらいかかっているかもしれない。

 礪波山を経て、いよいよ百万山姥は境川へ。

《雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとゞ都は遠ざかる、さかひ川にも着にけり》

 三越路(みこしじ)は越前・越中・越後の三国、または三国への道である。
 越中と越後の境を流れる境川から山姥の里までは上路(あげろ)を通る。現在の県道115号と上路はほぼ重なっている。

 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂、一九七八年)の「滄海駅」の項に「境川を渡った後、さらに海岸をたどると親不知子不知の天険を通ることになる訳で、平野団三は『境川を過ぎた駅馬は上路を越え歌に下ったと思われる』と述べている」とある。

 百万山姥も親不知を避け、上路を通り、山姥の里に迷い込む。

 上路は滄海に通じる。滄海から信濃の善光寺までの道は謡曲「山姥」には記されていない。
 古代の北陸道から善光寺までは水門(みと)から上越妙高を通る道がある。ちなみに、水門は現在の直江津あたり。古代の国府も直江津にあった。

 百万山姥の歩みに関して、糸魚川から姫川沿いに歩いて白馬経由で善光寺に向ったのではないかと考えていた。しかし海沿いの難路を迂回したことを考慮すると、多少遠回りになっても水門(直江津)から善光寺に向かう安全なルートを選んだかもしれない。

 仮に百万山姥が善光寺に辿り着いていたとしたら、帰路は東山道(中山道)を通った可能性もある。行きと帰りで別の道を通るのは江戸期の伊勢参りなどでもよくあった。

2024/01/12

礪波山まで

 誰に頼まれたわけではないが、謡曲「山姥」の百万山姥の歩みを調べている。
 百万山姥は京を出て、琵琶湖北岸から北陸道に向う途中、「愛発(あら地)」を通る。古代三関の愛発の関がどこにあるのか——古道に関する本を読んでも諸説いりみだれている。

 愛発関に限らず、和歌の歌枕の地でもそういうことがよくある。
 白河の関(福島県白河市)の場所は江戸後期(一八〇〇年ごろ)に特定されたが、それまでは不明だった。

 謡曲「山姥」に出てくる地名は「あら地」を経て「袖に露ちる玉江のはし」「かけてすゑある越路の旅」「こずゑ浪立しほこしの」「あたかの松の夕けぶり」「きえぬうき身のつみをきるみだのつるぎのとなみ山」と続く。

 わたしは「玉江のはし」がどこなのか見当もつかなかった(のでネットで検索した)。福井市花堂北に「玉江二の橋」という橋がある。JR北陸本線の越前花堂駅、福井鉄道福武線の花堂駅がもより駅で旧北陸道、狐川にかかる。玉江二の橋が謡曲「山姥」の「玉江のはし」と同じ場所かどうかはわからない。かつてこのあたりは湿地だったという説もあり、川の流れが変わることもある。
「こずゑ浪立しほこしの」の「しほこし」は「塩越(汐越)」で福井県あわら市——西行が歌を作っている。

《夜もすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松》

 あわら市は福井県と石川県の県境の市。二〇〇四年三月に坂井郡芦原町、金津町が合併してあわら市になった。
 今年三月十六日、北陸新幹線芦原温泉駅が開業予定である。芦原温泉からは東尋坊も近い。

「あたかの松」の「安宅(石川県小松市)」もかつて関所があった地で「勧進帳」の舞台である。小松空港のすぐそばだ。

「となみ山」は「礪波山(富山県小矢部市)」で源平合戦で有名な倶利伽羅峠もある。倶利伽羅峠の戦い(一一八三年)は礪波(砺波)山の戦いともいう。

 謡曲「山姥」の信濃の善光寺行きの道のりは古代の関所、古戦場跡など史蹟めぐりもかねていたようだ。
 室町時代は関所が乱立していた時代だった。関所を通るたびに関銭(通行料)がかかる。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社)には「文明十一年(一四七九)には、奈良から山城・近江をへて、美濃の明智に至る間に二十九関をもうけたと伝えている」とある。

 謡曲「山姥」の遊女が東山道(後の中山道)ではなく、北陸道から善光寺に向ったのは当時乱立していた関所を避けようとしたのかもしれない。ちがうかもしれない。

2024/01/09

愛発関

 先週、西部古書会館で買った『古代の宮都 よみがえる大津京』(大津市歴史博物館、一九九三年)を読む。
 前回のブログで「古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り」と書いたが、愛発関は七八九(延歴八)年に廃止されている。謡曲「山姥」は室町時代の作なので、厳密には「愛発(あら地)の関」ではなく「愛発(あら地)と呼ばれる山域」と書くべきだった。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社、一九六四年)の「天下の三関」の項には「三関とも近江の国境で大津の外側におかれていることから、大津京の守りのために設置されたのであろう」と記されている。

『古代の宮都 よみがえる大津京』に「大津京時代の近江における東山道」(足利健亮)には、大津京(近江京)以前「東海道は飛鳥から出て伊賀盆地を経、柘植から鈴鹿を通って東国へ向かっていた」とある。後のJR関西本線に近いルートだ。ちなみに江戸期の東海道は柘植を通らない(近江の土山宿から鈴鹿峠を越える)。

 東海道も東山道も時代によって様々なルートがある。それを調べて何になるのか。小人が不善をなさないための閑つぶしになる。

『完全踏査 古代の道』によると、古代三関のうち愛発関の場所は「考古学的な確証はまだ得られていないが、おおむね近世の塩津街道(現国道8号)と七里半越の西近江街道(現国道161号)との合流点である敦賀市疋田が有力視されている」とのこと。

 愛発関は疋田以外に新道野、追分、道ノ口、関屋などの説もある(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』大明堂、一九七八年)。

 謡曲「山姥」で百万山姥は、陸路ではなく、琵琶湖を船で渡り、そこから「あら地」を通る。
 琵琶湖のどこまで船で行ったかで「あら地」への道も変わってくる。
 仮に琵琶湖最北の塩津あたりまで船で行ってそこから陸路を辿ったとすると、百万山姥は近世の塩津街道(現国道八号)を通り、深坂峠から追分、疋田を通った可能性が高い。これはほぼ現在のJR北陸本線のルートなのである。

 古代三関の鈴鹿関、不破関も明治期に開通した鉄道のルートと重なることを考えると、愛発も北陸本線のどこかにあったのではなかろうかと想像する。

 街道の研究をしていると、つい水路のことを忘れがちである。とくに土地鑑のない場所だとそうなる。

 街道にかぎらず、何か一つのことに熱中している時期はそれ以外の視点を見失いやすい。

 今のわたしは古典を読んでいても、ストーリーより作中人物の移動のことばかり考えてしまう。何年か後に読み返したら「え? こんな話だったの?」となるかもしれない。若いころは地理や歴史をすっとばして人生の教訓みたいなものを探り当てたいとおもっていた。

 そのときどきで読み方が変わる。読書は面白い。

2024/01/06

北陸道

 土曜昼、今年最初の西部古書会館。後藤淑他編『元和卯月本 謡曲百番(全)』(笠間書院、一九七七年)など。

 年末、福原麟太郎の随筆を読み、謡曲「山姥」を知り、古代・中世の北陸道について調べていた。
 謡曲「山姥」が作られた室町時代、京から善光寺に向かうさい、北陸道、中山道(東山道)のどちらがよく利用されたのか。

「山姥」の遊女(百万山姥)は京から西近江街道を通って……と考えていたのだが、『謡曲百番(全)』を読むと「志賀のうら船こがれ行、末はあら地の山越えて、袖に露ちる玉江のはし(以下略)」とあった。
 百万山姥は琵琶湖を船で渡り、古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り、玉江のはしに至る。

 木下良監修、武部健一著『完全踏査 古代の道』(吉川弘文館、二〇〇四年)によると、北陸道は海岸の近くまで山が迫り、陸路の移動がむずかしかったので「水路あるいは海路による交通が盛んであった」そうだ。

 ここ数年、愛読している『全国鉄道絶景パノラマ地図帳』(集英社、二〇一〇年)の大糸線の頁のパノラマ地図を見ると、山姥神社の近くの市振から親不知、青海(旧北陸本線、現えちごトキめき鉄道)にかけては海岸線と山が近い。『完全踏査 古代の道』でも「親不知は、古来から現在に至るまで交通の難所としては全国有数の場所である」と記されている。

 親不知〜青海の海岸の道はこんな感じだった。

《ここを通る旅人は、切り立った海岸縁の断崖の下の狭い砂浜を、波が退いたときをねらって走り抜け、波が寄せたときは岩穴に身を避けて辛くも切り抜けた》(『完全踏査 古代の道』)

 謡曲「山姥」の遊女は海岸沿いではなく、上路の里に迂回して山道で迷い、まことの山姥と出会う。

 ここから(作中には描かれていない)善光寺までの道のりが知りたい。「山姥」の里から青海まで出て、鉄道の大糸線に近いルートで姫川沿いの谷間を抜け、白馬〜簗場あたりから信濃の善光寺に向かったのか。直江津から信越本線に近いルートもあるが、室町時代の道路事情を考えると糸魚川〜直江津間も大変そうである。

 今すぐ答えが知りたいわけではないので気長に調べることにする(答えがあるのかどうかもわからない)。

2024/01/04

冲方丁の読むラジオ

 元日午前中、JR総武線高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷寄り)から富士山を見る。雪が積もり、稜線らしきものが見える。湘南新宿ラインの武蔵小杉駅をすこし過ぎたところでも富士山が見えた。

 正月くらいはいいかと昼酒。夕方、能登半島地震のニュースを見る。

 今年の初読みは昨年十月刊の『サタデーエッセー 冲方丁の読むラジオ』(集英社文庫)——刊行後すぐ読んだので再読である。この本はNHKラジオ第一『マイあさ!』内の「サタデーエッセー」を元に書き下ろしたものだ。

 同書「約束されたレール」は著者が十四歳のときにネパールの学校で学んだことを紹介している。

《責任というと日本ではルールを守らせるという風にとらえがちだと思うんですけれど、そうではなく、「あなたのマストは何だ」と、先生方や大人たちが訊いてくるんですね。自分にとって今最もやるべきことは何だ、それがどう将来につながるのかと》

《最初から「自分はこれをやるべきだ」と自覚し、「いずれこれを成し遂げるために研鑽する」といった意識がなければ、ただ周囲の状況に合わせた受動的な態度ばかりが身についてしまいます》

 わたしはなるべく身軽に気楽に生きたいという欲求が強い。冲方さんの考え方や姿勢とはかなりちがうのだが、それでもこの文章は心に響いた。

 同書「正義感は正義ではない」に「正義中毒」という言葉が出てくる。

「正義感」は社会の維持や改善に有用だが、そうではないこともある——という趣旨のエッセイだ。
 インターネット上のまちがった情報をうっかり信じてしまい、拡散してしたり、無実の人を誹謗中傷したりする。

《お酒を飲むことがやめられなくなるのと同じように、「正義感」から行動することがやめられなくなるのであれば。立派な病気と考えるべきでしょう》

 冲方さんは「正義感」こそが、今もっとも警戒すべき感情だという。自分の正しさに酔い、人を裁く。「正義中毒」になると、その気持よさに抗えなくなる。だからこそ「正義感」の抑制が重要になる。自分の感情が不安定なときは情報と距離をとり、いったん熱を冷ます。

 わたしは散歩をすすめたい。