2024/12/04

成長の罠 その一

 十二月。本の運び出しなどで久々に筋肉痛になる。ようやく資料の整理もゴールが見えてきた。気疲れの要素のない単純作業を続けていると、ランナーズハイみたいな状態になる。

 付箋を貼ったまま行方不明になっていた本——塩沢由典著『今よりマシな日本社会をどう作れるか 経済学者の視野から』(編集グループSURE、二〇一三年)が見つかった。この本に「成功の罠」という言葉が出てくる。

 日本が欧米諸国を追いかける立場だったころは経済も活発だった。ところが、トップランナーの仲間入りした途端、長い低迷期に突入し、今に至る。

《キャッチアップの時代とトップランナーの時代とでは、本当は社会のあり方、教育、あらゆるものが変わらなければいけないはずだった》

 しかし日本は変わらなかった。変われなかった。

《経営学の世界ではよく「成功の罠」という言葉を使います。経営学では、この言葉は企業の経営方針について使うのですが、日本の場合は、経済全体が「成功の罠」に陥ってしまった》

 キャッチアップの時代からトップランナーの時代になっても、ずっと同じやり方を続けていれば、社会は低迷する。スポーツ、芸事などでも、素人のうちは、ちょっと練習すれば上達するが、上へ行けば行くほど、そうもいかなくなる。それと似ている。

 経済学には古典派、新古典派など、いろいろな派がある。どの理論も一長一短というか、完璧なものはない。あらゆる政策が誰かにとってプラスになれば、マイナスになることもある。プラスマイナスゼロの人もいる。

 おそらく誰もが満足できるような理論はない(たとえば、わたしは累進課税に賛成だけど、富裕層の人たちは嫌がるだろう)。

 経済理論はやってみないとわからないことも多い。新しい理論を試して失敗するより、このままでいいという人が多数派を占める世の中であれば、優れたアイデアも実行に移すのは困難である。
 問題はまだまだある。少子高齢化と人口減少……。先進国の中で日本はこの問題に関してはトップランナーであり、まだ乗り越えた経験のある国がない。

 ただし、ものは考えようで、戦争や飢餓のない国は、かなり恵まれいるともいえる。世界を見れば、日本よりマシな社会のほうが少ない。少ないからこそ、成長のための方策がわからない。

……この話、もうすこし続けます。

2024/11/28

『鐵』

 土曜夕方、西部古書会館。今回も三冊縛り。『写真集相模原』(相模原市教育研究所、一九八二年)、『「モダン昭和」展』図録(NHKサービスセンター、一九八七年)、『鐵』文化特集「東京・鉄の文化地図」(川崎製鉄株式会社、一九八四年)。三冊七百円。『鐵』は、神吉拓郎、安田武、永六輔がエッセイを書いている。「文学の中の鉄と東京」という記事——尾崎一雄『芳兵衛物語』、上林曉『母ハルエ』などを取り上げている。滝田ゆう『懐かしのチンチン電車』も。執筆者の名前は不明だが、いい記事だった。読んでいると、中に「ごあいさつ」と題した黄緑の紙がはさまっていた。

《「鐵」誌は、当社の広報誌として昭和45年に創刊し、現在126号を数えております。(中略)今回、とくに鉄の文化的側面をより深く考えてみるために、ページを倍増し、別冊として特集号を編集いたしました》

 この別冊は六十頁ちょっと。巻末の「編集室通信」によると、制作の所用日数は約五ヶ月とのこと。藤森照信が企画段階から深く関わっていたようだ。

 木曜夕方四時すぎ、高円寺駅の総武線ホームの端(阿佐ケ谷寄り)から久しぶりに富士山が見えた。しばらくぼーっと眺めていたら、いつの間にかすぐ隣で小学生男子も富士山を見ていた。
 五十代以降、高円寺駅から電車に乗る日(中央線の快速には滅多に乗らない)も週二日くらいになったので富士山が見えると嬉しい。帰りはドコモタワーを見る。阿佐ケ谷寄りの八号車あたりの総武線ホームは、駅の南口の広場のイルミネーションとドコモタワー、都庁のライティングが見える。ドコモタワーは中野寄りの総武線ホームの端からも見えるが、八号車付近のほうがおすすめ。

 そろそろ中野区大和町の大和北公園の巨大なイチョウも見ごろか。先週末はまだ葉が緑だった。大和北公園からすこし北に行くと妙正寺川にたどりつく。夕方、天気のいい日に妙正寺川を鷺ノ宮方面に歩くのも楽しい。途中、マルエツ中野若宮店とツルハドラッグ中野若宮店がある。買物して家に帰る。

2024/11/21

貼るカイロ

 十九日、この秋はじめて貼るカイロを装着。寒暖差が激しかったので、神経痛と腰痛予防のために貼った。すっかり貼るカイロなしでは生きていけない体になっている。

 先週の西部古書会館。今回も本は三冊、あと伊勢鉄道開業記念(一九八七年三月)と開業一周年記念(一九八八年)の下敷(裏は時刻表)があったので買う。伊勢鉄道は第三セクターで、元は国鉄の伊勢線。本社は三重県鈴鹿市桜島町にある。わたしが郷里の鈴鹿市にいたのは一九八九年春まで。高校時代は近鉄で津新町まで通学していた。高校を卒業したのは一九八八年春で、そのあと名古屋の予備校に通っていたころ、何度か伊勢鉄道に乗った。わたしが上京した年、親も市内で引っ越した。伊勢鉄道だと乗り換えなしで名古屋に行ける。ただし近鉄のほうが本数が多く、駅も近いのでたまにしか乗らない。

 鈴鹿市関係の資料では『特別展 斎宮・国府・国分寺 伊勢のまつりと古代の役所』(斎宮歴史博物館 三重県埋蔵文化財センター、一九九六年)も買った。古代の伊勢国府は鈴鹿にあったといわれている。何年か前、安楽川沿いを散策中にその跡地らしき場所を彷徨った。伊勢の国府跡をはじめ、能褒野神社、加佐登神社、白鳥塚古墳などの史跡は江戸期の東海道からちょっと離れている。
 東海道と伊勢参宮街道が分岐する日永の追分から亀山にかけての古代の東海道は上記の史跡の近くを通っていたのではないか。

 五年前、五十歳になったとき、ここで一区切りという気持になった。知らない町を歩いたり、バスに乗ったり、そういう時間を増やしたほうがいいと考えた。本の読み方にしても、寄り道を多くしたい。

……なんてことを書いていたら、読みかけの本が行方不明になる。付箋を貼ったところまではおぼえているのだが、どこへ行ったやら。そのかわりといってはなんだが、数週間前から探していた『やなせたかしの世界』(公益財団法人やなせたかし記念 アンパンマンミュージアム財団、二〇一九年)が見つかる。なぜかわたしは白い背表紙だったとおもいこんでいた。黒だった。

 やなせたかしはインタービューやエッセイなどで、戦争と飢えのない世界を希求し、『アンパンマン』を創作したという話をくりかえし語っている。一九一九年生まれ。やなせたかしの弟は戦死している。

 世代を一括りにするのはむずかしいのだが、ある時期の多くの日本は、やなせたかしのように戦争は懲り懲りだ、ひもじいおもいをするのは嫌だという強い感情があった。焼跡世代の人たちも空襲と空腹にたいする怖れがあった。
 自分の同世代にそうした思想の幹となるような感情はあるのか。あったとしても千差万別のような気がする。

(追記)「戦争と飢えのない世界」を「戦争と飢えの世界」と書いていた。丸一日、気づかなかった。訂正した。

2024/11/14

雑記

 今月、五十五歳になる。『サザエさん』の波平は五十四歳という設定なので、彼より年上になる。昔なら定年である。思い返すと、十九歳で上京してから、人生の大半といっていいくらいの時間、本を探すこと、本を読むことに費やしてきた。三十数年、古本屋通いをしていると、何度となく低迷期も味わってきた。未知の本への渇望が薄れ、単行本で持っている本の文庫版を買うとかまたその逆とか、手持のものより状態のいい本(帯付など)に買い直すとか、そんなことをやって、新規開拓欲がわいてくるまでやりすごす。

 日曜、蔵書の整理を中断して散歩。中通りのミュージックストリートでいくつかバンドを見る。野外なのに音がよくて気持いい。夕方、塚本功さんが出演する店の前の路地を通ったのだが、満席で入れそうにない。そのまま散歩する。薬局で貼るカイロを買う。レジで店の人に「貼らないタイプですが、いいですか」と聞かれる。貼るほうに交換してもらう。

 ちょっと小雨。左の手のひらがすこし痺れが出て、さらにピリっと痛みが走ったので、のんびり過ごすことにした。手のひらに気休めの湿布を貼る。治まる。

 牛のさがりで牛丼作る。『些末事研究』の福田賢治さんが米を作っている。この米がうまい。高松に移住前から農業がしたいといっていたが、趣味の範囲かとおもっていた。年々、畑が広くなり、もはや農家である。

 終わりの見えない大掃除。街道から古典(これも街道絡みなのだが)に至り、部屋の動線を失う。図録は場所をとる。しかしなぜか買ったときの満足感が大きいのも図録なのだ。手元にあると嬉しいのだ。

 新聞や雑誌の切り抜き、自分の検索能力が衰えると何の役にも立たない。情けないけど、仕方がない。捨てようとおもって紙袋から出すと面白い(二十年くらい前のフリーター関連の記事など)。面白いから捨てられない。しかし収容スペースは限られている。

 押入に入れっぱなしだった不要なもの、壊れた家電などを処分しようと「杉並区 粗大ゴミ」と検索。以前、インターネットで申し込んだことがあるのだが、申し込みの画面から先に進まない。電話で申し込む(丁寧な対応)。リサイクルショップで激安で買ったタワー型の扇風機、処分費のほうが高い。そういうこともある。

2024/11/09

コタツメモ

 南口エトアール商店街、雪の結晶の電飾(星の形もある)。エトアール(エトワール)はフランス語で星の意味。花形スターみたいな意味もある。エトアール商店街、夏の提灯もいい。夜の散歩コース。ついでに西友で買物する。

 中通り商店街はミュージックストリート(土・日二日間)が開催中。散歩中に見る。茶処つきじでほうじ茶を買う。純情商店街の提灯もいい。

 九日(土)の昼、コタツ布団をセットする。電源を入れる。あたたか。ちなみに七日(木)の深夜、飲み屋に出かける前、長袖のヒートテックを着た。貼るカイロはまだつかっていないけど、冬が近づいている。

 手と足が冷えやすい(いわゆる末端冷え性)。手の指が冷えると原稿が書けない。三年前の十一月に神経痛になって以来、体の冷えには用心しまくっている。

 大病や大怪我をしたわけではないが、五十歳以降、身の処し方が安全第一主義になっている。散歩したり、電車やバスに乗ったり、本を読んだり、酒を飲んだり、これまで当たり前におもっていたことが、そうではないと知った。健康だからできるのだ。前は店に三、四時間居座って飲み続けてしまうことがよくあったが、今は閉店一時間前くらいに行き、さくっと帰る(深酒予防)。ウイスキーを飲んだ翌日、神経痛の手前の症状が出るようになり、ビール、ウォッカ、その他、いろいろ試したが、飲みすぎなければいいということがわかった。好きな酒が飲めるように体調を整える。よく歩き、よく寝る。体を冷やさない。あと自分の調子のいいときの体重より増えれば減らし、減れば増やす。

 尾崎一雄の「歩きたい」という小説が好きで、しょっちゅう読み返している。この小説は低迷の底を脱しかけている時期に書いたのではないか。そんな気がする。「冬眠居」の尾崎一雄もそうだが、わたしは寒がりの作家が好きになる傾向がある。古山高麗雄もそう。

 今年も冬を乗りきることが目標である。

2024/11/07

頭に入らない

 三日、朝から掃除。夕方、馬橋小学校盆おどり。ちょこっと顔を出す。クックロビン音頭。両手を前に出すふりしかおぼえていなかった。自分の記憶よりテンポも早かった。

 日本シリーズは横浜優勝。MVPは桑原将志選手。知り合いに横浜一筋のファンが何人かいるのだが、桑原選手の人気はすごい。おっさん野球ファンは体を張ったプレーをする選手に弱い。わたしも弱い。いっぽう自分の生き方に関しては、無理せずケガせず疲れをためず静かに暮らしたい。若いころはこんなに平穏かつ安楽を望む人間になるとはおもわなかった。

 アメリカ大統領選の前に『最後のコラム 鮎川信夫遺稿週集103篇』(文藝春秋、一九八七年)などを再読。『最後のコラム』の「アメリカ連邦議員選挙」(一九八六年)にはこんな記述がある。

《同じ民主国でも、米国の選挙はわかりにくい。すべての点で日本の選挙とはあまりにもかけ離れているから、一度や二度聞いたくらいでは、とても頭に入らない》

《民主党はリベラル、共和党は保守、と考えがちだが、そうした固定観念でみると、しばしば間違いを犯す》

 このコラムが書かれたころのアメリカ大統領はロナルド・レーガンだが、鮎川信夫は「レーガンでさえ、リベラルではないかと疑われるところは、いくらでもある」と述べている。レーガンはハリウッドの労組の委員長をつとめていたこともある。アメリカの共和党の政治家はリベラルからの転向者がけっこういる。

 わたしのアメリカの政治に関する情報の更新は滞っている。日本でアメリカのコラムニストの翻訳が盛んだったのは一九九〇年代半ばまで……。

 ここまで書いて仕事に出かける。外出先でドナルド・トランプの勝利宣言のニュースを見る。結果がわかるのは翌日の朝か昼くらいかなとおもっていた。選挙後、(わたしが見たニュースでは)共和党支持者だけど、トランプに投票しなかった人の意見は取り上げていたが、民主党支持者でカマラ・ハリスに投票しなかった人の意見は報じなかった。そこを取材して掘り下げていれば面白いとおもうのだが。トランプ支持者を「教育水準が低い」「高卒」と指摘する人もいるが、彼らのまわり(親兄弟親戚知人)には中卒や高卒の人がいないのだろうか。いつになったら、こうした発言が有権者の半数以上を占める人たちの強い反感を買っていることに気づくのか。

 そんなことをあれこれ考えながら掃除を続ける。

2024/11/03

神田古本まつり

 ちょっと疲れているときに見る夢なのだが、巨大な駅(名古屋駅っぽい)の構内の地下通路が坂(幅が広い)になっていて、その傾斜がきつくて足が滑って転びそうになる。夢の中で「もっと滑り止めの効いた靴を履いてくればよかった」とおもう。一ヶ月くらい前にも見ている。

 木曜、ワールドシリーズの決勝戦を観て、中野に寄ってから神保町。神田古本まつりのち小諸そば(鳥からうどん)。神田古本まつりは岩波ブックセンターの横の路地が好きなのだが、今年は工事中で半分くらいになっていた。
 今回も「三冊縛り」。『古地図セレクション 神戸市博物館』(神戸市スポーツ教育公社、一九九四年)など。一冊ワンコイン以下の「値段縛り」はよくやるのだが、冊数で縛る買い方もけっこう楽しい。

『古地図セレクション 神戸市博物館』は歌川貞秀の「東海道五十三駅勝景 初編」(一八六〇年)を収録。貞秀の鳥瞰図は『東海道パノラマ地図』の清水吉康と線の感じが似ている。清水吉康の鳥瞰図は、山の描き方などが浮世絵っぽいところある。あと大坂の橘保春の二枚一組の「高野山細見絵図」(一八一三年)は色合と線がかっこいい。木版刷り。橘保春の絵図も大正昭和期の鳥瞰図絵師に影響を与えているようにおもう。絵地図の世界も継承と発展の歴史あり。

「文化遺産オンライン」で橘保春の鳥瞰図を見ることができる。でも紙(図録)で持っていたい。

 街道の研究をはじめたおかげで好きな画家が増えた。一番好きになったのは池田英泉(渓斎英泉)。お墓が高円寺南の福寿院にある。『木曾路の名所・図会 田中コレクション 「木曽海道六拾九次之内」を中心に』(中山道広重美術館、二〇〇一年)はわたしのお気に入りの図録で、この中にも英泉の絵がけっこうある。英泉の街道の絵は、風景だけでなく、宿場で働いている人(遊んでいる人)が細々と描かれているところがいい。人々の表情も面白い。

『木曾路の名所・図会 田中コレクション』所収の作品で、昭和の絵(一九三〇年代)だけど、名取春仙(一八八六〜一九六〇)の版画もよかった。山梨県中巨摩郡(現・南アルプス市)生まれ。春仙、漱石の挿絵(『三四郎』など)が有名だけど、中山道の絵(版画)も描いている。春仙の「恵那八勝」は図録ではなく、直に見てみたい。

 夜、神保町から水道橋駅まで歩き、JR総武線で高円寺に帰る。高円寺駅の総武線の八号車あたりのホーム(阿佐ケ谷駅寄り)で降りると、駅南口のビルの隙間からライトアップしたドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見える。昼もよく見える。

 高円寺駅の総武線のホームの阿佐ケ谷駅寄りは、わたしのドコモタワーと(天候に左右されるが)富士山の観測ポイントである。中野か東中野あたりに高層マンションが建ったら、ドコモタワーは見えなくなりそう。

 ドコモタワーといえば、荻窪の古書ワルツの前の道(青梅街道に向かう道)からも見える。古書ワルツの前の道はすこし斜めになっていて、その延長線上にドコモタワーがあり、高円寺界隈の路上よりもよく見える。道の角度、重要である。

2024/10/31

選挙

 日曜、起きたら午後三時。午後五時、選挙に行く。自民党大敗。自民・公民が過半数割れ。ここまで議席を減らしたのは意外だった。

 今の世相を知る手がかりのひとつとして、選挙の結果を分析するのは面白い(自分の分析が正しいとはおもっていない。予想も当たらない)。

 国民民主党の(とくに比例票の)伸び方を見ると、自民党は嫌だけど、安全保障などに関しては現状のままでいい——みたいな層の受け皿になりつつあるのかなと。

 有権者における高齢者の増加が政治にどんな影響を与えるのか。
 自分の親(八十代)を見ていると、何十年と慣れ親しんできたものが変わってしまうのは、かなりのストレスになっていることはわかる。五十代のわたしもそうだ。この先どんどんそうなる気がしている。

 普及すれば便利になる、効率がよくなるといわれても、人生の残りの時間が少ない身からすると、これ以上、新しいことを覚えたくないのだ。使いこなせるようになるまで、自分が生きているかどうかわからない。だったら、今のままでいい。わたしもそういう感覚がわかる年になってしまった。

 迅速に制度を刷新したい層からすると、現状維持を望む層は邪魔で仕方がないだろう。

 今年の春、パソコンを十年ぶりに買い替えた。かなり不都合が生じていても、古いパソコンを使い続けてきた。原稿を書くときに利用しているテキストエディタを変えたくなかったからである。OSをバージョンアップすれば、ソフトも新しいバージョンに変えなくてはならない。新しいソフトに追加された機能をつかうことはほとんどない。前のほうがよかったと不満がつのる。そんな自分のあり方を省みると、今回議席を増やした立憲民主党の党首の「紙の保険証」発言をバカにできなくなる。

「これまで通り」を望んでいる人はおそらく数千万人という単位でいる。それが今の日本である。ただ「これまで通り」を望む人ばかりだと社会は停滞してしまう。それでも徐々に世代交代していくだろう。ゆるやかに社会は変わる。半年ちょっとで、わたしは新しいパソコンに慣れた。もう古いパソコンに戻ることはない。今月、マイナンバーカードも電子化した。

2024/10/23

掃除

 季節の変わり目、毎日、睡眠時間がズレる。よくあることだが、寒暖差の影響もあるとおもう。そういう体であることを前提に生活していくしかない。中年過ぎて急に運動すると足がもつれて転ぶみたいなことが、頭の働きにもあるような気がする。若いころのイメージと今の自分とのズレが、しょっちゅう起きる。記憶力が落ちた分、メモをとるようにするとか、しめきり前日は酒を飲まないとか、いろいろ試行錯誤はしているのだけど、仕事が捗らない。

 東京堂書店で新刊本のチェック。小諸そば、鳥から二個サービス中、とろろ丼とそばのセットを食う。帰りは代官町通りを歩いて四ツ谷駅まで。電車の中で佐藤正午著『佐世保で考えたこと エッセイ・コレクションⅡ 1991年-1995年』(岩波現代文庫)を読む。

 三十年前、長崎は深刻な水不足だった。なんとなくニュースで見た記憶がある。当然、ふだんは忘れているし、細かいことは最初から知らない。当時、佐世保の節水でグラスが洗えず、紙コップで酒を提供していた飲み屋があった。『佐世保で考えたこと』に書いてあった話。深夜、そんな話を高円寺の飲み屋で喋っていたら、たまたま佐世保出身の若者(二十代だとおもう)がいた。さらに佐藤正午と同じ高校に通っていたとも。

 ここ数日、ずっと仕事部屋の掃除。五十五歳になる前に一度おもいきってモノを減らしたいと考えていた。減らさないと本が買えない。本が買えないと心の平穏が保てない。だからやるしかない。ただ、昔と比べて取捨選択の反射神経が鈍っている。片付けようとして、余計に散らかってしまう現象に名前はあるのか。

 片付け中は古本も買い控え。未読の本なら山ほどある。「三冊まで」と上限を決め、先週末、西部古書会館。「文藝」編集部・編『追悼 野間宏』(河出書房新社、一九九一年)、『NeoUtopia 藤子不二雄Ⓐ先生 追悼号』(二〇二二年)、それから絵地図を買った。『追悼 野間宏』は、冒頭「アルバム 野間宏」に桑原(竹之内)静雄と野間(京大時代)、富士正晴と野間宏(一九五九年)の写真あり。野間と富士、桑原(竹之内)静雄は同人誌『三人』の同人仲間。武田泰淳の別荘の写真も載っていた。

『NeoUtopia 藤子不二雄Ⓐ先生 追悼号』——Ⓐ先生愛がすごい。愛が重い。Ⓐ先生が亡くなったのは二〇二二年四月六日。特集以外では、連載(一挙三話掲載!)の「黒幕組合の狩猟日記 未収録ハンター 栄光と挫折の記録」が面白い。見出しに「高騰する藤子業界」なんて言葉が出てくる。単行本に収録されていない幻の「一コマ」を求め、オークションで競り合う。
 漫画にかぎらず、熱心なコレクターが世界に三人くらいいると、古書価が急騰してしまうのだ。中古レコードもそう。しかも苦労して入手しても、興味のない人からすれば、なぜそこまでして入手したいのかわけがわからない。何かを集めること、調べることに人生を捧げている人がいる。使命感のようなものに突き動かされているのか。そういう人が書いたものは面白い。

2024/10/15

三十五年

 十月、郵便料金値上げ。定型郵便物八十四円(九十四円)が百十円。スマートレターは百八十円から二百十円、レターパックライトは三百七十円から四百三十円、レターパックプラスは五百二十円から六百円になった。自分のためのメモとして記しておく。

 昨日も今日も部屋の片づけ。押入で五年十年と眠っている雑誌のコピーなどの資料をどうするか。最初からそんなものはなかったと諦めるか。掃除をしながら、体だけでなく、心や気持も動かすことが大切なのではないかといったことを考える。
 おなかがいっぱいだと何も食べたくない。ある種の空腹感、渇望感が心を動かすための鍵なのかもしれない。面白そうなイベントがあったとしても、疲れていたり、予定がつまっていたりすると「今回はいいか」となる。体は動けど、気持が動かない。

 年がら年中、誰に頼まれたわけでもない調べ事をして過ごしている。ぼんやりと全体像が見えてくるちょっと手前までは楽しい。山登りでいえば、五合目あたり。
 コレクション、収集の話でいえば、ある作家、あるジャンルを集めはじめたころは自分の知らない本やら冊子やらを見つけるたびに心が躍る。そのうちだんだん数が増え、残るは入手困難なものばかり……といった感じになってくると「たぶんないだろう。あっても高くて買えないだろう」と古本屋に行く足取りが重くなる。

 本や資料の置き場所が埋まってくると「これ以上、増やすとまずい」という気持が先立ち、ブレーキを踏む。わたしが低迷期に入るときのパターンはいつもこれ。

 金曜昼すぎ、郵便局に寄り、西部古書会館(初日は木曜だった)。本当にほしい本だけ買おうと心に決め、会場入り。『真鍋博展』図録(美術出版デザインセンター、朝日新聞社、二〇〇四年)、『戦後40年 日本を読む100の写真』(文藝春秋臨時増刊、一九八五年八月)の二冊。「戦後40年」がまもなく四十年前になる。「戦後何年」みたいな企画は五十年がピークでその後は下降気味のようにおもう(あくまでも雑誌の話)。

 掃除の合間に岡崎武志編『駄目も目である 木山捷平小説集』(ちくま文庫)を読む。「貸間さがし」も入っている。東京・中央線沿線で「正介」が下宿をさがす。「ポツダム宣言受諾後、もうすぐ四年になろうとしているのに」という文があるので一九四九年ごろの話。初出は「一九五八年二月 別冊文藝春秋」。木山捷平、五十三歳のときの作品である。

「敗戦の時の三月まで、正介は中央線の高円寺に住んでいた」が、敗戦後の東京の貸間借間事情がわからない。部屋を借りるのに数万円の権利金が必要だといわれる。「正介」にそんな金はない。
 吉祥寺の便所なしの三畳間を借りるか借りないかで迷う。作中の「正介」は四十代半ばである。
 木山捷平は淡々とした作風と評される作家だけど、四十代半ばで妻子がいて、それでも文学を続けようと再上京を考えている。もちろん筆一本で食べていける保証はない。文学への執念を秘めつつ、力の抜けた筆致でなんてことのない日常を書く。すごさを感じさせないところも含めて「奇異」な作家だ。

 わたしはこの秋(十月中旬)で高円寺に移り住んで三十五年になる。上京して最初の半年は下赤塚の寮(単身赴任中の父が働いていた工場の寮)に住んだ。寮を出たのは二十歳になるひと月前。以来、高円寺内を何度か引っ越した(台車で本を運んだりもした)。二十代のころは、ずっと「何とか荘」というアパートに住んでいた。三十代後半から五十歳になるすこし前まで借りていた仕事部屋も「何とか荘」だった。こんなに長く同じ町に住むことになるとはおもわなかった。アパートの取り壊しによる立ち退きは三度(仕事部屋も含む)経験した。いつまで自分は高円寺にいるのだろう。そんな疑問が頭によぎる。先のことはわからない。わからないまま三十五年の月日が流れた。

2024/10/08

実篤と三鷹

 昨日暑く(最高気温二十九度)、今日寒くて(最高気温二十度)、しかも雨、終わりの見えない部屋の掃除。

 月曜午後三時、水中書店に寄り、三鷹から武蔵境まで玉川上水沿いを歩く。三鷹駅北口の独歩碑(武者小路実篤の書)、桜橋の独歩碑を見る。水の流れる音を聞きながら、ただ歩いた。気分がいい。
 町を見る。風景を見る。四十代半ばすぎまで、わたしはそういう楽しさを知らなかった。本を読む。音楽を聴く。文化に触れることで心を満たそうとしていた。

 桜橋から武蔵境駅へ。北口の商店街散策。おへそ書房に寄る。『一枚の繪』の「追悼 武者小路実篤先生」(一九七六年七月)を買う。同号の年譜によると、一九三七(昭和十二)年、「市外三鷹村牟礼へ転居」とある。
『武者小路実篤記念館 図録』(調布市武者小路実篤記念館、一九九六年)の年譜には、一九三七(昭和十二)年六月、「北多摩郡三鷹村牟礼三五九に転居」とあり、一九四〇年九月、「三鷹村牟礼四九〇に転居」と記されている。「牟礼四九〇」に転居したとき、実篤五十五歳。四十代後半から五十代半ばにかけて、武者小路実篤は吉祥寺〜三鷹の間で転居をくりかえしている。『牟礼随筆』(大日本雄弁会講談社、一九三九年)という本を刊行している。気になる。

 一九五五(昭和三十年)、調布市若葉町(当時は入間町荻野)に引っ越す。前の年に京王線の仙川駅の近くに土地千坪購入。七十歳で引っ越し。若葉町は京王線の仙川駅、つつじヶ丘駅の間(調布市武者小路実篤記念館もこの地にある)。市は変わるが、三鷹市牟礼と調布市若葉町はけっこう近い。仙川駅は吉祥寺駅、三鷹駅行きのバス(小田急バス)もある。

 武蔵境のTAIRAYAというスーパーで焼き鳥とほうじ茶を買う。武蔵境駅、自分の記憶とかなり変わっている。仙川や調布は三十年以上行ってない。

 JR中央線の三鷹駅と京王線の調布駅もバス(小田急バス)が走っている。バスだと片道四十分くらいか。都内西部、南北の縦移動はバスが便利である。

2024/10/04

夜景

 水曜夜七時、神保町から東京メトロ東西線の竹橋駅方面に向かい、代官町通りを歩いて千鳥ケ淵へ。千鳥ケ淵警備派出所の近くから東京スカイツリーと東京タワーが見える。東京タワー方面の夜景がいい。坂道を下り、東京メトロ有楽町線麹町駅、JR四ツ谷駅から新宿通り(旧甲州街道)を散策する。当初は四ツ谷駅からJR中央線で高円寺に帰る予定だったが、先週秋花粉(ブタクサ)の症状が出て、外出を控えていたので、もうすこし歩きたかった。東京メトロ丸の内線の四谷三丁目駅から新宿御苑駅に向かう途中、ドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見えた。
 ドコモタワーは二〇〇〇年九月竣工。二十四年前。わたしは三十歳だった。アルバイトしながら、同人誌にエッセイを書いていた。

 今の自分のいる場所から何が見えるか。散歩中、そんなことを意識するようになった。東京の風景は目まぐるしく変わる。夜景も変わる。

 新宿駅に着いたのは午後九時前。タワーを見るためにうろうろしたので、その分、時間がかかった。

 新宿は「江戸四宿」のひとつ。もともと甲州街道の第一宿は高井戸宿だった。新宿=内藤新宿は一六九八(元禄十一)年に設けられた新しい宿場(だから「新宿」という)。新宿は甲州街道と青梅街道の「追分」でもある。

 新宿駅の東口は工事中。ドコモタワーを近くで見るため、南口に向かう。

 ひさしぶりに新宿駅南口のエスカレーターに乗る。若いミュージシャンが何人か歌っている。

 夜中、高円寺の南口、高南通りのミニストップ高円寺南2丁目店のすこし北の斜めの道(松應寺などお寺が並ぶ通り)に入るあたりから東(新宿方面)に歩いている途中、ドコモタワーが見える。ライティングの色によって見えるとき、見えないときがある。

2024/10/02

玉川上水

 気がつけば十月。忘れていたが、ちょっと前の八月下旬、わたしは生まれて二万日になった。インターネットの「生まれて何日チェック」で知った。一万日は二十七歳——一九九七年四月。何をしていたかおぼえていない。

 土曜夕方四時すぎ、西部古書会館刻『市街線入 東京最新全図(明治時代の東京地図)』(帯付、すずき印刷)を買う。明治三十八年改正版の地図の復刻版で「発売元(有)すずき印刷 立川支所」とシールが貼ってある(復刻年不詳)。さらに『最新大東京地図』(大正十四年版の復刻)もセットで五百円だった。お買い得。

 前回、国木田独歩の『武蔵野』が渋谷から小金井あたりが舞台と書いたが、この日の古書会館には北村信正他著『小金井公園』(東京公園文庫、一九八一年、一九九五年改訂版)があったので、買うことにした。『武蔵野文学散歩展』の江戸東京たてもの園(江戸東京博物館分館)も小金井公園内にある。

 部屋の掃除していたら『玉川上水散策』(坂上洋之:文、桜井保秋:写真、羽村市教育委員会、一九九五年)が出てきた。
 何年か前に西部古書会館で買った冊子。小金井桜、境浄水場の写真も載っている。羽村市は福生市のすこし北に位置する。『大菩薩峠』の中里介山が羽村生まれ(一八八五年四月)。羽村は神奈川県西多摩郡西多摩村だったが、一八九三年に東京府に編入——。

「三鷹駅のせせらぎ」というページに「駅北口東側の交番の後ろに、武蔵野市が建立した、『山林に自由存す』で有名な『独歩詩碑』があります」と記されている。

《駅北口から西側のけやき橋までの間の上水路は暗渠になっていて、その上がせせらぎの流れる小公園になっています》

 一九九三年七月、三十年以上前の写真なので、三鷹駅周辺の風景は今とかなり変わっている。

 二万日も生きていると、世の中も変わる。もちろん望ましい変化ばかりではないが、玉川上水にかぎらず、各地の川は昭和後半と比べて、きれいになった。
 同冊子の地図には玉川上水と野火止用水の分岐しているあたりに「清流復活放流口」とある。東京都水道局小平監視所の近くに「清流の復活の碑」(小平市中島町)があり、野火止用水にも「清流の復活の碑」(小平市向原)がある。

 一九六六年四月「玉川上水を守る会」 、一九七四年七月「小平市玉川上水を守る会」などが発足。いくつもの保護団体が行政に働きかけ、一九八一年に清流復活事業計画が具体化し、導水管敷設工事がはじまった。一九八四年八月に野火止用水、一九八六年八月に玉川上水の清流が復活した。

 以前、板橋から川越まで二日かけて川越街道を歩いたとき、JR武蔵野線の新座駅の手前に野火止という地名を見かけた。新座市(埼玉県)は野火止用水が通っている(野火止緑道もある)。

 昭和の終わりから平成のはじめにかけて、河川や大気の汚染を改善しようという動きが広まった。一九六〇年、七〇年代の反公害運動からの流れもあるだろう。

 社会が豊かになり、そして行き詰まり、ようやく経済成長の負の部分を見直すことができるようになったともいえる。

 昭和から平成になって「失われた何年」みたいなことをいわれ続けてきたが、高度成長期以降、失ったものを取り戻そうとした歳月でもあったのではないか。

 年をとり、いずれこの世から去る身であることを自覚するにつれ、きれいな河川、海、山を次世代に残したいとおもうようになった。おもうだけで何もしていない。

2024/09/25

武蔵野

 土曜昼、西部古書会館。古雑誌、写真集、図録など。『武蔵野文学散歩展』(江戸東京たてもの園、二〇〇四年)は二冊目(何年か前に買っていたのを忘れていた)。巻末「武蔵野文学年表」は、国木田独歩、田山花袋、井伏鱒二、太宰治、大岡昇平の年譜が並ぶ。
 一九三二(昭和五)年の井伏鱒二。「夏ごろ、釣りを始める」とある。井伏三十四歳。この年の五月、井伏鱒二は太宰治と会う。

「武蔵野」と呼ばれる地域はけっこう広い。国木田独歩の「武蔵野」は渋谷から桜の名所の小金井あたりが舞台である。

『武蔵野文学散歩展』の「Ⅰ 武蔵野への憧れ」には「中仙道の最初の宿場・板橋は独歩のいう〈武蔵野〉の東の境界」とある(あくまでも独歩の見解)。川越以南から府中あたりまでを「武蔵野」とする説もあり。
 JR三鷹駅北口に国木田独歩詩碑(独歩の二男・佐土哲二による独歩像のレリーフがはめこまれている)がある。武蔵境の桜橋にも独歩の文学碑がある。三鷹駅から玉川上水沿いの桜通りを斜め(北西)に歩けば桜橋にたどり着く(武蔵境駅からだとまっすぐ北に歩けばいい)。近くに境浄水場もある。

「Ⅱ 広がる東京と武蔵野」の「田山花袋と東京の近郊」のページに「東京郊外電車回遊図絵」(金子常光作、大東京交通協会、一九二九年)という郊外電車の案内図(鳥瞰図)が載っている。東は成田、西は小田原、北は高崎までの地図。東京湾と所沢付近に飛行機の絵も。金子常光は吉田初三郎の弟子で、初三郎と画風も似ている。平野は黄、山は緑。色づかいが素晴らしい。金子常光の絵地図も人気があり、古書価がついている。

 同図録、貴重な古地図(一八九〇年の「甲武鉄道線路略図」など)がいっぱい出てくるので、地図好きにもおすすめ。

(付記)「東京郊外電車回遊図絵」の「回遊図絵」を「回覧絵」と書いていた。訂正した。

2024/09/20

鮎鮓街道

 ここのところ短期間に集中して何かを調べることができなくなった。早足で調べると、すぐ忘れてしまう。前向きにとらえれば、忘れることで別の方向から調べ直すことになり、それが重なったりつながったりする面白さを味わえる。わるいことばかりではない。

 街道の研究をはじめて、かれこれ八年。新刊書店、古書店をまわるときに、歴史や地理の棚を見ることが増えた。何かひとつのことを知ると、そこから分岐してわからないことが生じてくる。

 東海道でいえば、時代によって鈴鹿峠を通る伊勢廻り、垂水や墨俣(洲俣)を通る美濃廻りのルートがあった。平安、鎌倉時代の古典に東海道が出てくると、美濃廻りが多い。江戸期も近江商人は美濃路をよく利用したという話もある。桑名~宮(熱田)間を舟で行き来した七里の渡しは貴重品の運搬には向いてなかった。

 すこし前にひだ・みの日本歴史街道事務局監修『ひだ・みの日本歴史街道』(昭文社、一九九七年)を読んでいたら「柳津・笠松・川島」のページに「鮎鮨街道跡【笠松町】」という項があった。
「鮎鮨街道」は「鮎鮓街道」とも書く。「鮎鮓」は「あゆすし」と読む。

 将軍家に長良川の鮎鮨を献上するためのルートで、毎年五月から八月まで月一回岐阜から江戸に寿司を運んだ。鮎鮨はちょうど江戸に着くまでに発酵するよう作られていた。

『ひだ・みの日本歴史街道』に「江戸時代、岐阜から名古屋に至る近道は、笠松を経由して木曽川を渡るルート」とある。「笠松ナビ散策コース」(笠松町歴史未来館)の「笠松湊と鮎鮨街道」には「岐阜町のおすし元から加納(岐阜市)の問屋を経て、笠松の問屋で受け継ぎ、一宮(愛知県)の問屋へ送られました」と記されている。笠松問屋跡は名鉄竹鼻線の西笠松駅がもより駅で、岐阜県羽島郡笠松町下新町にある。

 笠松から木曽川を渡り、陸路だと一宮、清須を通る。このルートは旧鎌倉街道、美濃路とも重なる。

 以前、『小栗判官』に出てくる地名を調べていたとき、旧鎌倉街道(小栗街道)の萱津宿(あま市)は中世東海道の交通の要所だったことを知った。

 新城常三著『鎌倉時代の交通』(吉川弘文館、一九六七年、新装版は一九九五年)の「鎌倉の京都の間」によると、東海道は「鈴鹿峠を越え、伊勢より尾張に延びたが、平安中期よりこの道路は裏街道化し、近江・美濃をへて尾張に抜ける美濃路がより多く利用されるように」なり、鎌倉期に「幕府は美濃路に駅制を設置して公式に新東海道と定めた」とある。

《この旧・新東海道の交接地点に、宿が発生し易いが、それこそまさに萱津宿に外ならない》

……ここまで書いたところでインターネットの古本屋で注文していた日比野光敏編『ぎふのすし』(岐阜新聞社、一九九三年)が届いた。これから読む。

2024/09/14

蜜月時代

 九月、暑い日が続く。散歩していて汗だくになる。それでもすこしずつ衣替えの準備をはじめている。

 水曜、神保町。小諸そば(鳥からせいろ)、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。あいかわらずのルーティン。生活リズムが崩れやすい分、散歩、読書などの反復作業を課し、自分の感覚を調節する。それでもやや不調である。

 一誠堂書店で『筒井康隆展』(世田谷文学館、二〇一八年)、小松左京著『SFへの遺言』(光文社、一九九七年)など。『SFへの遺言』の第2章「誕生」の「5 日本SF始動」では、小松左京がはじめて原稿料をもらった話から、石川喬司との掛け合いが面白かった。

《森下(一仁) 新聞社の方は、石川さんが外で原稿書くのは何の問題もなかったんですか。
 石川 まあなかったですね。
 小松 あの頃、司馬遼太郎さんだって産経の記者だもんね。僕が産経で書評欄を書いている時に、斡旋してくれたのは三浦浩なんだけど、その上司が司馬さんなんだよ。「あの頃、君たちが飲んでいたコーヒーの伝票は俺が全部切ってやった」と威張られてさ(笑)。
 石川 「それで、髪がこんなに白くなった」と言って(笑)》

 ちなみに石川喬司は毎日新聞の記者や『サンデー毎日』の編集者をしていた。石川は一九三〇年九月生まれ。小松左京は一九三一年一月生まれだから同学年である。
 司馬遼太郎は一九二三年八月生まれ。小松左京のデビューは一九六二年秋、三十一歳。小松が産経新聞に書評(ミステリー評)を書いていたのはデビュー前の一九五〇年代後半あたりか。

『筒井康隆展』の年譜を見ると、小松左京の名前が出てくるのは一九五七年十二月——。

《「SFマガジン」の第2回ハヤカワ・SFコンテストで『無機世界へ』(後の『幻想の未来へ』の原型)が選外佳作となる。なお、三席に小松左京、半村良、選外佳作に豊田有恒がいた》

 筒井康隆は一九三四年九月生まれ。一九六〇年二月十二日午後十時三十二分「阪急電車梅田−千里山間の車内で作家になろうと決意」した。二十五歳。

《1960年『お助け』が雑誌「宝石」に掲載され、創作活動を続ける中、のちに「SF御三家」と称される星新一と小松左京、また眉村卓、平井和正、豊田有恒など、その後のSF全盛期をともに担う作家たちとの出会いがあり、交友が始まる》(「SF蜜月時代」/『筒井康隆展』)

 第三の新人、トキワ荘の漫画家もそうだが、デビュー前にモラトリアムというか自己模索期を経験している。もともと際立った能力があったのかもしれないが、同時代の異質の才と出会うことで自分の強み弱み、向き不向きを知る。「ライバルと出会い、刺激を受ける」「化学反応が起こる」みたいなこともそうだが、自分の力量はどのくらいなのか、一人で地道にコツコツやっていてもなかなか見えてこない。ということに、もっと早く気づいていたらとおもう。

(……この話はまた時間ができたら続きを書く)

2024/09/10

まつりのあと

 土曜夕方、馬橋稲荷神社の例大祭。馬橋稲荷は高円寺と阿佐ケ谷の間くらいにあり、桃園川緑道を通って阿佐ケ谷に向かう途中ときどき寄る。

 高円寺の西側は旧馬橋村で、馬橋稲荷神社、馬橋小学校、馬橋公園など名前が残っている。馬橋公園は気象研究所の跡地にできた公園である。今年の夏、早朝散歩をしていたころ、馬橋公園をうろうろしていた(ラジオ体操の会場でけっこう人がいる)。
 屋台でチヨハチのはみだし焼きそばと生ビール。例大祭はカレー、パエリア、ケバブなどの屋台もある(昨年はパエリアを食べた)。
 神社の参道(射的などの出店あり)を抜け、馬橋通りから斜めの道(すこし先に弁天湯という銭湯あり)に曲がったところでライトアップ(紫色?)されたドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見えた。夜、高円寺を散歩していて、光る都庁やドコモタワーがちらっと見えると嬉しくなる。でも近くで見たいとはおもわない。どういう心理なのか、自分でもよくわからない。

 帰り道、駅前の東急ストアで柿の葉寿司(五種)を買う。たまに押寿司がむしょうに食いたくなる。

 土日、西部古書会館は均一まつりだった。今回は日曜(全品百円)だけ。『is』(一九九七年三月)特集「テーマパーク東海道」(ポーラ研究所)があった。よくぞ残っていた。表紙は薩埵峠の写真(土田ヒロミ)。特集の「東海道風景 広重の絵と写真」(三十五頁!)でも土田ヒロミの東海道の写真がたくさん載っている。ほかに石森章太郎『アガルタ』(サンコミックス、一九七六年)、『未発掘の玉手箱 手塚治虫』(二階堂黎人・責任編集、立風書房、一九九八年)など十九冊。

『江戸時代図誌』(筑摩書房、全二十七巻、一九七六年、七七年)がバラ売りしていたのだが、一度帰る。東海道(三巻)、中山道(二巻)、奥州道(二巻)、日光道、北陸道(二巻)、別巻(二冊)は家にある。残りをどうするか。置き場所がない。悩んだ末、山陰道、山陽道、南海道(二巻)、西海道を買うことにした。

 石森『アガルタ』。刊行時期からするとマイルス・ディヴィスの同じ題のライブ・アルバム(一九七五年リリース)からとったのだろう。
 石森章太郎はジャズミュージシャンの伝記漫画『ブリッジ[橋] ディスコグラフィー付(レコパル・ライブコミック集2)』(ビックコミックス、一九八〇年)も描いている。古書価高い(わたしは持っていない)。

『アガルタ』は冒頭付近のコマに写真(西武池袋線桜台駅・南口)。アシスタント志望の若者(黒木シュン)がラタン(喫茶店)で「石森先生」と面談する場面があり、店の外観の写真が掲載されている。ラタンは石森(石ノ森)章太郎の“第二の仕事場”としても有名である(今はない)。
 石森は一九六六年から桜台(練馬区)に住んでいた(自宅兼仕事場)。桜台駅には『サイボーグ009』の案内板あり。
 練馬駅あたりに散歩すると帰りのバスが桜台駅の駅前を通る。江古田に散歩した帰りは桜台駅のバス停から高円寺駅行のバスに乗る。

『未発掘の玉手箱 手塚治虫』は、やなせたかしのインタビューが面白かった。
 一九七四年に「漫画家絵本の会」を作り、展覧会を企画した。仲間が手塚治虫に声をかけたが「僕は、入んないんじゃないの、って言ってたんです。当時、手塚さんはアニメもやっててものすごく忙しかったからね」。
 第一回展は、やなせたかし、前川かずお、おおば比呂司、佐川美代太郎、長新太、馬場のぼる、牧野圭一(後に退会)の八名。翌年の第二回展から手塚治虫が参加し、その後、永島慎二、東君平、柳原良平も同会に入会した。
 会場は日本橋の丸善。当初は丸善の上層部から反対の声もあったそうだ。五十年前の話である。

《展覧会が正月だからね、暮れの忙しい時に描かなきゃいけない。手塚さんはいつもギリギリまで絵ができないんですよ。(中略)他の本の締め切りは遅れたり、逃げたりしてたのに、絵本の会は亡くなるまで1回も欠席しなかった》

《彼にとって絵本は商売じゃなく、ひとつのレクリエーション、ってとこがあったんでしょう。長新太とか馬場のぼるとか僕とか、とっても気を許してたというか、競争相手じゃないですからね。だからとても和やかで、絵本の会に来る時はうれしそうでしたね》

 手塚治虫も馬場のぼるも練馬区に住んでいた。手塚は練馬区富士見台、馬場は練馬区小竹町。練馬区は漫画家が多い。

 馬場のぼる、紙芝居もいい。最近、昔の紙芝居が気になっている(収集するつもりはないが)。

2024/09/06

歩くこと寝ること

 ビル・ブライソン著『ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー』(高橋佳奈子訳、朝日文庫、二〇〇二年一月)はくりかえし読んでいる。紀行文、アウトドア、語学、科学と守備範囲の広い作家だ。同書に「なぜ誰も歩かない?」というコラムがある。ビル・ブライソンはアメリカのアイオワ州の生まれだが、十八年くらいイギリスの新聞社などで働いていた。

《アメリカに戻ろうと決めた際、妻と私が望んだことの一つに、手ごろな大きさの町で、商店街へ歩いて行ける距離のところに住みたいということがあった》

 希望通り、たいていの用事は歩いてすませることができる町に住むことになった。しばらくすると町を歩いている人を見かけないことに気づく。町の人からすると、彼の徒歩生活は「奇妙で風変わりな習慣」だった。

《みな、何をするにも車を使うのに慣れてしまっているため、縮こまっている足を伸ばし、体を支えるその二本の足に何ができるか試してみようとはけっして思わない》

 先月末、ビル・ブライソン著『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』(桐谷知未訳、新潮文庫、単行本は二〇二一年)が刊行された。同書、第9章 「解剖室で骨と向き合う」、第10章「二足歩行と運動」でも、歩くことに紙数を割いている。

《足には、三つの異なる役割がある。緩衝装置、基盤、そして圧力を加える器官。一歩踏み出すごとに——一生のあいだに、おそらくおよそ二億歩ほど踏み出すことになるだろう——あなたはこの三つの機能を順番に実行する》

《アーチと弾力性の組み合わせが足に反動機構を与え、そのおかげでヒトの歩行は、他の類人猿のやや重々しい動きに比べて、リズミカルで軽快な、効率のよい動きになっている》 

 引用は第9章「解剖室で骨と向き合う」から。

 いっぽうヒトは直立姿勢で様々な行動するようになって「脊椎を支えクッションの役割をする軟骨円板に余分な圧力がかかり、結果としてときどき位置がずれたり、椎間板ヘルニアを起こしたりする」。二足歩行は常に腰や膝、股関節などに大きな負荷がかかる。いろいろ思い当たる。

 第10章「二足歩行と運動」によると、散歩や適度な運動は、骨を強くする、免疫系の機能を高める、病気の予防になる、気分が明るくなるといった効果があるようだ。

《では、どのくらい運動するべきなのか? はっきり答えるのはむずかしい。ほとんど誰もが信じている一日一万歩歩くべきだという考えも悪くないが、特別な科学的根拠があるわけではない》

《一万歩説は、一九六〇年代に日本で行われたたったひとつの研究から生まれたとよく言われる——が、もしかするとそれもつくり話かもしれない》

 このブログでわたしは「晴れの日一万歩、雨の日五千歩」と何度となく書いているが、たしかに根拠はない。その日の体調によって「もっと歩きたい」とおもうときもあれば、目標未満でも「もういいや」とおもうことがある。

 近年の健康関係の本を読んでいると、一日八千歩説もよく目にする。体格をふくめて歩くことの負荷にも個人差がある。自分に合った運動(量)はいろいろ試して体得するほかない。

 第16章「人生の三分の一を占める睡眠のこと」も興味深く読んだ。

《体のどこだろうと、睡眠の恩恵を受けない部分、不眠の悪影響を受けない部分はひとつもない》

 寝不足はあらゆる病気につながる。精神状態も不安定になる。最近の研究では認知症の原因のひとつにも数えられているそうだ。体の概日リズムの乱れは体重増加の一因になっているという説もある。寝なきゃいけないとおもいすぎて眠れなくなることもよくある。そういうときは「横になって目を閉じているだけでもいい」と自分に言い聞かせている。

(付記)『人体大全』は参考文献の頁をふくめて七百十五頁もある。ものすごく分厚い文庫というわけでもない。紙がいいのか。

2024/09/02

坂の途中

 雨が降ったりやんだり。野菜を刻み、小分けにして冷凍する。ニンジンやダイコンなどの根菜を手で持つのがむずかしい大きさになるまでピーラーで削るのも楽しい。無心になれる。
 ふだんは朝寝昼起なのだけど、数日前から昼寝夜起になり、夜寝朝起になる。この睡眠時間がズレるパターンのようなものを知りたいのだが、いまだにわからない。
 そういうわけで、土曜、午前十時ちょうどに西部古書会館。『東海道五拾三次 広重の旅 保永堂版 行書版 隷書版』(富士美術館、一九七九年)、古文書解読指導研究会編『古文書参考図録』(柏書房、一九七九年)を二百円。他にもいろいろ買ったが、今回は草古堂の本が多い。草古堂の幕張店は行ってみたい。地図を見たら、近くに房総往還が通っている。歩きたい。

『東海道五拾三次 広重の旅』の庄野宿は「石薬師をたって鈴鹿川にそう山道をのぼること四キロ、庄野宿にいたる。日本武尊の白鳥に化して崩(かむあが)りたもうた折の思国歌(くにしぬびうた)は清らかで美しい」とある。庄野宿のもより駅の加佐登駅を北(宿場は南)に行くと、近くにヤマトタケルの形見の「笠」と「杖」をまつった加佐登神社があり、古くからヤマトタケルの御陵と伝えられてきた白鳥塚古墳がある(現在は亀山の能褒野古墳がそういわれている)。

 子どものころ、庄野宿付近の鈴鹿川でときどき釣りをしていた。このあたりは平地である。加佐登神社はカブトムシやクワガタがよく捕れた。広重の庄野宿の絵——隷書版は平地の風景が描かれている。すくなくとも山道ではない。有名な保永堂版「庄野の白雨」(峠道の絵)より、隷書版はわたしが知っている庄野宿に近い。ちなみに加佐登神社や白鳥塚古墳に向かう途中に「庄野の白雨」の風景と似た感じ坂がある。行書版の亀山宿の絵も「庄野の白雨」と構図が似ている。まあ、この問題は保留ということで。

『古文書参考図録』はビニカバ付の美本。「“調べる歴史”への入門シリーズ」の一冊。図版がたくさん載っている。第四章「交通・運輸」に「五街道の宿駅」「五街道と主要脇往還図」あり。また道中風俗、宿場、舟渡し、橋などの絵を多数収録。「運輸」の項には頭上運搬、前額運搬の絵もあった。前額運搬はおでこに紐をかけ、籠みたいなものを背負う運搬。大八車や倍荷車(べかぐるま)の絵、ねこ車の写真も。なんとなく資料になりそうとおもって買ったら、大当たり。

 不案内な分野をすこしずつでも理解していくには、なるべく全体の大枠みたいなものを掴んでから、細かいところを掘り下げるほうがいい。もちろん読みたい本を読みたい時に読み、ひとつのことが別の何かにつながっていく感じもわるくないというか、昔からわたしはそういう読書のほうが好きである。ただ、行き当たりばったりの乱読だと関心が拡散してキリがない。キリはないが、退屈はしない。

2024/08/30

台風接近中

 台風10号接近中。雨台風。昨日は小雨の時間に東高円寺、新中野散歩。東京メトロの中野坂上駅あたりまで歩いて東中野駅へ。途中、区の施設みたいなところで休む。古文書講座のチラシを見る。
 夜、ユータカラヤ(スーパー)で買ったプルコギとナムル(自作)を合わせてビビンバを作る。深夜、一週間ぶりに近所の飲み屋。オフコースの「さよなら」をカバーしていた海外のバンドをまちがえる(KBC BandをGTRといってしまう。しかもわりと自信満々に)。

 自爆というバンドのライブCDを聴かせてもらう。聴いているうちに、二、三ヶ月前に自爆のライブ映像(下北沢)を見ていたことをおもいだしたのでCDを持ってきた人(カウンターの隣に座っていた)に伝える。撮影者はフルチ流血夫さん。

 寝る前、電子書籍の宮沢賢治の全詩集をちょこちょこ読んでいる。
 宮沢賢治の「金策」という詩が好きで、読み返すたびに「おれは今日はもう遊ぼう」「何もかも みんな忘れてしまって ひなたのなかのこどもにならう」の浮世離れ感がすごいとおもう。
 一九二七年六月三十日の日付。賢治三十歳。

 葛西善蔵が「金策」という作品を書いたら、愚痴をこぼしまくるにちがいない。もしくは自分で金策はせず、人にやらせて文句をいう。

「金策」の「ひなたのなかのこどもにならう」の後、「この花さいた(空白=約三字)の樹だ」の空白の樹は何の樹か。「梢いつぱい蜂がとび」と続くので、おそらく蜜蜂と縁のある樹だろう。花弁の色は「月光色」。アカシアかりんごか。アカシアは漢字で「金合歓」と書く。

 やらなければならないことをせず、関係ないことばかり調べて時間をつぶしている。

2024/08/26

野球・古本・祭り

 金曜日、甲子園決勝。京都国際対関東第一戦は延長タイブレークで京都国際が初優勝。京都、夏の甲子園の優勝は六十八年ぶり(一九五六年、平安高校以来)と知り、意外におもった。そんなに優勝していなかったとは。春の選抜だと龍谷大平安が二〇一四年に優勝している。

 今年の甲子園、「守りの野球」を掲げている高校が多かった。ボールが飛ばず、僅差の試合になりやすい分、投手力と守備力の高いチームが勝ち上がってきたのだろう。もうすこし長打で動く試合も見たかった。

 昔と比べると、投手の球数などを考慮した采配をする監督も増えた。甲子園出場がゴールではなく、その先のプロを目標にしている選手は登板数その他の条件付で入学することもある。またそういう学校にいい選手が集まるようになった。

 高校野球を見て郵便局のち西部古書会館。今週は木曜から開催していた。忘れていた。『富士が見守る交流の道 古代東海道と富士山ジャンクション』(富士山かぐや姫ミュージアム、二〇一九年)、東洋文庫ミュージアム『江戸から東京へ 地図にみる都市の歴史』(編集発行=東洋文庫、二〇二一年)、『いたばし風土記』(板橋区教育委員会、一九八七年)、『創刊101年記念展 永遠に「新青年」なるもの』(神奈川近代文学館、二〇二一年)など。古本天国ノペリ書店の棚が面白い。

『富士が見守る交流の道』の「富士山・愛鷹山南麓の道」の地図に根方街道の経路が記されている。根方街道は浮島ヶ原の北、愛鷹山の南を通る。富士山かぐや姫ミュージアムは行ってみたい。

 週末、高円寺の阿波踊り。例年、祭り中の我が家の食事はテイクアウト。土曜は途中で雨。日曜、満を持して、とんかつ松永の串カツ二本と卵串、クールラカンの生ビール、氷川神社前の九州料理マルキュウで串二本。いったん家に帰り、北口の庚申通りの肉一のカルビ串二本、ニホレモのレモンサワー。すこし時間をおき、人だかりを避け、路地を通って、抱瓶でオリオン生、沖縄焼きそば。抱瓶の沖縄やきそば、野菜たっぷりで(わたしの中では)最高峰の“祭りメシ”である。沖縄そばのすこし平たい麺もいい。

 四十代半ばまで季節の行事にそれほど興味がなかった(古本まつりは例外)。今は初詣、花見、夏や秋の祭りを楽しめるようになった。食べものの好みも変わる。ビールが好きになったのは四十代半ば以降だ。それまではウイスキーしか飲まなかった。

 変わるもの、変わらないもの——昔も今も「ある」ということが当たり前ではないのだなと年をとるとよくおもう。行きつけの店が閉店したり、ずっと愛用していた商品がなくなったり。年々、昭和の老人が着ていたような夏用の薄い長袖シャツも見かけなくなっている(わたしは好きなのだが)。いっぽう自分の好みの変化もあって、これまで必需品だったものを必要としなくなることもよくある。

2024/08/23

水道橋・神保町

 月曜昼すぎ、水道橋。二十代のころから、水道橋、御茶ノ水、神保町あたりで仕事をしてきたが、水道橋駅の東京ドーム方面はなじみがない。駅を降りると神保町方面に歩いて古本屋を回るのが常だった。水道橋駅は金券ショップも何軒かある(昔は神保町にもあったが、今はない)。

 夕方、用事をすませ、東京ドームシティのミーツポートを散策。敷地内に飲食店、コメダ珈琲店やスターバックスもある。場所はちょっとわかりにくかったが、喫煙所もあった。
 JR水道橋駅から白山通りを北に行ってすぐのところに水道橋稲荷大明神という神社があることを知る(今回は寄らなかった)。
 まったく知らない町というわけでもないのに興味がないと通り過ぎてしまう。読書もそういうことがよくある。

 しょっちゅう訪れる町であっても、もより駅を中心に四分割すると、よく歩いているところとそうでないところがはっきり分かれる。

 三十五年住んでいる高円寺にしてもコロナ禍の前まで東京メトロ丸の内線の東高円寺駅あたりはほとんど行ったことがなかった。

 川本三郎著『東京おもいで草』(ちくま文庫、二〇〇二年)再読。

《私は戦後、阿佐谷の町で育ったが、いまにして思うと、近所にたしかに文士の家が多かった。(中略)町を歩くと、火野葦平、外村繁、木山捷平の姿を見かけた。「モガ・モボ」の命名者として知られ、戦後杉並区長をつとめた新居格の家もすぐ近くにあった》(「東京は西へ移動する」/同書)

 水曜、神保町から九段下まで歩く。『中原中也と富永太郎展 二つのいのちの火花』(神奈川近代文学館、二〇〇七年)、四百円。中原中也、字がうまい。ある仕事で図書カード(五千円)をもらったので、東京大学地文研究会地理部『東大地理部の「地図深読み」散歩』(マイクロマガジン社)、飯田泰子著『落語の地図帳 江戸切絵図で旅する噺の世界』(芙蓉書房出版)を買った。

 この日、集中豪雨。夜七時すぎ、東京メトロ東西線に乗っていたら、山手線が止まっていると車内放送が流れる。三鷹駅方面の総武線も遅延——中野駅で降り、南口のファミリーマートの二階で休憩しているうちに雨が止んだ。高円寺まで歩いて帰る。

2024/08/17

台風一過

 金曜、台風接近中(関東)。米を焚き、カレーを作る。ひきこもり体制は万全である。晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課のため、午前と午後の小雨時に歩いた。午前中の散歩は途中で豪雨に見舞われ、全身ずぶ濡れになる。別に歩かなくても何の罰則もないわけだが、目標をクリアしたいという欲に動かされているところもある。

「地震雷火事親父」の「親父」は「大山嵐(おおやまじ)」「大風(おおやじ)」などが転化したのではないかという説がある。たしかに日本の風土を考えると、台風(強風)説は理にかなっている気がする。

 すこし前に佐藤鬼房の「みちのくは底知れぬ国大熊生く」という句を知った。「大熊」は「おやじ(ぢ)」と読む。
 怖いものの例として「親父=熊」説は……ないか。

 高校野球を見て、その合間に仕事したり漫画を読んだり散歩したり。三十六歳のとき、高校球児(三年生)の二倍の年になったのかとおもった。五十四歳、ついに三倍。一日二、三試合野球を見ているだけで疲れてしまう。

 今月、地雷原(原作)、佐伯淳一(漫画)の『マヌケなFPSプレイヤーが異世界へ落ちた場合』(角川コミック・エース)の五巻が刊行。オンラインゲームの仮想現実っぽい世界に転生した主人公の物語である。最初の巻が二〇一七年刊。年一巻くらいのペースで続いていたのだが、二〇二〇年の四巻以降、続刊が出ていなかった。
 五巻は四年ぶり。シューティングゲームやオンラインゲームをほとんど知らないわたしが読んでも作品の世界に没入(現実逃避)できる。佐伯淳一のキャラクターの浮遊感が独特で街の絵がやたらと細かい。
 五巻、主人公が王都にたどり着いたときの場面があるのだが、とんでもない数の屋敷が描き込まれている。全巻通して街の絵(俯瞰図)がすごい。戦闘シーンの人(いわゆるモブキャラ)や馬、魔物も微細に描かれていて、一コマ一コマの熱量がおかしい。

 主人公は魔力がなく(魔抜け=マヌケ)、そのかわり日本にいたときにやっていたゲームの武器やアイテムがつかえる。銃の弾薬を入手するには魔物を倒し、魔石(クリスタル)を入手する必要がある。主人公は戦闘能力は高いが、自分の理解がまったく及ばない異世界で生き延びるため、終始、慎重なところもいい。

「異世界もの」に興味がない人にもおすすめしたい。

2024/08/13

散歩

 早朝散歩、快適なのだが、買物ができないのが難点である。あと眠りが浅くなっている気がする。隣町まで歩いて近所のスーパーに売っていないパンや調味料を買う。古本屋の店先の棚で均一本を見る。散歩のついでに小さな楽しみがいろいろある。早朝散歩は涼しいけど、それがない。何よりこの生活パターンを続けられる気がしない。熟慮の末、今週から昼か夜の散歩に戻すことにした。

『本の雑誌』九月号、特集「河出書房新社を探検しよう!」。「私の河出書房新社オールタイムベスト3」に寄稿。

 土曜昼、西部古書会館のヴィンテージブックラボという催事に行く。全品二百円。岩波写真文庫の『熊野路』(一九五五年)、『東海道五十三次』、『三重県 新風土記』(一九五七年)、『北陸路』(一九五七年)、『風土と生活形態 空から見た日本』(一九五八年)など。二百円なら他の県(滋賀県、岐阜県もあった)の写真文庫も買っておけばよかったと悔やむ。

 会場で岡崎武志さんと会ったので中央線ガード下の店で食事して喫茶店に行く。最初、西部古書会館のそばのカフェテラスごんに行こうとしたら休み。しかも今年九月三十日に閉店するという趣旨の貼紙が……。ごん、オムライスが有名だけど、ランチのメニューも豊富でのんびりできるいい店だった。
 閉店といえば、高円寺にも北口庚申通りにまねきやという小さなディスカウントスーパーがあった。今年六月二十二日に閉店した。まねきやはお中元やお歳暮の見切り品を激安で売っていて、乾麺や調味料、コーヒーなどをよく買っていた。

 月曜、午後三時前、赤羽駅行きのバスで豊玉北、そこから江古田まで歩く。スーパーみらべる(江古田駅周辺に二軒あったが、六月に北口の店は閉店)に行く。みらべるはディスカウントストア兼生鮮食品なども売っているスーパー。店頭の雰囲気がまねきやと似ている。ファッションパークベベ、江古田浅間神社に寄る。
 そのあと西武池袋線で練馬駅へ。江古田駅〜練馬駅間は歩くつもりだったが、暑さに負けた。練馬駅北口のココネリ内のライフとカルディで買物してバスで高円寺に帰る。行き帰り、バスに乗ったが、いちおう一万歩くらい歩いた。

 夜、タンメンを作る。

2024/08/06

十八年

 連日、日の出前に散歩している。高円寺駅南口の寺が密集している道や公園の近くを通ると、セミがけっこう鳴いている。「このへんは新宿の西口のビルがよく見えるな」といった感じで、今、自分のいる場所から見える景色を確認するようになった。

《夏やすみになれば、学生には帰省といふ楽しみがあつた。この休暇中に、これだけ本を読もうといふので、行李につめて持つて帰る。大正の学生は読書家であつたやうだ》(原文は旧漢字)。

 福原麟太郎著『昔の町にて』(垂水書房、一九五七年)所収「よき日々の學生」。福原麟太郎の別の本を探していて(見つからず)、かわりにこの本を読んだ。わたしは福原麟太郎の『命なりけり』(文藝春秋新社、一九五七年)がきっかけで歌枕のことを調べはじめた。西行、芭蕉といった歌人・俳人は街道研究では避けて通れない。

 車谷長吉著『贋世捨人』(新潮社、二〇〇二年、文春文庫、二〇〇七年)も西行の歌ではじまる。

《二十五歳の時、私は創元文庫の尾山篤二郎校注「西行法師全歌集」を読んで発心し、自分も世捨人として生きたい、と思うた。併し五十四歳の今日まで、ついに出家遁世を果たし得ず、贋世捨人として生きて来た》

「五十四歳の今日まで」という言葉は頭から抜けていた。この作品、『現代の眼』や総会屋の話も出てくる。わたしは『現代の眼』の後継誌といえる雑誌とすこし縁があった。左翼誌なのにパトロンは右翼という変な世界だった。

 今月、車谷長吉著『癲狂院日乗』(新書館)が刊行。未発表の日記らしい(未読)。

 学生時代も遠い日になったが、土曜の昼すぎ、西部古書会館。『旅』(二〇〇三年七月号)の特集「祝・バス運行100年 美しい日本のバス旅」など。日本橋から伊勢まで路線バスだけで乗り継ぐ「東海道バス五十三(乗)継」(脇坂敦史=文、宮島径=写真)は良企画、良記事。道中、廃線区間はひたすら徒歩で移動する。三重県内の四日市から松阪までの乗り継ぎは、近鉄四日市駅〜平田町駅〜亀山駅~椋本~米津~小舟江~松阪駅という経路だった。乗車時間は三時間くらいか(待ち時間は含まず)。かなり遠回りだ。東京〜伊勢を路線バスで乗り継ぐと新幹線+近鉄(特急)の倍くらいの運賃がかかる。

 ちなみにTBSテレビ「そこが知りたい」編『カラー版 日本全国 各駅停車路線バスの旅』(二見書房、一九八六年)という本に「東海道中!!各駅停車路線バスの旅」という章がある。
 日本橋から京都三条まで。三重から滋賀にかけての区間は四日市〜亀山~土山〜草津とバスで東海道(伊勢廻り)を乗り継いでいる。ロケの日が鈴鹿峠を越えてすぐの滋賀県の田村神社(土山宿)の祭りと重なっている。三十八年前の本だから、すでに廃止された路線も多い。

 生島ヒロシ、薬袋美穂子、服部幸應の三人旅。薬袋美穂子は二〇〇三年九月、四十五歳で亡くなっている。『各駅停車路線バスの旅』は第二集も出ている。古書価、そこそこ高い。

 古書会館では『浮世絵 菱川師宣記念館図録 総集編(改訂版)』(菱川師宣記念館、一九八八年)なども買った。同図録に「東海道分間絵図(元禄三年、一六九〇年)」も収録(一部)。記念館は千葉県安房郡鋸南町(きょなんまち)にある。美術は専門外なのだけど、街道が絡むと興味がわいてくる。

 夕方、中野セントラルパークの広場。中野駅前大盆踊り大会(盆ジョヴィ)を見に行く。ボン・ジョヴィだけでなく、ヴァン・ヘイレン、フレディ・マーキュリーの曲も流れていた。ボン・ジョヴィ「Livin'on a Prayer」は失業中の男がギターを質にいれる詞がある。わたしはダイナーという言葉をこの曲で知った。
 ライフでつや姫(五キロ)を買う。電車で帰る。

 二〇〇六年八月にはじめたブログも十八年になる。五十四歳の今日まで、散歩と読書ときどき仕事の日々を送れていることはありがたいことだとおもう。

2024/08/03

神保町から

 木曜、神保町で仕事。夕方、ちょっと時間が空いたので小諸そば、ねばとろぶっかけそば(とろろ・めかぶ・おくら)。家でもねばとろそば(うどん)はよく作る。とろろの代わりに納豆と卵豆腐をかきまぜペースト状にしたもの、なめこなどを入れる。もともと小諸そばはすずらん通り店ではなく、東京パークタワー店によく行っていた(二〇二〇年九月閉店)。夏季以外は小諸そばの温かいうどん派である。
 澤口書店のワゴンで神野力著『吉備路』(岡山文庫、一九六七年)。探していた本。ちょっとよれていたけど、読む分には問題なし。巻末に折り込みの吉備路地図も付いている。血吸川という川があるのか。すごい名前だ。
 そのあと九段下方面の古本屋をまわる。『群馬の詩人 近現代の革新地から』(群馬県土屋文明記念文学館、二〇〇四年)、『太宰治と檀一雄』(山梨県立文学館、二〇〇〇年)を買う。文学展パンフ、今回の二冊はかなりよかった。

『群馬の詩人』は「第16回企画展 群馬文学全集刊行記念」。湯浅半月、田山花袋、山村暮鳥、萩原朔太郎、大手拓次ら五十人以上の顔写真(ない人もいる)、詩集の書影、略歴などを収録。「アナキズム・前衛詩」の項には東宮七男、萩原恭次郎、豊田勇、塩野筍三、坂本七郎、横地正次郎、大島友次郎、吉本孝一の名前あり。
 同パンフの詩人では幻想詩の岡田刀水士(とみじ)が気になった。一九〇二年前橋生まれ。朔太郎の弟子。群馬県師範学校時代、毎週のよう朔太郎の家に通った。卒業後、倉賀野小学校で訓導として赴任、一九四三年、教員を退職し、国鉄高崎青年錬成所の教官になる。戦後、国鉄の文芸誌『鉄の薔薇』の創刊にかかわり、国鉄職員のサークル詩の指導をしていたとのこと。国鉄の文芸は未知の世界だ。

 刀水士の詩「巨獣」の最初の四行はこんな感じ。

《あの町の燈はまだ暗く
 急いでいる路の方角が不安になつてきた。
 ときどき立ち止まつては
 軀を痛めてまでひき返そうと思う。》

 再び仕事に戻る。帰りは中野駅から歩く。北口のヨークフーズとブックファーストに寄る。中野セントラルパークを通る。今週の土曜・日曜に盆踊りがある(盆ジョヴィで有名)。

 近所のスーパーの米の棚がスカスカになっている。最近よく買っている米がなくなっていて不安になる。他の米の値段も上がっている。

2024/07/30

絵すごろく

 高校野球、三重県大会は菰野高校が十六年ぶりの優勝(鈴鹿高校も惜しかった)。いい決勝戦だった。

 『フライの雑誌』最新号「イブニング&ヒゲナガの釣り」。齊藤晃大「大学生活黙示録 留年篇」、大木孝威「無職亭釣日乗 明日はどうなる」など、昨今の文芸誌ではなかなか読めない私小説感溢れる文章(傑作)が読めて嬉しい。気のせいかもしれないが、同誌の執筆陣、仕事(生活)と趣味のバランスがおかしい人ばかりなのでは……。

 わたしは「健康でなければ釣りはできない 緒方昇と釣り」で富士川と笛吹川の話を書いた。緒方は『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)にも掲載されている釣人で新聞記者である。

 土曜、朝寝夕方起。夜明け前(午前四時ごろ)に散歩をするようになって睡眠時間がズレまくる。頭がまったく回らない状態で西部古書会館に行く。雨が降りそうな空模様。雷が鳴っている。山本博文監修『江戸の絵すごろく』(双葉社、二〇一八年)、『愛媛新聞創刊100周年記念 子規と漱石 その交遊と足跡』(愛媛新聞社、一九七六年)など。

『江戸の絵すごろく』はアウトレット本。東海道双六、膝栗毛の双六などもカラーで掲載。双六やカルタもそうだが、遊びながら地理や文芸の学習になる。よい文化だなと。

 すこし前に読んだ西村享著『旅と旅人 日本人の民俗4 都鄙の交流』(有楽選書、一九七七年)の第一章は「都と鄙」——「『ふりだし』と『あがり』」ではじまる。

《旅の道中の知識は、もっと本格的になれば道中記や名所図会の類によることになるが、そのほんの初歩のところを遊戯の形に移したところに道中双六の人気の因があったのであろう》

 さらに『旅と旅人』は浄瑠璃の『伊賀越道中双六』にも触れている。「伊賀越」は「日本三大仇討ち」の一つ。

 遊びを通して身につく知識はあなどれない。わたしは学生のころ『スーパー伊忍道』というゲームにはまり、戦国時代の地理(旧国名など)を学んだ。中年期以降、遊びながら何かを身につけるという経験が減った気がする。ゲームの『桃太郎電鉄』も双六といっていいだろう。

『子規と漱石』の文学展は松山三越七階特設会場で一九七六年三月開催。同パンフには「かまち用」というシールは貼ってあり、「愛媛大学蒲池文雄」と名前が記されている。蒲池文雄は愛媛大学教授(日本文学研究者)。同パンフレットにも原稿の寄稿などの協力者として名前が出ている。「交遊 大学予備門から大学時代」を担当したようだ(赤のボールペンで蒲池稿と書いてある)。

 正岡子規の上京(一八八三年)は松山市の三津浜から神戸、神戸から横浜と船旅だった。三津浜は行きたい(道後温泉は二回行った)。三津浜〜山口の柳井港の防予フェリーがある。防予フェリーは周防大島の伊保田港にも寄港する。

2024/07/26

末広(末廣)五十三次

 連日猛暑日、湿度も高い。自分は寒さに弱く、暑さに強いとおもっていたのだが、今年の夏は無理やな。昨今の高校野球にはクーリングタイムがあるが、寒暖差疲労は大丈夫なのか。でも昔の「水分補給禁止」みたいな根性論が廃れたのはよいことだ。

 水曜、神保町。神田伯剌西爾アイスコーヒー。『特別展 江戸の街道をゆく 将軍と姫君の旅路』(東京都江戸東京博物館、二〇一九年)——カラーで二百頁以上、折り込みの絵巻の頁あり。街道関係の資料を集めはじめて八年になるが、こんな図録があったとは……。手間のかけ方がすごい。分厚くて重い。読み終えたあと、これほど満ち足りた気分になったのはひさしぶりだ。二〇一九年に特別展が開催されれいたことに気づかなかったのは不覚である。

『特別展 江戸の街道をゆく』の幕末(慶應元年)の歌川広重(二代)らによる「末広(末廣)五十三次」の展示は見たかった。慶応元年の上洛では、江戸から東海道、名古屋から美濃路〜中山道(美濃廻り東海道)を通っているのだが、「末広五十三次」は伊勢廻りの東海道を描いている。徳川家茂一行が上洛する前から絵師たちが制作をはじめたようだ。

 参勤交代や日光社参の図、文久の「東海道名所風景」の一部も収録。鳥瞰図っぽい絵も多い。それにしても鳥瞰図を描く人の頭の中はどうなっているのか。不思議である。

 一日五時間くらい街道の研究(本を読んだり地図を見たり)をしているのだが、自分の切り口というか、独自の角度(ある種のこだわり)みたいなものが足りない。たぶん知らないことを知るだけで楽しい時期が続いているのだろう。

 街道について調べていると、どこもかしかも長年にわたってフィールドワークしている地元の郷土史家、愛好家がいて「こりゃどうやってもかなわん」みたいな気分になる。街道研究の場合、「地の利」がものをいう。もちろん東京にも「地の利」がある(古本屋が多いのもそう)。

 郷里(三重県鈴鹿市)に帰省したとき、伊勢・近江・美濃の街道を中心に鉄道+徒歩の散策したい。あと鈴鹿は愛知県の三河地方と船の行き来があったので、そのあたりのことも調べてみたら面白そうだとおもいつつ、何もしていない。家康の伊賀越(本能寺の変のあと、鈴鹿まで逃げのび、船で三河に戻った)も関係あるのかどうか。
 そのときどきの気になることを掘り下げていくうちに自分のとっかかりが見えてくる。見えてくるまでかなり時間がかかる。

 どうやって時間を作るか。そんなことを考えながら、高校野球の予選や相撲(十両の取組)を見ている。

2024/07/23

夏バテ散歩

 月曜夕方荻窪散歩。前日飲みすぎたので行きは電車。古書ワルツで『前田晁・田山花袋・窪田空穂 雑誌『文章世界』を軸に』(山梨県立文学館、一九九七年)、高木正一注『白居易 中國詩人選集』(上下巻、岩波書店、一九五八年)など。
『文章世界』は博文館の文芸誌(投書雑誌だった)。一九〇六年創刊。編集発行人は田山花袋、長谷川天渓、加納作次郎らがつとめた。

《人が読みそうなものは小さく扱い、そうでないものを大事に扱うという編集方法で読者を引きつけた》

 ユニークな編集方針である。窪田空穂の歌集と随筆も読みはじめている。長野・松本の窪田空穂記念館に行きたい。

 すこし前に阿佐ケ谷・古書コンコ堂で武田利男訳の『白楽天詩集』(六興出版、一九八一年)を買った。装丁は富士正晴。疲れているときに漢詩の訳文の文体が心地よく、気持が和らぐ。白居易、老いに関する詩もけっこう書いている(七十四歳没)。

 荻窪から杉並中学・高校近くの道を通って阿佐ケ谷へ。一見、住宅街なのだけど、カレー屋、中華料理店、サンドイッチの店、寿司屋などがある。斜めの道がいい。すこし南に釣り堀の寿々木園がある。寿々木園の向いのファミリーマートで一休み(二階に喫煙コーナーあり。窓から釣り堀が見える)。寿々木園の周辺は暗渠もある(井伏鱒二著『荻窪風土記』新潮社に阿佐ケ谷の堀の話が出てくる)。
 湿度が高く、汗が出る。年をとると、喉の渇きが鈍くなる。意識して水分を補給する必要がある(この日は水筒持参)。阿佐ケ谷のビーンズで涼む。中央線のガード下、電気がついていないところがあり、暗い。ビッグ・エーで涼む(冷凍のパスタを買う)。

 本を読むのも散歩をするのも楽しいときもあれば、そうでないときもある。でもたぶん続けることに意味がある。低迷しているなとおもうときも古本屋に行き、本の背表紙を見る。これまで興味がなかった本を買う。読む。飽きないように燃え尽きないように、だらだらとぼとぼ生きる。

 納豆となめこのそばを作る。ネバネバ食材は夏バテ予防になる……と信じている。

(追記)荻窪に行く前、一万円札をくずそうとスイカのチャージしたら、お釣りに新札の五千円札があった。千円、一万円の新札はまだ入手していない。

2024/07/21

DAIBON

 土曜昼三時、西部古書会館。今村秀太郎『大雅洞本』(並製、古通豆本、一九七九年)、『サライ』特集「金、絹、砂糖…を運んだ『物産街道』を歩く」(一九九九年十月二十一日号)、名古屋市博物館編『写真家 寺西二郎の見た昭和 表現と記録』(風媒社、二〇〇八年)など。『サライ』特集「物産街道」面白い。岐阜美濃から琵琶湖東岸の朝妻湊の「紙の道」は水路と陸路をつなぎ、近江、京へ。

《長良川を下り、揖斐川の支流牧田川沿いの船附・栗笠・烏江の三湊に荷揚げされた美濃紙は九里半街道を運ばれた》

 美濃紙の歴史は奈良時代まで遡る。「紙の道」は米原、関ヶ原などを通る中山道(東山道)とも重なる。木曽三川は流れが変わっているので「紙の道」も時代により経路の変遷があったとおもわれる。

『写真家 寺西二郎の見た昭和』は二〇〇五年刊の復刻、昭和三十年代、四十年代の名古屋の写真集。わたしは昭和の最後の年に名古屋の予備校に通っていたのだが、再開発前の名古屋駅周辺の写真を見ると懐かしさがこみ上げてくる。

 夕方、大和町八幡神社の大盆踊り会(DAIBON)に行く。途中、あづま通り、ヨーロピアンパパの店頭ワゴンで尾仲浩二責任編集『街道マガジン』(vol.4、二〇一七年)を買う。早稲田通りをこえたあたりから雷が鳴り出す。住宅街に提灯もちらほら。珍盤亭娯楽師匠のDJ盆踊り(「NEBUTA BOUND GET DOWN SNOW FUNK」など)を見て、生ビールを飲んで帰る。雨が降りはじめる。大和町八幡神社は小さな参道もあり、日課の散歩でよく寄る。

 深夜、豪雨になる。

2024/07/19

怪談

 水曜夕方、御茶ノ水。夜七時すぎ、一橋徳川屋敷跡から代官町通りを歩く。途中、東京スカイツリー、東京タワーを見る。千鳥ヶ淵をこえ、麹町。何度か歩いているコースだけど、麹町駅付近でいつも方向感覚がおかしくなる。一時間くらいで四ツ谷駅。汗をかいた。中央線快速、けっこう空いていた。

 十九、二十歳のとき、麹町の編集プロダクションに出入りしていた。電話番が主な仕事だった。
 同じころ、月に二回くらい水道橋にあった会員制の情報紙の会社でも発送業務の手伝いをした。封筒にニュースレターを入れて郵便局の夜間窓口に持っていく。一回五千円。手書きの原稿をワープロで打ち直すアルバイトもした。記憶があやふやになっているが、水道橋の会社で田原総一朗さんの姿を見かけたことがある。一九三四年生まれだから当時五十五歳。急に思い出した。あれから三十五年。秋にわたしも五十五歳になる。

 鮎川信夫著『私のなかのアメリカ』(大和書房、一九八四年)を再読。「コラムニストの椅子」の章に「怪談」というエッセイがある。
「昨年の暮に、田村隆一と会った」という一文からはじまる。「昨年の暮れ」は一九八二年の暮れと文中にあるから、鮎川六十二歳、田村五十九歳。四十年をこえる付き合いだが、会うのは四年ぶり。

《あれこれ考えてみたが、うまい答えが浮ばない。何か知らないけれど、友人関係を保つエネルギーがひどく稀薄になってきているというのが一番の正直な答えなのだろうが、それも表面的な話で、本当はどうか分らないのである》

 そしてテーマが老後に移る。

《世界史に類のない高齢化社会の到来で、この国は、年を追うごとに頭を痛めるようになっている。これからは、誰にとっても老後が大問題になるだろう》

 鮎川信夫は「老後対策皆無」と書いている。六十六歳で亡くなっているから、老後の心配は必要なかったといえる。

《私にしてみれば、人生という切れ目のない続きを続けているだけで、どこから老後という仕切りがないのである。ただひた走るだけ——そう思っていれば、歩行困難に陥っていた足も、自然と治ってしまうのである》

 ひさしぶりに「怪談」を読み返し、「おっ」とおもったのは次の一節。

《私たちの青年期には、癩と結核が恐ろしい病気だった。どんな人でも、この二つの病気を怖れていた。若くしてこれらの病気で死なねばならなかった人たちからみれば、そんな恐ろしい厄病から解放された今の世は極楽で、老害によって二度わらしが増えていることなど、ぜいたくな悩みということになってしまうだろう》

 二度わらし(二度童子)は年をとってまた子どものようになること。認知症のこと。四十年前のエッセイに「老害」という言葉が出てくる。そこで「おっ」とおもった。今の「老害」とはニュアンスがちがう。手元にある一九八六年の国語辞典には「老害」は載っていない。
 最近、「老い」について考えているせいか、本を読んでいても、つい「老」という字に反応してしまう。中国語だと「老」はいい意味でつかわれることも多い。
「老大」は「ボス」という意味もある。李暁傑「老大」という中国のヒット曲があって、それで知った。DJ版「老大」をたまに聴く。

2024/07/14

雑記

 次から次への予想外のことが起きる。ドナルド・トランプ前大統領、無事でよかった。

 前からなんとなくおもっていたことだが、民主主義というか社会システムのあり方としてはトップに立つ個人の影響力をなるべく抑えたほうがいいのかもしれない。

 たとえば政権が変わったり、政権の中核を担う人材が途中でやめたりしても、いつも通りの日常が続く。そのほうがいい。そういう意味では、日本の政治は安定しているほうだろう(選挙のあと暴動が起こるような国と比べてだが)。

 その人がいなくなった途端、社会や地域が大混乱に陥るのは困る。
 会社もそうだろう。社長がぎっくり腰になったら、すべての業務が止まって大赤字なんてことになったら大変だ。

 一人の人間に権限が集中すると組織は不安定になる。しかし安定しすぎると停滞する。逆にトップに権限を集中させると、不安定になる分、小回りが効いたり、即断即決できるよさもある。
 バランスというか、安定と不安定の配分はむずかしい。

2024/07/13

古本案内処

 西部古書会館の古書展がない週末、中野まで散歩する。早稲田通りを歩いている途中、小雨が降り出す。

 古本案内処が七月十四日(日)で店舗を閉める。半額セール中。レジのところに今後もインターネットでの販売、古書会館の催事は続けていくとあって一安心。古書会館でも古本案内処の本(とくに雑本)は見ているだけで面白い。
 木下忠編『双書フォークロアの視点 背負う・担ぐ・かべる』(岩崎美術社、一九八九年)など。頭上運搬をはじめ、古来から伝わる人力運搬の記録。三砂ちづる著『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』(光文社新書)の書評(東京新聞二〇二四年五月十二日付)を書いたのだけど、人力運搬は奥が深い。街道歩きをはじめるまでは自分の歩き方や体の使い方に無頓着だった。膝や足首を痛めて、すこしずつ負担の少ない歩き方を身につけたいとおもうようになった。靴も足の裏全体に体重が分散するタイプのウォーキングシューズに変えた。

 同じような日々をくりかえしていても、たまたま読んだ本によって興味関心が変わり、気がつくとすこし前の自分なら読まなかったであろう本が山積みになっている。読むことも書くことも歩くことも行き当たりばったりだ。

 昨年の今ごろは福原麟太郎の話ばかり書いていた。それから古典や和歌の本を読むようになった。興味がないと読んでも身にしみない。読むこと以上に新鮮な興味を持ち続けることが老年期の課題かもしれない。

 古本案内処のあとライフに寄り、かつおのたたき、クーリッシュ(桃)、ごまパンのウインナーリング、ごま油などを買う。雨が降っているし、刺身も買ったので総武線で帰る。

(追記)「古本案内処」を「古書案内処」と書いていた。訂正した。

2024/07/09

衰弱者の夢想

 日曜午後三時、都知事選の投票会場へ。番狂わせはないだろうと判断し、若手の候補者の名前を書いた。投票後、会場の近くの二十数年前に住んでいたアパートを見に行く(アパートの前の駐車場が猫の集会場だった)。スーパーで六個入りのアイスを買って帰る。

 この日、杉並区は光化学スモッグ警報が出ていた。選挙の後、警報解除の放送を聞いた。
 先月(六月十七日)のブログで「何年か前まで、夏になると、日中、環七付近はしょっちゅう光化学スモッグ警報が鳴っていた」と書いたが、今も鳴っている。暑い日の昼間は出歩かないから気づかなかった。光化学スモッグはよく晴れて気温が高く風が弱い日に発生しやすい。とくに七月から八月は要注意である。

 一九七〇年七月、杉並区の環七付近の学校の上空に紫色の雲が覆い、女生徒四十三名が次々と倒れる事件があった。翌年、高円寺地区の住民が大気汚染の改善を目指す運動がはじまった。
 高円寺は光化学スモッグの“基点”となった町だった。

 小・中学生のころ、郷里の三重県鈴鹿市も光化学スモッグがひどかった。校庭で級友が倒れる瞬間を何度か目撃した。光化学スモッグか熱中症(当時は日射病といっていた)か、今となってはわからない。

 家に帰って炊き込みご飯を作っている間、鮎川信夫著『最後のコラム』(文藝春秋、一九八七年)を再読する。
 ジョージ・ギルダー著『信念と腕力』(小島直記訳、新潮社、一九八六年)の書評にこんな一文があった。

《思想家や知識人が、資本主義の衰滅を予言したくなるのは、今を歴史の頂点と考え、そこに老化のイメージを重ねてしまうためである》

 ギルダーはこうした予言を「衰弱者の夢想」と一蹴する。人口減少社会を生きるわたしは当分の間、日本はゆるやかな下り坂が続くとおもっていた。たぶん自分の老化と重ねてしまっていたのだろう。考えを改めたい。

 前回引用した橋本治の「人間の行動の多くは習慣的で、だからこそ、“習慣”が満杯状態になっている人間の体に、脳が新しい習慣を教え込むのは大変だ」という意見も老化のイメージと関係ありそうだ。

 つい最近まで、老いてゆく自分(一般論ではない)の最適解は“一、二歩下がって脱力する”だとおもっていた。しかし五十代半ばになると脱力するにも体力および余裕が必要で——いろいろ失敗続きである。

 (追記) 「衰弱者の夢想」云々についてはギルダーの『信念と腕力』ではなく、『富と貧困 供給重視の経済学』(斎藤精一郎訳、日本放送出版協会、一九八一年)で語られる内容である。まぎらわしい書き方をしてしまった。

2024/07/05

新しい習慣

 東京都心気温三十五度。二日連続猛暑日。午後三時すぎ西部古書会館。先週の大均一祭で買った本が山のままだ。買いすぎないようブレーキを踏みながら棚を見る。『芥川龍之介展 生誕一〇〇年』(神奈川近代文学館、一九九二年)、『横浜市歴史博物館 企画展 東海道保土ヶ谷宿』(横浜市歴史博物館、二〇一一年)など。保土ヶ谷も何度か歩いて好きになった町である。旧街道の雰囲気も残る。

 前回、年をとると変化を望まなくなる……と書いたが、スーパーに無人レジが導入されたとき、最初は面倒くさいなとおもったが、いつの間にか慣れた。某飲食チェーンのタッチパネル式の券売機には苦戦している。

『考える人』特集「あこがれの老年時代」(二〇一〇年冬号、新潮社)の橋本治のインタビューを読んだ流れで『いつまでも若いと思うなよ』(新潮新書、二〇一五年)を読む。

『新潮45』の連載時、わたしは毎号読んでいた。同誌の休刊が発表されたのは二〇一八年九月。かれこれ六年か。橋本治の「年をとる」の連載は二〇一四年だから十年前。

 前回『いつまでも若いと思うなよ』の「年寄りは、今のことに関心がない。関心を持とうとしても、どうも頭に入りにくい」という文章を引用した。その続き。

《どうして入りにくいのかと言うと、根本のところで「今のことになんか関心を持つ必要がない」と思っているからですね。自分の頭の中を探ってみたらそうだった》

 このとき橋本治、六十代半ば。初読時——わたしは四十四、五歳。「今のことになんか関心を持つ必要がない」という言葉が十年前に読んだときよりも現在のほうが身にしみる。もちろん、それじゃいかんという気持もある。
 変化を望まない人たちが多数派かつ主流になると世の中は停滞する。少子高齢化社会のひとつの難題である。
 日本の全人口の年齢の中央値(中位年齢)は一九八〇年に三十四、五歳だったのだが、今年か来年あたりで五十歳を超えるといわれている。近い将来、人口の中央値が五十五歳くらいまで行くという予想もある。

 そんな現実もしくは未来にたいして、自分はどうするかと考える。そもそも自分はいつまで生きるのか、その答えがわからない。

 今月から新紙幣が登場したが(まだ未入手)、『いつまでも若いと思うなよ』に店をやっていた橋本治の祖母の話が出てくる。
 祖母は八十歳を過ぎたあたりからお釣りを間違えるようになった。

《なんでそんなことになったのかというと、その理由は簡単で、実はその時、紙幣のデザインが一新された。五千円、一万円札から長く続いた聖徳太子が消えて、派手な伊藤博文の千円札が地味な夏目漱石に変わった。その切り換え時だから、新旧六種類の紙幣が混在して流通している》

 一万円札が聖徳太子から福沢諭吉に変わったのは一九八四年十一月——今から四十年前。ちなみに五百円玉(初代)は一九八二年四月である。野口英世(千円札)、樋口一葉(五千円札)は二〇〇四年十一月から。

 四十年前の新紙幣にまつわる祖母のエピソードを通して、橋本治はこんな考察をする。

《人間はかなりのことを、考えずに条件反射的に処理しているから、それが成り立たなくなると混乱する。「そういうこともあるか?」と我が身に問うたら、「あるな」という答が返って来たので、「人間の行動の多くは習慣的で、だからこそ、“習慣”が満杯状態になっている人間の体に、脳が新しい習慣を教え込むのは大変だ」ということが分かった》

 この話にも続きがあるのだが、暑さで頭が回らなくなってきた。本日はここまで。

2024/07/02

大均一祭

 土曜昼すぎ、高円寺西部古書会館大均一祭。初日(全品二百円)は宮内庁三の丸尚蔵館編『をくり 伝岩佐又兵衛の小栗判官絵巻』(一九九五年)、山根ひとみ+葦の会『街道を歩こう』(廣済堂出版、一九九九年)、郷津弘文著『千国街道からみた日本の古代 塩の道・麻の道・石の道』(銀河書房、一九八六年)など五冊。『をくり』の照手姫がいた青墓の宿の絵を見る。中世の美濃の垂井〜青墓あたりは交通の要所ということもあるが、かつてはかなり裕福な土地だった。昨年、相模市の上溝(照手姫の伝承が残る)も歩いた。小栗判官は美濃廻り東海道、熊野道、北陸道など、中世の街道や宿場町が舞台になっている。又兵衛(の作といわれる)小栗判官絵巻は三百メートル以上もあった。
『街道を歩こう』は「ウォーキングBOOK」というシリーズで他の本も気になる(読みたい)。

 日曜昼すぎ、大均一祭二日目(全品百円)。林英夫ほか著『旅と街道 朝日カルチャー叢書』(光村図書、一九八五年)、山本周五郎著『青べか日記 わが人生観』(大和書房、一九七一年)、西東三鬼著『神戸・続神戸・俳愚伝』(出帆社、一九七五年)、伊藤正雄著『伊勢の文学』(神宮文庫、一九五四年)、小池正胤著『膝栗毛の世界 NHK文化セミナー 江戸文芸をよむ』(NHK出版、一九九六年)ほか十六冊。西東三鬼の本、昨日は見かけなかったから補充されたのか(それとも見落としていたのか)。西東三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』は講談社文芸文庫、また『神戸・続神戸』は新潮文庫にも入っているが、矢牧一宏の出帆社の函入本は嬉しい。『旅と街道』の背表紙は「林英夫ほか」となっているが、新城常三、児玉幸多といった街道研究の第一人者も講師をしている。一九八三年の朝日カルチャーセンター講座「旅と街道」をまとめた書籍である。

 月曜昼すぎ、西部古書会館三日目(全品五十円)。『重要伝統的建造物群保存地区概要 海野宿』(東部町教育委員会、一九八七年)、『考える人』特集「あこがれの老年時代」(二〇一〇年冬号、新潮社)など十四冊。三日で三十五冊か。『海野宿』はガレージのところの古雑誌の間に埋もれていた。海野宿は信州・北国街道の宿駅。北国街道は信州と越後をつなぐ街道である。『考える人』はロングインタビュー「橋本治 年をとるって?」が読みたくて買った。

《年をとるってどういうことかというと、自分が年をとっていることをつねに発見しつづけることみたいですよ》

《老いというのはやすらぎかもしれない。やすらぎたいと思うと、老人にあこがれるんじゃないかな》

 橋本治は一九四八年三月生まれ。インタビューは二〇〇九年十一月に行われている。六十一歳。『新潮45』の連載「年をとる」は二〇一四年一月号からはじまっているので、その四年ちょっと前のインタビューだ。「年をとる」は『いつまでも若いと思うなよ』(新潮新書、二〇一五年)の元になった連載である。

 十年、十五年前がほんのすこし前のようにおもえる。『いつまでも若いと思うなよ』に「年寄りは、今のことに関心がない。関心を持とうとしても、どうも頭に入りにくい」とある。
 自分が六十代になるのも、そんなに先の話ではない。新しいことへの興味が薄れると変化を望まなくなる。今まで通りのほうが楽だから、変化を必要としなくなる。
 かつての老人はそれでよかったのかもしれない。二、三十年という周期で世代が交代し、世の中も移り変わった。今は高齢者が増え続け、変化を堰き止めているようなところがある(わたしもその一員になりつつある)。

2024/06/27

アメリカの伊能大図

 神保町、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。悠久堂書店の店頭ワゴンでアメリカ伊能大図展実行委員会編『アメリカにあった伊能大図とフランスの伊能中図』(日本地図センター、二〇〇四年)を買う。二〇〇四年四月の神戸市立博物館の特別展「伊能忠敬の日本地図展」のチケットもはさまっていた。この年、神戸市の特別展だけでなく、仙台、熱海、名古屋でも伊能図の博物館展が開催されている。

 二十数年前の展覧会の図録を見るたびに「ああもっと早く(街道や地図に)興味を持っていれば」と悔しくなる。三十代のころは古本とレコードのインドア趣味に浸っていて、街道を歩くなんて発想すらなかった。
 わたしの場合、四十代で体力の衰えを感じ、腰痛、五十肩、神経痛を経験して「歩けること」が楽しく、ありがたくおもえるようになった。季節や景色の変化もそう。五十代になると、どこを旅しても「この季節にここを歩くのはこれが最後かもしれない」みたいな気分によくなる。若いころにはなかった感傷だ。

 伊能忠敬(一七四五〜一八一八)が測量をはじめたのは一八〇〇(寛政十二)年、五十五歳。駿河〜尾張は第四次測量(一八〇三年、享和三)。遠江三河の浜名湖の地図は鳥瞰図になっている。伊能図を見ているうちに、あらためて浜名湖を迂回する姫街道をもっと歩きたくなった(ちょこちょこ歩いている)。浜名湖周辺、風景もすごくいい。天浜線も乗りたい。

 図録の「四日市、亀山」のキャプションは「東海道と伊勢参宮街道が分かれる場所である。石薬師、庄野など、東海道で馴染みの深い地名が出てくる」と記述。
 忠敬が伊勢街道を歩いたのは一八〇八(文化五)年。東海道と伊勢参宮街道が分かれる場所は日永の追分。東海道からはちょっと離れている鈴鹿市の椿大神社も記されている。現在、神社までは市のコミュニティバスあり。

 わたしは今年の秋五十五歳になる。デジタル万歩計を買ったのは二〇〇八年夏——三十八歳のときである。街道の研究をする前だが、そのころから歩くことに興味を持ちはじめていた。その後、二〇一六年五月に父が亡くなり、郷里(三重県)に帰省したとき、車なしで過ごさないといけなくなり(わたしと母は車の免許がない)、「これからは歩くしかない」という気持になった。武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)を読んだのがきっかけで街道本を集めはじめ、街道歩きをはじめた——という話をこれまで何度か書いてきたが、三重にいるときに車で移動できなくなったことも今の散歩生活につながっている。

 二十代のはじめごろ「人は頭より足から衰える」と父と同年のある評論家に教えられた。わたしが万歩計を買った翌年——二〇〇九年七月にその方は亡くなっている。お会いしたのは二回だけど、けっこう自分の記憶に刻まれている。

2024/06/25

山梨縣観光案内図

 土曜の昼、西部古書会館。『山梨縣観光案内図』(日本観光案内社/静岡市)が三百円。金沢書店(東中野・神保町)が出品。山梨の鳥瞰地図はずっと探していた。嬉しい。
 地図の作者は内藤雅文。作者名、丸一日わからなかった。山梨県と東京の県境付近、奥多摩あたりに赤い丸に囲まれた赤い文字で「ないとう」+違う字体の黒字で「雅文」と記されている。生没年不詳。
 地図の裏に山梨の名所の写真。
 別紙の身延山案内に山梨交通株式會社の広告がある。山梨交通の発足は一九四五年二月。地図の裏に山梨交通のロマンスカー(バス)の写真あり。昇仙峡あたりを走っていたとおもわれる。
 地名その他の漢字の表記を見ると旧字体と新字体が混ざっている(新字体は一九四九年〜)。地図を見ていると石和駅(現・石和温泉駅)付近に赤字で「小松農場」と記されている。地図裏の写真のキャプションには「本邦無比小松遊覧農場」とある。
 ブログ「観覧車通信」の「懐かしの遊園地 山梨県・小松遊覧農場の観覧車」に同社の創業は一九〇七年(現在の会社設立は一九五一年)とあった。同ブロクの作者は『観覧車物語』(平凡社、二〇〇五年)などの著作がある福井優子さん。『山梨縣観光案内図』の小松農場の写真には観覧車らしきものは写っていない。広い果樹園のように見える。

『山梨縣観光案内図』の発行年は旧字体と新字体の移行期、一九五〇年前後かなと……。

 すこし前に読んだ土橋治重著『甲斐路 日本の風土記』(宝文館、一九五九年)に「石和及び笛吹川附近」(内田義広)の「果実郷の随所から三十八度の温泉が湧出」し、「石和温泉郷の名で呼ばれ、親しまれる日もま近なことであろう」と記されていた。
 わたしは石和温泉が好きで町も気にいっている。笛吹市と甲府市の境あたりに宿をとり、甲州街道を歩く。すこし歩くと酒折の古道もある。石和が温泉郷になったのは昭和三十年代でそんなに昔の話ではない。

(追記)『山梨縣観光案内図』の別紙、頁が抜けている(……ことに後日気づいた)。

2024/06/17

かくしあらば

 旅行から帰ってくるとしばらく朝型になる。そのうち夜型に戻るだろう。
 つかだま書房T氏に教えてもらった野方の喫茶店で窪田空穂記念館編『窪田空穂 人と文学』(柊書房、二〇〇七年)を読む。
 ぱっと開いた頁に「隠者ぞとおもふにたのしかくしあらば老のこころに翅の生ひむ」という歌があった。
 一九四六年、数え年七十のときの歌らしい。付箋貼る。「かくしあらば」の意味合いは後で調べる。

 空穂の老境の歌には「命一つ身にとどまりて天地(あめつち)のひろくさびしき中にし息す」というのもある。あと「最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり」は没後に発見された歌だけど、ただただすごいなと。

 窪田空穂は一八七七年六月長野生まれ。一九六七年四月没。享年八十九。最晩年まで歌集を出し、新聞に連載もしていた。

 窪田空穂記念館は長野県松本市にある。一九九三年六月開館した。
 かれこれ二十五年くらい文学館関係の本や資料を集めている。よく知らない詩人作家の本も買う。写真や年譜を見ているうちに作品も読みたくなってくる。

 野方から練馬まで散歩。日傘+歩きスマホの人が直進してくる。避けづらい。環七の歩道橋からスカイツリーを見る。東武ストア、プラザトキワ、ライフを巡回する。プラザトキワ、品揃えが郷里のショッピングセンターっぽい。夏用の通気性がよさそうで丈夫そうな靴下を買う。東武ストアでスガキヤの袋麺、ライフでパンを買う。練馬駅からバスで高円寺に帰る。

 高円寺三キロ圏内の散歩をしているうちに西武線沿線の野方駅〜鷺ノ宮駅は暮らしやすそうだなとおもうようになった。
 鷺宮は中央線の高円寺駅〜荻窪駅に歩いていけるし、バスもある。
 散歩好きの古木鐵太郎は高円寺大和町野方と転々と引っ越し、終の住処を鷺宮に決めた。わたしは鷺宮付近の妙正寺川沿いのくねくねした道が気にいり、よく行くようになった。歩いていて楽しい町である。

 木曜、曇り空だったけど、高円寺駅(阿佐ケ谷寄りのホームの端)から富士山が見えた。冬の晴れた日ほどではないが、くっきり見えた。
 先日、国立市の富士見通りのマンション解体のニュースがあったが、わたしは高円寺駅から見える富士山を隠す建造物ができたら、すごくいやだ。でも国立市のような反対運動は起きないだろう。
 景観の問題がむずかしいのは「衣食足りて」の先の案件だからかもしれない。食うに困ることに比べたら、富士山が見えるか見えないかの優先順位が低くてもしょうがない。それでも声を上げるが人はいたほうがいい。
 そもそも大気汚染がひどかったころは晴れていても富士山は見えなかった。海も川もどろどろだった。

 何年か前まで、夏になると、日中、環七付近はしょっちゅう光化学スモッグ警報が鳴っていた。そんな中、散歩しようとはおもわない。
 油が浮いていた郷里の川が透明になったのを見たとき、この何十年の(経済の)停滞にも意味があったとおもえた。

2024/06/12

帰郷

 梅雨の前に郷里の家のカビ対策をしたいと考えていた。先週、高松の福田賢治さんが近々岡山の宇野港で「途中でやめる」の山下陽光さんのイベントがあると教えてもらい、帰省と絡めて岡山に旅行することにした。

 土曜午前中の新幹線で名古屋。エスカの寿がきや、五月二十七日に閉店していたことを知る。
 近鉄で久居に行き、日々詩喫茶室。アイスコーヒーとトースト。そのあと三時すぎ、白子駅に行き、そよら鈴鹿白子に行く。今年三月末、そよらにたこやき専門店たこ寿併設のスガキヤができたのだ。肉入ラーメンを食う。
 そよらの前の広場(つどいの広場)に長蛇の列ができていた。シンガーソングライターの伊藤歌詞太郎さんのフリーライブがあったようだ。伊藤さん、サインしながらファンに話しかけていた(わたし遠くから見ただけ)。
 白子からバスか近鉄かすこし歩いて伊勢鉄道で帰るか迷った末、近鉄で帰った。夜まで家の掃除をする(激落ちくんと小型のブラシを持参)。母から三月に鈴鹿で起きたある事件の詳報を聞く。

 日曜午前中から近鉄阪神山陽電鉄で山陽姫路駅——私鉄だけで鈴鹿から姫路まで行くというのが今回の旅の目標の一つ。姫路岡山間は新幹線に乗る。岡山駅から宇野駅と鈴鹿から七時間かけて宇野港に向かう。「途中でやめる」のイベント会場の東山ビルに到着した。人がいない。ビルにいた人に聞くと「昨日じゃないですかね」といわれる。
 日にちを間違えた。山下さんのイベントの日を聞いて、その前後のどちらかに三重に帰省する計画を立て、そうこうするうちに勘違いしてしまったのだ。でも宇野港と茶屋町の周辺の金毘羅街道を歩けたのでよしとする。

 夕方六時半ごろ、再び姫路へ。おひさまゆうびん舎に行く。高木護著『なんじゃらほい』(未来社、一九八一年)を一冊。その後、西明石のスマイルホテルへ。格安(三千円台)で大浴場付で最上階の広い部屋に泊まれた。荷物を置き、駅前の餃子の王将で食事、コンビニでビールとつまみを買う。

 月曜午前九時、西明石駅から新快速。岡山と兵庫の県境あたりは昔話に出てきそうな風景が残る。そのあと野洲駅で乗り換え米原駅。米原から垂井駅に正午前に到着。早起していたが、平日の移動は通勤通学の時間をズラしたほうがよいと判断した。
 JR西日本の駅から電車に乗り、JR東海の駅で降りたのでスイカのエラーが出た。垂井駅は無人駅。インターホンで鉄道会社の人とやりとりして無事精算できた。前に小田原駅から三島駅に移動したときも同じ経験をした。有人駅でも不便だと感じたのだが、無人駅だとかなり面倒くさい。交通系ICを利用している海外の旅行者はかなり困るのではないか。

 この日は垂井宿から赤坂宿まで中山道を歩く。宿場間は五・七キロ。近い。でも暑い。垂井宿は美濃路と中山道が合流する宿場町。青墓にも寄る。青墓は浄瑠璃「小栗判官」の舞台でも知られる土地である。杭瀬川も渡る。道に中山道、美濃路の標識があり、安心して歩けた。
 美濃赤坂駅まで歩いたが午後二時あたりだったせいか、電車がない。養老鉄道の東赤坂駅まで歩くと、ちょうど大垣方面の電車が来ていたのだが、踏切がしまっていてホームに行けない。踏切が開くのを待っているうちに電車が行ってしまった。次の電車は四十分後である。いい休憩になった。あらかじめ電車の時間くらい調べておけとおもう人もいるかもしれないが(自分でもおもう)、養老鉄道は一時間に一、二本走っていることは知っていたし、仮に電車が来なければ大垣まで歩けばいいと考えていたのだ。
 そのまま電車に乗れていたら、大垣から墨俣まで歩くつもりだった。予定を変更して大垣駅周辺をすこしだけ歩いて田中屋せんべい総本家で土産(自分用)を買い、名古屋から新幹線で東京に帰る。

 行きも帰りもひかりに乗った。東京〜新大阪、新大阪〜東京のひかりは自由席が空いている確率が高い(自由席の車両も多い)。時間はのぞみと数分しか変わらない。
 家に帰ると右足の指にマメができかけていた。大垣〜墨俣散策を決行していたら、すくなくとも五、六キロは歩いていたとおもうので電車に乗り遅れて結果オーライか。
 予定通りいかないことばかりだったけど、こういう旅もそれなりに面白い。

2024/06/07

途中下車

 高松から『些末事研究』の福田賢治さんが上京し、高円寺南口の蟹ブックスで待ち合わせ。そのあとコクテイル書房。ビールを注文したら「珍しいね」といわれる。酒を飲んだ翌日、ウイスキーだと手の痺れを感じたことが何度かあった。ウイスキーと神経痛と相性がよくないのではないかと考え、すこし前から、ちがう酒を飲むようにしている。この日はウイスキーは一杯だけ飲んだ。一杯くらいなら大丈夫と判明した。どうでもいい話だ。

 日常というものはどうでもいいことの積み重ねである。散歩して読書して家事をして仕事してという一日をくりかえしている。

 五月中旬、掃除機が壊れた。二十年くらい同じメーカーの小型掃除機(日立のこまめちゃん。深緑色)を愛用していた。今は製造していない。仕事部屋でつかっているリサイクルショップで七百円で買った同じメーカーの同型同色の掃除機を自宅に運び、新たな掃除機を探す。

 高円寺は無人のカプセルトイの店が増えた(阿佐ケ谷も)。ここ数年、コインランドリーも増えた。コンビニ、スーパーの無人レジも増えた。高円寺と阿佐ケ谷のガード下に牛タンやらラーメン(冷凍)やらの自販機が並ぶエリアもある。

 JR中央線の高円寺駅と阿佐ケ谷駅はみどりの窓口がなくなった。営業が終了したのは二〇二二年三月十八日。それ以降、隣の中野駅のみどりの窓口に二度行った。いずれも金券ショップで買った新幹線の切符を日付変更するためである。無人化するのであれば、券売機で日付の変更できるようにしてほしい。

 かつての金券ショップは新幹線の回数券を買取、販売していた。近年は一ヶ月くらい先の乗車日指定券を取り扱っていることが多い。だから使うときに日付変更の手続きが必要になる。

 以前、郷里(三重)に帰省するときは東京から名古屋の新幹線(自由席)の切符をよく買っていた。帰りの切符も名古屋駅の地下街(エスカ)の自販機で買う。七、八百円安くなる。コロナ禍中は東京名古屋の新幹線(自由席)の切符が八千円台のときもあった。さすがにもうその値段では買えない。

 わたしの場合、中野や荻窪あたりは散歩圏だけど、電車で往復すれば三百円かかる。仮に金券ショップで通常の切符より七百円くらい安く買ったとしても隣駅のみどりの窓口に電車で往復して手続きするのはかなり面倒くさいし、割りに合わないとおもう人も多いだろう。

 わたしも以前と比べて金券ショップを利用しなくなった。新宿駅から小田急で小田原駅まで行って、在来線で途中下車しながら三重に帰省するようになったからだ。急ぎのときは小田原、熱海、三島のいずれかの駅からこだまに乗り浜松まで行く。浜松まで行けば豊橋まであっという間だし、豊橋まで行けば名古屋までJRも名鉄もある。

 三重に帰省中、京都に遊びに行くときも、途中、岐阜と滋賀の宿場町に寄る。途中下車は楽しい。

2024/05/28

双六

 木曜と日曜、西部古書会館に二度行く。スティーリー・ダンの再結成後のライブビデオ(PINE KNOB,MI '96)が三百円。かれこれ三十五年、古書会館に通っているが、ビデオテープを買ったのははじめてかも。あと山本正勝著『双六遊美』(芸艸堂、一九八八年)など。『双六遊美』は大判の本(函付)で「道中双六」の詳しい解説と図版あり。

《初期の道中双六では、この江戸と京、大坂の間に六十から百五十以上の宿を設けている。幕末に近づくにしたがって宿の数は整理され、俗にいう東海道五十三次に落ち着いてくる》

 東海道の双六は箱根で止まるとふりだし(江戸)に戻ったり、大井川で二、三回休みになったりするものもあった。五街道の脇筋だけをあつかった双六も作られていたらしい。

《道中双六は決して単なる道中案内的な版画ではなく、当時の第一線の絵師・摺師・彫師の総力を結集した芸術作品であると同時に、当代の風潮や流行を敏感に反映した先端的情報文化であったと考えてよい》

 著者の山本さんは双六のコレクター。一生かけて一つのことを追い求める。「何とか一筋」みたいな人生に憧れる気持がある。そういう生き方にも向き不向きはある。

 山本さんは双六という入口から浮世絵や歴史を掘り下げている。こういう絞り込み方は隙間産業系ライターのわたしにとって非常に参考になる。
 時間もお金も体力も限りがあるから、何かしらの縛りが必要になる。

 もちろん漠然と散漫に雑駁に何かを追いかけてとっちらかる時期があっていい。大きなテーマにがっぷり四つで取り組むことが好きな人はそうすればいい。

 いずれにせよ、サイコロを振り続けるしかない。

2024/05/26

十年

 ここのところ、雨の日は高円寺〜阿佐ヶ谷のガード下とアーケードを歩き、晴れたら鷺ノ宮、野方、練馬方面を散策することが多い。
 先日、桃園川緑道経由新中野まで散歩。東高円寺と新中野はひさしぶり。三徳、肉のハナマサに寄る。帰りに天祖神社で一休み(境内にベンチがあって一服できる)。
 二〇二〇年以前、コロナ禍前までは東高円寺のあたりはたまにしか行かないところだった。今はなじみの町になった。四十代と五十代で生活習慣がけっこう変わった。意識して変えた部分といつの間にか変わってしまった部分がある。

 五十歳以降、睡眠の大切さを痛感している。七、八時間寝ると膝の痛みや肩まわりの違和感が軽減する。とはいえ、毎日熟睡できたら苦労はない。

『些末事研究』(vol.9)が届く。特集「結婚とは何だろうか」。わたしは座談会(収録は昨年の十月)に参加。同誌の創刊は二〇一四年三月だから十周年。だいたい年一回の発行でのんびり続いている。
 発行人の福田賢治さんとわたしは同い年(一九六九年生まれ)で、雑誌が続くこともそうだけど、この年までふらふら暮らしていることが感慨深くおもえる。

 創刊号でわたしは「十年後はわからんな。まだ高円寺にいるかどうか」みたいなことを喋っているのだが、自分のことでさえ十年後のことはまったくわからない。五年後だってわからん。ただ、気力や体力が低下しても、それに合わせた楽しみを見つけていけたらいいなと……。

2024/05/19

心境小説

 武田泰淳が亡くなったのは一九七六年十月、享年六十四。ちょっと前に三木卓の『When I'm 64 64歳になったら』を読み、なんとなく六十四歳つながりから、泰淳の晩年の『目まいのする散歩』(中公文庫、一九七八年)を再読した。同文庫の解説は後藤明生なのだが、以前から気になっていた一節がある。

《しかし、この一冊は決して散歩随筆集ではない。また、心境小説といったものではない》

《もちろん小説は、人間の書くものである。心境小説も私小説も、その意味では間違いなく小説といえるわけであるが、『目まいのする散歩』の作者は、最初から無理矢理、自分を他者の中へ引きずり出そうとしている》

 後藤明生は『目まいのする散歩』を「心境小説といったものではない」と論じているのだが、今回読み返してみて、わたしは「これは心境小説だろう」とおもった。私小説や心境小説は随筆、身辺雑記の延長のような作品が多い。むしろ、わたしは随筆か小説かわからないような作品が好きである(そういう作品しか読めなくなってしまう時期もある)。さらにいうと心境小説の場合、唐突に作者の思索が入ることも多い。

 たとえば『目まいのする散歩』にこんな一節がある。

《散歩という意味を広く解釈して、人間の運命が生れたときから、あらかじめ定められているというようにうけとれもするし、地球のどこかに住みついているからには、散歩とか旅とかいっても、あらかじめ空間的に決定されている行動範囲は、どうせ限定されているからだ》

 この部分を読み、心境小説の代表作といわれる、ある作品のことが頭に浮かんだ。

《自由は、あるのだろうか。あらゆることは予定されているのか。私の自由は、何ものかの筋書によるものなのか。すべてはまた、偶然なのか、鉄壁はあるのかないのか。私には判らない。判るのは、いずれそのうち、死との二人三脚も終る、ということだ》

「散歩という意味を〜」と「自由は、あるのだろうか」は同じことをいっているわけではない。引用した部分だけで心境小説か否かを論じるのは無理かもしれない。というか、二〇二四年の今、心境小説か否かなんて、世の中のほとんどの人にとってどうでもいい問題だろう。
 ちなみに「自由は、あるのだろうか」は尾崎一雄の「虫のいろいろ」(一九四八年)の一節である。
 戦時中、四十代半ばに尾崎一雄は大病を患い、医者から「余命三年」と宣告される。「虫のいろいろ」を書いていたころは「余命三年」が過ぎ、すこしずつ健康を取り戻しつつあった。

 武田泰淳の散歩中の思索、尾崎一雄の病床の思索はいずれも人間の一生とは何かというテーマとつながっている。個を突き詰めていけば普遍に通じる。

『目まいのする散歩』の「いりみだれた散歩」に荻窪の映画館のことが出てくる。

《荻窪の映画館に、たびたび出向いたのは、私が新聞の映画月評をひきうけたからである。したがって、小学校に通いはじめた幼女も、映画見物がクセになった》 

 当時、荻窪には大映、東映、松竹の映画館があった。そのころ、泰淳は高井戸に住んでいた。高井戸から荻窪へはバスで行った。小学校に通いはじめた幼女は武田花。一九五一年十月生まれ。今年四月末に亡くなった。花が小学校に通いはじめたのは一九五八年——武田泰淳は四十六歳、武田百合子は三十三歳。年の差十三歳。

 尾崎一雄(一八九九年)と武田泰淳の年の差は十三歳である。尾崎一雄と松枝(芳兵衛)の年の差も十三歳か十四差だった。芳兵衛と武田泰淳は年が近い。

 それがどうした話というかもしれないが、自分のためのメモとして記す。

2024/05/08

押入

 今年は四月三十日にこたつ布団とこたつカバーを洗濯し、押入の天袋にしまい、扇風機を出した。
 上京して三十五年になるが、これまで四月にこたつ布団を片付けた記憶がない。自己新かもしれない。二月以降、貼るカイロもほとんどつかわなかった。
 三十年前と今と比べると、気候の変化もあるだろうが、自分の体質も変わったのかもしれない(体重が十キロ増えた)。

 本と資料をどうするか迷っている。すでに生活空間を圧迫していて、これ以上増やすのはむずかしい。どうするもこうするも減らすしかない。その選り分けのための時間がない。押入に雑誌のコピーなどの紙類を詰め込んでいる。中身を確認せずに処分する方法もあるのだが、それは最終手段にしたい。

 そんな断捨離(計画)の合間、三木卓著『When I'm 64 64歳になったら』(小学館、二〇〇一年)を読む。
 冒頭「自炊のすすめ」の書き出し。

《作家、上林暁(一九〇二~一九八〇)の晩年の闘病を献身的に助けたのは、妹の睦子さんだった》

 もともと上林は自炊していた。ご飯、みそ汁、焼き魚、おひたし……。それが定番、ほぼ同じメニューだった。上林暁っぽい。
 三木卓も料理する。

《仕事場では本を読み、原稿を書き、電話でゲラゲラ笑い、腹が減ると冷蔵庫を開けて、今ある材料で何が作れるか、そのうちもっとも旨い料理は何だろうと考え、いざプランが成立するとそれに向かって一路進撃を開始する、という、それだけの生活である。いってみれば書生さんの暮らしがいまだに続いている、というわけだ》

《食事や洗濯や掃除に時間を使うのは、文筆業者としてもったいない、という人もあるかもしれない。が、実際にはよほど締切が切迫しているときでもないかぎり、そういうものではない》

 三木卓は一九三五年五月生まれ。昨年十一月に亡くなった。享年八十八。このエッセイの初出は一九九七年十二月。六十二歳のときに「書生さんの暮らし」を楽しそうに綴っていた。前半、数篇のエッセイは中高年の自炊のすすめである。

 三木卓は古本好きの作家だった。「境内の白秋」にこんな一節がある。

《少年のころから、古書店をあさるのが好きである。どこか初めての町を、気ままに旅するときなど、古書店を見つけるとどうしても入りたくなる》

「どんな老人になりたいか」では〈今まで当たり前だと思って見逃していたことが、実はちっとも当たり前じゃないということの発見〉を心掛けたい――と書いている。

 わたしは今五十四歳。六十代はそう遠くない未来である。先のことがどうなるかわからないが、確実に気力体力は落ちるだろう。そうなる前に押入の中のものくらいは減らしておきたい。蔵書も半分くらいにしたい。

2024/04/30

てくてくてくてく

 毎日睡眠時間が五、六時間ズレる。起きて二時間くらい散歩して本を読んで家事をして酒を飲んで酔っ払って寝て終わりみたいな日々を繰り返している。自分が為すべきことは何か。その自問すらマンネリ化し、有耶無耶な答えが浮かんでは消えてゆく。

 渡辺京二著『無名の人生』(文春新書、二〇一四年)再読。刊行からもうすぐ十年か。いろいろ忘れているところがある。

《明治初年、横浜で『ザ・ファー・イースト』という写真入りの隔週刊紙を発行していたジョン・レディ・ブラックは、別の角度から日本人を描写しています。いわく日本人には時間の観念がない。旅行するにも東海道をてくてくてくてく歩いて、急ぐ気配もない。歩いていればいつかは着くとでもいうのだろうか。途中には何軒もの茶屋があって一休みするが、そこで知り合った人間とすぐ打ち解ける。警戒心がないというか、この世に生きている人間はみな友だちだと考えているように見える……》

 たぶん初読のときは、この話を読み飛ばしていた。わたしが街道の研究をはじめたのは二〇一六年からで、以来、読書の感覚がすこしずつ変わった。以前より、小説や漫画を読んでいても、地名や地理に反応するようになった。

 明治の日本人の多くは鉄道と郵便制度の整備によって、時間の感覚を身につけた。西洋でも鉄道と時計が普及した時期は重なっている。

 五十代、人生の終わりが薄っすらと見えてきて、急いでもしょうがないなとよくおもうようになった。いっぽう自分はどこに向かっているのか。どこにたどり着きたいのか——それがわかっていないと道に迷う。

 スマホや携帯電話を持たぬまま五十代半ばまで来てしまった。日頃からコンパスは持ち歩いている。正確な道がわからなくても、方向さえ間違えなければいい。

2024/04/16

みたかの今昔

 土曜午後三時すぎ、寝起きの頭のまま、西部古書会館。この時間で人がいっぱい。何とか隙間を見つけ、図録の棚を回り、『写真集 みたかの今昔』(三鷹市教育委員会、二〇〇〇年)を買う。一九九〇年刊の『写真集 みたかの今昔』を全面改訂したもの。昔の野川、仙川の改修前の写真を見る。
 一九五八年の狩野川台風で三鷹駅周辺が水没している写真もある。戦前戦中、仙川は何度か氾濫している。

 三鷹——大正期には桑畑、戦後の昭和二十年、三十年代にもかなり大きな田んぼ、麦畑が残っていた。天文台の近くに釣り堀があった(一九六四年の写真)。京王井の頭線の三鷹台駅の古い駅舎がいい感じだった。
 三鷹市、昭和三十年代のはじめ、五年間で人口が四十一%増加した。

 知ってる(つもり)の町の知らない話。世の中の移り変わりを漠然と知ることで、今現在も変化の途中なのだとおもえる。

2024/04/12

蓮華寺

 花粉か黄砂か、目とのどが痛い。昨年、この時期、急性結膜炎になり、体調を崩した。外出時、なるべくマスクをする。それにしても五十代、調子のいい日が四十代の半分あるかどうかだ。スローダウンを心がける。体に心を合わせていく。

 古木鐵太郎著『文芸随想』(非売品、一九八二年)を日本の古本屋(古書うつつ)で買う。発行者は古木春哉。布張りのカバーがいい。最初、裸本かとおもった。「移りゆく武蔵野」(一九三六年)の一節。

《自分が初めて野方に越して来た頃は、家の近くには所々空地があつたが、またゝくうちにその空地にも隈なく家が建つてしまつた。越した当座は、それまでゐた所が高円寺であつた故か、今度の所は如何にも長閑で、一寸別天地といふ様な気もした》

「鷺宮」(一九三九年)という随筆もよかった。

《この鷺宮に越して来てからもうすぐに一年だ。こゝが前居た野方よりいゝ点は、四辺の広々としてゐること、空気のいゝことである。家の前には広い草原があり、その向うが低くなつて田圃、田圃の中には西武電車が走つてゐる》

 古木鐵太郎は高円寺、野方、鷺宮と転々と引っ越している(大和町にも住んでいた時期がある)。特別なことが書いてあるわけではないのだが、こういう文章を読んでいると気持が落ち着く。野方、鷺宮あたりの風景はものすごく変わった。もちろん高円寺も。

 時間が経つにつれ、身辺雑記や日記の中で切り取られた時間が貴重なものになる。古木鐵太郎の文章は素朴でひねりがない。新しさはないが、古くならない。

 土曜昼、西部古書会館の大均一祭(初日)、一冊二百円。七冊。おでん作る。
 日曜日、馬橋公園の桜を見てから早稲田通りの高円寺と阿佐ヶ谷の間あたりのすこし北にある泉光山蓮華寺(中野区大和町)の「花まつり」に行く(一週間前、鷺ノ宮を散歩した帰りにも寄った)。お伊勢の森のバス停のすぐ近く。

「花まつり」は毎年四月の第一日曜に開催している。甘茶を飲む。歴史ユーチューバーのミスター武士道さんがクイズを出していて、子どもたちに大受けだった。ミスター武士道、三重県四日市市出身と知る。
 桜の季節、あっという間に終わる。

2024/04/06

寒暖差

 金曜、正午すぎに寝て午後十時に起きた。四月初旬、寒暖差のせいか、睡眠時間がめちゃくちゃになる。神経痛の兆候もすこし。とりあえず、夜、早稲田通りのお伊勢の森のバス停あたりまで散歩する。高円寺と阿佐ヶ谷の中間くらい。
 東高円寺の天祖神社もそうだが、近所に伊勢(三重県)と関係深い場所がいくつかある。

 すこし前、文芸創作誌『ウィッチンケア』(VOL.14)が届いた。だいたい年一回の発行の文芸誌でわたしは二〇一七年から参加している。
 今回発表した「妙正寺川」はエッセイといえばエッセイなのだけど、いちおう心境小説のつもりで書いた。そもそも心境小説とは何か。正しい答えが知りたいわけではないが、自分なりの答えを見つけたい。

「妙正寺川」では『改造』の編集者でその後作家になった古木鐵太郎の話も書いた。

 古木は一九五四年三月二日、五十四歳で亡くなった。没後七十年。今のわたしも五十四歳。わたしが生まれたとき、志摩に暮らしていた母方の祖母が五十四歳だった。そういう年齢なんだな、五十四歳。

 晩年、古木は鷺ノ宮に住んでいて、妙正寺川沿いの道をよく散歩していた。

 編集者時代の古木は宇野浩二の担当をしていたこともある。ここのところ、宇野浩二が精神に異常をきたし、五、六年小説を書かなった時期(童話は何篇か書いていた)について考えている。

 書けなくなったのか書かなかったのか。復帰作以降、文体も変わっている。

2024/03/31

雑記

 二十九日金曜、昼すぎ雨が小降りになったので郵便局のち西部古書会館(初日は木曜)。『図録 いま見直す 有島武郎の軌跡』(ニセコ町有島記念館、一九九八年)など。有島図録、副題は「相互扶助(MUTUAL AID)」思想の形成とその実践——。

 夕方、妙正寺川まで散歩。(プロ野球の開幕戦もあるので)橋を渡ってすぐ家に帰るつもりで出かけたのだが、夕陽がきれいだったので西に向かって歩いているうちにマルエツ(中野若宮店)。金トビの名古屋きしめん(乾麺)を買う。

 三十日土曜、部屋の掃除をしながらヤクルト中日戦——延長十二回一対一の引き分け。
 夜、新中野散歩。桃園川の遊歩道から追分公園を通り、肉のハナマサへ。中野坂上のオリンピックに寄り、山手通りを歩いて東中野駅に向かう。山手通りは自転車と歩行者の道が分かれている(時々、歩道を走ってくる自転車もいる)。
 途中、疲れた顔で歩くヤクルトのユニフォーム姿の中年男性とすれちがう。たしかにしんどい試合だった。東中野駅で乗り降りするのは今年初。いつの間にかホームドアが設置されていた(昨年十二月十六日からだそうです)。総武線、何度か乗っているのに気づかなかった。

『老いての物語』(學藝書林)所収「気に入った本を楽しむために」の続き。(学者は)専門書だけでなく、読んでも読まなくてもいい本をたくさん読んだほうがいいとのこと。さらに京都で学生をしていたころの話——。

《私は丸太町通りの古本屋の棚には、どこの店にどんな本があるかすっかり覚え込んでしまったほどよく通いました》

 河盛好蔵は旅先の古本屋に寄るのが好きだった。わたしもたまに今はない古本屋の棚をおもいだすことがある。昔から人の顔をおぼえるのが苦手なのは、そういうところに記憶の容量をつかっているのかもしれない。

2024/03/27

春の雨

 火曜、昼二時すぎ起床。午後三時すぎ歯医者(三ヶ月に一度の検診。先週だったのだが、忘れてしまった)。
 夜七時ごろ、日課の散歩(晴れ一万歩、雨五千歩)。雨は弱くなっていたが、風が強い。南口のアーケード街から桃園川緑道を通り、阿佐ヶ谷まで。ガード下のOna casita(おなかすいた)でビビンバ(半額)、高円寺と阿佐ヶ谷の間のビッグ・エーで調味料を買う。雨の日の遊歩道は人が少なくて快適である。早歩きになる。帰りはガード下を通る。

 新しいパソコン(中古)で初仕事(書評)。書きながら各種機能をカスタマイズする。記号の出し方がまだ慣れない。

 先週土曜日、西部古書会館は河盛好蔵著『老いての物語』(學藝書林、一九九〇年)など。河盛好蔵は一九〇二年大阪生まれ。二〇〇〇年三月二十七日、九十七歳で亡くなった。井伏鱒二よりも長生きした。

《私は寝ころんで本を読むのが好きです。(中略)寝て読むのは、ただ漫然と読む時にそうするので、その方が頭によく入ります。どうも私の頭は横にした方がよくはたらくのではないかと思いますね》(「気に入った本を読むために」/同書)

 わたしも寝転んで本を読む派である。横になったほうが頭が働くかどうかはわからない。読んで得た知識なり技術なりを自分の体質気質に合わせて調整する作業は時間がかかる。頭の中だけでわかっていたつもりのことが、間違えたり失敗したりを繰り返しているうちに「あの本に書いてあったことはそういうことだったのか」と……。

 読んでも忘れてしまうことが多いのだけど、乱読のカケラみたいなものは頭のどこかに残っていて、ふとした瞬間、思い出す。今日はとくに思い出したことはなかった。

2024/03/23

移行中

 十年前に購入したノートパソコンを使い続けていたのだが、さすがにいろいろ不具合が生じてきたので、今週から新しい(中古)パソコンに移行中。メールの設定し、テキストエディタも新しいバージョンに変えた。言葉の変換がおもいどおりにならない。「L」で「ら行」が出なくなった。もどかしい。ユーザー辞書がまっさらな状態なので書くスピードが落ちる。
 キーボード馴らしをかねて高円寺の近況を書くことにする。
 集合住宅のポストに「高円寺マシタ」(中央線のガード下の飲食店街)の開業一周年のチラシが入っていた。もう一年になるのか。
 昨年の今ごろ、岡崎武志さんのユーチューブで高円寺を散歩した。ガード下は工事中だった。撮影のさい、都丸書店(支店)があった店舗の前で二人で話していたら「勝手に撮るな」と工事の人に怒られた。そんなこともあった。
 それからマクドナルド高円寺(駅前)店が三月二十七日に再オープンする。昨年の三月三十一日に閉店した。

 夜、飲み屋に行くさい、マクトナルドの前をよく通る。たまに飲み屋で知り合った若者が歌っているときがある。わたしが高円寺に引っ越してきたのは一九八九年の秋——そのころからマクドナルドはあった。
 高円寺に移り住んで以来、行きつけの喫茶店が次々と閉店した。グッディグッディ、ちびくろサンボ、ボニー、琥珀……。古本屋も減った。琥珀、居心地よかった。

 食事はほぼ自炊なのだが、飲食店では北中通りの味二番、かきちゃん、いつまで営業していたのか。中通りの萬里(北口の別の場所から移転)も好きだった。閉店のとき、皿を何枚かもらった。日々、忘れながら生きている。時々、思い出す。

 この町で暮らす。そのために生きる。それでいい。二十代後半、仕事があったりなかったりして、かつかつの日々を送っていたころ、そうおもうことにした。それから四半世紀過ぎた。

 月日が経つのは早い。五十の坂を越え、急いでもしょうがないという気持が強くなった。日常をのんびり楽しみたい。それでいい。

2024/03/15

釣り人の移住計画

 三月三十日(土)から県立神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」開催。六月二日(日)まで。亡くなったのが二〇一九年一月二十九日だから、もう五年になる。——文学展が開催されることを知らず、『フライの雑誌』の最新号(130)で「川は娯楽である 橋本治の時評から」というエッセイを書いた。二〇〇四年十月に起きた新潟中越地震と川の話である。

 同号の特集は「釣り人の移住計画」——全頁すごい。読みどころばかり。届いてから毎日読んでいる。移住する。当初考えていなかったことが次々と起こる。それでも決断し、新しい生活をはじめる。移住という選択の中には「釣り」が入っている。文中の小見出しに「人間いつ死ぬか分からない」なんて言葉も出てくる。

「東京から香川へ移住した2名の怪人対談」(大田政宏さん、田中祐介さん)で、田中さんが「自分は、仕事ばっかりしている皆が、何が楽しくて生きてるのか分からないです。釣りのために仕事するんじゃないですか」という言葉が印象に残った。
 趣味のために仕事する——それでいいのだ。わたしもそうおもっている。しかし仕事より趣味を優先しすぎると生活が苦しくなりやすい。そのバランスをどうとるか。そんなことばかり考えている(考える時間があるなら、遊ぶか働くかしたほうがいいのだが、どういうわけかそれができない)。

「東京から香川へ」の対談では移住してからの仕事のことも語り合っている。

《田中 地方の中小零細企業はほとんどがワンマンのオーナー会社です。移住者が勤めるのはなかなかつらいと思います。
 大田 手に特別な職があるならいいけど、未経験者が地方でカフェやそば店をやるのは無理だと思います。まず最初に就職先を決めておく、ある程度規模の大きい会社を目指す。仕事が順調でないと釣りも楽しくないから》

 わたしも地方に移住した知り合いが何人かいる。いずれも動きながら考える、あるいは動いてから考えるタイプだ。
 一時期、わたしも移住というか、二拠点生活を考えていた。決断できぬまま月日が流れ、気持がしぼんで今に至る。

2024/03/10

清戸道

 日曜の正午。いい天気。部屋で動かずに考え事をしていると気が滅入ってくるので、妙正寺川のでんでん橋を渡り、野方経由江古田散歩。高円寺から江古田までふらふら歩いて一万歩くらい。
 野方駅の北口の商店街を抜けて環七を歩く。豊玉氷川神社に寄る。豊玉陸橋の目白通りあたりで東京スカイツリーがちらっと見える。
 snowdropで高田宏著『雪日本 心日本』(中公文庫、一九八八年)、百年の二度寝で海野弘著『伝説の風景を旅して』(グラフ社、二〇〇八年)など。『雪日本 心日本』の「雪国考」、読み出した途端、引き込まれる。
 治療施設に入っている認知症の老人の話——。

《老人はむかし漁師であった。そのことを知った治療担当者が、ためしに老人を車にのせて海辺を走ってみたのである。ぼんやりとした老人の顔に生気がもどり、口からは失っていた言葉が切れぎれに出てきた。目に入る海の光景と肌にふれる潮風と耳にきこえる波の音と鼻に吸いこむ磯の匂いと、そしてそれらの感覚のすべてをつらぬく海の時空の感覚のようなものが、衰えしぼんでいた老人の脳をゆさぶり動かしたのであろう》

 そうした逸話のあと、京都生まれ石川県育ちの高田宏は「私は、私がボケ老人になったとき、雪の上に連れていってもらいたいと思う」と書いている。わたしは何だろう。自分の感覚を呼び覚ます場所——西部古書会館か。

『伝説の風景を旅して』は「八百比丘尼の若狭路」「山陽路と三年寝太郎」「小栗判官と熊野路」など、伝説伝承の地をめぐる旅の本。付箋だらけになりそう。

 江古田のスーパーみらべるでカクキューの味噌などを買う。珈琲林檎はしばらく休業か。残念。江古田浅間神社に富士塚(江古田の富士塚)があることを知る(ただし富士塚に登拝できる日は限られている)。
 江古田駅南口に「清戸道」石碑と案内板がある(練馬区に数ヵ所あり)。清戸道——東は江戸川橋(文京区関口)、西は清戸(清瀬市)に至る。道沿いに千川上水が流れていたので「千川通り」とも呼ばれる。
 清戸道を歩いて桜台駅、そこから関東バスで高円寺に帰る。

2024/03/08

大正の作家

 木曜日、珍しく早起きしたので午前十時すぎ、西部古書会館初日。両端の棚が混雑していたので中央の棚から見ると、宇野浩二著『文學の三十年』(中央公論社、一九四二年)があるではないか。早起きしてよかった。リーチ一発ツモの気分だ。
 過去何度となく背表紙を見てきたのだろうが、手にとったことはなかった。興味がないと目に入らない。目に入っても手にとらない。たぶん本にかぎった話ではない。

 単行本は冒頭の六頁が写真。巻末に写真解説もある。装丁は鍋井克之(天王寺中学時代からの宇野浩二の友人)。

 古木鐵太郎著『大正の作家』(桜風社、一九六七年)の「宇野浩二」を読む。

《宇野さんは話好きだ。いったんなにか話し出すと、口を突いて出るような感じである》

《宇野さんの話を聞いていると、よく脇道にそれていって、はじめの話はどこへ行ってしまったのかと思うようなことがあるが、長い話の後に、ぐるっとまわって再びもとの話にもどってくるから面白い》

『大正の作家』の巻末に大河内昭爾の「跋 古木鉄太郎」が収録されている。

 古木の没後刊行された『紅いノート』の記念会に谷崎潤一郎の『痴人の愛』のモデルといわれた小林せい女史がいた。

《小林せい女史は宇野浩二氏の「文学の三十年」(中央公論社刊)にも出てくるが、それには芥川竜之介、宇野浩二、久米正雄、里見弴氏らにかこまれた写真まで掲載されており、大正文壇では相当派手な存在だったことが想像できる》

 この写真について『文學の三十年』では「人物は、むかつて右から、芥川、せい子(当時の谷崎潤一郎夫人の令妹)、宇野、里見、久米、である」と解説している。

 よくあることだが、わたしは『大正の作家』に『文學の三十年』という書名があったのに読み飛ばしていた。
『文學の三十年』は大正から昭和初期にかけての文学の世界が描かれている。自分が文学に興味を持ちはじめたとき、この本の中に出てくる人物はほとんど故人だった。そうした作家が二、三十代の若々しい姿で登場する。百年前の文学が身近におもえる。

 菊富士ホテル時代、宇野浩二はそのころ時事新報の記者だった川崎長太郎と親しくなる。宇野は川崎の師の徳田秋聲の(当時の)恋愛小説をよくおもってなかった。

《それで、その事を川崎にいふと、そのたびに、川崎は強く反対した。しかし、いくら川崎が反駁しても、私も飽くまで自分の意見を述べた。ところが、私がいかに理を説きつくしても、川崎は決して彼の反対意見を撤回しなかつた。(中略)ずつと後に、川崎が、その頃の話をして、あの頃は、誇張していへば、帰りに、悲憤の涙をながした、と云つた》

 相手が大先輩だろうが、文学に関しては意見を曲げない。川崎長太郎らしい。
 その後、川崎長太郎は一九二四(一九二五?)年に「無題」を書いて作家として世に出る。宇野は川崎の小説を読み、彼の苦労を知る。

《川崎のために、心の中で、杯をあげた。——》

2024/03/06

古木と徳廣

『宇野浩二全集』十二巻「文學の三十年」は話が行ったり来たりし、重複箇所も多い。でも筆の勢いで読まされてしまう。知っている名前と知らない名前が次々と出てくる。

《私が、本郷菊坂の菊富士ホテルの一室を仕事部屋のつもりで借りて、そこで殆ど寝起きするやうになつたのは、前にも書いたやうに、大正十二年の四月頃からで、それが五年ほどつづいた。
 川崎長太郎と田畑修一郎を初めて知つたのは、殆ど同じ時分で、大正十二年か十三年頃である》

 宇野浩二は菊富士ホテルの部屋を探すとき、すでに同ホテルにいた高田保を訪ねている。

《それから、これは、たしかに、大正十三年の五月の或る日、この菊富士ホテルの一室で、私は、かういふ人々と逢つた。逢つた順に書くと、中村正常、古木鐵太郎(今の古木鐵也)、柴山武矩、中河與一、その他である》

 そのしばらく後にも「古木」の名が出てくる。

《「改造」の記者といえば、たしか古木が引いてから、古木の代りに、私の係のやうになつて、私のところに来たのは、徳廣巖城であつた。初めに来た頃は、徳廣は、まだ大学生であつたやうに思はれる》

「徳廣」は高知生まれの私小説作家(中央線文士)の本名である。

2024/03/05

文學の三十年

 三月。散歩道の河津桜は葉桜になっていた。

 後藤明生著『しんとく問答』(講談社、一九九五年)所収「十七枚の写真」を読んで、宇野浩二の著作の古書価を「日本の古本屋」で調べる。中央公論社の全集(全十二巻)、一万円以下もちらほら。郷里・鈴鹿に帰省する途中、たまに寄る名古屋の古本屋が出品していた。買った。届いた。

 宇野浩二、一八九一年七月二十六日福岡生まれ。九四年に父が急死し、神戸へ。九五年、四歳のときに大阪市東区糸屋町、一九〇〇年に奈良県の天満村(現・大和高田市)に引っ越す。
 一九一〇年早稲田大学英文科予科入学を機に上京——。

 第十二巻を函から出す。
「文學の三十年」が読みたかった(単行本は中央公論社、一九四二年)。これまで読んできた文芸随筆の中でも『文學の三十年』は屈指の面白さだ(わたしが私小説好きということもあるが)。 読むと単行本もほしくなる。

「文學の三十年」は葛西善蔵の金策についても詳しい。

《原稿料の前借は、葛西が新進作家時代から最後まで常習のごとく連続してゐた訳である。すると、仮りに葛西が小説の名人であつたとすると、彼は前借の名人でもあつた。しかし、前借の方は、彼の力より、友人たちの力の方が多かつた。さうして、私はその片棒を担いだ一人である》(※本文は旧漢字。以降も)

 そのあとしばらくして、古木鐵太郎の名も出てくる(葛西の口述筆記をした人物として)。
 葛西の口述筆記作は「椎の若葉」「弱者」「酔狂者の独白」の三篇——。

《『弱者』の筆記をした人の名は忘れたが、共に名作と云はれてゐる他の二篇のうち、『椎の若葉』は古木鐵太郎(今の鐵也)が、「改造」の記者をしてゐた時に、筆記をしたものであり、『酔狂者の独白』は、嘉村礒多が、暑い盛りの夏の夜を、数十日通ひつづけて、筆記したものである》

 葛西善蔵は小説執筆のため、奥日光に出かける。そのすこし前、宇野浩二のところに金策の相談にきた。そのとき宇野が保証して「世紀」という新雑誌を出す予定の出版社から三百円借りている。その出版社は潰れてしまったので「湖畔手記」は「改造」から出ることになった。担当者は古木鐵太郎だった。
 結果、前借した分に加え、「改造」からも改めて原稿料をもらうことになる。

《かういふ点で、その他いろいろな点で、その一生が不遇であつたと思はれた葛西は、案外得な人であつた》

「椎の若葉」「湖畔手記」はいずれも一九二四年——百年前の作品である。読むとでたらめでいい加減でも生きていける(そんなに長生きはできないが)気になる。ただし、葛西善蔵もそうだけど、でたらめな人のまわりには世話をする人がいた。宇野浩二の助けがあったおかげで「湖畔手記」が生まれた。人付き合い、大事だ。

2024/02/27

しんとく問答

 今年のはじめあたり、西部古書会館で上方史蹟散策の会編『東高野街道』(上下巻、向陽書房、一九九〇年、九一年)を買って積ん読していた。向陽書房は関西の出版社で九〇年代に近畿地方の街道本を何冊か刊行している(今、集めている)。

『東高野街道』の書名——どこかで見た記憶があり、なんとなく重複買いしたかなと気になっていたのだが、後藤明生の『しんとく問答』(講談社、一九九五年)に何度か出てくる本だということを思い出した。

《私の荷物はショルダー一個である。中身はカロリーメイト、缶入りウーロン茶、地図帳(大阪府)、メモ帳、『東高野街道(上)』(編著・上方史蹟散策の会/平成二年九月/向陽書房)、「写ルンです」。「写ルンです」は普通サイズとパノラマの両方を持った。どちらもストロボ付きである。それに今回はエアーサロンパスを加えた。とつぜん起るかも知れない腓返りに備えてである》(「しんとく問答」)

 妙に細かい。

 ほぼ後藤明生とおもわれる作中の「私」は『東高野街道』の上巻を持って「俊徳丸鏡塚」を見に行く。『しんとく問答』の収録作は「単身赴任の初老の男が、大阪地図を片手にあちこち歩き回る話」(「贋俊徳道名所図会」)という設定の短篇集なのだが、表題「しんとく問答」は小説というより歴史紀行エッセイのような風味がある。
「私」は謡曲「弱法師」、説教節「信徳丸」などの舞台となった大阪の地を散策する。週三日俊徳道駅(JRおおさか東線、近鉄大阪線)の次の駅に停車する大学に通っている。おそらくその大学は近畿大学で、もより駅は近鉄の俊徳道駅の隣の長瀬駅である。一九八九年から後藤明生は近畿大学文芸学部で教えていて、九三年から同学部長になっている。

『しんとく問答』所収の「俊徳道」(『群像』一九九四年十月号)、「贋俊徳道名所図会」(『新潮』一九九五年一月号)、「しんとく問答」(一九九五年三月号)など、初出の時期から一九三二年四月生まれの後藤明生、六十二歳のころの作品である。「古典+街道」というテーマは今のわたしの関心事と重なる。

「初老」はもともと数え年四十二歳(満四十歳)の異称だったが、今の感覚だと還暦あたりを示すことが多い——と辞書の定義が変わってきている。

『しんとく問答』所収「十七枚の写真」は、大阪の中央区の宇野浩二文学碑、難波宮などの話で——講演用のノートみたいな作品。宇野浩二の文学碑は「中大江公園」にある。「清二郎 夢見る子」の一節が刻まれている。
 わたしは高円寺、野方、鷺ノ宮あたりを転々と暮らした古木鐵太郎(元『改造』編集者)への興味から、宇野浩二の自伝や随筆を読みたいとおもいつつ、バラで集めるか全集で買うかで迷っているうちに時間が過ぎてしまった。

2024/02/18

練馬駅のバス

 今週は西部古書会館の古書展のない週末(第三週は開催しないことが多い)。
 先週の西部の古書展では梅棹忠夫、多田道太郎編集『論集 日本文化』(energy特別号、エッソ・スタンダード石油株式会社広報部、一九七一年)や「エナジー対話」シリーズの大岡信、谷川俊太郎『詩の誕生』(第一号、一九七五年)、多田道太郎、安田武『関西 谷崎潤一郎にそって』(第十八号、一九八一年)など、エッソの広報部関係の本が大量に出ていたので数冊買った。まとめて売った人がいたのか。

 エッソ石油(現・ENEOS)のPR課は高田宏が長く編集者をつとめていたことでも知られる。

 土曜日、妙正寺川のでんでん橋、野方の商店街を通って練馬散歩。東武ストアでスガキヤのインスタント麺、プラザトキワで衣類を買う。昔は中央線沿線の高円寺の光和堂、阿佐ケ谷のヌマヤなど、近所に衣類、タオル類などを揃えている大きめの総合衣料の店があったが、今はない。

 練馬駅から関東バスで高円寺に帰る。練馬駅発の豊橋、三河田原行きの夜行バス(新宿・豊橋エクスプレスほの国号)があることを知る。
 練馬駅(二十三時五分)、中野駅(二十三時二十五分)、バスタ新宿(二十三時五十五分)を経て、愛知県内だと豊川駅(五時九分)なども通る。豊橋駅(五時四十分)、三河田原は六時二十分着。時期によって値段は変わるが、二月だと三千二百円(火・水曜)という日もある。金・土・日は四千七百円〜五千七百円。
 バスで豊川駅あたりまで行き、東海道を散策しつつ名鉄+近鉄で郷里の三重に帰省するルートはありかも。
 渥美半島の三河田原から伊良湖岬、それから船で鳥羽に渡り、鈴鹿に帰るルートも新幹線より、かなり安く行ける。
 中野駅も通るから、家から徒歩で深夜バスに乗れる。

 一九八九年二月に三重から上京したときは鈴鹿から池袋までの高速バス(西武のバス)に乗った。片道七千円くらいだった。 三十五年前か。その年の十月まで東武東上線の下赤塚駅周辺の寮(家賃千円)にいた。練馬駅からは下赤塚駅経由の成増駅行のバスもある。

 高円寺〜練馬〜下赤塚は南北にほぼ直線。前からバスを乗り継いで行ってみたいとおもいつつ、まだ実行していない。行きは高円寺から練馬駅まで歩いてバスで下赤塚駅、帰りは下赤塚駅から練馬駅まで歩いてバスで高円寺——という散歩がしたい。

2024/02/16

新居格随筆集

 二月十一日(日)、午前八時、高円寺駅の総武線のホームから富士山がきれいに見えた。小田急で小田原駅、JR東海道本線、身延線と乗り継いで西富士宮駅へ。
 この日は「ふじのみや西町ブックストリート」という一箱古本市(わたしも出品した)に参加した。おしるこ食べる。今月、編著の『新居格随筆集 散歩者の言葉』(虹霓社)が刊行――虹霓社も富士宮市の出版社である。二月二十二日発売予定。
 新居格は一八八八年三月、徳島県板野郡(現・鳴門市)生まれ。アナキストで戦後初の杉並区長でもあった。

 二〇一七年十月、秋山清のコスモス忌で虹霓社の古屋さんと会った。新居格著『杉並区長日記 地方自治の先駆者』(虹霓社)が復刊されたのもそのころである。
 新居格は高円寺に暮らし、雑文で生計を立てていた人物ということもあり、特別な親近感がある。

《わたしは微小な存在でしかないところの文士である。わたしは、それ故に、大きな存在でありたく望みはしない。わたしはわたしが書きうるものを書いて行くことでいゝ》(「小さな喜び」/同書)

《過去のことが古いのではなく、今日と明日のことが新しいのでもない。過去のうちにもあまりにも時流を抜いてゐたために埋もれてゐた新しさが無数にあるのだ》(「本と読書の好み」/同書)

 新居格の意見は温和なものが多い。戦前戦中に散歩と読書の日々を送り、平静を保ち続けた。

 西富士宮駅から富士宮駅まで歩く。浅間神社、人がたくさんいた。富士宮は二十代のころから何度か来ているが、町の雰囲気がのんびりしていて心地よい。ニジマスの養殖でも有名な土地だ。
 ペリカン時代で教えてもらった麺屋ブルーズに行きたかったのだが、午後二時から五時までは営業時間外だった。場所は覚えた。次こそは。

 JR在来線で藤沢駅まで行き、駅周辺をうろうろする。小田急で帰る。

2024/02/06

ネリマ市

 寒い寒いとぼやいているうちに二月。外は雪。雨や雪の日はアーケードの商店街やガード下を歩くことが多い。

 先週土曜日、西部古書会館(初日は金曜だった)、『出雲と都を結ぶ道 古代山陰道』(島根県立古代出雲歴史博物館、二〇二二年)、『中村草田男と石田波郷』(松山市立子規記念博物館、一九八五年)など。山陽道と山陰道を結ぶ道は「陰陽連絡路」と呼ばれていることを知る。

 古書会館のあと、午後二時すぎから妙正寺川散歩。鷺ノ宮周辺をうろつき、中野区と杉並区の境を越え、妙正寺公園(この公園内の妙正寺池が妙正寺川の源らしい)、荻窪駅まで歩いて電車で帰る。家を出てすぐは億劫でも歩いているうちに元気になる。体温が上がって脳が活性化するからか。

 アニメ『SSSS.GRIDMAN』(円谷プロダクション、二〇一八年)の舞台は架空のネリマ市だが、鷺ノ宮駅や荻窪駅の周辺の風景、善福寺川っぽい川も出てくる(昨日、全十二話を視聴したばかり。作画がすごい)。自分の夢に出てくる町もこんなふうにいろいろな場所が混ざっていることがある。

 漫画やアニメの架空の風景にはモデルになっている場所があったりなかったりする。知らず知らずのうちにそうした景色が記憶に残っていて、そこを訪れた途端、ふと思い出す。デジャヴ(既視感)と呼ばれる現象にはそういうこともあるのではないか。
 はじめて訪れたはずの町なのに「あれ? この場所、来たことがある」と錯覚するのは、映画やドラマ、なんとなくつけていたテレビで見た(忘れていた)景色の記憶が呼び覚まされた——のかもしれない。

2024/01/31

鷺ノ宮

 二十七日土曜昼すぎ西部古書会館。橋本治著『義経伝説』(河出書房新社、一九九一年)、安田武著『型の文化再興』(筑摩書房、一九七四年)など。『義経伝説』はあまり見かけない本だ。安田武の『型の文化再興』の「士農工商」にこんな一節がある。

《モノの生産に関しても、人間関係においても、総じて人の生活そのものにおいて、ただ損をしないことだけを念頭に行動し、損得を度外視して頑張ったり、そのために時に大損をしても痩我慢をするといった、そういう「風」を失ってしまった人間の群れ、集団が作り出す社会は、それが、どのような制度、組織、あるいは「憲法」をもっていようと、結局のところ、つまらぬ社会でしかありえないのではないだろうか》

 この問題はむずかしい。「損得を度外視して」といっても損が続けば行き詰まるし、といって得ばかり求めていると人間関係その他いろいろ荒む。商売なら「損して得とれ」みたいな考え方もあるが、それはそれでシビアな駆け引きが必要で面倒くさい。損得を考えなくてすむだけの余裕がほしい(それがむずかしい)。

 古書会館のあと日当たりのいい道を歩こうと妙正寺川に沿って鷺ノ宮へ。ジョギングをしている人、犬の散歩をしている人、平日と比べて人が多い。
 妙正寺川は鷺ノ宮駅に近づくにつれ、大きく蛇行する。冬のよく晴れた日に歩くと気持いい。

 鷺ノ宮の白鷺せせらぎ公園〜高円寺北口のコミュニティバス(二時間に一本くらい)が走っている。まだ乗ったことがない。

 西武新宿線の鷺ノ宮駅北口の中杉通りを歩いて西武池袋線の中村橋駅方面を散策する。
 鷺ノ宮は駅周辺は中野区だけど、すこし北に行くと練馬区になる。区が変わっても町の連続性がある。練馬区は一九四七年八月に板橋区から分離独立した区である。

 いなげや中村南店で金トビ名古屋きしめん、お好み焼きなどを買う。ごま油、オリーブオイルなど、油類が値上りしている。

 いなげやの周辺をうろうろして帰りは中村南三丁目から阿佐ケ谷駅行きの関東バスに乗り、駅の手前の世尊院前で降りる。中野区鷺宮と杉並区阿佐谷を通るから「中杉通り」か。

 豊島園(練馬城址)、中村八幡神社、鷺宮八幡神社(鷺宮大明神)、世尊院は鎌倉古道沿いにある。所沢道も気になる。

2024/01/29

体内電池

 毎年一月二月は生活のリズムが不安定になる。
 伊藤比呂美著『たそがれてゆく子さん』(中公文庫)所収「不眠」というエッセイに「昆布の薄皮」という言葉が出てくる(二〇二二年一月十一日のブログでも紹介した)。

《頭のシワに、さば寿司にかかっているような昆布の薄皮がぴったり貼りついた気分である》

 この数年、わたしは晴れの日一万歩(雨の日五千歩)の散歩を続けている。腰のあたりに貼るカイロもつけている。汁もの、炒めものにしょうが入れる。肉を食う。酒を減らす。睡眠をとる。
 冬対策はそれなりにやっているのだが、それでも「昆布の薄皮」状態になる。今年もなってしまった。
 一月二十三日、二十四日、二十五日の三日間——朝寝昼起、昼寝夜起、夜寝朝起と睡眠時間がズレ、体が重く、頭がぼんやりする日が続いた。

 わたしはこの状態を「冬の底」と呼んでいる。

 古くなったバッテリーみたいなもので、こまめに充電していてもすぐ残量が数パーセントになる。不調時に焦ってもしょうがない。今は修復期くらいの気持でだらだら過ごすしかない。

 二十代のころはこの体内電池の残量が五%くらいになっても一晩寝ればフル充電状態に回復する。
 四十代五十代になると電池の残量がわずかになると回復に三日、ヘタすると一週間くらいかかる。

 冬に体調を崩す人が多いのは日照時間が短いとかいろいろな説があるけど、寒中、体温の維持のため、普段以上にエネルギーをつかっているからではないか。体を冷やさず、ちゃんとメシを食い、よく寝る。冬を乗り切るにはそれしかない。

2024/01/22

心細し

 先週、池袋で打ち合わせ。目白駅から池袋まで歩く。途中、古書往来座、カフェ・ベローチェ南池袋一丁目店でコーヒー。池袋はベローチェが八店舗もある。高円寺には一軒もないので羨ましい(中野は三店舗)。

 往来座では森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫、一九七九年)など。学術文庫の『十六夜日記』は現在品切で古書価は定価の四倍くらいになっている。『十六夜日記』は鎌倉中期の日記文学——作者・阿仏尼は十代で出家し、その後、三十歳前後で藤原為家の側室になった。

 一二七九(弘安二)年、阿仏尼は正妻との相続問題を幕府に訴えるため鎌倉に向かう。

 阿仏尼は一二二二(貞応元)年の生まれ(推定)。没年は一二八三(弘安六)年ごろ。

 同書「旅路の章」は不破の関、笠縫の駅、洲俣、一の宮などを通る美濃廻り東海道の旅の記録である。

 時代によって東海道は伊勢廻り、美濃廻りなど、コースがちがう。
 現在の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。
 街道史と鉄道史は密接な関係がある。「駅」という言葉にしても街道由来である。

 洲俣の注に「美濃の国安八郡。源を飛騨山に発し、尾張の国との境を流れる。当時はかなり大河だったらしい。古くは『更級日記』にもみえる」とある。

《二十三日、天竜の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔もおもひいでられて、いと心細し》

《二十四日、昼になりて小夜の中山越ゆ》

 学術文庫の解説では西行の「いのちなりけり小夜の中山」を紹介している。

 西行は一一一八(元永元)年生まれ、一一九〇(文治六年)年没。阿仏尼が生まれる三十年ちょっと前に亡くなっている。年は百歳以上離れている。

 阿仏尼は西行の歌だけでなく、様々な逸話にも精通している。阿仏尼にとって西行は憧れの人だった。

『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』によると、古典語の「心細し」は「『源氏物語』などで一種の美感を示す語として用いられている」とある。
 阿仏尼は西行が天竜川で武士に「人数が多い」と舟を降ろされ、鞭で打たれた逸話を思い出し、心細くなった。でも阿仏尼からすれば、天竜の渡りの「いと心細し」は単なる不安ではなく、かつて西行が渡った川を自分も渡ることにたいする感慨もあったかもしれない。

2024/01/17

上路

 土曜昼すぎ西部古書会館。大均一祭初日(一冊二百円)——『別冊山と溪谷 歩く旅』(NO.1、一九九九年)含め九冊。『歩く旅』の特集は「中山道六十九次を歩く」。綴込付録「中山道533kmを歩く パーフェクト・ガイド&マップ」(三十五頁)。
 午後三時、新中野まで散歩。途中、小雨そのあと雪(霙)がすこし降る。

 室町時代の作・謡曲「山姥」の百万山姥は琵琶湖北岸から礪波山へ。
 礪波の関は万葉集——大友家持の歌「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添え君を留めむ」の歌でも知られる。

 礪波山は越中と加賀の国境にあり、標高二百七十七メートル。もうすこし高い山かとおもっていた。場所は金沢と高岡の中間くらい。北上すれば能登半島である。

 木下良編『古代を考える 古代道路』(吉川弘文館、一九九六年)の「北陸道 その計画性および水運との結びつき」(金坂清則)の付箋を貼ったところを読み返す。

《京への公式日数は、越前が六日、加賀が八日、能登と越中が二七日、越後が三六日、佐渡が四九日であり、越後と佐渡の日数は出羽の五二日次いで長かった》

「加賀が八日、能登と越中が二七日」——地図を見るとこんなに日数の差が出るのは信じ難い。それほど難路だったのか。古代の道、わからない。

 北陸道は「重要な水運ルート」で湊を兼ねる駅が多かった。積雪期に陸路が通れなくなると船で移動した。

 謡曲「山姥」の場合、百万山姥は従者を連れていて、途中、乗物(駕籠?)も利用している。琵琶湖以外は船に乗っていないと仮定すると京から礪波山まで十日、あるいは二週間くらいかかっているかもしれない。

 礪波山を経て、いよいよ百万山姥は境川へ。

《雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとゞ都は遠ざかる、さかひ川にも着にけり》

 三越路(みこしじ)は越前・越中・越後の三国、または三国への道である。
 越中と越後の境を流れる境川から山姥の里までは上路(あげろ)を通る。現在の県道115号と上路はほぼ重なっている。

 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂、一九七八年)の「滄海駅」の項に「境川を渡った後、さらに海岸をたどると親不知子不知の天険を通ることになる訳で、平野団三は『境川を過ぎた駅馬は上路を越え歌に下ったと思われる』と述べている」とある。

 百万山姥も親不知を避け、上路を通り、山姥の里に迷い込む。

 上路は滄海に通じる。滄海から信濃の善光寺までの道は謡曲「山姥」には記されていない。
 古代の北陸道から善光寺までは水門(みと)から上越妙高を通る道がある。ちなみに、水門は現在の直江津あたり。古代の国府も直江津にあった。

 百万山姥の歩みに関して、糸魚川から姫川沿いに歩いて白馬経由で善光寺に向ったのではないかと考えていた。しかし海沿いの難路を迂回したことを考慮すると、多少遠回りになっても水門(直江津)から善光寺に向かう安全なルートを選んだかもしれない。

 仮に百万山姥が善光寺に辿り着いていたとしたら、帰路は東山道(中山道)を通った可能性もある。行きと帰りで別の道を通るのは江戸期の伊勢参りなどでもよくあった。

2024/01/12

礪波山まで

 誰に頼まれたわけではないが、謡曲「山姥」の百万山姥の歩みを調べている。
 百万山姥は京を出て、琵琶湖北岸から北陸道に向う途中、「愛発(あら地)」を通る。古代三関の愛発の関がどこにあるのか——古道に関する本を読んでも諸説いりみだれている。

 愛発関に限らず、和歌の歌枕の地でもそういうことがよくある。
 白河の関(福島県白河市)の場所は江戸後期(一八〇〇年ごろ)に特定されたが、それまでは不明だった。

 謡曲「山姥」に出てくる地名は「あら地」を経て「袖に露ちる玉江のはし」「かけてすゑある越路の旅」「こずゑ浪立しほこしの」「あたかの松の夕けぶり」「きえぬうき身のつみをきるみだのつるぎのとなみ山」と続く。

 わたしは「玉江のはし」がどこなのか見当もつかなかった(のでネットで検索した)。福井市花堂北に「玉江二の橋」という橋がある。JR北陸本線の越前花堂駅、福井鉄道福武線の花堂駅がもより駅で旧北陸道、狐川にかかる。玉江二の橋が謡曲「山姥」の「玉江のはし」と同じ場所かどうかはわからない。かつてこのあたりは湿地だったという説もあり、川の流れが変わることもある。
「こずゑ浪立しほこしの」の「しほこし」は「塩越(汐越)」で福井県あわら市——西行が歌を作っている。

《夜もすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松》

 あわら市は福井県と石川県の県境の市。二〇〇四年三月に坂井郡芦原町、金津町が合併してあわら市になった。
 今年三月十六日、北陸新幹線芦原温泉駅が開業予定である。芦原温泉からは東尋坊も近い。

「あたかの松」の「安宅(石川県小松市)」もかつて関所があった地で「勧進帳」の舞台である。小松空港のすぐそばだ。

「となみ山」は「礪波山(富山県小矢部市)」で源平合戦で有名な倶利伽羅峠もある。倶利伽羅峠の戦い(一一八三年)は礪波(砺波)山の戦いともいう。

 謡曲「山姥」の信濃の善光寺行きの道のりは古代の関所、古戦場跡など史蹟めぐりもかねていたようだ。
 室町時代は関所が乱立していた時代だった。関所を通るたびに関銭(通行料)がかかる。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社)には「文明十一年(一四七九)には、奈良から山城・近江をへて、美濃の明智に至る間に二十九関をもうけたと伝えている」とある。

 謡曲「山姥」の遊女が東山道(後の中山道)ではなく、北陸道から善光寺に向ったのは当時乱立していた関所を避けようとしたのかもしれない。ちがうかもしれない。

2024/01/09

愛発関

 先週、西部古書会館で買った『古代の宮都 よみがえる大津京』(大津市歴史博物館、一九九三年)を読む。
 前回のブログで「古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り」と書いたが、愛発関は七八九(延歴八)年に廃止されている。謡曲「山姥」は室町時代の作なので、厳密には「愛発(あら地)の関」ではなく「愛発(あら地)と呼ばれる山域」と書くべきだった。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社、一九六四年)の「天下の三関」の項には「三関とも近江の国境で大津の外側におかれていることから、大津京の守りのために設置されたのであろう」と記されている。

『古代の宮都 よみがえる大津京』に「大津京時代の近江における東山道」(足利健亮)には、大津京(近江京)以前「東海道は飛鳥から出て伊賀盆地を経、柘植から鈴鹿を通って東国へ向かっていた」とある。後のJR関西本線に近いルートだ。ちなみに江戸期の東海道は柘植を通らない(近江の土山宿から鈴鹿峠を越える)。

 東海道も東山道も時代によって様々なルートがある。それを調べて何になるのか。小人が不善をなさないための閑つぶしになる。

『完全踏査 古代の道』によると、古代三関のうち愛発関の場所は「考古学的な確証はまだ得られていないが、おおむね近世の塩津街道(現国道8号)と七里半越の西近江街道(現国道161号)との合流点である敦賀市疋田が有力視されている」とのこと。

 愛発関は疋田以外に新道野、追分、道ノ口、関屋などの説もある(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』大明堂、一九七八年)。

 謡曲「山姥」で百万山姥は、陸路ではなく、琵琶湖を船で渡り、そこから「あら地」を通る。
 琵琶湖のどこまで船で行ったかで「あら地」への道も変わってくる。
 仮に琵琶湖最北の塩津あたりまで船で行ってそこから陸路を辿ったとすると、百万山姥は近世の塩津街道(現国道八号)を通り、深坂峠から追分、疋田を通った可能性が高い。これはほぼ現在のJR北陸本線のルートなのである。

 古代三関の鈴鹿関、不破関も明治期に開通した鉄道のルートと重なることを考えると、愛発も北陸本線のどこかにあったのではなかろうかと想像する。

 街道の研究をしていると、つい水路のことを忘れがちである。とくに土地鑑のない場所だとそうなる。

 街道にかぎらず、何か一つのことに熱中している時期はそれ以外の視点を見失いやすい。

 今のわたしは古典を読んでいても、ストーリーより作中人物の移動のことばかり考えてしまう。何年か後に読み返したら「え? こんな話だったの?」となるかもしれない。若いころは地理や歴史をすっとばして人生の教訓みたいなものを探り当てたいとおもっていた。

 そのときどきで読み方が変わる。読書は面白い。

2024/01/06

北陸道

 土曜昼、今年最初の西部古書会館。後藤淑他編『元和卯月本 謡曲百番(全)』(笠間書院、一九七七年)など。

 年末、福原麟太郎の随筆を読み、謡曲「山姥」を知り、古代・中世の北陸道について調べていた。
 謡曲「山姥」が作られた室町時代、京から善光寺に向かうさい、北陸道、中山道(東山道)のどちらがよく利用されたのか。

「山姥」の遊女(百万山姥)は京から西近江街道を通って……と考えていたのだが、『謡曲百番(全)』を読むと「志賀のうら船こがれ行、末はあら地の山越えて、袖に露ちる玉江のはし(以下略)」とあった。
 百万山姥は琵琶湖を船で渡り、古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り、玉江のはしに至る。

 木下良監修、武部健一著『完全踏査 古代の道』(吉川弘文館、二〇〇四年)によると、北陸道は海岸の近くまで山が迫り、陸路の移動がむずかしかったので「水路あるいは海路による交通が盛んであった」そうだ。

 ここ数年、愛読している『全国鉄道絶景パノラマ地図帳』(集英社、二〇一〇年)の大糸線の頁のパノラマ地図を見ると、山姥神社の近くの市振から親不知、青海(旧北陸本線、現えちごトキめき鉄道)にかけては海岸線と山が近い。『完全踏査 古代の道』でも「親不知は、古来から現在に至るまで交通の難所としては全国有数の場所である」と記されている。

 親不知〜青海の海岸の道はこんな感じだった。

《ここを通る旅人は、切り立った海岸縁の断崖の下の狭い砂浜を、波が退いたときをねらって走り抜け、波が寄せたときは岩穴に身を避けて辛くも切り抜けた》(『完全踏査 古代の道』)

 謡曲「山姥」の遊女は海岸沿いではなく、上路の里に迂回して山道で迷い、まことの山姥と出会う。

 ここから(作中には描かれていない)善光寺までの道のりが知りたい。「山姥」の里から青海まで出て、鉄道の大糸線に近いルートで姫川沿いの谷間を抜け、白馬〜簗場あたりから信濃の善光寺に向かったのか。直江津から信越本線に近いルートもあるが、室町時代の道路事情を考えると糸魚川〜直江津間も大変そうである。

 今すぐ答えが知りたいわけではないので気長に調べることにする(答えがあるのかどうかもわからない)。

2024/01/04

冲方丁の読むラジオ

 元日午前中、JR総武線高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷寄り)から富士山を見る。雪が積もり、稜線らしきものが見える。湘南新宿ラインの武蔵小杉駅をすこし過ぎたところでも富士山が見えた。

 正月くらいはいいかと昼酒。夕方、能登半島地震のニュースを見る。

 今年の初読みは昨年十月刊の『サタデーエッセー 冲方丁の読むラジオ』(集英社文庫)——刊行後すぐ読んだので再読である。この本はNHKラジオ第一『マイあさ!』内の「サタデーエッセー」を元に書き下ろしたものだ。

 同書「約束されたレール」は著者が十四歳のときにネパールの学校で学んだことを紹介している。

《責任というと日本ではルールを守らせるという風にとらえがちだと思うんですけれど、そうではなく、「あなたのマストは何だ」と、先生方や大人たちが訊いてくるんですね。自分にとって今最もやるべきことは何だ、それがどう将来につながるのかと》

《最初から「自分はこれをやるべきだ」と自覚し、「いずれこれを成し遂げるために研鑽する」といった意識がなければ、ただ周囲の状況に合わせた受動的な態度ばかりが身についてしまいます》

 わたしはなるべく身軽に気楽に生きたいという欲求が強い。冲方さんの考え方や姿勢とはかなりちがうのだが、それでもこの文章は心に響いた。

 同書「正義感は正義ではない」に「正義中毒」という言葉が出てくる。

「正義感」は社会の維持や改善に有用だが、そうではないこともある——という趣旨のエッセイだ。
 インターネット上のまちがった情報をうっかり信じてしまい、拡散してしたり、無実の人を誹謗中傷したりする。

《お酒を飲むことがやめられなくなるのと同じように、「正義感」から行動することがやめられなくなるのであれば。立派な病気と考えるべきでしょう》

 冲方さんは「正義感」こそが、今もっとも警戒すべき感情だという。自分の正しさに酔い、人を裁く。「正義中毒」になると、その気持よさに抗えなくなる。だからこそ「正義感」の抑制が重要になる。自分の感情が不安定なときは情報と距離をとり、いったん熱を冷ます。

 わたしは散歩をすすめたい。