2019/02/26

坂の上り下り

 先週、神保町の古書会館、高円寺の西部古書会館に行った。いずれも初日だ。「街道本」蒐集をはじめてから、古書展の初日に行くことが増えた。
 今は道の本だけでなく、散歩や歩き方の本も買っている。
 春からは足が遠のいていた五反田の古書会館にも行く予定だ。そのあと五反田から北品川のKAIDO BOOKS&COFFEEと街道文庫に寄りたい。五反田から品川宿までは歩いて十五分くらいで行ける。

 北品川に街道専門の古本屋とブックカフェがあることは一年以上前に知っていた。まだ東海道と中山道を歩きはじめたばかりで、街道に関する方針が定まってない状態で訪ねるのは畏れ多い気がしていた。杞憂だった。行ってみたら初心者大歓迎という雰囲気だった。

 北品川は町全体が宿場町の雰囲気を残そうとしている。商店街も素晴らしい。
 品川の印象が一変した。

「街道本」を読んでいると、足のマメ、膝の痛みに関する記述を目にする。
 すこし前にわたしも膝を痛めた。何度か足をひきずりながら高円寺に帰ってきた。
 十五キロくらいまではいいのだが、二十キロを越えたあたりから、膝が痛みだす。曲げると痛い。階段の上り下りがつらい。自然と痛いほうの足をかばっているうちにもう片方の足も痛くなる。

 たぶん長距離向けの歩き方とはちがう歩き方をしているだろう。

 家の近所の坂道で下り坂の歩き方を練習している。下り坂は歩幅を狭くて歩く。
 平地と同じ感覚だと、傾斜の分、歩幅が広くなってしまう。それで知らず知らずのうちに足に負荷がかかってしまうのだ。
 膝を痛めてからそのことに気づいた。膝が痛いとだんだん歩幅が狭くなる。自然と足に体重を乗せないような歩き方になる。

 山登りの本などには下り坂歩きのいろいろなテクニックが記されているが(けっこう難しい)、今は歩幅を気にすることに専念したい。

 上り坂は上体をやや前傾気味にして歩く。体重を前方に逃がしながら進むイメージだ。正しい歩き方がどうかはわからないが、昔からそうしている。

 五反田から北品川までの道もゆるやかな長い下り坂がある。街道歩きのいい練習になる。

2019/02/25

焦りは禁物

 昔、回転ダイヤル式の電話機のころ、最後の数字を回そうとして失敗し、最初からかけ直す夢をよく見た。急用があって、公衆電話の場所を探し、ようやく見つけ、十円玉を何枚か入れる。電話番号はおぼえている。途中までは順調。しかし最後に「八」か「九」を回そうとして指が滑ってしまう。
「ああ、またやり直しか」とおもったところで目が覚める。
……という話は、今の若い人には通じにくいだろうか。

 電話をかけそこなう夢はプッシュホン(押しボタン式)になってからも何度か見た気がする。やっぱり焦って最後の数字を押し間違えてしまうのだ。

 わたしはスマートフォンや携帯電話を持っていないのでその夢は見ない。

 すこし前にパソコンのパスワードをおもいだせなくて焦る夢を見た。

 山梨県の石和温泉に宿を予約し、出かける準備をしている。
 宿の名前も場所も電話番号もすべてパソコンの中にある。パソコンを起動させないかぎりわからない。そのパソコンを起動させるパスワードがわからない。

 焦っても何の解決にもならない。焦っている時間ほど無駄な時間はない。

 焦る夢を見るときは何かやらなければいけないことを忘れていることが多い。それが何なのかおもいだせない。

2019/02/22

独学の愉しみ

 今週、川越街道を歩いた。筋肉痛だ。久しぶりに東武東上線の下赤塚にも寄った。三十年前、上京して最初に住んだ町だ。下赤塚、いい町だ。公園も多いし、植物園もあるし、城跡もあるし、東京大仏もいい。
 下赤塚の話(だけではないが)は四月くらいに出る予定のインディーズ文芸創作誌『Witchenkare(ウィッチンケア)』にも書いた。web本の雑誌の「街道文学館」にも書く予定だ。

『フライの雑誌』の最新号の特集は「小さいフライとその釣り」。趣味の世界というのは高じれば高じるほど、外の世界の人にはわけのわからないものになるのだが、『フライの雑誌』は書き手の熱量がすごくて理解できなくても読んでしまう。

《政治家がいい例だが、数字をぶら下げて自分を大きく見せようと考える人間にろくなのはいない。
 釣り人だって、他人との比較で釣った魚のサイズとか匹数とかの数字にこだわりすぎると、まるで営業しているみたいで、だんだ気持ちがざらついてくるのではないか》

 編集発行人の堀内さんの言葉。いつもドキっとすることを書く人だ。
 この数字ハッタリというのは古本の世界でもある。
 わたしもたまにつかう。「蔵書は何冊ありますか」「数えたことはないけど、五桁はあるかなあ」みたいなかんじで。でも「数じゃないんだよなあ」とよくおもう。

 話はそれたが、わたしはこの号で「永井龍男のハゼ釣り」というエッセイを書いた。永井龍男の兄、永井二郎は中央線文士の溜まり場だったピノチオの店主だが、その前は魚藍堂という釣具店を営んでいた。
 永井龍男の著作はたくさんあるけど、永井二郎に関する記述は(わたしの調べ方が足りないせいもあるが)あまり見かけない。
 そのときどきの興味で読み散らかしてきた本が自分の予想外のところで連鎖する。

 わたしは二十代のころから永井龍男の短篇や随筆が好きだった。まさか将来、釣りの雑誌に永井龍男の話を書くことになるとは予想していなかった。しかも永井龍男がハゼ釣りをしていた場所が三重県の東海道筋の“宿場町”なのだ。

 文学にしろ釣りにしろ街道にしろ、掘り下げていけば、どこで何かとつながる。

2019/02/12

橋本治さん

 橋本治の訃報は先週の『AERA』の記事で知った。

 この数年、訃報が日常のような日々が続いていて、人の死にたいして、ちょっと麻痺していた。一々動揺していたら、仕事に支障が出る。
 だけど、橋本治の訃報は堪えた。

 高校時代、一九八〇年代半ばにファンになり、その後、今に至るまでずっと新刊を読み続けている作家は橋本治だけだ(著作が多すぎて、時評しか読まない時期もあったが)。
 上京後、一九九〇年に『'89』(マドラ出版)が刊行された。『'89』のインパクトはすごかった。わたしの周囲の本好きの友人の部屋にはかなりの確率でこの本があった。

『'89』が出た翌年の一九九一年から『ヤングサンデー』で「貧乏は正しい!」という連載がはじまった。八〇年代半ばから九〇年代半ばごろまで、漫画雑誌の「活字」の頁は、読みごたえのある連載が多かった。中でも空前絶後の最高傑作が「貧乏は正しい!」だとおもっている。
 一九九二年の夏、「貧乏は正しい!」の橋本治七十二時間耐久合宿という企画があり、応募して参加した。当時橋本さんは四十四歳。今の自分より若かったとおもうと不思議なかんじだ。
 橋本さんの合宿の年、わたしは大学四年目で卒業できる見込みはゼロという状況だった。大学を中退するかどうか迷っていたとき、この合宿に参加し、橋本さんから「卒業証書(修了証書)」をもらい、気持がふっきれた。これで十分だとおもったのだ。
 一度だけ橋本さんの事務所に行ったこともある。

 このブログでも何度か『貧乏は正しい!』(小学館文庫、全五巻)について書いているが、このシリーズは年に一回くらいは再読している。年末年始、郷里の三重に帰省したときにまとめて読み返すことを自分に課していた時期もある。

《過疎が起こるということは、その場所が、「そこに生まれてそこで育って来た人間の欲求に合わなくなってしまっている」ということだ。だから、過疎がいやなら、その場所を、そこで生まれ育って来るような人間の欲求に合うように変えて行けばいい。ちょっとずつでも、未来の欲求に合わせて、自分たちの現状を変えて行くということを、そこに住んでいる大人たちがすればいい——すればよかった。
 でも、そういうことをしなかった。そういう必要性を理解しなかった。だから、過疎というものは、あっという間に日本全国に広がってしまった。過疎というものは、今やイナカにだけ起こるものではない》

 シリーズ三巻目の『貧乏は正しい! ぼくらの東京物語』の言葉である。
 これほど自分が当事者だとおもえた本は読んだことがなかった。なぜ自分はイナカを離れ、東京に暮らし、そして帰るに帰れなくなっているのか(当然、自業自得という面もある)。自分の置かれている状況を的確な言葉に置き換えることで、世の中の見え方が変わってくる。
「わからない」ことを考える。自分の「わからない」ことを見つける。そうした思考法は橋本さんから学んだ。

 すこし前に『橋本治という立ち止まり方』(朝日新聞出版、二〇一二年)を再読した。この本が出たあたりから病気の話が増えてきた。

《現実社会では経験がものを言う。いくら新しい理論が登場したって、それがそのまま現実社会に適応できるわけはない。(中略)現実と理論の間では、さまざまな妥協が必要になって、その妥協を実現させる主体は、現実の中で生きて、「経験」を体現している人達だ》

《経験則で生きて来た人間と、新理論で生きる者の断絶は、「戦後日本」というものが誕生した時に「将来的な必然」として生まれていたものだろう》

 橋本さんはこの「経験則」と「経験値」の話をくりかえし書いてきた。橋本さんは、何度となく、もう若い人向けのものは書かない、時評はやめる——といっていたが、結局、一度も立ち止まらずに「時評のようなもの」を書き続けた。

 橋本さんの仕事はひとりの人間にこなせる量ではなかった。大きな空白ができた。その空白をどう埋めればいいのかわからない。

2019/02/05

クマ本

 週末、街道旅。日光街道その他の街道を歩いてきた。今、筋肉痛だ。

 旅行前から、山﨑晃司著『ムーン・ベアも月を見ている クマを知る、クマから学ぶ現代クマ学最前線』(フライの雑誌社)を読みはじめる。
 入口は狭いが、奥は広い。副題に「クマ学」という言葉が入っているが、学術書というより、ノンフィクションの読み物として堪能した。

 街道歩きをはじめる前までは、クマについて、そんなに深く考えたことがなかった。どこらへんに生息しているのかも知らなかった。なんとなく北海道とか東北とかにはいそうだなくらいの認識だった。

 甲州街道や青梅街道ですら、クマの出没エリアだと知り、急に身近に感じるようになった。山梨にもクマが出るのかとおもったら東京都にもクマが出る。

《1970年代終わり頃までは、クマ撃ちの漁師は奥山に分け入ってクマを探す必要があったものが、最近は前山と言われる集落の近くでも容易にクマが発見できるという話もよく聞く》

 現在、クマの分布はかなり人里に接近し、ちょっとした散歩やハイキングですらクマと遭遇する可能性があるのだ。

 本書の「クマと遭ったらどうなるか」は勉強になった。
 とにかく背中を向けて逃げてはいけない。クマスプレーも有効とのこと。
 ただし、知識としてクマの対処法を知っていても、現実に遭遇すると冷静な行動はできないものらしい。またクマ(ツキノワグマ)は臆病な動物で人を襲うケースもたいてい防衛本能によるものということも知っておいて損はないだろう。クマのほうが人間を避けることも多いのだそうだ。

 突然、森の中でクマに出会ったら怖いが、何も知らずに出くわすほうがもっと怖い。

 クマの生態以上に、クマの研究者の試行錯誤を綴った部分もおもしろい。「プロ」ですら、クマがどこに出没するのか予想はむずかしい。はじめてGPSが搭載された「衛星首輪」をクマに装着するのに二年かかった――なんて話を読むと、しょっちゅう報われない調べ事をしている身としては勇気づけられる。

 専門分野を追求しながら、社会のことも深く考えている著者の姿勢もこの本の魅力だ。