2023/09/27

橘南谿

 今年八月はじめにオオゼキ東高円寺店が閉店した。鶏のせせりをよく買っていた。オオゼキ杉並和田店は東京メトロの中野富士見町駅の近くにあり、地図を見たら家から三キロくらい。
 月曜、中野富士見町まで散歩した。往復九千九百歩(行きは鍋屋横丁を通った)。そんなにしょっちゅう行くことはないとおもうが、杉並和田店は高円寺から徒歩圏内と判明した。

『東路記 己巳紀行 西遊記 新日本古典文学体系』(岩波書店)の続き。

 岸井良衞著『山陽道』(中公新書、一九七五年)に橘南谿(なんけい)の話が出てきて、何年か前に『東西遊記』(全二巻、東洋文庫、一九七四年)は入手済。『東西遊記』は1巻が『東遊記』、2巻が『西遊記』である(新日本古典文学体系の『西遊記』はその一部)。
 橘南谿は一七五三(宝暦三)、伊勢久居(現・三重県津市)の生まれ。職業は医者だった。

 東洋文庫『西遊記』続編「巻之一」の「碑文(三重)」で橘南谿は次のように記す。

《余、熊野海浜の長島という所に遊びしに、仏光寺という禅宗の寺あり。其寺に石碑あり。碑面に津浪流死塔と題せり。裏に手跡も俗様にて、文も俗に聞こえやすく、宝永四年丁亥年十月四日未刻大地震して、津浪よせきたり、長島の町家近在皆々潮溢れ、流死のものおびただし。以後大地震の時は其心得して、山上へも逃登るべき様との文なり。いと実体にて殊勝のものなり。誠に此碑のごときは、後世を救うべき仁慈有益の碑というべしとなり》

 宝永地震は一七〇七年十月二十八日。

 さらに橘南谿は「幅狭く海の入込みたる常々勝手よしという湊は、皆其時津浪来たりて人家皆々流れたり」と海幅の狭い湊は大地震のときに用心すべきと警告する。

 南谿の「西遊記」は一七九五年、続編は一七九八年刊。宝永地震から約九十年後に碑文の内容を伝えたことになる。
 仏光寺は三重県北牟婁郡紀北町長島——江ノ浦の近くにある。紀伊長島は『群像』編集長・大久保房男の郷里でもある。

 南谿は津波だけでなく、洪水への注意喚起も書き残している。

《されば海も川も不時にゆえなくして俄に水引去るは、跡にて大水必ず来る事ありと、用心すべき事なり》

2023/09/24

東路記

 土曜昼、西部古書会館。『歴史と文化の散歩道』(東京都政策報道室、一九九六年)など。『歴史と文化の散歩道』は大判、二百四十頁、カラーで定価は千二百六十円。「杉並コース」の高円寺駅から平和の森公園、北野神社、新井薬師前駅などを通る三・八キロ。いい感じの散歩道だ。

 日曜、中野の古本案内処に行き、そのあと新井薬師、沼袋、野方と歩いてバスで高円寺に帰る。平和の森公園の近くのライフでベーコンエピを買う。

 古本案内処で『東路記 己巳紀行 西遊記 新日本古典文学体系』(岩波書店、一九九一年)など。『東路記』『己巳紀行』は貝原益軒。『西遊記』は橘南谿。家に帰って『東路記(あづまじのき)』を読む。面白い。すごい。

 東海道で宮(熱田)、それから美濃路を歩く。

《青墓は、昔の宿駅なり。今は小里なり。町なし。名所なり。古歌有。長者が屋敷の跡有り。朝長の社は、青墓の西の道より北の谷のおくに四五町にあり》

 益軒、地理+歴史の紀行文で陸路以外のルートもいろいろ記している。

《上方より下る道筋は、今洲より関ヶ原へゆかずして、関が原の西より南へわかれ、東へ行く。牧田と云宿、今洲より二里、牧田の東に高田といふ宿あり。其東に、唐末と云所有。是。大垣の南也。唐末より河船にのり、桑名へも宮へもゆく也》

 おそらく唐末は烏江か。養老鉄道に烏江駅、美濃高田駅あり。烏江駅の近くに牧田川が流れている。牧田川は揖斐川に合流し、伊勢湾に出る。
 美濃の大垣と伊勢の桑名は水運の関係でかなり密接なつながりがあった。

 それから『東路記』に次のような記述もある。

《吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる》

 吉田の川は豊橋の豊川。豊川から三河湾に出て、そのまま白子に向かったのか、それとも知多半島沿いのどこかの町から白子に渡ったのか。
 徳川家康は伊賀越え(一五八二年)の後、鈴鹿の白子から岡崎に帰った(諸説あり)といわれているのだが、百年ちょっと後の貝原益軒の時代に白子と三河を船が行き来していたというのは興味深い。

 貝原益軒(一六三〇年生)が写本『東路記』を書いたのは一六八五年。五十四歳。

 わたしも今年五十四歳になる。運命を感じる。

2023/09/20

生活地帯

 新居格の随筆に「生活地帯」という言葉があった。
 高円寺、新宿、銀座……。戦前戦中、新居格が歩きまわっていた町のことである。

 ここ数年、わたしは週の半分くらい高円寺の徒歩圏内から出ない。南は東高円寺から新高円寺、北は野方、東は中野、西は阿佐ケ谷、荻窪——「生活地帯」はだいたいそんな感じだ。
 スーパーのオオゼキが今年八月一日に閉店、ちょくちょく文具を買っていた百円ショップのコモ・バリエも六月末に閉店し、しばらく東高円寺方面は足が遠のいていたが、また散歩するようになった。

 コロナ禍中、野方によく行くようになった。家から野方までの間はまだまだ知らない道がある。
 西武新宿線沿線に行くと町の雰囲気が変わる。野方の南口から北口の商店街に行こうとすると、よく踏切に引っかかるのだが、それすら新鮮におもえる。

 東京に三十年以上暮らしていても訪れたことのない町は無数にある。一、二度しか行ったことのない町の記憶も薄れてきている。

 四十代後半から自分の郷里(三重県)の郷土史や郷土文学の本を集めるようになったのだが、歴史や地理に関して知らないことばかりだ。十代のころの自分は「生活地帯」が狭く、地元に興味がなかったのだ。今は行きたい町だらけで時間が足りない。

2023/09/11

照手姫

 土曜、西部古書会館。未読の古典を数冊、吉田幸一、神作光一、橘りつ編『歌枕名寄』(古典文庫、一九七四年)の二、三、四巻など。家に帰ってから『歌枕名寄』は八巻まであることを知る。揃いで買ったほうが安くすむパターンか。いいってことよ。四巻は伊勢国の歌枕も収録——わたしの郷里の三重県鈴鹿市の近辺は、鈴鹿山、鈴鹿河(川)が歌枕である。鈴鹿峠は三重県亀山市(かつては鈴鹿郡)、滋賀県甲賀市にまたがっていて鈴鹿市ではない。

 夕方六時すぎ、晴れの日一万歩の日課のため、荻窪に散歩。ずいぶん日没が早くなった。かかとがすり減った靴で歩くと、なんとなくだが疲れやすい。気のせいか。

 九月中、仕事がつまっているのだが、その先はほとんど予定がない。四十代のころは予定がないとすぐ不安になったが、今はわりと平気というか、「その分、本が読めるやん、歩けるやん、部屋の掃除できるやん」とおもえる。メンタルが強くなったのか、鈍くなったのか。

 古書ワルツで松尾一著『岐阜県の中山道(新版)』(まつお出版、一九九三年)を買う。郷土史家の街道研究は勉強になる。
 同書「赤坂宿から垂井宿へ」に青墓の話が出てくる。
 美濃赤坂は中山道の宿場町だが、もともとは旧杭瀬川の湊があった。水運が盛んだった土地で伊勢湾にも船が出ていた。杭瀬川は一五三〇年の大洪水で大きく流れが変わった。

《青墓の集落は東山道の駅があったところで、このあたりに長者屋敷があった。代々源氏にゆかりある青墓の長者大炊氏は、平治の乱で落ちのびた源義朝と長男儀平、次男朝長、三男頼朝を助けているが、次男朝長はここで亡くなり近くの円興寺に葬られた》

 他にも青墓には源義経に関する話、歌舞伎や浄瑠璃の「小栗判官」の照手姫にまつわる伝承も残る。照手姫は相模の国のお姫様——ということをネットで検索して知る。JR相模線の上溝駅周辺にてるて通り、てるて橋がある。

 青墓の地名の由来は諸説あるが、周辺に古墳がいくつか存在することから「大墓(王墓)→青墓」となった説が有力らしい。

 旧街道沿いは古墳がたくさんある。古墳があったから道ができたのか、人の往来が多い道だったから古墳ができたのか。
 先に道があったと考えるほうが自然だろう。ただ、古墳やら神社やら寺やらができてから、地名がつくこともよくある。歌枕の地名の由来を調べるのも面白そう。

 西行や芭蕉の旅は、歌枕探訪が目的だったという話もある。わたしもそういう旅がしたい。

2023/09/09

歌枕

 街道を歩いたり、街道本を集めたりするようになって七年ちょっとになる。街道に関する文献を読み、地図を見ているうちに、いつの間にか和歌や古典にたいする苦手意識が薄れてきた。知りたいことがあると勉強がそんなに苦にならない。

 五年十年と何か一つのことを追いかけていると、最初のころには想像していなかったようなことに興味がわいてくる。靴や足の調子にも気をつかうようになった。そういう変化も楽しい。

 高校時代、古典の授業はずっと退屈だった。どこで何をしているのかもわからないまま読んでいたせいかもしれない。源平合戦の話にしても自分が歩いた場所が出てくるだけで急に面白くなる。

 街道沿いには歌碑や句碑が無数にある。すこしずつ見覚えのある地名や歌が増えていく。専門家からすれば初歩の初歩の知識であっても、それが古典を読む手掛かりになる。

 古典(紀行文)を読むさい、歴史や地理の感覚が大切だなと……。精密な地図がなかったころの旅はどんな感じだったのか。目印になるような場所、道標みたいなものは今とは比べものにならないくらい重要だったにちがいない。

 歌枕の土地は交通の要所が多いのも偶然ではない。

2023/09/05

青墓

 日曜夕方、二日連続で西部古書会館。『坂本太郎著作集 第八巻 古代の駅と道』(吉川弘文館、一九八九年)——前の日、買うかどうか迷って棚に戻した本を入手する。名古屋以西の東海道(美濃廻り、伊勢廻り)に関する記述あり。

《鎌倉時代の東海道は近江から琵琶湖にそって北進し、美濃・尾張にかかるもので、いまの東海道線の鉄路に近いものであった。これに反し古代と江戸時代の東海道は近江から南に下って伊勢の鈴鹿をこえ伊勢から尾張に入るものであった》(「第三部 交通と通信の歴史」/同書)

『更級日記』や『十六夜日記』を読み、平安、鎌倉期の東海道は美濃廻りで、美濃の墨俣が交通の要所だったことを知った。
 わたしは東海圏(三重県鈴鹿市)に生まれ育ったのだが、墨俣はなじみのない町だった。古代の美濃の国府が不破郡垂井にあったことも街道に興味を持つまで知らなかった。垂井は中山道と美濃路の追分もある。古代・中世の街道(東山道)の青墓(青墓宿)という土地も気になる。もより駅は美濃赤坂駅——東海道本線の荒尾駅と垂井駅の間くらいにあり、美濃国分寺(跡)も近い。

『古代の駅と道』には美濃の宿駅として、野上、垂井、青墓、株瀬川(杭瀬川)、墨俣、黒田、小熊の名が記されている。

《遊女記いふ所の神崎、江口、蟹島の三所を初め、淀川沿岸に於ける彼らの活動は最も旺盛である。その他の地方に於いても、肥後の遊君、青墓のくぐつの如き、才学ある者もある。相模の足柄と、美濃の野上とにゐたことは、更科日記に記される。(中略)遊女のゐる所は、殆どすべて交通の要地である。換言すれば宿駅である》(第一部 上代駅制の研究/同書)

 青墓、傀儡(くぐつ)の地だったのか。墨俣と青墓あたりなら郷里の家から日帰りも可能である。

2023/09/03

とはずがたり

 土曜昼すぎ、西部古書会館。山本光正著『房総の道 成田街道』(聚海書林、一九八七年)、上方史蹟散策の会編『熊野古道』(向陽書房、一九九五年)など。『成田街道』は署名本だった(書き込み多し)。『斎藤茂吉資料』(斎藤茂吉記念館建設実行委員会、一九六五年)も買う。

 夕方、馬橋稲荷神社の祭を見に行き、パエリアをテイクアウトする。生ビール飲む。昨年も同じ屋台のスペイン料理を食べた。

 仕事の合間、池田香澄『とはずがたり 全訳注』(上下巻、講談社学術文庫)の街道絡みのところをちょこちょこ読む。学術文庫の書き下ろし古典全訳注のシリーズ、品切本の中には定価の倍くらいの古書価がついているものがある。『とはずがたり』の下巻、東海道の旅も綴られている。「美濃の国赤坂の宿」を通る。美濃廻り東海道である。巻末の年譜を見ると一二八九(正応二)年二月、「作者都を出立。東海道の旅」とある。作者(九我雅忠女)は三十歳か三十一歳。西行に傾倒している。やはり西行は避けて通れないのか。

 本を読んでいるうちに次に読みたい本が見つかる。文章を書いているうちに次に書きたいことが見つかる。知りたいことがすこしずつ増えていく。

 今は街道本を中心に読んでいるが、そこから派生する形で地図を見たり、古典を読んだり、歩いたりすることが楽しくなった。あと何年仕事を続けられるかわからないが、読みたい本、歩きたい場所はいくらでもある。生活さえ行き詰まらなければ、退屈しのぎには困らないだろう。問題は生活の持続である。