2010/12/29

山口瞳『追悼』

 年内の仕事が終わる。十二時間くらい寝る。知り合いにもらった銀杏をつかって炊き込みご飯を作る。夕方から飲む。三時間くらい飲んで、また六時間くらい寝る。

 無造作に袋に入れたまま押入にしまっていた資料(雑誌のコピーもろもろ)を出し、整理をしようと取りかかるが、まったく片づかない。ほとんどつかわないとわかっていても、本のように買い直せないから、捨てるに捨てられず、どんどんたまっていく。

 山口瞳の会でお世話になった中野朗さんから山口瞳著『追悼』(上下巻、論創社)をいただいた。ずっと誰かこういう本を作ってくれないかとおもっていた。山口瞳の追悼文は優れた文学案内になっている——というのがわたしの持論だ。いや、持論というか、そうおもっている人はたくさんいるだろう。

 たとえば、梅崎春生について、こんなふうに解説する。

《梅崎さんは、文学史的に言うと「戦後派」に属するのだけれど、作風や体質からすると「第三の新人」に近い。いわば「戦後派」と「第三の新人」の中間にいて、その橋渡しをしたような人だった》(鯔子奇談)

 この文章を読んだ後はそうとしかおもえない。

 梶山季之の追悼文には「私は、新進作家に会って文学の話になると、いまはいくつかの書きたいテーマがあるだろうけれど、それをひとつにして力作を書くべきだと言うのが癖のようになっていた」と書いている。

 《私には、たとえば徳田秋声の『縮図』などが頭にあった。この作品は、題名通り、何もかも叩きこんであり、私は小説とはそういうものだと思っているし、『縮図』を書いてしまうと後が書けないということもないと思っている》(人生観の問題)

 この梶山季之の追悼文は、まさに何もかも叩きこんでいる文章である。そして山口瞳の追悼文の魅力は、何といっても亡くなった作家にたいする愛情告白だろう。

《『怪しい来客簿』を読んだとき、僕は、ガーンと一発後頭部を殴られたようで、この男には何をやっても勝てないだろう、小説でも勝負事でも何でも勝てないだろうと思った》(伊吹山)

《私は吉行淳之介と同じ時代に生れ同じ時代に生活し、同じ時代の空気を吸ったことを大きな喜びとしている》(涙のごはむ)

 しかし山口瞳は色川武大の無頼派の部分、吉行淳之介の芸術家の部分を肯定しない。

 それがまた複雑な読みごたえのある追悼文にしている。

2010/12/26

文化の基盤 その六

 どういうわけでこういう文章を書くことになったのか。動機はいくつかあるが、いずれもぼんやりしている。
「文化の基盤」の話からズレるが、自分でもよくわかない一筋縄ではいかないテーマを考えていると、心身ともに消耗する。十年二十年とかけて「文化の基盤」にあたる何かを瓦解させてしまったのではないか。荒地というより、ぬかるみの上に立ち尽くしている気分だ。

『現代詩手帖』の一九七二年の臨時増刊「荒地 戦後詩の原点」の座談会を読んでいたら、鮎川信夫が次のような発言をしていた。

《鮎川 そういう意味で言うと「荒地」はいろんな人が集まった。これは「荒地」のいちばん大きな特徴だと思う。学校が同じっていうこともない。出身地も違う。地域的なサークルっていうわけじゃなかった。フランス文学もいれば、ロシア文学、ドイツ文学もいれば、イギリス文学もいる。そういう意味で言うとバラバラだった。しかもある程度共通なものを出していけたってことじゃないかと思う。それが文化という……》

「それが文化という……」以降の言葉は途中で遮られてしまうのだが、もうすこし話がすすんだ後に、鮎川信夫、中桐雅夫、三好豊一郎がこんなやりとりをする。

《鮎川 僕はほんとうのことをいうと、エリート意識が好きじゃない。「新領土」みたいにまずい詩人でもなんでも、かまわないのでのっける方が、好きなんだ。田村(※隆一)のエリート意識が危なっかしく感じられた。

 中桐 結局、あまり純粋に田村みたいに、いいものばかりさあっと集めてくるとロクなことはない。多少雑なのが入ってこないと、伸びない。

 三好 誰がうまくなるかはわからんからな(笑)》

 中桐雅夫の「多少雑なのが入ってこないと、伸びない」という発言はそのとおりだろう。「文化の基盤」においても「雑」というか「いいかげんさ」というか「ゆるさ」は大事な要素だ。それがないとすぐ行き詰まる。洗練の方向性だけでやっていくと、未知数のわけのわからない可能性がどんどん淘汰されてしまう。

 座談会では田村隆一が後年の酔っぱらい詩人のイメージとちがい、戦後の「荒地」の創刊のさい、紙の仕入れや版元の交渉など、実務に奔走していたという逸話も紹介されている。
 若いころ少数精鋭主義だった田村隆一が、後年、「荒地」の詩人の中でもっとも「いいかげんさ」を体現する人物になる。わたしの好きな逸話である。

(……続く)

2010/12/24

文化の基盤 その五

 田村隆一著『砂上の対話』(実業之日本社)に収録されている鮎川信夫との対談を読んだ。
 その中で田村隆一が同人誌から面白い詩人が出てこなくなった理由を「やはり手紙が書けないってことなんだよ。やはり同人雑誌の基礎っていうのはね、手紙が書けたり、会話ができたりする、一番狭いコミュニティーじゃなきゃ駄目なんだ。そこで、みんなお互いに大きくなっていくんですからね」と語る。
 この分析が正しいかどうかはさておき、興味深い指摘だとおもった。
 さらに田村隆一は「肉眼で見える範囲」「人間が歩いていったり、生きたり、死んでいったりする土地」を信じなければ詩は書けないという。

 かつて出版(とくに同人誌)は狭い世界だったから、あるていど読者の顔が見えた。それがしだいに拡大していくにつれ、「客っていうのが抽象的な存在になってしまって、結局売り上げ部数とか、何版重ねましたということだけが、読者からの反応ということになってしまう」とも——。

 すこし前に「内輪受け」と「一般受け」について書こうとしてうやむやになってしまったのだが、ごく身近な人に、自分の言葉がどこまで通じ、通じないかを知るという蓄積は大事だ。
 そうした蓄積がないと言葉が届いたときのミットの音(の強弱)が聞き分けられない。といいながら、今、受け手が見えない文章を書き続けている。

 同書で田村隆一は吉本隆明とも対話している。
 鮎川信夫と吉本隆明が方向音痴だいう話をしていて、田村隆一は「ほかのむずかしいことは鮎川と吉本にまかせる以外にないんだからさ。よろしくおねがいします」と話を投げる。

《吉本 それじゃ話が続かない。(笑)

 田村 続く続く。よろしく頼むほうと、よろしく頼まれたほうが話し合っていけば、おのずから文明論になっていく。ぼくは自分の分を知っているんですよ。これは生意気な言い方だけど、人にはできることとできないことがあるんです。ひとりでなにもかもやろうとしたら、全部破滅するよりしようがない》

 その後、酔っぱらった田村隆一の独演会状態になる。でも「ひとりでなにもかもやろうとしたら、全部破滅するよりしようがない」という言葉は「文化の基盤」におけるキーワードだという気がした。

(……続く)

2010/12/20

ギンガ・ギンガ vol.5

 金曜日、高円寺のショーボートで「ギンガ・ギンガ」(オグラ、ペリカンオーバードライブ、しゅう&トレモロウズ)を見る。
 半ば忘年会もかねたライブなのだが、今一年でいちばん楽しみなステージでもある。
 ちんどん太鼓(ジュンマキ堂)をひきつれたオグラさん、秋に広島に引っ越したベースのマサルさんが当日高速バスで駆けつけたペリカン、宇宙感あふれるトレモロウズ。

 高円寺界隈のバンドマンと知り合うきっかけになったのがペリカンオーバードライブでかれこれ十二年くらいの付き合い。
 一曲目から飛ばして、演奏中にどんどん仕上がっていく。パブロックの醍醐味を味わえるバンドだ。

 オグラさんは昔よりも歌い方がゆるく投げ出すかんじになった分、歌詞の熱がすっと入ってくるようになった気がする。
 前向きな歌(といっても何かと複雑なのだが)と自嘲気味なMCとの対比が、不思議な幅を作っているのかも。

 オグラのofficial web siteの「オグラのヒミツ」の『究極のゴールの話』も読んでみてほしい。
http://ogurarara.com/index.html

 四十代のバンドのふっきれたようなライブを見て、ここのところ、持続とか積み重ねとか、そういったことを考えていたのだが、もっと好きな方向に走ればいいじゃないかという気になった。
 円熟よりも、計算外のおもしろさ、即興のノリのほうが、可能性があるようにおもえた。

 会場で河田拓也さん、Pippoさん、カヒロさんと雑談。河田さんからは色川武大の単行本・全集未収録の小説や同人誌のコピーなどをもらった。
 こういうものを地道に発掘してきた河田さんには頭が下がる。

 ブログの「文化の基盤」は、先月からはじめた河田さんの(とくに目的のない)対談とその後のメールでの往復書簡をきっかけに書きはじめた。
 着地点を決めずに、今、考えていることを吐き出してみたくなったのである。

 でもこれから仕事。今日がたぶん峠になる……予定。 

2010/12/16

文化の基盤 その四

 年末進行。今週が峠。ようやく半分くらい片づいた。
 ちょうど去年の今ごろの日記を読んでいたら「一日十時間ちかく寝ている」とある。
 今年も同じだ。毎日寝ても寝ても眠い。寝て起きて原稿書いて酒飲んでいるうちに十二月はすぎていく。

 昨日は忘年会(神田)で帰りの中央線で寝てしまい、起きたら吉祥寺。吉祥寺から高円寺に戻る電車でも寝すごし、起きたら中野……。
 たしか去年もそんなことがあったような気がする。
              *
「文化の基盤」は「場」の問題と同時に「教養」の問題でもあるのではないか。
「荒地」の詩人であれば、T・S・エリオットであったり、ダンテだったり、いうまでもなく漱石、鷗外といった日本文学の伝統だったり、そうした土台のもとに、新しい創作に挑んできた。
 おそらく「第三の新人」にしても、多かれ少なかれ、何かしらの土台となる「教養」があった。さらに彼らには「戦争」という同時代体験もある。

 すくなくともわたしにはそうした土台がない。
 古典といわれる作品を読んでこなかったわけではない。ただ、それが自分の中で根づくまでには至らなかったし、今後も至ることはなさそうだ。いっぽう、土台がない中で、何をやってもいいという自由は存分に味わってきた。しかし共有する土台がないため、自分の興味を掘り進めていけばいくほど話が通じなくなる。そして自分の位置を見失う。
 それは文学に限った話ではないとおもう。

 鮎川信夫著『私の同時代』(文藝春秋)に「文学停滞の底流」というコラムがある。

 一九八四年に文芸誌の『海』が休刊し、ほかの文芸誌にしても赤字で、単行本の売り上げでその赤字を埋める状況になっていた。雑誌の赤字は年間一億から二億五千万円。出版社としても道楽だ、趣味だといつまでもこの状況を放置することはできない。

《十万売れたって恥ずかしいような本もあれば、千部でも胸を張れる本がある。だが、今の人は少しくらい恥ずかしくたって、十万部の方を選ぶだろう。社会的影響ということになれば、十万だって人口比で〇・一%にすぎない。本当によい本で、熱心な千人の読者が真剣に読んでくれるなら、その方がよほど本質的な影響力をもつのである》

 今、千部の本は膨大な出版物が溢れ返る中では埋もれてしまい、熱心な読者のもとにすら届かない。

「文学停滞の底流」では電波メディアと活字メディアを対比し、情報量やスピードでは活字はかなわないと指摘しつつも、情報の真偽を見分ける力は「書き言葉」のほうが勝っていると述べる。
 しかし「書き言葉」の優位性を放棄すれば、文学の地盤沈下はまぬがれない。言葉など信じず、相対主義に安住し、嘘を真実のように言いくるめるのも造作ない。

 鮎川信夫が三十年前に危惧していた「文学停滞」はますます進んでいる。

(……続く) 

2010/12/11

文化の基盤 その三

 二十代から三十代にかけて、わたしは商業誌の世界では「戦力」になっていなかった。すくなくとも一九九〇年代半ばくらいまでは出版業界は「戦力」にならない若手のフリーライターを食わしていける余裕があったのである。

 一九九〇年後半になると、その余裕がなくなる。ただし、もともと生活レベルが低かったから、不況になったときの落差もあまりなかった。友人のミュージシャンや演劇の関係者にしても、本業に関しては食えないのが当り前という生活だった。不安といえば、不安だったが、日々の楽しさのほうが勝った。

 それまでのわたしはフリーランスは一匹狼でなければならないとおもっていた。体力や才能、向上心、あるいは財力があれば、それも夢ではない。残念ながら、いろいろ足りなかった。人に頭を下げたくないという気持だけはあり余っていたのだが。

 鮎川信夫のいう「文化の基盤」とはニュアンスがちがうが、金があってもなくても楽しくすごせる「場」があるかどうかというのは、生きていく上でかなり大切なことだ。

 四十歳すぎても、いまだにトキワ荘のチューダーパーティー生活に憧れている。というか、銀座で飲んだり、ゴルフに行ったりするより、近所の友人とキャベツをつまみに安酒を飲んでいるほうが、ずっと楽しそうだ。

 自分にとっての「文化の基盤」にあたるものはなにかと考えたときに、三十路前に金がなくて公園や部屋で飲んでいたときの友人や二十代のころいっしょにミニコミ(B4の両面コピー)を作ってた友人のことが頭に浮ぶ。

 そういう「場」にいたおかげで、メジャー志向でもなければ、マイナー路線も極めきれない、しかも標準からもズレている自分の微妙な立ち位置みたいなものがわかった気がする。当時のわたしは自分の考え方が主流になることはないとおもっていたし、多数決になったら一〇〇%勝ち目がないとおもっていた。かといって、少数派あるいは反体制という枠の中に入れば入ったで、共同作業が苦手でやる気のない人間はお荷物になる。   

 自分や自分みたいな人間の受け皿はどこにあるのか。他人に与えてもらうのではなく、自分で作るしかないのか。二十代の十年はそんなことばかり考えていた。

(……続く)

2010/12/07

文化の基盤 その二

 仕事が一段落し、十日ぶりくらいに中野ブロードウェイのまんだらけに行く。
 家にずっとこもって文章を書いて、その合間に古本屋に行って、人と会話するのは飲み屋に行ったときだけ。
 わたしはそういう生活がきらいではないのだが、これは不健康なことかもしれない。でも生きていく上で不健康さにたいする耐性は必要だとおもっている。

 鮎川信夫の「文化の基盤」という言葉について、もうすこし考えてみたい。

 彼は「単独者」であることを自分に課していた詩人だ。
 廃虚のような埃の堆積した家で詩を書き、親しい知人の間ですら、その私生活は謎だった。そういう人物が「文化の基盤」の重要性を説いているのである。
 また鮎川信夫は「荒地」の詩人は「相互酷評集団」だったと語っていた。晩年は疎遠になったが、吉本隆明と長期にわたる対談も鮎川信夫の「文化の基盤」につながっていたのではないか。

 詩人にかぎらず、誰とも共有できない(共有しにくい)観念をもち続けることはけっこうしんどい。
 今の時代はインターネットの普及によって、同好の士を見つけることは昔よりは楽になった。簡単に得られるものは簡単に失いやすい。ひとりで考えていると「わかりあえる」「わかりあえない」の境界がどんどん曖昧になってしまう。
 自分の理解が浅いから通じないのか、考えがヘンだから通じないのか、いい方がまぎらわしいから通じないのかも曖昧になる。

「わかりあえない(わかりにくい)」ものを通じさせたいとおもうと、まわりくどいいい方になりがちだし、共感と同じかそれ以上に反発や黙殺がある。

 たとえ無理解(自分の無力さに起因するところもふくむ)にさらされても「文化の基盤」のようなものがあれば、気持を立て直しやすくなるのではないか。

(……続く)

2010/12/05

文化の基盤 その一

 おととい、神保町で打ち合わせのあと、東西線で九段下から中野まで帰り、JRに乗り換えようとしたら、強風のため、総武線の中野三鷹間が運休になった(中央線は走っていた)。
 それで中野から歩いて帰った。
 中野から高円寺までガード沿いをまっすぐ歩きながら、考え事をすると頭の中が整理される。

 この日、電車の中で鮎川信夫の『疑似現実の神話はがし』(思潮社、一九八五年)を再読していた。おそらく十数回は読んでいる本なのだが、読み返すたびに、そのときどきの自分にとって、切実なテーマが浮上してくる。

《先ほど僕は「文化の基盤」ということを言ったが、現実との詩人の闘争を考える場合、どんな基盤に立って闘うかが大事である。それがだめだと、どんな天才を持ってしてもどうにもならない。ただそこに存在する、というだけでなく、継続してそこで残されていくものを考えた場合、その基盤がきわめて重要なのである》(「風俗とどう関るか」)

 詩と風俗のかかわりだけでなく、たぶん鮎川信夫はそのもっと先の深い問題を語ろうとしている。
「文化の基盤」という言葉がその鍵である。しかし、昔読んだときはピンとこなかった。

 引用文の前に、次のように語った箇所がある。

《自分の詩については、どんな詩人でも自分の詩が何であるのか、どういう位置でどんな詩を書いているのかを知っていなければならない。創造とは主観的な行為であるとしても、客観的な批評眼をそれに加えてみる必要がある。自分がどんな文化的な基盤に立っているかを知るのは大切なことである》

 鮎川信夫や「荒地」の詩人は、戦前から「新しい詩」を書こうとし、お互いの詩を見つめあい、そこからお互いの作品が連鎖し「一種の遺産のようなもの」が形成されてきた。そうした「基盤」があるからこそ、今はだめでもいつかそれ以上のものを作ろうという気になる。グループの活動が解体してもそのつながりは残る。

 これは「荒地」の話ではあるが、映画でも音楽でも漫画でも発展しながら継承されていく基盤はあるはずだ。
 中央線文士、鎌倉文士、戦後派、第三の新人、トキワ荘……。
 かならずしも作風や才能の質はちがえど、多くの才能を生み出した「場」の力の存在は疑いようがない。

 例外はあるとおもうが、ひとりで活動しているよりもそうした「場」があったほうが持続しやすいということもあるだろう。
「文化の基盤」があるからこそ持続するのか、持続するからこそ「文化の基盤」が作られるのか、どちらともいえないところもある。

 すくなくとも、持続のためには自分の位置を知っておく必要はある。

「文化の基盤」には何らかの路線があって、それに沿って走る時期もあれば、あえて脱線を試みる時期もある。逆にそうした路線なくなると、脱線しようにも脱線しようがなく、ひたすら空回りしているような徒労感に陥ることになる。

(……続く)

2010/12/03

高円寺文庫センター

 南陀楼綾繁さんとコクテイルとペリカン時代で飲む。
 そのときにもすこし話題になったのだが、高円寺文庫センターが十二月二十五日で閉店することになった(わたしは来年一月に閉店と聞いていたので、南陀楼さんにもそういってしまったのだが)。

 一九八九年の秋から高円寺に住んでいる。当時は毎日のように深夜に文庫センターで雑誌と漫画をチェックしてから家に帰った。
 前の店舗だったころは、友達や編集者との待ち合わせ場所としてもよく利用していた。
 かなり偏った品ぞろえだったが、「自分たちはこういう本を売りたいんだ」という気迫が伝わってくる棚だった。
 同業の知人は「高円寺文庫センターのような店が日本に百軒くらいあったら、アルバイトをしなくても食っていけるようになるのになあ」とよくいっていた。

 今年から店の半分が、古本の棚になり、知り合いの古本屋さんもかかわっていたので、あまり経営がおもわしくないという話はちらほら聞いていた。
 いつかその日がくることは、あるていど覚悟はしていた。
 かつての文庫センターのあった場所は、その後、スマイルベーカリーというパン屋になり、今はオシャレな飲み屋になっている。
               *
 先日、上京していた東賢次郎さんの『レフトオーバー・スクラップ』(ふぉとん叢書・冬花社)が届く。
 夢をモチーフにした連作短篇。ストーリーうんぬんではなく、とにかく文章がしみこんでくる。
 はじめてこの小説を読んだのが、ペリカン時代のカウンターだったので、いろいろな意味で酔った。

《三十七歳になった月の末日で東京での仕事を辞め、その日の夕方には京都にきてそのまま住み始めて以来働いたことはなく、退屈したことも一度もないが、蓄えは減っていく一方なので、きりつめた生活の先に不安がないかといえばもちろんないはずはない。それで日々何をしているのかといわれると、好きな音楽をときどき人前で演奏している、というぐらいのことしかしていない》(ないないづくし——あとがき)

 上京中の東さんと五日連続で飲んだ。
 京都での生活の話は、そのまま小説になるのではないかとおもえた。

 同じ日、山川直人さんの『澄江堂主人』(前篇・エンターブレイン)も届いた。
 芥川龍之介や佐藤春夫が漫画家という設定で、画家で装丁家の小穴隆一も出てくる。「田端文士村」は「田端漫画家村」になっている。

 当時の作家(設定では漫画家だけど)群像だけでなく、大正から昭和初期の時代の雰囲気が、ものすごく緻密に描かれているから、一コマ一コマゆっくり読みたくなる。

《「遺伝」「境遇」「偶然」
 「我々の運命を司るものは畢竟この三者である」》

 全三巻の予定らしい。完結したらまちがいなく大きな漫画賞を受賞するとおもう。