2025/03/25

ガラス板

 二十三日、日曜。都心の最高気温は二十五度以上を観測、今年初の夏日だった。すこしずつ衣替えをはじめる。最近、薄くて柔らかくて洗濯してもしわがつかない夏用の長袖のシャツを見かけなくなった(古着屋で買っている)。

 土曜、中野の桃園町(現・中野三丁目)あたりをうろうろ歩く。セブンイレブンやファミリーマートも「中野桃園町店」があり、「桃園」の名を残している。斜めの道を歩いて囲桃園公園を通る。公園の近くにはザ・ポケットなど、小劇場が何軒かある。

 そのあと駅の北口に行き、中野ブロードウェイ。墓場の画廊を見て、ブックス・ロンド社で水の文化情報誌『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を買う。寺田寅彦の特集は『サライ』の「科学と遊ぶ 寺田寅彦先生の理科大学」(一九九一年十二月十九日号)などがあるけど、たぶんそんなに多くないとおもう。『月刊FRONT』の特集は知らなかった。

「天災は忘れたころ来る」の警句は寺田寅彦の言葉として知られるが、「意外なことに、寅彦の書いたものには記されていない」との囲み記事あり。

 高校時代、寺田寅彦の弟子(孫弟子だったかもしれない)という物理の先生がいた。授業中、よく寝ていたので定規で何度か頭を叩かれた。まあまあ痛かった。そんな過去の経験から古本屋通いをはじめてしばらくの間、寺田寅彦は避けていたのだが、あるとき『柿の種』(岩波文庫)を読んだ。
 一九九六年四月十六日が第一刷でわたしが持っているのは同年十一月八日第六刷である。半年ちょっとで六刷はすごい。

 一九九五年十一月末に業界紙の仕事をやめた。二十六歳から三十歳過ぎまでアルバイトで食いつないでいた。そのころ『柿の種』を読んだ。
 同書の冒頭の随筆にこんな一節がある。

《日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている》

 その境界を行き来するには「小さな狭い穴」を通るしかない。何度も行き来していると、その穴はすこしずつ大きくなる。穴を見つけても通れない人がいる。

《しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある》

 寺田寅彦は「かもしれない」「らしい」「ような気がする」をよくつかう。
 なんとなく戦後の軽エッセイの文体に近い(ような気がする……と書きたくなる)。文章が軽やかで古くない。

《眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
 しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
 なぜだろう》(大正十年三月、渋柿)

『柿の種』の「短章 その一」のわずか三行の文章。文庫の二十八頁。頁の空白もいい。

2025/03/21

松ノ木

 火曜日、高円寺駅から永福町行のバスで松ノ木二丁目。松ノ木は和田堀公園の近くに松ノ木遺跡がある。『燒酎詩集』(日本未来派発行所、一九五五年)の及川均(一九一三~一九九六)もこのあたりに住んでいた。善福寺川も近い。

《生きてることの徒労のために。
 まず一杯。》(「わきめもふらず。ジグザグに」抜粋/『燒酎詩集』より)


 サミットストア成田東店に寄り、杉並税務署へ。途中の住宅街でちょっと迷いかけたが、無事、辿り着くことができた。阿佐ケ谷駅から歩くより近い。近いが、道がわかりにくい。ここ数年、迷いそうな道が好きになった。

 帰りはパールセンターを通り阿佐ケ谷駅、ガード下を歩いて高円寺に帰る。

 病気、ケガをすると健康のありがたみがわかる。自分の暮らす町もそういうところがある。近所の散歩をしていても心のどこかで「いつまでこの町を散歩できるのだろう」という考えが頭をよぎる。健康もそうだが、この先、経済事情を理由に東京を離れることもあるだろう。たぶんどこに住んでも散歩するだろう。

 いつまで日常が続くかわからない。ただ町を歩いているだけで貴重なことにおもえる。その心境は老いと関係しているにちがいない。

 二十代三十代のころは、今の窮地をしのげば、この先よくなるという根拠のない希望を持てた。五十代になると厳しい状況を乗り越えても、すこし先にもっと大変なことが待っていると薄々わかっているので喜ぶ気持になれない。とはいえ、悲観ばかりしていても仕方がない。

 木曜の祝日、妙正寺川、鷺盛橋、蓮華寺の散歩コースを楽しむ。蓮華寺の河津桜は葉桜になっていた。

2025/03/15

大和町の話

 木曜、御茶ノ水から九段下まで散策。一誠堂書店の店頭にて『ふるさと草子 高野辰之と野沢温泉』(斑山文庫収集委員会編、野沢温泉村、一九八九年)。一誠堂の茶色の袋は丈夫でいい。持ち手の部分がプラスチックなのもいい。高野辰之(一八七六〜一九四七)は唱歌「故郷」「朧月夜」「春の小川」などの作詞家で国文学者。わたしは「故郷」の「小鮒釣りしかの川」問題に関心があり、長野の高野辰之記念館は訪問したいとおもいつつ、まだ行ってない。「かの川」は高野辰之の郷里の千曲川支流の斑尾川説が有力なのだが、異説もある。

 金曜昼すぎ、西部古書会館。木曜から開催していた。『とり・みきのしりとり物語』(角川書店、一九九六年)など。今回、漫画が充実(ただ、部屋の置き場所問題で買えず)。とり・みきは漫画だけでなく文章もファン。

『しりとり物語』に「居場所置き場所」というエッセイがある。「世の中には二種類の人間しかいない」という有名な台詞を引き、「本を棄てることのできる奴と、後生大事にとっとく奴だ」という話になり、とり・みきの引っ越し後の話になる。

《私はあいかわらず部屋に充満する段ボール箱に押しつぶされそうになりながら仕事している。そしてその内容物のほとんどが本とビデオだ》

 昨年十二月、仕事部屋の引っ越しをした。三ヶ月経って、いまだに部屋の床の八割くらい本の段ボールに埋めつくされている。引っ越し当初は床が見えなかった。三月中に床半分見えるようにしたいのだが、今のペースだとむずかしい。

 掃除の途中、中野区大和町を散歩する。

 一九八九年秋に高円寺に引っ越してきたころ、大和町の銭湯にもよく行った。
 鶴乃湯、藤の湯、若松湯、大和湯……。ほかにもあったかもしれない。当時、住んでいたアパートの近くの銭湯はお湯が熱すぎて入れなかったのだ(その後、入れるようになった)。

 大和町ではないが、野方駅と都立家政駅の間にたからゆという銭湯がある。まだ入ったことがない。

 大和町の中央通りに「イワン」という飲み屋があった。深夜も営業していて料理もうまかった。最初は学生時代のライターの先輩(ずいぶん会っていない)に連れていってもらった。大和町を散歩していると、昔の記憶がよみがえる。

 最近、大和町の八幡通りもよく散歩する。環七の八幡前(バス停)から大和町八幡神社、そして蓮華寺、お伊勢の森(バス停)。ちょっと斜めの道がいい。

2025/03/10

今日こちらに

 今月三月十二日刊行の梅崎春生著『ウスバカ談義』(ちくま文庫)の解説を担当しました。梅崎春生の解説にもかかわらず、画家の秋野卓美の話をたっぷり書いた。同短編集には表題作をはじめ、秋野卓美がモデルといわれる人物が何作も登場します。

 週末、西部古書会館(均一祭)。初日一冊二百円、二日目百円。
 土曜は『鹿子木孟郎 水彩・素描展』(三重県立美術館、一九八九年)、『川原慶賀展』(西武美術館、一九八七年)、『熊谷守一展』(岐阜県美術館、NHK名古屋放送局=編集、二〇〇四年)、『江戸名所図会の世界展』(北区飛鳥山博物館、二〇〇八年)、『有島兄弟三人展 武郎 生馬 里見弴』(信州新町美術館、一九八八年)など、図録を中心に買う。

 今回の均一祭で『没後50年 鹿子木孟郎展』(三重県立美術館、一九九〇年)もあったのだが、インターネットの「日本の古本屋」で買ったばかり。よくある。
 鹿子木孟郎は初期(十代から二十代はじめ)の水彩、鉛筆、木炭の風景画がすごい。「崖の下の家(津の近郊)」という作品もある。いっぽうヨーロッパに留学して洋画をしっかり学んだ後の絵は「よく見る油絵」といった感じでピンとこなかった。年譜を見ると、自身の画業と同じくらい後進の育成に力を入れていた人のようにおもう。
『鹿子木孟郎 水彩・素描展』は招待のハガキも付いていた(家に帰ってから気づく)。

『川原慶賀展』はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの専属絵師だった画家の図録である。展示作品はすべてオランダのライデン国立民族学博物館のコレクションとのこと。街道の研究をしていると次から次へと気になる人物が現れる。

 日曜昼、均一祭二日目。この日も図録を中心に買う。『受贈記念特別展 古地図の世界 南波松太郎氏収集 日本図・道中図・世界図』(神戸市立博物館、一九八三年)、『文藝春秋デラックス 四季の詩情 日本文学百景の旅』(一九七五年)など計十冊。

 南波松太郎は船舶工学の第一人者として知られる古地図収集家。米寿を迎えたことを機に約四千点の古地図資料を博物館に寄贈した。

『文藝春秋デラックス』は五十年前の雑誌とはおもえないくらい状態がよかった。文学百景――三重県は三木露風の「志摩の村」が入っている。

《海浜に出ると茫洋一目に映り、
 漁船が風景の点在の中の中心となり、
 風が見えぬ模様を織り出して、
 落寞たる遠里の方をも美化する》

 三木露風は童謡「赤とんぼ」の詩人として有名だが「志摩の村」は知らなかった。いつごろの作品なのか。三鷹市立図書館に露風の全集があるようなので今度三鷹を散歩したさい、ついでに調べようとおもう。露風は一九二八年から亡くなる一九六四年十二月まで三鷹市牟礼に住んでいた。

 同誌の「特別紀行」(文学再訪)——小川国夫「武蔵野・独歩と私」は武蔵野の街道に着目していて興味深く読んだ。

2025/03/06

三寒四温

 三月二日、日曜、小田急で小田原駅、在来線で熱海駅。小田原〜熱海間の車窓が好きなのでこの区間はなるべく在来線に乗りたい。熱海駅は改札を出てすぐのところに足湯(家康の湯)もある。当然、浸かる。駅前の格安チケットの自販機で浜松までの新幹線の自由席切符を買おうとおもったら売り切れ。熱海〜名古屋の切符はあったので、こだまで名古屋まで行く。
 昼前、名古屋駅のエスカ地下街を散策。昨年七月に復活したスガキヤの新店舗に行くと半額サービス中で大行列だった。諦める。
 JRで岐阜駅へ。名古屋〜岐阜間は名鉄のほうが運賃が高い。「岐阜駅本の市2025」に行く。古書ますく堂さんを見かけたので挨拶。文庫サイズの『なまけもの雑記 増田啓子のバラエティブック』(なまけもの文庫、二〇二四年)購入。メイン会場は大盛況——三省堂編『にっぽん「独立国」事典』(三省堂、一九八五年)と街道資料四冊。中山道を十五分ほど歩いて岐阜駅に戻る。
 関西本線で四日市駅、アーケード商店街内の東海道をすこし歩いてスーパーサンシで調味料(伊賀越の小さな醤油など)、ビールと夜食を買い、近鉄百貨店四日市店の歌行燈で鶏南蛮うどんときのこ天丼のセット(茶碗蒸し付)を食べる。歌行燈は郷里の家の徒歩圏にもあるが、近鉄百貨店の店は駅から直通なので楽。同店のうどんのだしのパックも買う。

 この日は最高気温二十度以上。移動中、上着はカバンに入れていた。
 家に帰って荷物を置き、港屋珈琲でアイスコーヒー。夜、家の掃除(カビとりなどをする)。

 三日、急激に冷える。最低気温四度。雨。
 母と港屋珈琲でモーニング。家に帰り、韓国の時代劇(二本立て)を見る。話の筋はわからないが、顔芸で悪役が誰なのかはわかる。昼、飯野神社に行き、そのあと鈴鹿ハンター内のブックオフ、カレーハウスDONでテイクアウト。夕方くらいまで散歩。名前の付いた道ではないが、中央道路のすこし北の神戸城跡や寺社が並ぶ旧街道っぽい道を歩く。おそらく伊勢街道の神戸宿(神戸城)と東海道の亀山宿(亀山城)を結ぶ脇街道のような道だったのではないかと想像する。平田町駅の先は工場やショッピングモールなどが建っているので旧道っぽい道は途切れてしまうのだが、途切れた先の鈴鹿環状線(県道54号)の周辺には国府城跡(ちょっと離れている)や寺や神社もある。鈴鹿川の鈴国橋の南のほうには古墳がけっこうある。

 鈴鹿は「道の神」猿田彦大神の総本宮の椿大神社もある。同神社が伊勢の国の一の宮ということは大人になってから知った。

 二〇一六年五月に父が亡くなったあとも椿大神社にとりめしを食べに行った。そのころから街道歩きをはじめた。きっかけは武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)を読んだことで、同書に鈴鹿サーキットも出てくる。「道の神」に導かれたのか。

 最初のころは道標や一里塚などを探して歩くのが楽しかったが、今は街道沿いの地形に興味が移った。

 四日、雨。おじの車でメガドンキ(鈴鹿店)のフードコートのスガキヤへ。肉入ラーメン。この日、雪予報で電車が心配だったので早目に東京に帰る。郷里の家で見ていたテレビで東名高速は「予防的通行止め」のニュースが流れていた。
 名古屋からは、のぞみではなく、ひかりの自由席に乗る。けっこう空いていた。

 (追記)もともと三寒四温は冬の言葉らしいのだが、日本では寒暖差の激しい三月はじめにつかわれることが多い——とのこと。

2025/03/02

個性の宿命

 三月温暖(また寒くなるという予報も)。部屋の掃除中、松本清張著『実感的人生論』(中公文庫、二〇〇四年)が出てきたので、パラパラとつまみ読み。同書の「小説に『中間』はない」にこんな一節があった。

《作家の才能の素質は、言葉の便利の上でいえば、私小説的な構成の型と、物語的な構成の型とに分けてよかろう。これは作家の個性の宿命である》

 この傾向は書き手だけでなく読み手にもあるようにおもう。たぶんわたしが私小説や身辺雑記を好むのは、そういう「型」が自分に合っているからだろう。

 自問自答がしたくて本を読むことがある。物語を読むときは、ストーリーを追うことに専念したいので、自問自答が少なくなる。もちろんそれはそれで楽しい。現実逃避は嫌いではない。

「私小説的な構成」と「物語的な構成」——仮説としてはいつ読んだかも関係しているかもしれない。
 十代のころ、家や学校など環境面の不具合で悩んでいたときは「ここではないどこかへ」誘ってくれるような荒唐無稽な話を好んでいた。
 私小説に傾倒するようになったのは二十代後半——仕事がなく、金がなく、人間関係その他失敗続きの時期である。私小説の「私」は不遇なことが多いので、その考え方、感じ方がよくわかるし、身につまされるわけだ。気分も沈みがちだから、長い作品が読めない。その点、私小説は短編が多い。それもよかった。

 わたしの場合、尾崎一雄がそうだった。作家ごとに生活の立て直し方、あるいはダメになり方がある。わかっていてもどうにもならない。どうにもならないことは諦め、どうにかなることに活路を見出す。どう力を抜くかみたいなことも病気がちな作家に学ぶところが多かった。学んだからといって、生活が向上するわけではないが、ちょっと楽になった。