先週末の西部古書会館。中野区の郷土史関係の冊子がたくさん出ていた(一冊二百円)。元の持ち主は同じ人なのかもしれない。
『郷土中野』(東京都中野区教育振興会、一九六七年) 中野区立中学校教育研究会社会科研究部編『のびゆく中野 〈49年度版〉』(東京都中野区教育振興会、一九七四年改訂)、『なかのの地名とその伝承』(中野区教育委員会、中野区立歴史民俗資料館、一九八一年、二〇〇七年五刷)、『中野を読む Ⅰ 江戸文献史料集』(中野区教育委員会、中野区立歴史民俗資料館、一九九二年)など。あと『ねりまの文化財と散歩道』(練馬区教育委員会、一九八九年)も買った。
『なかのの地名とその伝承』に「沼袋の一枝郷 『大場村』の地名について」という記事あり。
《野方一丁目の環七通りに「大場(だいば)通」というバス停留所があります。(中略)現在の早稲田通りをはさんで大和町あたり一帯は、江戸時代から大場と呼ばれていたのです》
大場には「広い地域」「台地」の二つの意味がある。
《大和町に以前から住んでいる人の話によると、明治から大正にかけて、このあたりは、人家もほとんどなく、土地の高低もよくわかり、また近くに「北原」や「籠原」の呼び名が残されているように、雑木林や原っぱの広がるさびしい村落だったそうです》
早稲田通りも大和町や野方のあたりでは「大場通り」と呼ばれている。野方駅の北口が北原通りや籠原公園がある。野方に暮らしていた福原麟太郎の随筆に籠原観音(緑野中学校のそば)の話が出てくる。
『なかのの地名とその伝承』の「鷺宮」の頁には「昭和初期今の鷺宮駅付近から富士山をのぞむ」という写真も。今でも見える場所はあるらしい(未確認)。
昨年末、中野区大和町に仕事部屋を移した。その前から妙正寺川沿いの道はよく歩いていた。とくに白鷺せせらぎ公園から鷺ノ宮駅方面に向かう途中の大きく蛇行する道が気にいっている。
『中野を読む Ⅰ 江戸文献史料集』を見ていたら「大正末期の鍋屋横丁界隈」という地図(コピー)が挟まっていた。『のびゆく中野 〈49年度版〉』の「江戸初期の中野」の頁には中野の鍋屋横丁付近の「追分」に関する記述あり。
《もとの橋場町に「追分」という地名が残っていた。この地名によってもわかるように鍋屋横丁あたりから祖師堂街道と青梅街道とが二つに分かれていた。(一説には、このあたりは青梅街道と旧鎌倉街道との分岐点であったために名付けられたともいわれている)》
《祖師堂街道そのものが旧鎌倉街道の名残りだという説も別にある》
東京メトロ丸ノ内線の新中野駅付近、中野区中央四丁目に「追分公園」 、鍋屋横丁の青梅街道付近に道標(鍋横道しるべ)がある。杉並区堀ノ内三丁目の妙法寺、祖師堂の前の妙法寺商店街から鍋横までの道は何度か歩いている。
旧鎌倉街道……だったかもしれない道は中野区、杉並区の散歩圏内のあちこちにある。阿佐谷パールセンター商店街もそう。