2025/04/26

中野の話

 先週末の西部古書会館。中野区の郷土史関係の冊子がたくさん出ていた(一冊二百円)。元の持ち主は同じ人なのかもしれない。

『郷土中野』(東京都中野区教育振興会、一九六七年) 中野区立中学校教育研究会社会科研究部編『のびゆく中野 〈49年度版〉』(東京都中野区教育振興会、一九七四年改訂)、『なかのの地名とその伝承』(中野区教育委員会、中野区立歴史民俗資料館、一九八一年、二〇〇七年五刷)、『中野を読む Ⅰ 江戸文献史料集』(中野区教育委員会、中野区立歴史民俗資料館、一九九二年)など。あと『ねりまの文化財と散歩道』(練馬区教育委員会、一九八九年)も買った。

『なかのの地名とその伝承』に「沼袋の一枝郷 『大場村』の地名について」という記事あり。

《野方一丁目の環七通りに「大場(だいば)通」というバス停留所があります。(中略)現在の早稲田通りをはさんで大和町あたり一帯は、江戸時代から大場と呼ばれていたのです》

 大場には「広い地域」「台地」の二つの意味がある。

《大和町に以前から住んでいる人の話によると、明治から大正にかけて、このあたりは、人家もほとんどなく、土地の高低もよくわかり、また近くに「北原」や「籠原」の呼び名が残されているように、雑木林や原っぱの広がるさびしい村落だったそうです》

 早稲田通りも大和町や野方のあたりでは「大場通り」と呼ばれている。野方駅の北口が北原通りや籠原公園がある。野方に暮らしていた福原麟太郎の随筆に籠原観音(緑野中学校のそば)の話が出てくる。

『なかのの地名とその伝承』の「鷺宮」の頁には「昭和初期今の鷺宮駅付近から富士山をのぞむ」という写真も。今でも見える場所はあるらしい(未確認)。

 昨年末、中野区大和町に仕事部屋を移した。その前から妙正寺川沿いの道はよく歩いていた。とくに白鷺せせらぎ公園から鷺ノ宮駅方面に向かう途中の大きく蛇行する道が気にいっている。

『中野を読む Ⅰ 江戸文献史料集』を見ていたら「大正末期の鍋屋横丁界隈」という地図(コピー)が挟まっていた。『のびゆく中野 〈49年度版〉』の「江戸初期の中野」の頁には中野の鍋屋横丁付近の「追分」に関する記述あり。

《もとの橋場町に「追分」という地名が残っていた。この地名によってもわかるように鍋屋横丁あたりから祖師堂街道と青梅街道とが二つに分かれていた。(一説には、このあたりは青梅街道と旧鎌倉街道との分岐点であったために名付けられたともいわれている)》 

《祖師堂街道そのものが旧鎌倉街道の名残りだという説も別にある》

 東京メトロ丸ノ内線の新中野駅付近、中野区中央四丁目に「追分公園」 、鍋屋横丁の青梅街道付近に道標(鍋横道しるべ)がある。杉並区堀ノ内三丁目の妙法寺、祖師堂の前の妙法寺商店街から鍋横までの道は何度か歩いている。

 旧鎌倉街道……だったかもしれない道は中野区、杉並区の散歩圏内のあちこちにある。阿佐谷パールセンター商店街もそう。

2025/04/20

九段下

 あたたかい日が続く。長袖のヒートテックをしまう。貼るカイロは三十袋入り一箱未開封のままだ。そろそろコタツ布団を片付けようとおもう。晴れの日一万歩の日課もなんとかこなせている。

 木曜夜、神保町から靖国通りを歩いた。九段下周辺の夜景を楽しむ。九段下の昭和館から高灯籠のすこし先まで歩くと東京タワーが見える。靖国神社沿いの道から東京スカイツリーが見える場所もある。

 九段下のバス停から小滝橋前車庫行きの都営バス(飯64)がある。まだ乗ったことがない。九段下駅からすこし北に歩いて、セブンイレブンの北の丸スクエア店の近くにバス停がある。十九時台のバスも四本。小滝橋前車庫は東京メトロ東西線の落合駅のすぐ近く。早稲田通りを歩けば三、四十分で高円寺に着く。
 一口坂の小諸そば市ヶ谷店で春盛天のうどん。一口坂はなか卯九段南店もある。ちなみに今月初の外食である。ずっと自炊していた。

 市ヶ谷橋から外濠(市ヶ谷濠、新見附濠)を眺める。市ヶ谷の濠、上京してしばらくは川だとおもっていた。もともと四十歳前後から川を見るのが好きになったのだが、五十の坂をこえてから、樹木にも興味が芽生えてきた。家にこもって仕事をしていると、むしょうに木が見たくなる。この日は四ツ谷駅まで歩くつもりだったが、市ケ谷駅から電車に乗る。

 そのうち米の値段は下がるだろうと二キロずつ買っていたのだが、もう諦めた。今の米がなくなったら五キロずつ買うことにする。胚芽米も昨年の今の時期と比べて倍の値段になっている。

 先日買った石川浩司著『地味町ひとり散歩 「たま」のランニングの大将放浪記』(双葉社)、埼玉県の高麗(こま)を歩いている。今年の三月はじめにわたしも高麗川を散策する計画を立てていたのだが、急遽、郷里の三重に帰省する用事ができてしまい、まだ行ってない。斎藤潤一郎著『武蔵野』(リイド社、二〇二二年)の第一話も高麗である。

 高麗、あるいは新羅が元になった地名は日本のあちこちにある。馬に関係する土地が多い。古代の街道の整備に渡来人が関わっている。

2025/04/14

宿場町、地図その他

 旧街道を歩いて宿場町に寄る。本陣、脇本陣、常夜燈、一里塚、道標……。歩きながら町の歴史や地理を知る。週末、「マケイン」という言葉が気になってアニメ『負けヒロインが多すぎる!』全十二話(二〇二四年七月放映)を二日かけてアマゾンプライムで視聴した。東三河の学校が舞台で二川宿、吉田宿周辺の東海道がちょくちょく出てくる。「吉田中安全秋葉山常夜燈」や豊橋鉄道の駅や周辺の町も描かれている。四月十二日の中日新聞のサイトに「続編制作決定」の記事が出ていた。

 郷里に帰省するさい、浜松と豊橋はよく途中下車して街道を歩いている。まだまだ知らないところがたくさんある。

 土曜の昼、西部古書会館、『同時代 第三十一号 特集Ⅰ 樹について 特集Ⅱ 辻まこと』(法政大学出版局、一九七六年)、『歴史カタログ 第2集 幕末維新古地図大図鑑』(新人物往来社、一九七七年)、佐佐木信綱著『ある老歌人の思ひ出 自伝と交友の面影』(朝日新聞社、一九五三年)など。いずれも百円〜二百円だった。

『同時代』は矢内原伊作が編集発行人の雑誌(発行所「黒の会」)。辻まことは一九七五年十二月に亡くなったので没後刊行の特集である。巻末に辻まことの書誌も載っている。

『歴史カタログ 第2集』は岩田豊樹・歴史に親しむ会編集。表紙カバー裏に年表や図版、大判のカラー印刷で凝っている。一番すごいとおもったのは「海陸道中図絵」(安政年間=一八五四年〜六〇年)。鳥瞰図として精密で素晴らしい。この地図ははじめて見た。版元は仁龍堂(信州)である。阿賀川、信濃川が描きこまれていて、会津や越後の地形がよくわかる。
『歴史カタログ』第1集は「日本歴史大図鑑」。巻末の「歴史カタログ」刊行予定には第3集「日本紋章大図鑑」、第4集「日本肖像大図鑑」、第5集「日本甲冑図鑑」、第6集「戦国合戦古地図大図鑑」と告知しているが、刊行されたかどうかは不明である(もし第6集が出ていたらほしいのだが)。

 佐佐木信綱は郷里・三重県鈴鹿出身の歌人で目次の最初に「石薬師・松阪・東京」とある。

《廣重の東海道五十三次の画を次々に見てゆくと、終りに近づいて、本陣の前を馬に乗った旅人が通って行く、家つづきのうしろは林で、近い山は色こく、遠い山が淡く聳えつづいてをる構図がある。これが自分のふるさと、伊勢石薬師駅である》

 石薬師には佐佐木信綱記念館がある。わたしが生まれ育った町は東海道の石薬師宿の隣の庄野宿がもよりの宿場町だった。今、親が暮らしている家は伊勢街道の神戸宿が近い(父の墓は神戸宿の寺にある)。
 石薬師宿を歩くと「信綱かるた道」がある。わたしが郷里にいたころはなかった(二〇〇四、五年ごろにできた)。

(追記)四月十二日放送の「ブラタモリ」、伊勢街道の神戸宿界隈を歩いていたと知る。見逃した。

2025/04/10

戸田球場

 PR誌『ちくま』四月号に梅崎春生の『ウスバカ談義』に関するエッセイを書きました(九日「webちくま」に公開)。

『フライの雑誌』(133号)の特集は「日本の渓流のスタンダード・フライラインを考える」。わたしは「国道16号線と小流域」というエッセイを書いた。先月、三重に帰省したときに柳瀬博一著『国道16号線と「日本を創った道」』(新潮文庫)を再読した。国道16号線を通して、地域の地理、歴史、文化を論じる。道や川にたいする見方が大きく変わった。

 フライフィッシングショップなごみの遠藤早都治さんのエッセイはいつも引き込まれる。「時間」という言葉が重い。

 調べて考えて試して……。すぐ答えが出るわけではないが、それを続けていくしかない。

 火曜日、久しぶりに埼京線に乗る。くもり空で富士山は見れず。武蔵浦和駅からバスで戸田球場。イースタンリーグのヤクルト西武戦をつかだま書房の塚田眞周博さんと観戦する。三月下旬に塚田さんと相談して、この日に決めたのだが、村上宗隆選手の復帰、ドラフト一位の中村優斗投手、バウマン投手の初登板という試合をネット裏から観ることができた。塚田さん、野球運が強い(二〇一五年のヤクルトのセ・リーグ優勝決定試合も塚田さんにチケットを取ってもらった)。中村優斗投手はブルペンで投球練習中、軽く投げている感じなのだが、すごい球だった。一軍で投げる日が楽しみだ。

 西武の先発、アンダースローの與座海人投手もよかった。スピードガンの表示は百二十キロ台なのに速いし、力強い球に見える。変則派の投手は見ているだけで面白い。昔からわたしはアンダースロー、サイドスローが好きである。

 試合は負けたけど、ファームの試合は選手の活躍が見れるだけで嬉しい。順位や勝ち負けを気にせず、野球を楽しめるのもありがたい。戸田球場のレフト側の桜も咲いていた。

 二軍の愛称、西武の「子猫軍」は微笑ましい。ヤクルトは「戸田軍」である。他もファームの球場の所在地+軍が多い。二〇二七年にヤクルトのファームは埼玉県の戸田から茨城県の守谷に移転する予定なので「戸田軍」と呼べるのは来年までか。

 帰りは武蔵浦和駅から赤羽駅で途中下車し、ひたすらビンの赤星を飲む。赤羽駅からは高円寺駅までバスで帰る。

2025/04/07

散歩道

 晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課は今年に入って達成率七、八割といったところ。雨の日はほぼ五千歩以上歩いている。

 金曜日、阿佐ケ谷方面に向かって桃園川遊歩道を散歩中、そぞろ書房の山川直人漫画原画展「本の街を散歩」(四月二十日まで)を思い出し、立ち寄る。
 八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店で石川浩司著『地味町ひとり散歩 「たま」のランニング大将放浪記』(双葉社)のサイン本を買う。鈴鹿市の長太ノ浦(なごのうら)も歩いている。石川浩司、文章の軽みがすごい。

 土曜昼すぎ、西部古書会館。大均一祭初日(二百円)。『蘆花の生涯 徳冨蘆花記念文学館図録』(徳冨蘆花記念文学館、一九九七年)、NHKテレビロータリー編『わたしの散歩道』(竹井出版、一九八〇年)、豊田武、児玉幸多編『体系日本史叢書 交通史』(山川出版社、一九七〇年)、『S・Fマガジン 眉村卓追悼特集』(二〇二〇年四月号)、あと漢詩(白居易、陶淵明)の本など。蘆花の図録ははじめて見た。徳冨蘆花記念文学館は群馬県の伊香保にある。伊香保はまだ行ったことがない。

『わたしの散歩道』は春・夏・秋・冬の四章構成。出演者は四十六名。冒頭は谷内六郎(砧緑地)。梶原一騎(西大泉)、園山俊二(上高井戸)、滝田ゆう(国立)の名も。田中澄江は中野の哲学堂周辺(公園内に妙正寺川が流れている)を散歩。野方あたりに暮らしていたとも。
 井出孫六は国分寺の「旧鎌倉街道・万葉植物園」を散策している。当時、四十代後半くらいだが、見た目が若々しい。歩き煙草の写真も載っている。

 滝田ゆうはどこを切り取っても滝田ゆう。

《散歩に出るのは、仕事が手につかない時ですね。散歩といっても、ほとんど何か虚な感じで(笑い)あてもなく歩くっていうような感じになっちゃうと思うんですけれども》

 昔のテレビ番組の多数のゲストが登場する本は面白い(写真も貴重)。竹井出版は一九九二年に致知出版社に改称。地産グループの故・竹井博友が作った出版社である。

 西部古書会館のあと早稲田通りを歩く。中野区大和町から東に向かって早稲田通りを歩いて環七を渡ると住所が野方になる。普通の家みたいな喫茶店がある。路地に小さなパン屋がある。大新商栄会という小さな商店街がある。銭湯の上越泉、理髪店、和菓子屋、酒屋、クリーニング店……。

 早稲田通り沿いに大新横丁というバス停(関東バス)がある。時刻表をメモする。野方駅〜新宿駅西口のバスも走っている。一時間に一本から三本。行きと帰りで停車順がちがう。新宿駅西口からのバスは大新横丁で停まるが、新宿方面に向かうときは早稲田通りの一つ手前の東京警察病院北門前のバス停まで行く必要がある。それなら環七の大場(だいば)通りの都営バスのバス停から新宿駅行きのバスに乗るほうが近い。

 野方駅や練馬駅から高円寺駅行きのバスに乗るようになって、大場通り(早稲田通り)の名を知った。

 夜、「イマキュレートイニング」という言葉を知る。四月五日のヤクルト中日戦、ヤクルトの石山泰稚投手が一イニング三者連続三球三振で試合を締めた。スワローズとしては国鉄時代の金田正一投手以来、七十年ぶりの記録とのこと。イマキュレートは「完璧」という意味だそうだ。

2025/04/04

歩き花見

 寝る時間と起きる時間が五、六時間ズレる日が一週間以上続く。寒暖差のせいか。

 月曜夕方、小雨の中、小学校や中学校の桜を見ながら、野方、練馬を散歩する。野方北原通りの肉のハナマサのあと、環七の豊玉南歩道橋からスカイツリーを見る。東武ストアに寄り、練馬駅のすぐ北の平成つつじ公園で桜を見る。

『ウィッチンケア』十五号届く。「先行不透明」という心境小説を書いた。随筆とどこがちがうのかはよくわかっていない。自然や風景と向き合いながら自分のことを思索する私小説っぽい随筆、もしくは随筆っぽい私小説というのが、わたしの考える心境小説である。今のところ、そういうふうに理解している。

 前号の「妙正寺川」も心境小説のつもりで書いた。

《五十四歳、今年の秋で五十五歳になる。一九五〇年代ならもうすぐ定年である。
 十九歳で上京し、その年の秋に高円寺に引っ越した。老いたとおもう。気分は余生だ》(妙正寺川)

「先行不透明」にも「五十五歳」「定年」「余生」という語句が入っている(書いているときは気づかなかった)。常々、自分の年齢(心境)と文章をうまくなじませたいとおもっているのだがむずかしい。十年くらい試行錯誤して、ようやくなじんだころには合わなくなる。

 昨年末、高円寺から妙正寺川に向かう途中の大和町に仕事部屋を引っ越した。本や本棚は台車で運んだ。いわゆる立ち退きなのだが、おかげで妙正寺川に近づくことができた。

「先行不透明」は引っ越しのあと、夜、仕事帰りによく歩く道について書いた。五十歳を過ぎたころから、都心の夜景が好きになった。暗い道を歩いていて、光るタワーが見える場所を通りかかると嬉しくなる。なぜ嬉しくなるのかもよくわかっていない。

 高円寺の桃園川緑道の桜もけっこう咲いていた。

2025/04/01

寅彦の勉強法

 昨日の夜、ブログを更新したつもりが、されてなかった(たまにある)。

 金曜夕方(寝起き)、西部古書会館。『漱石と高浜虚子 「吾輩は猫である」が生まれるまで』(新宿区立漱石山房記念館、二〇一九年)、『夏目漱石 漱石山房の日々』(高知県立文学館、二〇〇七年)、『ふくやま文学館 開館20周年記念 夏目漱石 漱石山房の日々』(ふくやま文学館、二〇一九年)など、漱石関連の文学展パンフを三冊。「漱石+子規」の文学展パンフは何種類もあるが、「漱石+虚子」は珍しい。文学館の企画で「漱石+他の作家」の組み合わせはもっとあっていい気がする。


『夏目漱石 漱石山房の日々』はタイトルと目次の並びが途中までは同じで高知県立文学館版は「第3部 漱石と寅彦」、ふくやま文学館版は「漱石と広島」(寄稿「広島の旧友井原市次郎」瀬崎圭二)となっている。同タイトルの図録は各地の文学館から出ている。わたしが古本屋でよく見かける『漱石山房の日々』はB5変型(縦にちょっと細長い)の図録(鎌倉文学館、二〇〇五年、その他)である。

 寺田寅彦は東京生まれだが、父方が土佐藩の士族の家系で四歳から高知市小津町の家で暮らしていた。そのあと熊本の五高に入学し、漱石と出会う。
地元が高知で熊本の五高といえば上林暁もそう。



『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を購入後、ひょっとしたら一九九〇年代に寅彦の文学展があったのではないかと「日本の古本屋」を検索した。すると『開館記念特別展 第一回 寺田寅彦展 内なる世界の具現』(高知県立民俗資料館、一九九一年)があった。注文した。「第一回」ということは他にも寅彦展があるのだろうか。

 寝る前に電子書籍で寺田寅彦の随筆「わが中学時代の勉強法」(一九〇八年)を読む。

《故意になまけるというと、なんだかおかしく聞こえるが自分はいやになった時、無理につとめて勉強をつづけようとせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出かければ、好きなものを見にゆく。はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよくのみ込める》



 たぶん寅彦流の勉強法は理にかなっている。勉強だけではなく、仕事もそうだろう。根を詰めてずっと机に向かい続けるより、遊んだり散歩したりしながらのほうが(わたしの場合)捗る。

 そのあと「科学を志す人へ」(一九三四年)を読んだ。

《誰であったか西洋の大家の言ったように、「問題をつかまえ、そうしたその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年をとってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ」というのは、どうも多くの場合に本当らしい》

 だから学生時代は「一つの問題」に執着せず、「問題の仕入れ」をたくさんしたほうがいい——といった助言をしている。寅彦流の怠けたり遊んだりする勉強法は「問題の仕入れ」につながっていたのではないか。

 寺田寅彦は多才な人だった。詩歌、絵、音楽、さらに学問に関しても専門の物理以外に地理学を志していた時期もある。「科学を志す人へ」は寅彦五十五、六歳のときの文章である。翌年十二月三十一日没。享年五十七。

2025/03/25

ガラス板

 二十三日、日曜。都心の最高気温は二十五度以上を観測、今年初の夏日だった。すこしずつ衣替えをはじめる。最近、薄くて柔らかくて洗濯してもしわがつかない夏用の長袖のシャツを見かけなくなった(古着屋で買っている)。

 土曜、中野の桃園町(現・中野三丁目)あたりをうろうろ歩く。セブンイレブンやファミリーマートも「中野桃園町店」があり、「桃園」の名を残している。斜めの道を歩いて囲桃園公園を通る。公園の近くにはザ・ポケットなど、小劇場が何軒かある。

 そのあと駅の北口に行き、中野ブロードウェイ。墓場の画廊を見て、ブックス・ロンド社で水の文化情報誌『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を買う。寺田寅彦の特集は『サライ』の「科学と遊ぶ 寺田寅彦先生の理科大学」(一九九一年十二月十九日号)などがあるけど、たぶんそんなに多くないとおもう。『月刊FRONT』の特集は知らなかった。

「天災は忘れたころ来る」の警句は寺田寅彦の言葉として知られるが、「意外なことに、寅彦の書いたものには記されていない」との囲み記事あり。

 高校時代、寺田寅彦の弟子(孫弟子だったかもしれない)という物理の先生がいた。授業中、よく寝ていたので定規で何度か頭を叩かれた。まあまあ痛かった。そんな過去の経験から古本屋通いをはじめてしばらくの間、寺田寅彦は避けていたのだが、あるとき『柿の種』(岩波文庫)を読んだ。
 一九九六年四月十六日が第一刷でわたしが持っているのは同年十一月八日第六刷である。半年ちょっとで六刷はすごい。

 一九九五年十一月末に業界紙の仕事をやめた。二十六歳から三十歳過ぎまでアルバイトで食いつないでいた。そのころ『柿の種』を読んだ。
 同書の冒頭の随筆にこんな一節がある。

《日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている》

 その境界を行き来するには「小さな狭い穴」を通るしかない。何度も行き来していると、その穴はすこしずつ大きくなる。穴を見つけても通れない人がいる。

《しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある》

 寺田寅彦は「かもしれない」「らしい」「ような気がする」をよくつかう。
 なんとなく戦後の軽エッセイの文体に近い(ような気がする……と書きたくなる)。文章が軽やかで古くない。

《眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
 しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
 なぜだろう》(大正十年三月、渋柿)

『柿の種』の「短章 その一」のわずか三行の文章。文庫の二十八頁。頁の空白もいい。

2025/03/21

松ノ木

 火曜日、高円寺駅から永福町行のバスで松ノ木二丁目。松ノ木は和田堀公園の近くに松ノ木遺跡がある。『燒酎詩集』(日本未来派発行所、一九五五年)の及川均(一九一三~一九九六)もこのあたりに住んでいた。善福寺川も近い。

《生きてることの徒労のために。
 まず一杯。》(「わきめもふらず。ジグザグに」抜粋/『燒酎詩集』より)


 サミットストア成田東店に寄り、杉並税務署へ。途中の住宅街でちょっと迷いかけたが、無事、辿り着くことができた。阿佐ケ谷駅から歩くより近い。近いが、道がわかりにくい。ここ数年、迷いそうな道が好きになった。

 帰りはパールセンターを通り阿佐ケ谷駅、ガード下を歩いて高円寺に帰る。

 病気、ケガをすると健康のありがたみがわかる。自分の暮らす町もそういうところがある。近所の散歩をしていても心のどこかで「いつまでこの町を散歩できるのだろう」という考えが頭をよぎる。健康もそうだが、この先、経済事情を理由に東京を離れることもあるだろう。たぶんどこに住んでも散歩するだろう。

 いつまで日常が続くかわからない。ただ町を歩いているだけで貴重なことにおもえる。その心境は老いと関係しているにちがいない。

 二十代三十代のころは、今の窮地をしのげば、この先よくなるという根拠のない希望を持てた。五十代になると厳しい状況を乗り越えても、すこし先にもっと大変なことが待っていると薄々わかっているので喜ぶ気持になれない。とはいえ、悲観ばかりしていても仕方がない。

 木曜の祝日、妙正寺川、鷺盛橋、蓮華寺の散歩コースを楽しむ。蓮華寺の河津桜は葉桜になっていた。

2025/03/15

大和町の話

 木曜、御茶ノ水から九段下まで散策。一誠堂書店の店頭にて『ふるさと草子 高野辰之と野沢温泉』(斑山文庫収集委員会編、野沢温泉村、一九八九年)。一誠堂の茶色の袋は丈夫でいい。持ち手の部分がプラスチックなのもいい。高野辰之(一八七六〜一九四七)は唱歌「故郷」「朧月夜」「春の小川」などの作詞家で国文学者。わたしは「故郷」の「小鮒釣りしかの川」問題に関心があり、長野の高野辰之記念館は訪問したいとおもいつつ、まだ行ってない。「かの川」は高野辰之の郷里の千曲川支流の斑尾川説が有力なのだが、異説もある。

 金曜昼すぎ、西部古書会館。木曜から開催していた。『とり・みきのしりとり物語』(角川書店、一九九六年)など。今回、漫画が充実(ただ、部屋の置き場所問題で買えず)。とり・みきは漫画だけでなく文章もファン。

『しりとり物語』に「居場所置き場所」というエッセイがある。「世の中には二種類の人間しかいない」という有名な台詞を引き、「本を棄てることのできる奴と、後生大事にとっとく奴だ」という話になり、とり・みきの引っ越し後の話になる。

《私はあいかわらず部屋に充満する段ボール箱に押しつぶされそうになりながら仕事している。そしてその内容物のほとんどが本とビデオだ》

 昨年十二月、仕事部屋の引っ越しをした。三ヶ月経って、いまだに部屋の床の八割くらい本の段ボールに埋めつくされている。引っ越し当初は床が見えなかった。三月中に床半分見えるようにしたいのだが、今のペースだとむずかしい。

 掃除の途中、中野区大和町を散歩する。

 一九八九年秋に高円寺に引っ越してきたころ、大和町の銭湯にもよく行った。
 鶴乃湯、藤の湯、若松湯、大和湯……。ほかにもあったかもしれない。当時、住んでいたアパートの近くの銭湯はお湯が熱すぎて入れなかったのだ(その後、入れるようになった)。

 大和町ではないが、野方駅と都立家政駅の間にたからゆという銭湯がある。まだ入ったことがない。

 大和町の中央通りに「イワン」という飲み屋があった。深夜も営業していて料理もうまかった。最初は学生時代のライターの先輩(ずいぶん会っていない)に連れていってもらった。大和町を散歩していると、昔の記憶がよみがえる。

 最近、大和町の八幡通りもよく散歩する。環七の八幡前(バス停)から大和町八幡神社、そして蓮華寺、お伊勢の森(バス停)。ちょっと斜めの道がいい。

2025/03/10

今日こちらに

 今月三月十二日刊行の梅崎春生著『ウスバカ談義』(ちくま文庫)の解説を担当しました。梅崎春生の解説にもかかわらず、画家の秋野卓美の話をたっぷり書いた。同短編集には表題作をはじめ、秋野卓美がモデルといわれる人物が何作も登場します。

 週末、西部古書会館(均一祭)。初日一冊二百円、二日目百円。
 土曜は『鹿子木孟郎 水彩・素描展』(三重県立美術館、一九八九年)、『川原慶賀展』(西武美術館、一九八七年)、『熊谷守一展』(岐阜県美術館、NHK名古屋放送局=編集、二〇〇四年)、『江戸名所図会の世界展』(北区飛鳥山博物館、二〇〇八年)、『有島兄弟三人展 武郎 生馬 里見弴』(信州新町美術館、一九八八年)など、図録を中心に買う。

 今回の均一祭で『没後50年 鹿子木孟郎展』(三重県立美術館、一九九〇年)もあったのだが、インターネットの「日本の古本屋」で買ったばかり。よくある。
 鹿子木孟郎は初期(十代から二十代はじめ)の水彩、鉛筆、木炭の風景画がすごい。「崖の下の家(津の近郊)」という作品もある。いっぽうヨーロッパに留学して洋画をしっかり学んだ後の絵は「よく見る油絵」といった感じでピンとこなかった。年譜を見ると、自身の画業と同じくらい後進の育成に力を入れていた人のようにおもう。
『鹿子木孟郎 水彩・素描展』は招待のハガキも付いていた(家に帰ってから気づく)。

『川原慶賀展』はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの専属絵師だった画家の図録である。展示作品はすべてオランダのライデン国立民族学博物館のコレクションとのこと。街道の研究をしていると次から次へと気になる人物が現れる。

 日曜昼、均一祭二日目。この日も図録を中心に買う。『受贈記念特別展 古地図の世界 南波松太郎氏収集 日本図・道中図・世界図』(神戸市立博物館、一九八三年)、『文藝春秋デラックス 四季の詩情 日本文学百景の旅』(一九七五年)など計十冊。

 南波松太郎は船舶工学の第一人者として知られる古地図収集家。米寿を迎えたことを機に約四千点の古地図資料を博物館に寄贈した。

『文藝春秋デラックス』は五十年前の雑誌とはおもえないくらい状態がよかった。文学百景――三重県は三木露風の「志摩の村」が入っている。

《海浜に出ると茫洋一目に映り、
 漁船が風景の点在の中の中心となり、
 風が見えぬ模様を織り出して、
 落寞たる遠里の方をも美化する》

 三木露風は童謡「赤とんぼ」の詩人として有名だが「志摩の村」は知らなかった。いつごろの作品なのか。三鷹市立図書館に露風の全集があるようなので今度三鷹を散歩したさい、ついでに調べようとおもう。露風は一九二八年から亡くなる一九六四年十二月まで三鷹市牟礼に住んでいた。

 同誌の「特別紀行」(文学再訪)——小川国夫「武蔵野・独歩と私」は武蔵野の街道に着目していて興味深く読んだ。

2025/03/06

三寒四温

 三月二日、日曜、小田急で小田原駅、在来線で熱海駅。小田原〜熱海間の車窓が好きなのでこの区間はなるべく在来線に乗りたい。熱海駅は改札を出てすぐのところに足湯(家康の湯)もある。当然、浸かる。駅前の格安チケットの自販機で浜松までの新幹線の自由席切符を買おうとおもったら売り切れ。熱海〜名古屋の切符はあったので、こだまで名古屋まで行く。
 昼前、名古屋駅のエスカ地下街を散策。昨年七月に復活したスガキヤの新店舗に行くと半額サービス中で大行列だった。諦める。
 JRで岐阜駅へ。名古屋〜岐阜間は名鉄のほうが運賃が高い。「岐阜駅本の市2025」に行く。古書ますく堂さんを見かけたので挨拶。文庫サイズの『なまけもの雑記 増田啓子のバラエティブック』(なまけもの文庫、二〇二四年)購入。メイン会場は大盛況——三省堂編『にっぽん「独立国」事典』(三省堂、一九八五年)と街道資料四冊。中山道を十五分ほど歩いて岐阜駅に戻る。
 関西本線で四日市駅、アーケード商店街内の東海道をすこし歩いてスーパーサンシで調味料(伊賀越の小さな醤油など)、ビールと夜食を買い、近鉄百貨店四日市店の歌行燈で鶏南蛮うどんときのこ天丼のセット(茶碗蒸し付)を食べる。歌行燈は郷里の家の徒歩圏にもあるが、近鉄百貨店の店は駅から直通なので楽。同店のうどんのだしのパックも買う。

 この日は最高気温二十度以上。移動中、上着はカバンに入れていた。
 家に帰って荷物を置き、港屋珈琲でアイスコーヒー。夜、家の掃除(カビとりなどをする)。

 三日、急激に冷える。最低気温四度。雨。
 母と港屋珈琲でモーニング。家に帰り、韓国の時代劇(二本立て)を見る。話の筋はわからないが、顔芸で悪役が誰なのかはわかる。昼、飯野神社に行き、そのあと鈴鹿ハンター内のブックオフ、カレーハウスDONでテイクアウト。夕方くらいまで散歩。名前の付いた道ではないが、中央道路のすこし北の神戸城跡や寺社が並ぶ旧街道っぽい道を歩く。おそらく伊勢街道の神戸宿(神戸城)と東海道の亀山宿(亀山城)を結ぶ脇街道のような道だったのではないかと想像する。平田町駅の先は工場やショッピングモールなどが建っているので旧道っぽい道は途切れてしまうのだが、途切れた先の鈴鹿環状線(県道54号)の周辺には国府城跡(ちょっと離れている)や寺や神社もある。鈴鹿川の鈴国橋の南のほうには古墳がけっこうある。

 鈴鹿は「道の神」猿田彦大神の総本宮の椿大神社もある。同神社が伊勢の国の一の宮ということは大人になってから知った。

 二〇一六年五月に父が亡くなったあとも椿大神社にとりめしを食べに行った。そのころから街道歩きをはじめた。きっかけは武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)を読んだことで、同書に鈴鹿サーキットも出てくる。「道の神」に導かれたのか。

 最初のころは道標や一里塚などを探して歩くのが楽しかったが、今は街道沿いの地形に興味が移った。

 四日、雨。おじの車でメガドンキ(鈴鹿店)のフードコートのスガキヤへ。肉入ラーメン。この日、雪予報で電車が心配だったので早目に東京に帰る。郷里の家で見ていたテレビで東名高速は「予防的通行止め」のニュースが流れていた。
 名古屋からは、のぞみではなく、ひかりの自由席に乗る。けっこう空いていた。

 (追記)もともと三寒四温は冬の言葉らしいのだが、日本では寒暖差の激しい三月はじめにつかわれることが多い——とのこと。

2025/03/02

個性の宿命

 三月温暖(また寒くなるという予報も)。部屋の掃除中、松本清張著『実感的人生論』(中公文庫、二〇〇四年)が出てきたので、パラパラとつまみ読み。同書の「小説に『中間』はない」にこんな一節があった。

《作家の才能の素質は、言葉の便利の上でいえば、私小説的な構成の型と、物語的な構成の型とに分けてよかろう。これは作家の個性の宿命である》

 この傾向は書き手だけでなく読み手にもあるようにおもう。たぶんわたしが私小説や身辺雑記を好むのは、そういう「型」が自分に合っているからだろう。

 自問自答がしたくて本を読むことがある。物語を読むときは、ストーリーを追うことに専念したいので、自問自答が少なくなる。もちろんそれはそれで楽しい。現実逃避は嫌いではない。

「私小説的な構成」と「物語的な構成」——仮説としてはいつ読んだかも関係しているかもしれない。
 十代のころ、家や学校など環境面の不具合で悩んでいたときは「ここではないどこかへ」誘ってくれるような荒唐無稽な話を好んでいた。
 私小説に傾倒するようになったのは二十代後半——仕事がなく、金がなく、人間関係その他失敗続きの時期である。私小説の「私」は不遇なことが多いので、その考え方、感じ方がよくわかるし、身につまされるわけだ。気分も沈みがちだから、長い作品が読めない。その点、私小説は短編が多い。それもよかった。

 わたしの場合、尾崎一雄がそうだった。作家ごとに生活の立て直し方、あるいはダメになり方がある。わかっていてもどうにもならない。どうにもならないことは諦め、どうにかなることに活路を見出す。どう力を抜くかみたいなことも病気がちな作家に学ぶところが多かった。学んだからといって、生活が向上するわけではないが、ちょっと楽になった。

2025/02/24

忘却の日々

 土曜、二週間ぶりの西部古書会館。『きしゃ 汽車 記者の30年 レイルウェイ・ライター種村直樹の軌跡』(「情報ステーション」編集部、二〇〇三年)、『地図 空間表現の科学』(特集「井上ひさしの文学と地図」、日本国際地図学会、二〇一一年)、大阪鉄道管理局の国鉄の定規(二十四センチ、制作年不詳)など。今回は地図、鉄道関係の本が充実していた。

『きしゃ 汽車 記者の30年 レイルウェイ・ライター種村直樹の軌跡』は「レイルウェイ・ライター30年の歩み」という年譜が五十八ページもある。
 一九三六年三月滋賀県膳所生まれ。滋賀に生まれ育ち、一九五八年、京大在学中に家の都合で京都に転居。翌年、毎日新聞大阪本社入社、同年、高松支局勤務(天神前に下宿)。一九六一年、大阪本社社会部、一九六六年中部本社報道部。そのあと東京本社社会部勤務を経て一九七三年三月、毎日新聞社退社。フリーのレイルウェイ・ライターになる。三十七歳。

 種村直樹の子ども(長女・次女)の名前が「ひかり」と「こだま」と知る。鉄道ファンの間では有名らしい。種村直樹の自伝風の作品を読んでみたくなった。気長に探す。

 日曜、大和町八幡神社のち妙正寺川、マルエツ中野若宮店に寄り、鷺盛橋を渡って早稲田通りを散歩する。鷺盛は「ろせい」と読む。何度となく渡っている橋なのに、ずっと「さぎもりばし」とおもっていた。
 鷺宮に「さぎプー」というご当地キャラクターがいることを知る。
 鳥のマスコットを見ると、つば九郎のことを考えてしまう。

 半年前、一年前くらいに自分が何をしていたのか。何を忘れ何をおぼえているのか。十年一日のごとく同じような日々を過ごしていると、忘却のスピードは早まるばかりだ。せめて読んだ本のメモくらいはしておきたいと考えているのだが、それも忘れる。

 年をとるにつれ、身体の感度が衰える。たとえば喉の渇きが鈍くなる。冬のあいだ、コタツで本を読んだり、仕事をしたりしていると、目がかすんできて、手のひらがしびれてくる。軽い脱水症状か。そうなる前にお茶かなんか飲めばいいのだが、つい忘れる。

 散歩中、けっこう汗をかいたなとおもっても、水分補給せず、そのまま歩き続けてしまう。これもよくない。
 喉が渇いてなくても水を飲む(もちろん飲み過ぎないよう注意する)。疲れてなくても休む。

「体を声を聞く」みたいな教えが好きなのだが、年をとると体感が誤作動を起こしやすくなる。若いころもしょっちゅう誤作動していたのかもしれないが、気力や体力で乗り切れた。中年老年はそうもいかない。

 四十代以降、文章もケアレスミスが多くなった。たぶん読み間違えも増えている(時系列や人名を混乱しがち)。書く速度と読む速度を落とそうと心がけているが、それもすぐ忘れる。

(付記) 今回も「渇く」を「乾く」と書いていた。訂正した。

2025/02/18

鳥瞰図絵師

 先週、神保町散策。神田伯剌西爾でマンデリン。新刊書店、古書店をまわる。
 悠久堂書店の店頭ワゴンで『別冊太陽 大正・昭和の鳥瞰図絵師 吉田初三郎のパノラマ地図』(平凡社、二〇〇二年)を買う。

 初三郎の年譜、一九一二(明治四十五)年が興味深い。関西美術院の鹿子木孟郎院長が「多彩な才能を持ちながら洋画修業に専念できなかった初三郎」にたいし、「洋画界のためにポスターや壁画や広告図案を描く大衆画家となれ」と指導した。この助言が転機となる。初三郎、二十八歳。
 翌年、京阪電鉄の「京阪電車御案内」を作成する。たまたま京都を旅行中の当時の皇太子(のちの昭和天皇)の目に止まり、「これはきれいでわかりやすい。東京に持ちかえって学友に頒ちたい」と絶賛。京阪電鉄は「京阪電車御案内」を皇太子に数部献上する。そのことを飛報で知らされた初三郎は「図画報国」の信念を抱き、鳥瞰図絵師の道を歩む。

 初三郎、もともと洋画家を目指し、鳥瞰図で才を開花させた。おそらく最初から地図作りに取り組んでいたら、まったく別の画風になっていたにちがいない。二十八歳の初三郎に「広告図案」をすすめた鹿子木も慧眼だった。鹿子木は「かのこぎ」と読む。

 鹿子木孟郎は一八七四(明治七)年十一月、岡山生まれ。一九四一年四月没。
 三重県立美術館のサイトに「津の鹿子木孟郎」(荒屋敷透)という記事があった(「友の会だより」一九九〇年十一月十五日より)。
 鹿子木は一八九六(明治二十九)年九月、三重県尋常中学校(現在の津高校)の図画の助教諭として赴任した。
 鹿子木孟郎の兄・益次郎が同中学校の舎監をしていて、その縁で助教諭になったようだ。益次郎は孟郎が絵を勉強するための援助をしていた。
 鹿子木に「津の停車場(春子)」(一八九八年)という作品(油彩)もある。津中時代、鹿子木は鉛筆画の臨本(教科書)も作っている。

 吉田初三郎に絵の指導をしていたころ、 鹿子木孟郎は三十七、八歳。今の感覚だと若くおもえるが、明治末だとすでに大御所みたいな感じだったのだろうか。

  三重県立美術館の鹿子木孟郎の図録を日本の古本屋で注文するかどうか迷っている。

2025/02/12

川沿いの道

 寒い。日課の散歩も目標の歩数(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)未満の日が続く。生活のリズムが昼寝夜起になっている影響もあるかもしれない。足りない分、家の中をうろうろする。冬だから仕方ない。

 久しぶりに中野区の大和町界隈を散策する。昨年十二月に引っ越した仕事部屋は大和町である。ポストに中野区の広報誌などが入っているのを見ると、中野区民(じゃないけど)になったような気分になる。

 仕事部屋の掃除をした後、妙正寺川沿いの道を歩いてマルエツ中野若宮店で買物する。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』(中野区企画部広報課、一九九〇年)によると、高塚墳、横穴墳など、古墳時代の遺跡が妙正寺川周辺で見つかっているらしい。そのころから川の流れは変化しているのだろうか。

「弥生式時代の遺跡」という囲み記事には「区立神明小学校内と中野刑務所内から弥生式時代の終末、あるいは古墳時代の初頭と考えられる竪穴住居跡が発見されました」とある。中野区弥生町の町名は弥生時代の「弥生」からきていると知る。
 
 中野区は妙正寺川のほかに江古田川なども流れている。どちらも大きく蛇行しているので、川沿いの道を歩くと楽しい。妙正寺川、江古田川のあたりは中世の古戦場の跡もあるようだ。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』は二十頁くらいの薄い冊子だけど、まだ行ったことのない名所がいろいろある。

(付記)神明小学校を啓明小学校と勘違いしていた。あと近所の飲み屋の常連のHさんに弥生時代の「弥生」は文京区の弥生町から来ていると教えてもらった。

2025/02/07

精神の速力

 レコードを擦り切れるほど聴く。本に穴が空くほど読む。デジタルの時代にもそういう感じの言い回しがあるのか。散歩中、そんなことを考えていた。
 すこし話はズレるが、イントロが短く(なく)、いきなりサビから始まる曲が増えた。文章指導でも「最初に結論を書け」という教えがある。ライトノベルだとあらすじがタイトルになっている作品も多い。

 わたしはなかなか本題に入らず、ぐだぐだ遠まわりして、しかもオチがないような小説や随筆が好きなのだが、そういう作品は今の主流ではない。世の中には一定数、主流や流行に背を向ける傍流好きの人がいる。わたしもそうだ。

 五十五歳の今おもうのは擦り切れるほど聴いたレコードや穴が空くほど読んだ本はたくさんあるわけではない(人生の時間は限られているので)。でもだからこそ、それらは自分の宝になる。好きだから何度も聴いたり、読んだりしたものもあれば、惰性というか安心感を得るために聴いたり読んだりしているレコードや本もある。

 中村光夫著『自分で考える』(新潮社、一九五七年)に「精神の速力」というエッセイがある。わたしにとって、中村光夫はそれこそ穴が空くほど読んだといえる評論家である。

《柳田国男氏が、現代人の口の利き方はむかしに比べてよほど早口になったといい現代語の生煮えな混乱のひとつをそこに求めていましたが、これは確かに興味のある事実で、僕等は早口、早書、早読を早飯、早糞にまさる美徳に数えなければならない乱世に生活しています》

 そして数行後、中村光夫はこんな言葉を綴っている。

《或る書物の要約を素早く把む才能は、これを精読して深く理解する根気より、現代ではずっと尊ばれます》

《いつも忙しく自分を表現し、また他人の表現も慌ただしく受取る習慣が、いつのまにか僕等の精神に或る不自然な姿勢を強いていないかということです》

「精神の速力」は七十年近く前のエッセイである。今の世の中はさらに加速している。

 わたしは二十歳前後に古本が好きになり、近年は街道歩きもはじめた。若いころから世の中のテンポと合っていなかった。
 ゆっくり本を読み、ゆっくり歩き、いっぱい寝る。それが今の自分の望みである。急いだところで終わりが近づくだけだという諦めもある。

2025/01/31

今年もまた

 水曜、神保町。小諸そばで熟味噌うどん。わたしは小諸そばのうどんが好きで、年中、鳥からうどんを食べているのだが、たまに季節メニューも頼む。夜、代官町通りから麹町を経て四ツ谷駅まで歩く(このルートは東京スカイツリー、東京タワー、ドコモタワーを見ることができる)。四ツ谷駅の麹町口の手前にドコモタワーが見える場所があった。今まで気づかなかった。

 マンスーン著『無職、川、ブックオフ』(素粒社)。題が素晴らしい。文章も好み。外出時にすこしずつ読んでいる。

 もはや季節行事くらいの感覚になっている冬の低迷期が今年もやってきた。年によってその時期はズレるのだが、「大寒」(一月二十日)のあたりになると寝ても寝ても眠くて頭が回らない日が何日か続く。
 このブログでは「冬の底」と名づけ、記録してきた。
 昨年は「一月二十三日、二十四日、二十五日の三日間」がそうだった(二〇二四年一月二十九日「体内電池」)。一昨年は「一月十日」あたり(二〇二三年一月十二日「そういう日」)。

 今年は「一月二十六日、二十七日、二十八日」か。「冬の底」の時期は、睡眠時間がズレるだけでなく、ふだんの自分がそれほど苦労せずにできることが面倒になる。起きている間も寝ぼけている感じで、寝てばかりいるから一日があっという間に過ぎる。その分、春が近づいたとおもうことにする。

2025/01/17

帰省

 先週の金曜から四泊五日で三重と香川に行って帰ってきた。
 郷里の鈴鹿には小田急+在来線(熱海駅〜浜松駅はこだま)+名鉄+近鉄を乗り継ぎ、のんびり移動した。
 小田原〜熱海間の在来線の車窓は海がよく見える。この日は雪の富士山もきれいだった。
 名鉄は神宮前駅で名鉄津島線に乗り換え、午後四時前、須ヶ口駅で降りる。寒い。住宅街を歩いていたら、屋根に薄ら雪が積もっていた。
 須ヶ口駅近辺は美濃路、津島街道、旧鎌倉街道などが通っている。当初は五条川を渡って上萱津、中萱津、下萱津の旧鎌倉街道を散策するつもりだったが、日没がせまっていたので、またの機会にする。このあたりは伊勢廻り東海道と美濃廻り東海道の合流地点で時間をかけて歩きたい。「小栗判官」の舞台の一つにもなっている地でもある。

 津島街道を歩いて名鉄の甚目寺駅へ。名鉄津島線に乗り、木曽三川を渡り、弥富駅へ。すこし歩くと近鉄弥富駅がある。弥富駅はJR、名鉄、近鉄の乗り換え可能だが、郷里にいたころは降りたことがなかった。
 名鉄津島線は佐屋駅もある。佐屋街道は宮(熱田)〜桑名の七里の渡しではなく、東海道を陸路で行き来する人が通った道で津島線ともすこし重なっている。

 近鉄弥富駅から桑名駅。桑名のアピタ内のスガキヤで肉入りラーメンを食べ、ビールとつまみも買って夜八時すぎ鈴鹿の家へ。

 今回は電車の移動に時間をつかいすぎて、おもうように歩けなかった。ちょこまか途中下車したい欲と一つの町をじっくり歩きたい欲は両立しない。

 翌日は午前八時すぎに家を出て、近鉄の伊勢中川駅、伊勢中川から大和八木駅まで特急に乗る。大和八木駅から急行で鶴橋駅、そこから尼崎(阪神)まで直通の電車に乗る。この電車、神戸に行くのに便利だ。今までは梅田に行って阪急で神戸に向かうことが多かった。尼崎から三宮、三宮から高速バス(フットバス)で高松へ。三宮の駅から近くバス乗り場もわかりやすい。当初、船で高松に行こうとおもっていたが、冬は寒そうなのでやめた。
 高松中央インター南から『些末事研究』の福田賢治さんの車に乗り、そのまま仏生山温泉に寄ってもらう。

 昨年九月下旬に仕事部屋の取り壊しが決まり、先月までずっと引っ越し(業者は頼まず)に追われていた。このブログでも掃除の話ばかり書いていた気がする。引っ越しは終わったけど、本は箱に入ったままの状態で整理はこれから。まだ机の置き場所、座る場所もない。三月中にはなんとか作業スペースを作りたい。

 引っ越し中、気が滅入ってくると「終わったら高松に行って、温泉に入りたい」とおもい続けてきた。念願がかなった。

2025/01/08

眼の馬力

 五十代以降は充実した日々を送るより、のんびり静かに暮らしたいという気持が強くなった。
 長年の経験上、体が冷えてよかったことがない。腰に貼るカイロを装着し、部屋を暖かくして、温かいものを食べる。汁物にはほぼ生姜を入れる。しかし野菜が高い。白菜はまだましか。近所のスーパーだと四分の一カットの白菜が百六十八円。すこし前まで百円以下だった。

 中野重治著『本とつきあう法』(ちくま文庫、一九八七年)の表題のエッセイはこんなふうにはじまる。

《このごろ私はなかなか読めない。からだが弱くなったうえに眼が弱くなった。からだ全体に馬力がなく、その上眼に馬力がない。そのせいでかなかなか読めないが、何かのきっかけで読むとなると、読むということはやはりほんとに楽しいことだなと思う》

 初出は一九六五年。中野重治は一九〇二年一月生まれだから、六十三歳のときのエッセイである。
 わたしも「眼が弱くなった」という実感はある。それ以上に集中力が途切れやすくなった。本を読んでいても、以前と比べると、心が動かなくなった。音楽もそう。それでも本を読むし、音楽を聴く。衰えていく過程ではじめて気がつくこともあるだろう。

 四日昼すぎ、今年初の西部古書会館。三冊縛りはやめた。岩壁義光編『横浜絵地図』(有隣堂、一九八九年)、加太こうじ、木津川計、玉川信明著『下町演芸なきわらい』(駸々堂、一九八四年)、多くの作家と画家のサイン(印刷)入りの手拭いなど。『横浜絵地図』はプラカバ付の美本。地図だけでなく、写真も多数ある。

 日頃、朝寝昼起の生活なのだが、年明けから昼寝夜起になり、そのあと夕方に寝て深夜に起きる睡眠時間ズレ周期になる。深夜一時すぎ、早稲田通りを阿佐ケ谷方面に向かって散策した。高田馬場方面に向かう空車のタクシーがけっこう走っている。

「日本の古本屋」で注文した『旅別冊 特集 地図 夢・謎・愉しみ』(日本交通公社、一九八四年)が届く。送料込みで六百円ちょっと。「自東部西国筋 旅中懐宝」(結城甘泉、一八五二年)を十七頁にわたって掲載している。現物は七メートル余もあった。

《雑誌での全巻一挙掲載は、もちろん本誌が初めてである》

 江戸から大隅諸島、永良部島まで描いた見事な鳥瞰図だ。結城甘泉は筑紫(福岡)の人らしい。東海道は四日市や鈴鹿を通る伊勢廻り。関から上野、初瀬から奈良への道も描かれている。
 鳥瞰図は、城や家も描かれているので当時の町の大きさもわかる。

 あと瀬戸内航路が細かく記されていて勉強になる。「室は瀬戸内航路の要」とある。室は播磨の港町。室の津。岡山の牛窓も金比羅航路として栄えていた。

 古地図(鳥瞰図)を見ていると、鉄道や車が普及する以前の地理の感覚がおぼろげながらわかってくる。町と町のつながりも見えてくる。

2025/01/02

新年

 新年あけましておめでとうございます。初詣はまだ(人が多かったのでやめた)。近所を散歩する。町に人が少ない。店も開いているところが少ない。西友で寿司を買う。

 紅白、年をとっても変わらない声量を維持している歌手を見ると、すごいなと感心する。曲調もあるけど、演歌勢の安定感もさすがだなと。

 年末の土曜夕方、西部古書会館。『なかの史跡ガイド』(中野区立歴史民俗資料館、一九八九年)、『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』(中野区企画部広報課、一九九〇年)、『旅別冊 鉄道 追憶・熱狂・冒険』(日本交通公社、一九八五年)など。

『なかの史跡ガイド』は二冊目。手持ちの冊子は書き込み有でボロボロだったので買い直した。『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』は二十頁ちょっとの冊子。手書きの地図がいい。ここ数年、日課の散歩で中野区の大和町、野方界隈、西武新宿線沿線の町をよく巡回している。バスにもよく乗るようになった。初夢もバスの夢を見た。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』によると、中野の地名の由来は「武蔵野の中央に位置するから中野といわれたようです。(中略)昔は一村名ではなく相当広い地域を含む総称だったようです」とある。

 中野区は一九三二(昭和七)年に中野町と野方町が合併してできた区である。中野区の「野」は野方の「野」も含んでいる(という説もある)。

 中野区の「地名の由来」はいくつか囲み記事があり、野方は「江戸時代、多摩郡には、幕府直轄領と旗本の知行地が入り混じっていましたが、その広い範囲を『野方領』と呼んでいたといわれます」とのこと。

 以前、近所の飲み屋で杉並区方南町の「方南」の由来の話になった。
 もともと方南町は和田村で、字で「方南」という地名がついていた。和田村の南説、杉並村の南説などもあるようだが、野方の南説も候補のひとつらしい。
 地図で見ると、西武新宿線の野方駅から環七をほぼまっすぐ南に向かうと、東京メトロ丸の内線の方南町駅である。

『旅別冊 鉄道』は、カラー頁が多くてきれい。鈴木一誌のデザイン。冒頭に小野十三郎の詩「機関車に」(『古き世界の上』より)が載っている。ほぼ原型を復元した機関車「パシナ」の写真(潘陽)を見る。パシナ、水色だったのか。二十代のころ、お世話になった人が『パシナ』という同人誌を作っていて、その雑誌名の由来はパシナ号からとったと聞いた。

 古本好きは変わらないけど、そのときどきの関心で読むものが変わる。今は地理や歴史に興味が移っているが、今年はどうなるか。その日、自分が何を読んでいるのか予想がつかないところも古本趣味の面白さである。