2022/11/29

横浜

 十一月二十五日(金)の午後一時すぎ、新宿駅から湘南新宿ラインに乗る。武蔵小杉駅をすこし過ぎたところで富士山が見えた(建物の間から、ほんのちょっとだけ)。

 横浜駅で地下鉄(みなとみらい線)に乗り換え、元町・中華街駅へ。
 以前は東横線で桜木町駅まで行くことが多かった。何度も降りているのに横浜の地下鉄はいまだに迷う。目的地の反対側の出口(中華街のほう)から出てしまう。中華街でちまき、まいばすけっとでビールを買い、公園で飲み食いする。
 数日前に阿佐ケ谷の古本屋で神奈川近代文学館の川端康成の文学展の招待券をもらっていた。川端展は過去にもいろいろな文学館で開催されている(文学展パンフの数も多い)。書画骨董などのコレクションがすごい。三島由紀夫といっしょの写真を見て、今、小説をまったく読まない人でも顔と名前を知っている作家はどのくらいいるのかと考える。展示を見て、吉田健一と川端康成の文学展パンフを買う。

 関内駅まで歩いて地下鉄で弘明寺(ぐみょうじ)駅へ。前号の『フライの雑誌』の取材(大岡川沿いを歩いた)を通して好きになった町だ。鎌倉街道らしき道も通っている。

 地下鉄ブルーラインと京急の駅のあいだの商店街がいい。

 柳屋という衣類などの激安店があり、新調したいとおもっていた掛け布団カバーを買う。五百九十八円だった。前に行ったときは九十八円の枕カバーを買った。
 地下鉄の弘明寺駅に着いたのが夕方で京急の弘明寺駅あたりで日没になる。
 駅から坂と階段をのぼったところに弘明寺公園があり、横浜の夜景の名所としても有名だ。前に弘明寺に行ったときはまだ明るい時間帯だったので夜景は見ていない。
 公園の展望デッキも登る。西の空はかすかに夕焼けが残っていたが、港方面は見事な夜景だった。高校生くらいのカップルが二組いた。邪魔したな。

 帰りは京急で品川駅まで行こうかどうか迷ったが、横浜駅でJRに乗り換えると電車が遅延——すぐ改札で払い戻し、東急に乗り換え、渋谷駅へ。渋谷もひさしぶり。渋谷ヒカリエで惣菜を買う。
 新宿駅からJR総武線に乗ると映画「月の満ち欠け」の中吊り広告があった。映画の宣伝と横に岩波書店の佐藤正午の単行本と文庫の広告も。この日、行き帰りの電車の中で佐藤正午著『小説家の四季 1988−2002』(岩波現代文庫)を読んでいた。

 一時期激減していた電車の中吊り広告がやや復活したような気がする。

2022/11/27

狛江

『フライの雑誌』最新号(126号)届く。わたしは島村利正と多摩川の話を書いた。島村は狛江市に長く暮らしていた作家で釣りも好きだった。島村利正著『随筆集 多摩川断想』(花曜社)を読んで、狛江を歩きたいとおもっていた。
 十月下旬、はじめて小田急の狛江駅で降りた。さらに十日後——。

 先日、三重と大阪に行った帰り——郷里の家から朝六時前の電車で名古屋に出て、名鉄の特急で豊橋まで行き、JRの在来線で浜松駅で下車。馬込川をすこし歩いて、金券ショップで新幹線の切符を買い、こだまで小田原駅まで行き、小田急に乗り換える。
 途中、登戸駅で下車した。多摩川沿いの登戸の渡し(跡地)を見て、多摩川水道橋を渡り、狛江駅へ。短期間に二度狛江を訪れた。
 前に歩いたときには寄らなかった南口の商店街を散策する。住宅街も歩いた。荷物がなければ、野川まで歩きたかった。

 一、二度、訪れたくらいでは何もわからない。それでも町の名前を聞いて、ぼんやりと風景が頭に浮ぶ。今はそういう町が増えることが楽しい。降りたことのない駅、見ていない川——すこしずつ歩きたいとおもっている。家でごろごろしている時間が外でだらだらしている時間になっただけともいえる。

2022/11/22

籠原観音

 昨日に続いて野方を散歩する。暇なのかといわれたら、そうでもない。この日、最高気温は二十度。歩いているうちに暑くなる。福原麟太郎の「篭原観音その後」にあった観音様の石像とお堂を見に行く。高円寺駅から緑野中学校までは約三キロ。野方のあたりからは環七ではなく、住宅街を通った。オイルコンパスを見ながら、わからなくなったら、とりあえず北に向う。籠原観音は何の説明もなければ道祖神かなと。観音像と道祖神のちがいはよくわからん。お堂はコンクリート製で屋根もある。お堂のあちこちにステッカーが貼られている。すぐ側に案内板もあったが、メモはとらなかった。

 中野区と練馬区の境を流れる江古田川——旧丸山小学校付近は暗渠になっていた。いつか江古田川沿いも歩きたい。

 豊玉氷川神社に寄り、豊玉中あたりをうろうろして、福原麟太郎の散歩コースを想像しながら練馬駅を目指す。豊中通りを歩いていたら東武ストアがあった。寿がきやの「岐阜タンメン」(インスタントの袋麺)と天むす(三個入り)を買う。東武ストア、寿がきやのインスタントラーメンが四種類も売っていた。籠原観音から練馬駅までは二キロくらいだが、いろいろ寄り道したり遠回りしたので、もうすこし歩いたかもしれない。それでも(高円寺から練馬までの)万歩計の歩数は一万歩未満だった。

 午後三時すぎ、練馬駅北口から高円寺行きのバスに乗る。駅前付近はバスが動かなくなることが多いので一つ手前の停車所で下車した。

(追記)
 練馬駅のバス停に成増駅(板橋区)行きのバスがあることを知る。ルートを調べたら東武東上線の下赤塚駅も経由する。下赤塚はわたしが上京して最初に住んだ町だ(半年くらい)。地図を見ると、高円寺駅〜野方駅〜練馬駅〜下赤塚駅は南北、縦に並んでいる。

2022/11/21

野方の話

 ひさしぶりに中野区大和町を散歩。セブンイレブン(中野大和町1丁目北店)ができている。今月一日にオープンしたばかり。それから妙正寺川沿いを歩いていたら、いつの間にか住所の番地が野方になった。環七あたりまで歩いて家に帰る。

 野方のもより駅は西武新宿線野方駅だが、番地によってはJR中央線の中野駅や高円寺駅のほうが近いところもある。高円寺駅から野方駅行きのバスは一時間に何本も出ている。

 散歩のあと、福原麟太郎の「散歩道」(『この道を行く わが人生観』大和書房、一九七一年)を読んだ。

《そのころはよく北の方へ向って歩いた。丸山小学校というのが近所の子供などの行っている小学校で、その前の道を下ると、小川があって、これが、中野区と練馬区の境になっていた》

 丸山小学校は二〇一一年三月閉校(現在は緑野小学校)。中野と練馬の区境の川は江古田(えごた)川だろう。江古田川は江古田公園のあたりで妙正寺川と合流する。

 福原麟太郎は江古田川を越え、さらに北に向って歩いて練馬駅へ。

《私はよくそこまで歩いて、あとタクシーで帰った》

『この道を行く』の「篭原観音その後」も野方の話——。

《私の家の近くの道を散歩していたら、中学校の校地の角のところで道が二股に分れる。そこに観音様の石像が立ったり倒れたりしていた》

《道しるべを兼ねたものと見えて、右なかむら道、左あら井道などと彫ってある》

 福原麟太郎は知り合いの中学の校長に「あの観音様にお堂を立ててあげたらどうだろう」と提案し……。

 地図(Google)を見ると中野区立緑野中学校の角に籠原観音の印があり、旧丸山小学校もすぐ隣にある。そこから数百メートル歩けば、練馬区豊玉中——梅崎春生が住んでいた町だ。おもっていたよりずっと近い。

2022/11/20

東海8大街道

 土曜の昼、快晴。南口の古本屋の均一台でビニールに入った『東海日帰りドライブWarker 2018−2019』(KADOKAWA、二〇一八年二月)を見つけ、表紙の「絶景+グルメを巡る! 東海8大街道」の文字に釣られて買う。東海道や伊勢街道の記事が載っているのかなとおもったらちがった。「伊勢志摩スカイライン(三重)」「金華山ドライブウェイ(岐阜)」「茶臼山高原道路(愛知)」など、名古屋から二時間圏内のドライブコースの特集だった。「鈴鹿スカイライン(三重)」の滋賀県の日野町から三重県の菰野町を結ぶルートも紹介している。
 滋賀の日野町は(車だと)わたしの郷里の鈴鹿市からもけっこう近い。日野はさつき寺で有名な雲迎寺がある。先日京都で扉野良人さんに日野町に詩人の野田理一が暮らしていたことを教えてもらったばかりだった。

 地図で日野町のあたりを見ると近江商人街道という街道がある。近江日野商人館も気になる。
 近江鉄道水口・蒲生線の日野駅がもより駅。郷里の家から電車だとJR関西本線・草津線で貴生川駅まで行って近江鉄道に乗り換えて……だいたい一時間半。さつきの咲く季節に行ってみたい。五月か六月か。

 菰野町は三十年以上行ってない。予備校時代——一九八八年の秋ごろ、同じ講義を受けていた人たち何人かと湯の山温泉に遊びに行った。湯の山は家族で国民宿舎に泊ったこともある。湯の山、軽めの登山気分が味わえ、ロープウェイもある。東海自然歩道も通っている。

 古本屋で古雑誌を買った後、桃園川緑道を東に向って歩いていたら環七に出てしまったので、そのまま東高円寺方面に向う。天祖神社に寄って、ニコニコロードのオオゼキ、百円ショップで買物する。商店街の中華料理屋で青椒肉絲丼をテイクアウトして帰る。歩くたびに東高円寺はいい町だなとおもう。

2022/11/18

日向ぼっこ

 今月まもなく五十三歳になる。還暦まであと七年。時の流れについていけない気分だ。年をとったことで限りある時間の中で何をするか絞り込みやすくなった。時間がなくなることで見えてくるものもある。

 日々、倹約生活を送りながら、古本を買ったり、酒を飲んだり、旅行をしたりする。時間がない金がない体力がない。そうした条件を考慮しつつ、自分が楽しいとおもえることを探す。

 一年前の今ごろ一ヶ月近く左の肘から肩にかけての神経痛に悩んでいた。痛め止めの薬を飲んでごまかしていたが、まったく改善しなかった。ところがたまたま近所の薬局でもらった試供品の湿布が効いた。ちょうど治りかけの時期と重なっただけかもしれない。個人差もあるだろう。飲み薬も湿布も効くときとあんまり効かないときがある。

 年相応だとおもうが、体のあちこちガタがきている。おそらく無理をした分、力がつく時期は過ぎた。無理をするより自分のペースを守ったほうがよい。ペースを守ることは無理をする以上にむずかしい。

 水曜の昼すぎ、陽射しがまぶしく感じるくらい天気がよかった。体がじんわりと温まり、心のもやが晴れた気がした。

2022/11/15

帰省 その五

 茨木駅に大阪からではなく京都経由で行ってしまったのは、当初、三重に寄らず、東京から直接茨木市の図書館に向かう予定だったからだ。それだと新幹線で京都まで行って、そのままJRで茨木駅に行くほうが早い。
 近鉄電車で鈴鹿から茨木駅に行く場合、大阪(鶴橋駅)からのほうが近い。こうした地理感覚の混乱みたいなことは、都内の移動中にもよくある。

 おもいこみというのは気づきにくいものだなと……。

 講演の日の翌朝、午前九時すぎ、京阪三条駅から地下鉄東西線〜京阪京津線の直通に乗り、びわ湖浜大津駅(四百三十円)へ。二十分ちょっと。京阪京津線は好きな鉄道である。地下から地上に出てびわこ大津駅の手前で路面電車になる。
 駅の外に出て、琵琶湖の近くまで歩いて再び京阪に乗り、京阪石山駅へ(二百四十円)。JRの石山駅に乗り換え、草津駅へ(二百円)。

 草津駅で途中下車し、駅前の近鉄百貨店に寄る。オリックス・バファローズの日本一を祝う垂れ幕を見かける。オリックスは、阪急と近鉄という二つの関西の鉄道球団をルーツに持つ。近鉄は日本シリーズに何度か出場したが、日本一になっていない。バファローズとしては初の日本一か。

 草津宿界隈の旧中山道をすこし歩く。草津宿は東海道と中山道の合流地である。京都からJRで三重に帰るときはいつも草津駅界隈を散策する。

 草津駅からJRで亀山駅まで行ってバスで帰るか、加佐登駅から歩くか。悩んだ末、その二駅の間にある井田川駅で降りることにした(千百七十円)。京阪三条からJR関西本線の井田川駅まで途中下車しながらの移動で千九百四十円。三重にいるときだけでなく、東京でも片道二千円くらいの小さな旅をもっとしたい。

 井田川駅から近鉄の平田町駅まで六キロくらい(バスもある)。地元の人はこの区間を歩く人はあまりいないとおもう。わたしは過去に三回くらい歩いている。

 東海道の旧道を歩いて安楽川と鈴鹿川の合流地点あたりまで行き、別の道から戻って川俣神社の寄り、平和橋を渡り、鈴鹿環状線を歩く。川俣神社は鈴鹿川沿いにけっこうある。『新編 鈴鹿市の歴史』(鈴鹿青年会議所、一九七五年)によると、川俣神社は「加太から庄野へ五社あり」とある。

 井田川駅付近は亀山市内のリニア新幹線の駅の候補地でもある。ほかにも亀山インターチェンジ付近と下庄(しものしょう)駅付近なども候補地にあがっているようだ。
 といっても名古屋までのリニア新幹線の開通が二〇二七年の予定(たぶん遅れる)でそれより西はどうなるか、まったくわからない。

 井田川駅からの帰り道、イオンモール鈴鹿に寄り、店内に入り、自分がどこにいるのかわからなくなる。いつも迷う。サンマルクカフェでアイスコーヒーを飲む。イオンモール鈴鹿の隣にはイオンタウン鈴鹿もある。

 平田町駅に向かう途中、小学生のころ、しょっちゅう通っていた舗装されていない道を見つけ、懐かしくなって歩いた。車が通らないまっすぐの道である。長い道だとおもっていたが、それほどでもなかった。記憶というものは不思議である。遠いとおもっていた場所が近かったり、近いとおもっていた場所が遠かったり、忘れていたことを突然おもいだしたりする。

 大池、平田新町のあたりは知らないうちに飲食店が増えている。昔、映画館があったあたりをうろつく。角川映画と海外の映画の同時上映をよくやっていた。地元で観た映画でおぼえているのは「カプリコン・1」と「レイズ・ザ・タイタニック」。映画は四日市まで観に行くことが多かった。上京後、映画館にあまり行かなくなった。

 弁天山公園から鈴鹿ハンター内のゑびすやでうどん。ゑびすやは一九七四年二月創業。わたしは四歳。物心つくかつかないかのからこの店のうどんを食べている。今はメニューにない、かやくうどんが好きだった。

 さらに翌日、鈴鹿から東京への帰り、名古屋、豊橋、浜松、小田原、登戸などに寄ったが、このへんで終わりにする。

2022/11/14

帰省 その四

 五日の土曜日、朝七時台に郷里の家を出る。伊勢若松駅から伊勢中川駅まで近鉄の急行に乗る。高校三年間、このくらいの時間の電車に乗って津新町駅まで通学していた。

 津新町駅のすこし先——岩田川の河口付近に中部国際空港に行きの津エアポートラインの港(津なぎさまち港)がある。いつか津の港から船で愛知県の知多半島に渡り東京に帰りたい。たぶん楽しいだろう。

 旧伊勢街道、旧伊賀街道も母校の近くを通っている。

 伊勢中川駅から特急に乗り換え京都へ。伊勢中川駅には……近いとはいえないが、松浦武四郎記念館がある。松浦は江戸末期から明治にかけての探検家であり、「北海道の名付け親」としても有名だ。雲出川近くの伊勢街道沿いの村の出身である。
 鈴鹿から関西方面に行くとき、伊勢中川駅でよく乗り換える。ここ数年、駅のまわりを何度か散策している。近くに初瀬街道も通っている。

 伊勢中川駅で乗った特急は奈良の大和八木駅で乗り換えなしの電車だった。
 街道歩きのさい、三重と東京の間の降りたことのない駅を散策することを目標にしているのだが、三重と京都・大阪の間の町も行ってみたいところがいろいろある。。
 京都駅からJRで茨木駅へ。後日、京都ではなく大阪(鶴橋駅)経由のほうが三十分くらい早くて三百円くらい安かったことに気づく。事前に調べておけばよかった。

 目的地は大阪の茨木市立中央図書館。富士正晴についての講演会の講師をする。開場は午後一時半だが、三時間くらい前に着いてしまう。駅の東口を出て、阪急京都線の線路のあたりまで歩き、そこから遊歩道(元茨木川緑地、茨木市中央公園)を散策していたら、川端康成文学館がある。通りの名も川端通りだった。偶然か。
 町の中心に遊歩道があるのは素晴らしい。のんびり歩いたにもかかわらず、図書館に訪れると約束した時間まで一時間以上ある。併設の富士正晴記念館を見る。企画展「茨木と武蔵野の遠い仲間〜富士正晴と埴谷雄高」を開催していた。埴谷雄高は中央線沿線の吉祥寺に住んでいた(家は何度か外から見ている)。わたしの父は台湾の新竹の生まれで、埴谷雄高の出身地と同じだ。新竹には大きな製糖会社があって、埴谷雄高の父は重役だった。そしてわたしの父方の祖父も台湾にいたころは製糖工場で働いていた……と父に聞いた。

 この日の講演のため、A4用紙十五枚分の富士正晴の随筆についての原稿を用意した。それなのに、いやはや、まったく喋れず。けっこう喋ったつもりだったのだが。予定は一時間半で、途中、「喋りすぎて予定をオーバーしてしまったかな」と不安になり、司会の人に時間を聞くとまだ四十五分しか経っていなかった。自分としては二時間くらい喋った気がしていたのに。たぶん早口になっていたのだろう。過去の最短記録も四十五分だったと図書館の人に教えられる。

 来場者の力を借り、三十分くらい話を続け、どうにか(なったとは言い難いが)終了した。あらためて人には向き不向きがあると知る。でも不思議と楽しかった。

 会場には扉野良人さん、世田谷ピンポンズさんも来ていた。打ち上げに出て阪急電車で京都へ。車内でわたしはつり革につかまったまま寝ていたようだ。

(……続く)

2022/11/12

帰省 その三

 鈴鹿にかぎった話ではないが、地方というのは車社会である。わたしのように車の免許を持っていない成人はかなり少ない。とくに男は。
 六年前に父が亡くなって以来、帰省すると町をよく歩くようになった。町は駅のまわりではなく、県道や国道沿いがにぎわっている。歩いている人は少ないが。

 近鉄の平田町駅からすぐ南の県道54号線(鈴鹿中央通り)の一駅分くらいの区間には松屋、はま寿司、スパゲッチハウスボルカノ、あみやき亭、スターバックス(ケーズデンキ鈴鹿店)、丸源ラーメン、快活CLUB、かつや、サイゼリア、吉野家、支留比亜珈琲店、マクドナルド、かっぱ寿司などがあり、そのすこし先にコメダ珈琲店もある。
 ちょっとしたチェーン店街である。車だとあっという間だが、歩くと二十分くらいかかる。

 ぎゅーとらラブリー、鈴鹿ハンター、マックスバリュなどの商業施設、宿泊施設、衣料品店、リサイクルショップ、キャンプ用品店、スポーツ用品店、自動車用品店なども鈴鹿中央通り沿いにある。
 高円寺に三十三年暮らしているが、靴下、下着、タオルなどは地方のスーパーの衣料品店で買うことが多い。東京より安くて丈夫なものが入手できる。

 街道歩きをしていてもスーパー+衣料品の商業施設があるとよく立ち寄る。

 東海道関連の本でJR関西本線の周辺を歩いた人が「駅のまわりに何もない」と書いたものをたまに見かける。鈴鹿市内は近鉄の駅周辺のほうが人口密度が高く、県道沿いに店が集中している。鈴鹿は人口十九万人の市(山梨県の甲府市、東京の三鷹市と同じくらい)である。
 わたしも鉄道旅行が中心なので(鈴鹿市以外の)地方の町のロードサイド文化に疎い。

 生まれた町のもより駅から数分のところに旭化成、鐘紡、本田技研の工場があった。鐘紡は今はなく、その跡地にイオンモール鈴鹿(当初は「ベルシティ」という名前だった)ができた。休日に行ったら都内のターミナル駅くらい混雑していた。

 本田技研と旭化成の間の坂道をのぼった先に鈴鹿サーキットがある。その周辺には自動車の部品を作る小さな工場が無数にあり、父は自動車関係のプレス工場で働いていた。

 伊勢鉄道沿いには味の素(AGF鈴鹿)もあり、隣にAGF陸上競技場、野球場がある。近辺に石垣池、浄土池、祓川池……地図を見ると、今さらながら池の多い町だったことに気づく。中学生のとき、釣りが好きな友人と名前のわからない謎の池に行った。友人はブラックバスが釣れるといっていたが、そのときは何も釣れなかった。

(……続く)

2022/11/11

帰省 その二

 今おもうと郷里で暮らしていたころのわたしは地元の学区内のことさえよく知らなかった。自分の生まれた町に興味がなかった。あちこち歩きまわっているうちに、これまで知らなかった町が面白くなってきた。退屈なところだとおもっていたのは、自分の関心のなさ、行動範囲の狭さに起因していたにすぎない。

 鈴鹿市内は近鉄、JR関西本線、第三セクターの伊勢鉄道(伊勢線)が通っている。わたしが十九歳まで住んでいたのは近鉄鈴鹿線の終着駅の町である。家は長屋(いわゆる隣と接している二軒長屋)だった。
 駅からは関西本線の亀山駅、加佐登駅行きなどのバスもある。加佐登駅は東海道の庄野宿が近い。以前、母の弟(わたしのおじ)に亀山駅まで車で送ってもらい、JR関西本線、草津線で滋賀県の草津経由で京都に行ったら運賃が千三百四十円で近鉄よりかなり安かった。もっと早く知りたかったとおもった。近鉄の特急で京都に行くと三千五百円くらいかかる。時間もJRのほうが三十分くらい早い(電車の本数は近鉄のほうが多い)。
 ただ、わたしは近鉄の特急が好きで何の用がなくても乗りたい。名張から奈良に入るあたりの景色が好きなのだ。とくに紅葉のシーズンは素晴らしい。

 わたしが上京した年——一九八九年に親も市内で引っ越した。もより駅もちがう。
 もより駅の南のほうから神戸公園(神戸城趾)まで続く遊歩道があり、帰省するたびに散歩する。神戸公園は伊勢鉄道の鈴鹿駅、近鉄の鈴鹿市駅から近い。この周辺が伊勢街道の神戸宿である。
「筆は一本也、箸は二本也」の斎藤緑雨が生まれたのも神戸だ。

 父が生きていたころは青春18きっぷで東京に帰るときは伊勢鉄道の鈴鹿駅まで車でよく送ってもらっていた。伊勢鉄道は18きっぷの対象区間ではなく、一駅先の河原田駅(四日市市)までの乗車賃が必要になる。わたしの母は五十年以上鈴鹿に暮らしているが、伊勢鉄道の鈴鹿駅を利用したことがないといっていた。

(……続く)

2022/11/09

帰省 その一

 先週、金券ショップで新幹線の切符を買った。日程変更が必要な切符で、高円寺駅(阿佐ケ谷駅も)にみどりの窓口がないので中野駅か荻窪駅まで行かなくてならない。どちらも散歩圏内だが、世の中はすこしずつ便利になるかとおもえば、こんなふうに不便になることもある。

 四日、金曜の昼すぎ東京駅へ。名古屋駅まで自由席——なるべく混んでなさそうな新幹線に乗ろうと新大阪行きのひかりに乗る。ひかりは自由席の車両が多いので座れる確率が高い。途中の停車駅は小田原駅が一つ増えるくらいで時間もそんなに変わらない。
 出発十五分前くらいに着いたら、新幹線の到着ホームの先頭だった。

 前は郷里に帰るさい、ノートパソコンを持参することがあったが、今はキンドルでだいたいすむ(何度も書いていることだが、携帯電話やスマホを持っていない)。ところがわたしはキンドルのタッチパネルで文字を打つのが苦手で、ちょっとしたメールを送るのにものすごく時間がかかる。悪戦苦闘の末、F社のHさんに改行なしのメールを送ってしまう。

 名古屋駅のエスカの寿がきやで白ラーメン、とうとう六百円台に。エスカの寿がきやは高級(?)路線で、通常店のラーメンはまだ三百円台だったはず。さくっと食べて近鉄へ。まだ明るかったので鈴鹿市駅で降り、旧伊勢街道(神戸宿)を歩く。ほんのちょっと宿場町の雰囲気が残っている。

 郷里の商業施設事情もずいぶん変わった。ハローベルベル(地元ではベルベルと呼んでいた)、アイリスがなくなった。鈴鹿ハンター内のフードコートのスガキヤも三年くらい前になくなった。アイリスにもスガキヤがあった。中学時代のたまり場だった。
 近鉄の鈴鹿市駅にはキング観光鈴鹿店(パチンコ屋)に寿がきや(高級なほう)がある。

 そのまま歩いて母が暮らす家に向かうが、その前に港屋珈琲で休憩する。机が広くて快適である。喫煙席は電子タバコ専用になっている。わたしも三年前からアイコスに変えた。
 地元、夜間も営業している喫茶店が増えた。夜の避難所になっている。助かる。

 東京から掃除グッズ(スキマブラシ、化学スポンジなど)を持ちこみ、家の掃除する。袋の数がすごい。賞味期限のチェックもした(高齢の親と離れて暮らしている人はやったほうがいいとおもう)。
 郷里で過ごしているうちに、子どものころ、家を出たかった理由をおもいだす。たとえば、夜、起きて本を読んでいると、いきなり家中の電気を消される。まさか五十代になっても、こんな経験をするとはおもわなかった。「電気代を払う」といっても無駄である。この日、鞄からLEDのヘッドライトを出し、「ここは洞窟だ」と言い聞かせながら本を読み続けた。街道歩きのために常備しているライトがおもわぬところで役に立った。

(……続く)

2022/11/07

歳月

 十一月、今年もあと二ヶ月。いろいろやることが残っているが、一つ一つ片付けていくほかない(いちばんやりたいのは仕事部屋の蔵書減らし)。一年の経つ早さ(体感)を考えると、当然、五年十年なんてあっという間に過ぎていく気がする。そうやって老いていく。テレビを見ても知らない人ばかりになる。知らない人を覚えられないまま新しい人が出てくる。

 三日の祝日。高円寺は馬橋盆踊りの日だったのだが、夜まで仕事で神保町。途中、神田古本まつりに寄る。喫茶店、店の外まで人が並んでいる。均一で街道関係の資料を買う。いちばん混雑していたのは岩波ホールの裏の路地だった。『特別展 漂流 江戸時代の異国情報』(仙台市博物館、一九九八年)を見つけ、心の中で「値段がいくらでも買う」と決意し、値札を見る。良心価格でほっとする。大黒屋光太夫が書いたロシア文字と数字も収録している。古書ニイロクの出品。古書ニイロク、このあいだの西部古書会館の古書展でも面白そうな見たことのない本をいっぱい並べていた。

 大黒屋光太夫は伊勢しかも鈴鹿の人である。わたしの郷里には大黒屋光太夫記念館があり、地元のスーパーでは「大黒屋光太夫あられ」というあられも売っている(わたしの大好物。特に「味三色」がお気に入り)。

 来年の大河ドラマ絡みで徳川家康関連書籍の刊行予定がすごい。年内だけで何冊出るのか。どうなるんだろう。

 竹橋方面を歩いていると神田共立講堂で「グレープ50周年」のお祝いの花が飾られていた。わたしは会場の前を通り過ぎただけ。さだまさしは今年七十歳。グレープはさだまさしと吉田正美(政美)のフォーク・デュオ。代表曲「精霊流し」は一九七四年。さだまさし、二十二歳。わたしはグレープのころの記憶はなく、小学生のころ「関白宣言」や「親父の一番長い日」あたりで知った。そのころ、さだまさしはまだ二十代だったんだなと今さらながら気づく。自分と十七歳しか年が離れてなかったんだな。子どものころから知っている有名人は、ずっと年上のようにおもえる。

……と、ここまで旅行前に書いていたのだが、先週の金曜から光太夫の地元に帰省し、光太夫あられを二袋、コーミソースを二本買い、大阪に行って、今日の昼すぎに東京に帰ってきて洗濯して寝て、今、起きた。