高円寺駅の南口を散歩する。ひさしぶりに新高円寺のドトールでアイスコーヒー。二階の窓際、青梅街道が見える。
毎日散歩しているので、途中、いくつか参院選の演説を聞いた。国という大きな枠組ではなく、地域のことを考えると、多くの人がつつがなく過ごせるための地味な整備——修繕、修復は政治の大切な仕事である。ただ、そういうことは選挙の争点にはなりにくい。
金曜、仕事部屋に本(図録)を運ぶ。その帰り、階段で足を滑らせ、後ろにひっくり返る。ただ、背負っていたノートパソコン用のリュック(空になっていた)がクッションになり、無傷ですんだ。たぶん運がよかった。
そのあと参議院選挙の期日前投票に行く。東京都選出と比例、投票までの間、新聞、インターネットなどの予想を参考に検討したが、今回、当落予想がむずかしすぎる。
家に帰って、臼井吉見著『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)の「良書と悪書」というエッセイを読んでいたら「新シイ本ガ出タト聞イタラ、古イ本ヲ読メ」という一文があった。
小泉八雲の読書論の言葉だそうだ。臼井は「いゝ言葉」「りっぱな言葉」と称賛している。小泉八雲、読みたくなる。
同書の「すぐれた一冊に味わう楽しみ」でも、臼井は小泉八雲の読書を論じている。八雲は、古典をくりかえし読むことの大切さを強調していた。
それから臼井は吉田兼好の『徒然草』の次の言葉を紹介する。
《「ひとりともしびのもとに書をひろげて見ぬ世の人を友とするこそ、こようなぐさむわざなれ。書は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇」と書きつけた兼好の言葉ほど、読書の真髄を道破しているものはない》
「見ぬ世の人を友にする」は『徒然草』の第十三段の言葉。中村光夫もこの言葉が好きでエッセイで何度か紹介している。
木曜日、芥川賞と直木賞の発表——二十七年ぶりに「該当作なし」。
同書「作家と文学賞」というエッセイでは「自主性に乏しい日本の読書界では受賞作家は一せいに注目される結果になり、受賞と同時に執筆依頼が殺到し、それに翻弄されて、なけなしの才能を底まではたいてしまうものが多く、そこをきりぬけて自分を成長させることのできるものは十人のうち一人か二人にすぎない。(中略)悠々と自分の文学の成熟を待つ余裕など決して許されないのである」と記す。
選挙のさい、文学賞の選考委員のような気持で候補者を選ぶというのも面白いかもしれない。迷った末、「将来性に期待し……」と心の中で呟き、ある候補に票を投じた。