2021/09/16

井伏備忘録 その四

『鶏肋集 半生記(※鶏は旧字)』(講談社文芸文庫)に「疎開記」「疎開日記」が収録されている。

《昭和十八年六月上旬、私は家族をつれて山梨県石和町附近の甲運村に疎開した》

 疎開記では六月上旬。しかし文芸文庫の年譜は「五月、山梨県甲運村に疎開」とある。ずいぶん前に「日本の古本屋」で松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九八年)という本があることを知った。今のところ未読(未入手)である。読みたい気持ともうすこしいろいろ自分で考えたい気持が半々。著者の松本武夫は文芸文庫の『鶏肋集 半生記』の「人と作品」の筆者でもある。

 井伏鱒二「半生記」には関東大震災のころの回想も綴られている。
 大正十二年、一九二三年九月一日——井伏は下戸塚の下宿の二階に住んでいた。地震から七日目、中央線経由で一時帰郷を決める。大久保から中野、そして「高円寺に所帯を持っていた光成という学校の先輩のところに寄った」。
 光成は新聞記者の光成信男である。井伏は立川まで線路づたいに歩いた。

《立川から汽車に乗った。避難民は乗車切符の必要がなかった》

 立川から甲府、上諏訪、岡谷、塩尻の駅名も出てくる。愛国婦人会の団体に豆、餡パンなどをもらっている。
 塩尻では汽車は二時間停車すると知らされ、町に草履を買いに行く(下駄が片方割れかけていた)。
 草履代を払おうとすると「避難民からお金を受取るわけには行かない」と押し戻された。中津川で愛国婦人会から握り飯と味噌汁をもらった。

「半生記」では中津川までは詳細に記されているのだが、そこから先は「郷里に帰ると一箇月あまりで上京した」と話が飛ぶ。
 中津川から名古屋——おそらく東海道本線、山陽本線で広島に帰ったのだろう。

 再び上京すると、高円寺で世話になった先輩に聚芳閣という出版社を紹介してもらった。

《編輯の能力がないのに出版社に勤めていたので、著者に対しても気の毒なことになるようであった》

 それで社をやめるが、翌年同じ会社に再就職する。

《今度は無欠勤で出社していたが、つい奥附のない本を出すという大失敗をした》

 二十七歳。「恥ずかしくて社にいられなくなったので」一ヶ月あまりで退社する。井伏鱒二のエピソードの中でも一、二を争うほど好きな話だ。

 大正末に井伏鱒二は同人雑誌に参加するが、プロレタリア文学が隆盛となり、「私を除く他の同人がみんな左傾して雑誌の題名も変えた。私だけが取り残された」という。

《私が左翼的な作品を書かなかったのは、時流に対して不貞腐れていたためではない。不器用なくせに気無精だから、イデオロギーのある作品は書こうにも書けるはずがなかったのだ》

『井伏鱒二対談集』の河盛好蔵との対談「文学七十年」にもそのころの話が出てくる。

《河盛 つまり井伏さんの時代の文学青年は、いかにして自然主義文学から逃れるべきかということに苦心したのですか。
 井伏 それがタコの足に捕まったようになってしまったな、僕は。脱却できなかった。それと左翼運動、これはどうしても駄目だった》