2021/09/11

井伏備忘録 その一

 暑さが戻る。神保町で探していた『別冊 井伏鱒二 風貌・姿勢』(山梨県立文学館、一九九五年)を買う。『別冊』ではない『井伏鱒二 風貌・姿勢』(山梨県立文学館、一九九五年)もいいパンフレットだ。監修に飯田龍太、小沼丹、河盛好蔵、庄野潤三、三浦哲郎、安岡章太郎の名がある。

『別冊』の八木義徳のエッセイ。『風景』の編集長時代、井伏鱒二の名前を「井伏鰌二氏」と誤植した。井伏鱒二を敬愛する八木義徳は「失態中の大失態」とショックを受け、お詫びの手紙を出す。その返事には——。

《そういうことはよくありがちなことだから、あまりお気づかいなさらぬように、という寛容な言葉が書かれていた》

 井伏鱒二自身、編集者時代、「奥付」なしの本を作っている。

『別冊』の「傍証・甲運亭」(湧田佑)に「元女中頭 岩崎むら氏聞き書き」がある。

 甲運亭は笛吹川支流平等川から引いた堀割の岸にあった。

《この近くでは平等川の鮠(ハヤ)を釣られるのですが、いつ見に行きましても余り釣れません。(中略)この近くに一宮という桃の名所がありますが、春など桃の花見にお供したこともございます》

 わたしも山梨に行くと平等川沿いの宿によく泊る(もより駅は石和温泉駅)。甲運亭は、甲府市と笛吹市の境くらいのところにあった。戦時中、井伏鱒二が疎開していたのもこのあたりだった。

 深沢七郎との対談で井伏鱒二は、山梨で余生を送りたいという話の流れで、「いつか、武田(泰淳)君なんかと行った、一ノ宮ですか、あそこらもよさそうですね。西日がよく当たって」と語っている。

 泰淳とも桃の花見で行ったのだろうか。山梨は日本一の桃の産地である。

 井伏鱒二は神経痛を患ってからは「土手から釣る隠居釣り」を好むようになったとも語っている。

《現に私は、五十過ぎても水に立ちこむ釣をして神経痛を拗らせてしまった。私のうちから荻窪駅まで六丁。その道を大通りに出るあたりまで行くと腰痛がこみあげて来る》(『釣人』新潮社、一九七〇年)

 この話どこに書いてあったか思い出せずにいた。付箋大事だ。

 先月、井伏鱒二と河盛好蔵が熱海に行ったときの話に「当時、志賀直哉と広津和郎は熱海に住んでいた。一九四八年か四九年ごろか」と書いたが、井伏鱒二の年譜(『釣師・釣場』講談社文芸文庫、二〇一三年)に「一九四九年 一月、志賀直哉を熱海大洞台に訪ねる」とあった。井伏鱒二、五十歳。まちがってはいないが、確認してから書けばよかった。

 話は変わるが、一九八一年二月に『新潮』で「豊多摩郡井荻村」の連載がはじまった。この連載は後に『荻窪風土記』となる。八十二歳(まもなく八十三歳)で書きはじめている。