2021/09/22

井伏備忘録 その五

 甲州街道は江戸から甲府ではなく、長野の下諏訪まで続いている。諸説あるのだが、甲州街道は江戸に何かあったとしても、甲府まで出れば富士川を下って駿府へ、あるいは下諏訪に出て中山道に辿り着く。いわば脱出路として整備された道だ。

 井伏鱒二は関東大震災後、甲州街道〜中山道——中央本線で郷里の広島に避難した。疎開先の甲府が空襲を受け、再疎開したときもそうだ。

《下戸塚の自警団員に訊くと、七日になれば中央線の汽車が立川まで来るようになると言った。箱根の山が鉄道線路と一緒に吹きとんで、小田原、国府津、平塚は全面的に壊滅したと言われていた。中央線だけは息を吹き返しそうになったので、立川まで歩いて行けば、そこから先は乗車させてくれると言う。広島行きならば、塩尻経由で名古屋で乗り換えればいい》(「関東大震災直後」/『荻窪風土記』新潮文庫)

 『荻窪風土記』の「関東大震災直後」は当時の高円寺の話が詳しく書かれている。高円寺駅まで来たが、訪ねようとおもっている先輩の住所がわからない。幕府の鳥見番所があったところ、桐の木畑の中の二十軒あまりの借家の一軒という記憶がある。通りすがりの警防団員に訊くと「鳥見番所のあったところなら、南口だね」と教えてくれた。
 光成信男は大学の先輩で学科はちがったが、小説を書いていた。学生時代の井伏を岩野泡鳴の創作月評会に連れていったのも光成だった。
 光成の家に行った井伏は自警団員として高円寺の夜警をした。震災後、井伏は歩いて立川まで行く途中、中野と高円寺で一泊ずつしている。後に光成から井伏は出版社の仕事を紹介してもらうが、最初は三ヶ月、再び同じ社に戻ったが一ヶ月でやめている。計四ヶ月。このころ小説は書いているが、ほとんどが同人雑誌である。

《中央線の鉄道は、立川・八王子間の鉄橋が破損していたが、徐行できる程度に修理が完了したという》(「震災避難民」/『荻窪風土記』)

 わたしは『荻窪風土記』を読み、九月一日の関東大震災だけでなく、九月二日に新潟の柏崎地方でも大きな地震があったことを知った。この地震で柏崎駅前の倉庫が倒壊した。
 また関東大震災のとき、駿河湾で大海嘯もあった。

《浮島沼は水位が六尺も高くなって荒れ狂い、三保の松原では何十艘もの船を町のなかに置き去りにして行くほどの大津波を起した》

 立川駅から汽車に乗る。井伏鱒二の乗った汽車は「避難列車第一号」だった。

 高円寺から先、井伏鱒二はだいたい中央線を線路沿いに歩いた。そのとき、いずれは荻窪あたりに住みたいと考えたのではないか。東海道線が不通になっても中央線沿線であれば、郷里に帰ることができる。

 そして震災から四年後、一九二七年九月——井伏鱒二は荻窪に新居を建てた。二十九歳。