再び山梨の話に戻る。
石和から温泉が出たのは昭和三十年代——観光地としてはまだまだ歴史は浅い。
井伏鱒二の「旧・笛吹川の趾地」によると「昭和三十六年一月二十四日、山梨交通の社員保養寮の宿舎に井戸を掘つてゐると、不意に温度五十度の温泉が吹き出した。(中略)吹き出た場所は、明治四十年の大洪水で被害を受けた笛吹川の趾地であつた」そうだ。
《旧笛吹川は小さな川にして、差出の磯から平等川といふ名前で甲運亭のわきを流すようになつてゐる》
すこし前に「泰淳とも桃の花見で行ったのだろうか」と書いたが、河盛好蔵編『井伏さんの横顔』(彌生書房、一九九三年)の武田泰淳「『五十三次』と『三十六景』」にこんな記述があった。
《山梨の万力山の桃観に先生と同行した日、まことに楽しかりし風無くしてうららかにはれた春のまひる、むれかえるほどの桃花の色が暖気の裡に、ものうげにかすむあたりの田園風景に溶け入り、二台の車を連ねて行く我ら一同が、ことごとく先生を中心とした「井伏的人物」と化したが如くだった》
泰淳は一宮ではなく、万力山と書いている。このときの桃観には深沢七郎も同行していた。井伏鱒二の桃観は恒例行事(四月のはじめごろ)だったから、甲運亭の人と行ったのは別のときの可能性もある。
『井伏鱒二対談集』(新潮文庫)の深沢七郎との対談「自然と文学」にも武田泰淳一家、井伏鱒二、深沢七郎の桃観の話が語られている。
《深沢 あれはもう七、八年前ですか
井伏 あれから僕は、桃の花を見に毎年行っているのです、四月十日前後に》
対談の初出は『文芸』(一九六九年六月号)。七、八年前ということは一九六一年か二年。場所は——。
《深沢 あれは勝沼の上のほうでしたね。
井伏 一宮の上のほうです。去年、一人であそこをずっとまわってみたが、いまの県知事の家のあたりがいいですね、塩山(えんざん)の南のほうですよ》
萩原得司著『井伏鱒二聞き書き』(青弓社、一九九四年)には武田泰淳が荻窪にいたころの話が出てくる。
《武田泰淳は、ぼくが戦争後ここへ来たときに、この裏あたりにいたんだ。小説を書いている奥さん(武田百合子)がいるだろう。あのひとと一緒になった前後の頃だ。この近くの裏にいたので、それで知り合いになった。……あれは秀才だよ……》
井伏鱒二は一八九八年二月十五日、武田泰淳は一九一二年二月十二日生まれ。鈴木(武田)百合子と結婚したのは一九五一年十一月——。
《武田とは、荻窪駅のまえで酒飲んだりしたけど、あの人はあまり飲まないほうで、ビールが好きだったんだ。晩年はだいぶ飲んでいるということは、噂で聞いていた》
井伏にとって、泰淳は秀才で頭のいい人という認識だった。かつて泰淳と同じ京北中学校(東洋大学の井上円了が作った学校)出身の古川洋三から「クラスでいつも成績がいちばん良かった生徒が、武田泰淳だった」と教えられた。
『井伏鱒二聞き書き』の略年譜は山梨の疎開は一九四四年七月となっている。
本文中の註釈には「甲府に疎開していた期間は一年と六日間」(本人談)で「逆算すると従来の年譜と若干のくいちがいがでてくる」。
かならずしも本人の記憶が正しいとはかぎらない。甲府疎開は一九四四年五月か六月か七月か。しばらく宿題としたい。