2021/05/03

文学四方山話

 四月末、西部古書会館の西部展も中止。飲み屋はノンアルコール営業。毎日寝てばかり。ラジオを聴いたり、本を読んだりして過ごす。

 古書ワルツで買った『文学四方山話』(おうふう、二〇〇一年)を読む。大河内昭爾の対談(鼎談)集。目次には杉浦明平、安岡章太郎、眞鍋呉夫、檀ふみ、三浦哲郎、秋山駿、深沢七郎、水上勉の名がある。

 大河内昭爾と安岡章太郎の対談「覚悟ということ」では——。

《安岡 僕はね、この頃はそう文芸雑誌とも深く付き合ってないけど、一番憂えるのは編集者に語感がないんじゃないのかな、と思いますが。出版社というのはいずれも難しいわけですね、入社試験。
 大河内 最近、優秀なのばかり採るようです。
 安岡 そうでしょう。だけどその優秀って何ですか。これ意味ないんじゃないですかね。
 大河内 単に偏差値が高いというだけで、文学が好きな人が来るかどうかは別の問題です》

 大河内は同人雑誌のいい作品を編集部に紹介しても「将来性がない」「部数に結びつかない」「今風でない」といった理由で断られる現状を嘆くと、安岡は「要するに、彼らのそういう固定観念ね。感覚があればね、まだいいんだ」と語る。また大河内は「表向きの素振りはともかく、愛する作家というか、そういう気持ちを持っていなければ、少なくとも文学を愛していなければ、文芸雑誌にかかわる意味がない」という。

 安岡はジャーナリズムにたいして、うわべの知識だけが発達して「何か自分でものを考えたという形跡が少ない」とぼやく。

 大河内によると、井伏鱒二や尾崎一雄が学生だったころは「文学を最上に考える。文学や哲学に一生懸命なら学校はサボってもしょうがないという発想があった」と……。

 この対談は一九九八年七月に行われたもので、本人たちも「老人の繰り言」と自嘲しているが、二十年ちょっと前の出版界の状況をおもいだす。当時、学生運動に参加し、ドロップアウトした編集者が五十代になって現場を離れてしまった時期とも重なる(わたしは商業誌の仕事を干されていた)。この対談で語られている「感覚」や「覚悟」について、もうすこし考え続けたい。