歌枕への興味から土屋文明著『万葉紀行』(筑摩叢書、一九八三年)を西部古書会館で買った。もともと一九四三年に刊行された本で何度も復刊している。『続・万葉紀行』(筑摩叢書、一九八三年)もある。
十月九日(木)、三重に帰省。小田急で新宿駅から小田原駅へ。小田急に乗っている間、東海道の宿場のどのあたりで降りるか考える。
JR小田原駅から東田子の浦駅で途中下車。同駅に降りたのは人生初だ。家を出たときはまったく降りるつもりはなかった。富士山は雲がかかっていて見えなかった。
『万葉紀行』でも田子の浦(田児の浦)の章がある。土屋文明は清水駅で降りている。
《田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は零ける》
わたしは東田子の浦駅から柏原海岸のほうに向かった。歌枕の「田児の浦」の場所は今の田子の浦と同じなのか、そうでないのか。そうでない説もいろいろある。このあたり陸路は難所が多く、船で移動し、海上から富士山を見たのではないかという説もある。
東海道そのものが古代中世近世と経路が変わっている。現代に至ってもそう。
そのあと旧東海道を歩く。途中、合の宿柏原を通った。車の交通量多し。
夕方、JR吉原駅に到着する。田子の浦港周辺をすこし歩く。岳南電車に乗りたかったのだが、またの機会にする。浮島ヶ原の北にある根方街道も歩きたい。
新幹線の駅——「なぜここに?」とおもう駅がいくつかある。新富士駅もそう。東海道本線+身延線が合わさる富士駅が新幹線の駅だったら、利用者はもっと増えるのではないか。気になってインターネットで検索したら宗教絡みの情報(真偽不明)が……。
JR吉原駅から在来線で静岡駅まで行き、途中下車。駅近くの金券ショップで新幹線(自由席)のチケットを買い、名古屋駅へ。この日は寄り道せず、郷里の鈴鹿の家に帰る。
十日(金)、母と港屋珈琲でモーニング。だし巻き卵のサンドイッチ(プラス百円でトーストから変更できる)が絶品だった。家の掃除。昼、歌行燈鈴鹿店に行く。桜海老のうどんのセット。前日の疲れが残っていたので家でごろごろする。テレビで自公連立解消のニュースを見る。連立二十六年。二十六年という年月を長いと見るか、そうでもないと見るか。
十一日(土)、朝八時台のバスに乗ってJR関西本線の加佐登駅に行く。交通系ICの関係で亀山駅で一度改札を出て入り直す。
JRの小田原駅から東田子の浦駅で降りたときもリモートで精算した。いつになったらこのシステムは改善されるのか。
『万葉紀行』には「大和から伊勢への大道は、万葉時代には鈴鹿すなわち加太(かぶと)と阿保の二つがあった」と記されている。
《鈴鹿加太は伊賀の柘植から伊勢の関に越えるもので、後の鈴鹿峠は万葉の時代にはまだ開かれてなかったとのことであるが、阿保は伊賀の阿保から伊勢の一志郡河口に越えるもので、今は青山峠と呼ばれている》
関西本線は亀山駅から柘植駅までの間に加太駅を通る。万葉のころのルートと近い。
柘植駅で草津線に乗り換える。草津線の電車が来るまで二十分以上あったので駅の外に出る。柘植駅は三重県で最初に開業した駅らしい。ちょっと意外である。
柘植駅の外、小雨で霧が立ち込める。柘植、いつも霧。寒い。柘植は東海自然歩道、大和街道などが通っている。このあたりは横光利一が少年時代を過ごした地でもある。横光利一文学碑、横光公園あり。あと芭蕉公園もある(芭蕉も伊賀の生まれ)。
柘植駅から草津線に乗ったところ、曇り空にもかかわらず、後から座った乗客がいきなり日除けのブラインドを下ろした。柘植駅〜草津駅間の車窓を楽しみにしていたので「すこし開けていいですか」とお願いする。
草津駅から新快速に乗り、大津駅で途中下車し、京阪のびわ湖浜大津駅まで歩く。昼前だったが、大津祭の曳山などを見かけた。琵琶湖を見る。東海道本線と京阪の乗り換えは石山駅(京阪石山駅)のほうが楽なのだが、大津をすこし歩きたかった。
三条京阪駅から出町柳駅。それから叡山電車で一乗寺駅。恵文社一乗寺店の「ノアの50年」に参加する。編集工房ノアの創業五十周年イベント。わたしも記念冊子に執筆した。涸沢純平さん、山田稔さんのトークイベントを聞き、そのあとの打ち上げも参加した。
夜八時台の新幹線(のぞみ)で東京に帰る。二十分後のひかりまで待とうかと考えていたのだが、ホームに止まっていたのぞみが空いていて座れた。座ってすぐ熟睡してしまい、起きたら静岡駅だった。