2025/10/08

三十六

 高円寺に移り住んだのは一九八九年十月中旬。かれこれ三十六年。干支三周。若いころの社会不適応は、年をとり、すこしずつ改善してきた自負があるのだが、今度は時代不適応になりつつある。無人レジで同じ商品のバーコードを二度読み込み、店員を呼んでやり直すみたいなことをしょっちゅうやってしまう。インターネットで何かを予約する——そういうのも苦手だ(なぜか途中から先に進まなくなる)。

 それでも五十代半ば(来月五十六歳)までどうにかこうにか生きてきた。年をとるにつれ、自分の凡庸さを受け入れ、淡々とした日々が送ることに喜び……とまではいかないが、そんなにわるくないとおもえるようになった。

 自分が常に進歩や革新性を目指す人間だったら、三十歳前後で行き詰まっていたにちがいない。同じことをくりかえす。一見、退屈におもえることの中にも何らかの面白味はある。
 わたしには同じ本やレコードを百回くらい読んだり聴いたりしても飽きない。日課の散歩にしても、たまに知らない道を散策することもあるが、行き先も数パターンでたいてい同じ道を歩く。でも飽きない。

 若いころから何度も読み返している山本周五郎著『青べか日記』(大和書房、一九七一年)に「金銭について」というQ&A形式の文章がある。

 勤倹貯蓄について訊かれ、周五郎は「美徳でもなんでもないと私は考えます」と答える。
 美徳とはおもわないが、否定もしない。貯金だろうが何だろうが、その人が情熱を持って打ち込んでいることがあるなら、他人の評価は余計なことだ——というのが周五郎の意見である。

《たとえば蚤のサーカスというのがありますが、蚤をあそこまで訓練するということを考えると、だいたいならば、その馬鹿馬鹿しさにあきれるだろうと思います。この場合、爪に火をともす生活と、蚤のサーカスをこしらえることは、決して区別すべき問題ではないんで、人間がある一つのことに情熱をついやすということになれば、それは金を貯めようと蚤のサーカスをつくろうと同じだと考えます》

 有益か無益かはどうでもいい。自分が面白いとおもえることに打ち込めるかどうか。ただ、趣味を続けるにも金がいるし、健康も大切である。だから仕事もすれば節約もする。節酒もする。

 二十代半ばの不遇だったころの周五郎は「遊べ、三十六、急ぐな。いくらでも遊ぶが宜い」(「青べか日記」)と自分に言い聞かせるような言葉を日記に書いている。「三十六」は周五郎の本名清水三十六の「三十六(さとむ)」。

「遊べ」「急ぐな」のあと、しばらくして父に金を借りている。そこもよし。

《昨日は東京から本屋を招いて蔵書を売払った。八拾円の金が手に入った。借金を支払えば残りは僅かである》

 三十六青年はしょっちゅう本を売っている。親近感がわく。 

《金が欲しい 食える丈の金欲しい》 

 名著である。