2024/11/14

雑記

 今月、五十五歳になる。『サザエさん』の波平は五十四歳という設定なので、彼より年上になる。昔なら定年である。思い返すと、十九歳で上京してから、人生の大半といっていいくらいの時間、本を探すこと、本を読むことに費やしてきた。三十数年、古本屋通いをしていると、何度となく低迷期も味わってきた。未知の本への渇望が薄れ、単行本で持っている本の文庫版を買うとかまたその逆とか、手持のものより状態のいい本(帯付など)に買い直すとか、そんなことをやって、新規開拓欲がわいてくるまでやりすごす。

 日曜、蔵書の整理を中断して散歩。中通りのミュージックストリートでいくつかバンドを見る。野外なのに音がよくて気持いい。夕方、塚本功さんが出演する店の前の路地を通ったのだが、満席で入れそうにない。そのまま散歩する。薬局で貼るカイロを買う。レジで店の人に「貼らないタイプですが、いいですか」と聞かれる。貼るほうに交換してもらう。

 ちょっと小雨。左の手のひらがすこし痺れが出て、さらにピリっと痛みが走ったので、のんびり過ごすことにした。手のひらに気休めの湿布を貼る。治まる。

 牛のさがりで牛丼作る。『些末事研究』の福田賢治さんが米を作っている。この米がうまい。高松に移住前から農業がしたいといっていたが、趣味の範囲かとおもっていた。年々、畑が広くなり、もはや農家である。

 終わりの見えない大掃除。街道から古典(これも街道絡みなのだが)に至り、部屋の動線を失う。図録は場所をとる。しかしなぜか買ったときの満足感が大きいのも図録なのだ。手元にあると嬉しいのだ。

 新聞や雑誌の切り抜き、自分の検索能力が衰えると何の役にも立たない。情けないけど、仕方がない。捨てようとおもって紙袋から出すと面白い(二十年くらい前のフリーター関連の記事など)。面白いから捨てられない。しかし収容スペースは限られている。

 押入に入れっぱなしだった不要なもの、壊れた家電などを処分しようと「杉並区 粗大ゴミ」と検索。以前、インターネットで申し込んだことがあるのだが、申し込みの画面から先に進まない。電話で申し込む(丁寧な対応)。リサイクルショップで激安で買ったタワー型の扇風機、処分費のほうが高い。そういうこともある。

2024/11/09

コタツメモ

 南口エトアール商店街、雪の結晶の電飾(星の形もある)。エトアール(エトワール)はフランス語で星の意味。花形スターみたいな意味もある。エトアール商店街、夏の提灯もいい。夜の散歩コース。ついでに西友で買物する。

 中通り商店街はミュージックストリート(土・日二日間)が開催中。散歩中に見る。茶処つきじでほうじ茶を買う。純情商店街の提灯もいい。

 九日(土)の昼、コタツ布団をセットする。電源を入れる。あたたか。ちなみに七日(木)の深夜、飲み屋に出かける前、長袖のヒートテックを着た。貼るカイロはまだつかっていないけど、冬が近づいている。

 手と足が冷えやすい(いわゆる末端冷え性)。手の指が冷えると原稿が書けない。三年前の十一月に神経痛になって以来、体の冷えには用心しまくっている。

 大病や大怪我をしたわけではないが、五十歳以降、身の処し方が安全第一主義になっている。散歩したり、電車やバスに乗ったり、本を読んだり、酒を飲んだり、これまで当たり前におもっていたことが、そうではないと知った。健康だからできるのだ。前は店に三、四時間居座って飲み続けてしまうことがよくあったが、今は閉店一時間前くらいに行き、さくっと帰る(深酒予防)。ウイスキーを飲んだ翌日、神経痛の手前の症状が出るようになり、ビール、ウォッカ、その他、いろいろ試したが、飲みすぎなければいいということがわかった。好きな酒が飲めるように体調を整える。よく歩き、よく寝る。体を冷やさない。あと自分の調子のいいときの体重より増えれば減らし、減れば増やす。

 尾崎一雄の「歩きたい」という小説が好きで、しょっちゅう読み返している。この小説は低迷の底を脱しかけている時期に書いたのではないか。そんな気がする。「冬眠居」の尾崎一雄もそうだが、わたしは寒がりの作家が好きになる傾向がある。古山高麗雄もそう。

 今年も冬を乗りきることが目標である。

2024/11/07

頭に入らない

 三日、朝から掃除。夕方、馬橋小学校盆おどり。ちょこっと顔を出す。クックロビン音頭。両手を前に出すふりしかおぼえていなかった。自分の記憶よりテンポも早かった。

 日本シリーズは横浜優勝。MVPは桑原将志選手。知り合いに横浜一筋のファンが何人かいるのだが、桑原選手の人気はすごい。おっさん野球ファンは体を張ったプレーをする選手に弱い。わたしも弱い。いっぽう自分の生き方に関しては、無理せずケガせず疲れをためず静かに暮らしたい。若いころはこんなに平穏かつ安楽を望む人間になるとはおもわなかった。

 アメリカ大統領選の前に『最後のコラム 鮎川信夫遺稿週集103篇』(文藝春秋、一九八七年)などを再読。『最後のコラム』の「アメリカ連邦議員選挙」(一九八六年)にはこんな記述がある。

《同じ民主国でも、米国の選挙はわかりにくい。すべての点で日本の選挙とはあまりにもかけ離れているから、一度や二度聞いたくらいでは、とても頭に入らない》

《民主党はリベラル、共和党は保守、と考えがちだが、そうした固定観念でみると、しばしば間違いを犯す》

 このコラムが書かれたころのアメリカ大統領はロナルド・レーガンだが、鮎川信夫は「レーガンでさえ、リベラルではないかと疑われるところは、いくらでもある」と述べている。レーガンはハリウッドの労組の委員長をつとめていたこともある。アメリカの共和党の政治家はリベラルからの転向者がけっこういる。

 わたしのアメリカの政治に関する情報の更新は滞っている。日本でアメリカのコラムニストの翻訳が盛んだったのは一九九〇年代半ばまで……。

 ここまで書いて仕事に出かける。外出先でドナルド・トランプの勝利宣言のニュースを見る。結果がわかるのは翌日の朝か昼くらいかなとおもっていた。選挙後、(わたしが見たニュースでは)共和党支持者だけど、トランプに投票しなかった人の意見は取り上げていたが、民主党支持者でカマラ・ハリスに投票しなかった人の意見は報じなかった。そこを取材して掘り下げていれば面白いとおもうのだが。トランプ支持者を「教育水準が低い」「高卒」と指摘する人もいるが、彼らのまわり(親兄弟親戚知人)には中卒や高卒の人がいないのだろうか。いつになったら、こうした発言が有権者の半数以上を占める人たちの強い反感を買っていることに気づくのか。

 そんなことをあれこれ考えながら掃除を続ける。