2025/04/01

寅彦の勉強法

 昨日の夜、ブログを更新したつもりが、されてなかった(たまにある)。

 金曜夕方(寝起き)、西部古書会館。『漱石と高浜虚子 「吾輩は猫である」が生まれるまで』(新宿区立漱石山房記念館、二〇一九年)、『夏目漱石 漱石山房の日々』(高知県立文学館、二〇〇七年)、『ふくやま文学館 開館20周年記念 夏目漱石 漱石山房の日々』(ふくやま文学館、二〇一九年)など、漱石関連の文学展パンフを三冊。「漱石+子規」の文学展パンフは何種類もあるが、「漱石+虚子」は珍しい。文学館の企画で「漱石+他の作家」の組み合わせはもっとあっていい気がする。


『夏目漱石 漱石山房の日々』はタイトルと目次の並びが途中までは同じで高知県立文学館版は「第3部 漱石と寅彦」、ふくやま文学館版は「漱石と広島」(寄稿「広島の旧友井原市次郎」瀬崎圭二)となっている。同タイトルの図録は各地の文学館から出ている。都内の古本屋でよく見かける『漱石山房の日々』はB5変型(縦にちょっと細長い)の図録(鎌倉文学館、二〇〇五年、その他)だろう。

 寺田寅彦は東京生まれだが、父方が土佐藩の士族の家系で四歳から高知市小津町の家で暮らしていた。そのあと熊本の五高に入学し、漱石と出会う。
地元が高知で熊本の五高といえば上林暁もそう。



『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を購入後、ひょっとしたら一九九〇年代に寅彦の文学展があったのではないかと「日本の古本屋」を検索した。すると『開館記念特別展 第一回 寺田寅彦展 内なる世界の具現』(高知県立民俗資料館、一九九一年)があった。注文した。「第一回」ということは他の寅彦展もあるのだろうか。

 寝る前に電子書籍で寺田寅彦の随筆「わが中学時代の勉強法」(一九〇八年)を読む。

《故意になまけるというと、なんだかおかしく聞こえるが自分はいやになった時、無理につとめて勉強をつづけようとせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出かければ、好きなものを見にゆく。はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよくのみ込める》



 たぶん寅彦流の勉強法は理にかなっている。勉強だけではなく、仕事もそうだろう。根を詰めてずっと机に向かい続けるより、遊んだり散歩したりしながらのほうが(わたしの場合)捗る。

 そのあと「科学を志す人へ」(一九三四年)を読んだ。

《誰であったか西洋の大家の言ったように、「問題をつかまえ、そうしたその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年をとってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ」というのは、どうも多くの場合に本当らしい》

 だから学生時代は「一つの問題」に執着せず、「問題の仕入れ」をたくさんしたほうがいい——といった助言をしている。寅彦流の怠けたり遊んだりする勉強法も「問題の仕入れ」につながっていたのではないか。

 寺田寅彦は多才な人だった。詩歌、絵、音楽、さらに学問に関しても専門の物理以外に地理学を志していた時期もある。「科学を志す人へ」は寅彦五十五、六歳のときの文章である。翌年十二月三十一日没。享年五十七。

2025/03/25

ガラス板

 二十三日、日曜。都心の最高気温は二十五度以上を観測、今年初の夏日だった。すこしずつ衣替えをはじめる。最近、薄くて柔らかくて洗濯してもしわがつかない夏用の長袖のシャツを見かけなくなった(古着屋で買っている)。

 土曜、中野の桃園町(現・中野三丁目)あたりをうろうろ歩く。セブンイレブンやファミリーマートも「中野桃園町店」があり、「桃園」の名を残している。斜めの道を歩いて囲桃園公園を通る。公園の近くにはザ・ポケットなど、小劇場が何軒かある。

 そのあと駅の北口に行き、中野ブロードウェイ。墓場の画廊を見て、ブックス・ロンド社で水の文化情報誌『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を買う。寺田寅彦の特集は『サライ』の「科学と遊ぶ 寺田寅彦先生の理科大学」(一九九一年十二月十九日号)などがあるけど、たぶんそんなに多くないとおもう。『月刊FRONT』の特集は知らなかった。

「天災は忘れたころ来る」の警句は寺田寅彦の言葉として知られるが、「意外なことに、寅彦の書いたものには記されていない」との囲み記事あり。

 高校時代、寺田寅彦の弟子(孫弟子だったかもしれない)という物理の先生がいた。授業中、よく寝ていたので定規で何度か頭を叩かれた。まあまあ痛かった。そんな過去の経験から古本屋通いをはじめてしばらくの間、寺田寅彦は避けていたのだが、あるとき『柿の種』(岩波文庫)を読んだ。
 一九九六年四月十六日が第一刷でわたしが持っているのは同年十一月八日第六刷である。半年ちょっとで六刷はすごい。

 一九九五年十一月末に業界紙の仕事をやめた。二十六歳から三十歳過ぎまでアルバイトで食いつないでいた。そのころ『柿の種』を読んだ。
 同書の冒頭の随筆にこんな一節がある。

《日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている》

 その境界を行き来するには「小さな狭い穴」を通るしかない。何度も行き来していると、その穴はすこしずつ大きくなる。穴を見つけても通れない人がいる。

《しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある》

 寺田寅彦は「かもしれない」「らしい」「ような気がする」をよくつかう。
 なんとなく戦後の軽エッセイの文体に近い(ような気がする……と書きたくなる)。文章が軽やかで古くない。

《眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
 しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
 なぜだろう》(大正十年三月、渋柿)

『柿の種』の「短章 その一」のわずか三行の文章。文庫の二十八頁。頁の空白もいい。

2025/03/21

松ノ木

 火曜日、高円寺駅から永福町行のバスで松ノ木二丁目。松ノ木は和田堀公園の近くに松ノ木遺跡がある。『燒酎詩集』(日本未来派発行所、一九五五年)の及川均(一九一三~一九九六)もこのあたりに住んでいた。善福寺川も近い。

《生きてることの徒労のために。
 まず一杯。》(「わきめもふらず。ジグザグに」抜粋/『燒酎詩集』より)


 サミットストア成田東店に寄り、杉並税務署へ。途中の住宅街でちょっと迷いかけたが、無事、辿り着くことができた。阿佐ケ谷駅から歩くより近い。近いが、道がわかりにくい。ここ数年、迷いそうな道が好きになった。

 帰りはパールセンターを通り阿佐ケ谷駅、ガード下を歩いて高円寺に帰る。

 病気、ケガをすると健康のありがたみがわかる。自分の暮らす町もそういうところがある。近所の散歩をしていても心のどこかで「いつまでこの町を散歩できるのだろう」という考えが頭をよぎる。健康もそうだが、この先、経済事情を理由に東京を離れることもあるだろう。たぶんどこに住んでも散歩するだろう。

 いつまで日常が続くかわからない。ただ町を歩いているだけで貴重なことにおもえる。その心境は老いと関係しているにちがいない。

 二十代三十代のころは、今の窮地をしのげば、この先よくなるという根拠のない希望を持てた。五十代になると厳しい状況を乗り越えても、すこし先にもっと大変なことが待っていると薄々わかっているので喜ぶ気持になれない。とはいえ、悲観ばかりしていても仕方がない。

 木曜の祝日、妙正寺川、鷺盛橋、蓮華寺の散歩コースを楽しむ。蓮華寺の河津桜は葉桜になっていた。