2025/12/09

うめ草すて石

 十二月八日(月)、起きたら午後四時。大和町の仕事場に行き、早稲田通りを散歩。中野区立野方一丁目公園に寄る。中野区制五十周年記念樹を見る。最近までこの公園の名前を知らなかった。
 大和町、野方は高円寺の隣町なのだが、まだまだ歩いていない場所が残っている。
 ブックファースト中野店で新刊本を一冊。中野駅方面に向かい、中野レンガ坂のイルミネーションを見る。

 ブックファースト中野店の前のあおい書店中野店は二〇一七年九月閉店。つい最近のことのようにおもえる。

 先週の西部古書会館で買った荒畑寒村、向坂逸郎著『うめ草すて石』(至誠堂、一九六二年)を読む。同書は新装版(一九八二年)も出ている。埋草捨石——新聞雑誌の穴埋め記事のこと。同書は対談なのだが、文頭に発言者の名前がなく、途中からページを開くとどちらが喋っているのかわからず戸惑う。

 たとえば「安成貞雄、二郎」のところ(質問者・向坂)はこんな感じ——。

《安成二郎さんってあるでしょう?
 ええ、あれは貞雄の弟です。
 安成さんは子供さんはあったんですか?
 貞雄にはありません。
 では細君は?
 細君もなかったです。
 じゃ二郎さんは?
 二郎君は子供が幾人もあります。
 これも歌人ですか。
 小説なども書いてますが、本領はやはり歌ですね。例の「豊葦原、瑞穂の国に生まれきて、米が食えぬとはうそのよな話」という歌と、「言霊のさきはふ国に生まれきて、物がいえぬとはうそのような話」という歌は、ともに有名なものです。それからこういうのもある。「父となりし、まぬがれ難きあやまちと、夫となりし、おろかなあやまち」(爆笑)》

 安成二郎のことを「自分のむすこの家で孫の守りをして、まあ楽隠居の身の上です」(寒村の言)とも。

 さらに寒村はこんな安成二郎の逸話も語っている。

《終戦後にどっかの雑誌から、あなたはどういう世の中になったらよいと思いますかというアンケートが来たら、安成二郎いわく「いまのままが一番よい」(笑声)》

 安成二郎は阿佐ケ谷に暮らし、「阿佐ヶ谷将棋会」のメンバーでもあった。一八八六年九月秋田生まれ。一九七四年四月没。享年八十七。

『うめ草すて石』の「石川三四郎と守田有秋」では、石川がフランスに行ってエリゼ・ルクリュの孫のところで世話になったことがきっかけでアナキストになった——という話が出てくる。

《石川君のアナーキズムは、非常に精神主義の色彩が強い。どっちかというと、ターナーなんかの個人的な人格を作り上げるというような、ごく温和なアナーキズムなんですね》

 ルクリュは地理学者。ロシアのアナキストのクロポトキンも地理学者だった。

 石川三四郎の温和なアナーキズムは新居格、秋山清に受け継がれている。

2025/12/06

巡検

 十二月五日(金)、昼すぎ、散歩に出かける。歩きはじめてすぐ西部古書会館で歳末赤札古本市(木曜から)が開催中だったと気づく。財布に千円ちょっとしか入ってなかったので郵便局に寄る。

『古地図・浮世絵にみる開港名品展 初公開立正大学田中啓爾文庫』(浮世絵太田記念美術館、一九八七年)、荒畑寒村、向坂逸郎著『うめ草すて石 思い出の人びと』(至誠堂、一九六二年)、『笑う死者 岡本潤詩集』(国文社、一九六七年)、安田武、江戸文化研究室『老舗考』(アドファイブ出版局、一九八〇年)など。『開港名品展』の図録——収録されている横浜や長崎の地図(鳥瞰図)が素晴らしい。船の絵も緻密。街道と古地図と絵巻の図録を集めているが、事前にどんな図録があるのか調べていない。知らないまま集めている。

 田中啓爾(一八八五〜一九七五)は地誌、人文地理学の大家。享年八十九。

《古地図の利用は田中啓爾先生の研究の特長でもある。そのため古地図収集に大変な努力を続けられた。つねづね古地図情報(地域に関係する本も含む)に関心を持ち、古地図市、展示即売会などの情報が入ると、その前夜は早めに床につき、体調を整えて時間前に会場に出かけ行列された。開場と同時に走り、誰よりも早く会場を一巡しながら目ぼしいものを指定して購入した》(稲永幸男「田中啓爾先生と地誌」/『開港名品展』)

 田中啓爾先生は地理の巡検も熱心だった。

《同じ場所を定期的に巡検することで現象関係とその変化を知る。そして地理哲学を背景とする地理的理念が明らかになる》(同上)

 地理学の巡検、面白そう。わたしは即売会にいっても「開場と同時に走り」という意欲を失って久しい。それでも古本屋、古書会館通いは続ける。続けたい。歳月の積み重ねによって見えてくるものがある。読書もそうだし、散歩もそう。
 街道の研究……しょっちゅう迷走しているし、時間や金や体力の問題で行き詰まっている。全体を広く知りたいという気持と狭い地域を掘り下げたい気持がある。その両立がむずかしい。

 古書会館のあと、東高円寺へ。高円寺東公園、高円寺天祖神社、蚕糸の森公園などを回る。高円寺東公園のイチョウは葉が散っていた。

 夜、今年最後の満月見る。コールドムーン。東急ストアで小籠包を買う。

 六日(土)、大和町中央通りを歩いて中野区大和区民活動センターに寄り、大和北公園のイチョウを見る。ここ数日がピークか。大和町八幡神社、環七の歩道橋を渡り、大新横丁商店街を抜け、中野区立早稲田通り公園のイチョウを見る。
 そのあと中央線の線路の方向に進んでいたら、高円寺北一児童遊園という小さな公園があった。何度か通っていたが、公園の名前を知らなかった。

 徒歩圏内でも知らないことだらけだ。

2025/12/04

すぎはち公園

 過去と現在の町や道を知りたい。そこから未来のことも考えたい。五十歳になる手前あたりまでは、散歩中、自分のことばかり考えていた気がする。人も町も変わっていく。この先の変化がよい方向に進んでほしい。そんなことをおもうようになった。

《先日、国立市の富士見通りのマンション解体のニュースがあったが、わたしは高円寺駅から見える富士山を隠す建造物ができたら、すごくいやだ。でも国立市のような反対運動は起きないだろう》(「かくしあらば」/文壇高円寺 二〇二四年六月十七日)

《ここのところドコモタワーやスカイツリーを見る話を何度となく書いている。風景は誰のものか。最近そういうことを考えている》(「一万八歩」/文壇高円寺 二〇二五年四月三十日)

 谷根千の「夕やけだんだん」のところにマンションが建設中という話題が賛否(否が多め)を巻き起こしている。
 もしこのマンションが完成すれば、この先、景観破壊の象徴として類似の件が取り沙汰されるたびに、何度となく蒸し返されるだろう。
 その町に暮らす多くの人が親しんできた景色を消し去る。自分が暮らしている町にそれが起こったときのことを想像する。

 冬の晴れた日、高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷駅寄りの端っこ)から富士山が見える——富士山が見えることは高円寺に住み続けている理由ではない。でも見えなくなったら悲しい。夕焼けは馬橋公園から阿佐ヶ谷神明宮に向かう斜めの道(やや下り坂)がきれいである。あと中野区大和町から若宮にかけての妙正寺川沿いの道も夕焼けを見るため、よく散歩する。

 散歩を続けているうちに知らなかった道を知る。好きな場所が増える。名前もついていないような通りの樹木、風景が大切になる。

 最近、高円寺図書館とすぎはち公園がお気に入りの場所になった。高円寺駅から行くなら南中央通りの「杉並八小北」の信号をそのまま南に進んで突き当たりのすこし手前の東の道(郵便ポストあり)に入る道がわかりやすいかも。すぎはち公園の「すぎはち」は杉並区立第八小学校からとっている。
 図書館の三階の階段を登ったところの窓から東京スカイツリーが見える。図書館は午後九時までやっているので、光るツリーも見える。すぎはち公園の隣には福寿院——池田英泉(渓斎英泉)の墓がある。福寿院の周辺は道に迷いエリアだとおもう。行き止まりの道がいくつかある。昨日、ひさしぶりに英泉の墓をお参りした。前は遠回りしないと行けなかったが、すぎはち公園を通ると近い。

 高円寺界隈は空が広く見える場所が少ない。すぎはち公園は原っぱ感がある。高円寺図書館のテラス(二階と三階にある)、冬季に快適な日向ぼっこができそうだ。

 すぎはち公園の周りは墓が多く道が暗いので夜の散歩には向いていない。たまに散歩しているが、ちょっと心細い。