2025/04/04

歩き花見

 寝る時間と起きる時間が五、六時間ズレる日が一週間以上続く。寒暖差のせいか。

 月曜夕方、小雨の中、小学校や中学校の桜を見ながら、野方、練馬を散歩する。野方北原通りの肉のハナマサのあと、環七の豊玉南歩道橋からスカイツリーを見る。東武ストアに寄り、練馬駅のすぐ北の平成つつじ公園で桜を見る。

『ウィッチンケア』十五号届く。「先行不透明」という心境小説を書いた。随筆とどこがちがうのかはよくわかっていない。自然や風景と向き合いながら自分のことを思索する私小説っぽい随筆、もしくは随筆っぽい私小説というのが、わたしの考える心境小説である。今のところ、そういうふうに理解している。

 前号の「妙正寺川」も心境小説のつもりで書いた。

《五十四歳、今年の秋で五十五歳になる。一九五〇年代ならもうすぐ定年である。
 十九歳で上京し、その年の秋に高円寺に引っ越した。老いたとおもう。気分は余生だ》(妙正寺川)

「先行不透明」にも「五十五歳」「定年」「余生」という語句が入っている(書いているときは気づかなかった)。常々、自分の年齢(心境)と文章をうまくなじませたいとおもっているのだがむずかしい。十年くらい試行錯誤して、ようやくなじんだころには合わなくなる。

 昨年末、高円寺から妙正寺川に向かう途中の大和町に仕事部屋を引っ越した。本や本棚は台車で運んだ。いわゆる立ち退きなのだが、おかげで妙正寺川に近づくことができた。

「先行不透明」は引っ越しのあと、夜、仕事帰りによく歩く道について書いた。五十歳を過ぎたころから、都心の夜景が好きになった。暗い道を歩いていて、光るタワーが見える場所を通りかかると嬉しくなる。なぜ嬉しくなるのかもよくわかっていない。

 高円寺の桃園川緑道の桜もけっこう咲いていた。

2025/04/01

寅彦の勉強法

 昨日の夜、ブログを更新したつもりが、されてなかった(たまにある)。

 金曜夕方(寝起き)、西部古書会館。『漱石と高浜虚子 「吾輩は猫である」が生まれるまで』(新宿区立漱石山房記念館、二〇一九年)、『夏目漱石 漱石山房の日々』(高知県立文学館、二〇〇七年)、『ふくやま文学館 開館20周年記念 夏目漱石 漱石山房の日々』(ふくやま文学館、二〇一九年)など、漱石関連の文学展パンフを三冊。「漱石+子規」の文学展パンフは何種類もあるが、「漱石+虚子」は珍しい。文学館の企画で「漱石+他の作家」の組み合わせはもっとあっていい気がする。


『夏目漱石 漱石山房の日々』はタイトルと目次の並びが途中までは同じで高知県立文学館版は「第3部 漱石と寅彦」、ふくやま文学館版は「漱石と広島」(寄稿「広島の旧友井原市次郎」瀬崎圭二)となっている。同タイトルの図録は各地の文学館から出ている。都内の古本屋でよく見かける『漱石山房の日々』はB5変型(縦にちょっと細長い)の図録(鎌倉文学館、二〇〇五年、その他)だろう。

 寺田寅彦は東京生まれだが、父方が土佐藩の士族の家系で四歳から高知市小津町の家で暮らしていた。そのあと熊本の五高に入学し、漱石と出会う。
地元が高知で熊本の五高といえば上林暁もそう。



『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を購入後、ひょっとしたら一九九〇年代に寅彦の文学展があったのではないかと「日本の古本屋」を検索した。すると『開館記念特別展 第一回 寺田寅彦展 内なる世界の具現』(高知県立民俗資料館、一九九一年)があった。注文した。「第一回」ということは他の寅彦展もあるのだろうか。

 寝る前に電子書籍で寺田寅彦の随筆「わが中学時代の勉強法」(一九〇八年)を読む。

《故意になまけるというと、なんだかおかしく聞こえるが自分はいやになった時、無理につとめて勉強をつづけようとせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出かければ、好きなものを見にゆく。はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよくのみ込める》



 たぶん寅彦流の勉強法は理にかなっている。勉強だけではなく、仕事もそうだろう。根を詰めてずっと机に向かい続けるより、遊んだり散歩したりしながらのほうが(わたしの場合)捗る。

 そのあと「科学を志す人へ」(一九三四年)を読んだ。

《誰であったか西洋の大家の言ったように、「問題をつかまえ、そうしたその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年をとってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ」というのは、どうも多くの場合に本当らしい》

 だから学生時代は「一つの問題」に執着せず、「問題の仕入れ」をたくさんしたほうがいい——といった助言をしている。寅彦流の怠けたり遊んだりする勉強法も「問題の仕入れ」につながっていたのではないか。

 寺田寅彦は多才な人だった。詩歌、絵、音楽、さらに学問に関しても専門の物理以外に地理学を志していた時期もある。「科学を志す人へ」は寅彦五十五、六歳のときの文章である。翌年十二月三十一日没。享年五十七。

2025/03/25

ガラス板

 二十三日、日曜。都心の最高気温は二十五度以上を観測、今年初の夏日だった。すこしずつ衣替えをはじめる。最近、薄くて柔らかくて洗濯してもしわがつかない夏用の長袖のシャツを見かけなくなった(古着屋で買っている)。

 土曜、中野の桃園町(現・中野三丁目)あたりをうろうろ歩く。セブンイレブンやファミリーマートも「中野桃園町店」があり、「桃園」の名を残している。斜めの道を歩いて囲桃園公園を通る。公園の近くにはザ・ポケットなど、小劇場が何軒かある。

 そのあと駅の北口に行き、中野ブロードウェイ。墓場の画廊を見て、ブックス・ロンド社で水の文化情報誌『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を買う。寺田寅彦の特集は『サライ』の「科学と遊ぶ 寺田寅彦先生の理科大学」(一九九一年十二月十九日号)などがあるけど、たぶんそんなに多くないとおもう。『月刊FRONT』の特集は知らなかった。

「天災は忘れたころ来る」の警句は寺田寅彦の言葉として知られるが、「意外なことに、寅彦の書いたものには記されていない」との囲み記事あり。

 高校時代、寺田寅彦の弟子(孫弟子だったかもしれない)という物理の先生がいた。授業中、よく寝ていたので定規で何度か頭を叩かれた。まあまあ痛かった。そんな過去の経験から古本屋通いをはじめてしばらくの間、寺田寅彦は避けていたのだが、あるとき『柿の種』(岩波文庫)を読んだ。
 一九九六年四月十六日が第一刷でわたしが持っているのは同年十一月八日第六刷である。半年ちょっとで六刷はすごい。

 一九九五年十一月末に業界紙の仕事をやめた。二十六歳から三十歳過ぎまでアルバイトで食いつないでいた。そのころ『柿の種』を読んだ。
 同書の冒頭の随筆にこんな一節がある。

《日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている》

 その境界を行き来するには「小さな狭い穴」を通るしかない。何度も行き来していると、その穴はすこしずつ大きくなる。穴を見つけても通れない人がいる。

《しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある》

 寺田寅彦は「かもしれない」「らしい」「ような気がする」をよくつかう。
 なんとなく戦後の軽エッセイの文体に近い(ような気がする……と書きたくなる)。文章が軽やかで古くない。

《眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
 しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
 なぜだろう》(大正十年三月、渋柿)

『柿の種』の「短章 その一」のわずか三行の文章。文庫の二十八頁。頁の空白もいい。