2021/08/28

『海』創刊前

 金曜昼すぎ西部古書会館。木曜日から開催していたことに気づかなかった。でも大収穫。街道と文学関係の図録がいろいろ買えた。今回、神奈川の古本屋さんも参加していた。大和市の香博堂はいい本をたくさん出品していた。今年の西部で一番の出費になってしまった。
『海』発刊記念号(一九六九年六月号)、創刊特大号(一九六九年七月号)の二冊も格安で買えた。わたしは一九六九年十一月生まれなので同い年の雑誌ということになる。

『海』発刊記念号「シンポジウム 文学と現代社会」の「人物をいかに描くか」は武田泰淳、野間宏、安岡章太郎の座談会。ほかにも武田泰淳の「富士と日本人 長篇『富士』をめぐる感想」も掲載——。

 武田泰淳が富士の山梨側に山荘を建てたのは一九六四年十一月。

《ある時、深沢七郎さんが山小屋にやってきて、そわそわしながら「ここは富士山ですか」と聞くんだ。まあ富士の一部だよ、と言ったら、どうしてこんなこわいところに住むのかと言って、たいへん心配してくれる》

 深沢七郎の郷里の山梨県の石和では「富士山は恐怖の対象とする語りつたえがある」とのこと。

 創刊号の編集後記には「前号の予告でお知らせした武田泰淳氏の連載小説『富士』は、氏の懸命な努力にもかかわらず、ついに時間切れとなって、掲載にいたりませんでした」と……。
 その経緯は村松友視著『夢の始末書』(角川文庫ほか)に詳しい。

《そうこうしているうちに、創刊号が出てしまい、その号にはついに武田泰淳の「富士」は載らなかった。(中略)すでに発刊記念号で予告している武田泰淳の「富士」はいったい実現するのか……社内でも取沙汰されたらしく、編集長も私の押しが足りないのではないかという表情をしている》

 結局、『富士』の序章が届いたのは創刊から四号目のしめきり直前だった。
 武田泰淳だから許されたのか。半世紀ちょっと前の編集部がゆるかったのか。『富士』は泰淳の代表作となった。原稿を落としても良好な関係が続いたおかげで、その後の泰淳の作品だけでなく、武田百合子の諸作品も中央公論社から刊行されることになった。
『海』創刊時、泰淳は『新・東海道五十三次』を毎日新聞に連載していたが、その単行本は中央公論社から出ている。

 武田泰淳、野間宏、安岡章太郎の座談会でも安岡が「武田さんいま、『道』の小説書いておられるけれども」と街道の話をしている。中央公論社の編集者は、泰淳のために街道関係の資料もいろいろ渡していた。『富士』に「大木戸」という名の人物が登場するのもその影響だろう。

『夢の始末書』はずいぶん前に読んでいるのだが、記憶がけっこう薄れている。『夢の始末書』の角川文庫版は吉行淳之介が解説だったことも忘れていた。

2021/08/27

他人の雑誌

  木曜日、神保町。九州の街道本数冊。長崎から佐賀にかけての宿場町はよさそうなところばかりだ。九段下寄り某古書店、均一に串田孫一が三十冊以上並んでいた。未読の随筆を一冊(線引有)買う。仕事の合間にちょこちょこ読むのに串田孫一の随筆はちょうどいい。

 東京堂書店の今週のベストセラー、色川武大著『オールドボーイ』(P+D BOOKS)が一位だった。
 すこし前に小学館の『色川武大・阿佐田哲也電子全集』の二十三巻「単行本未収録作品&対話集」を買った。
「吉行さんはいつも吉行さん」というエッセイを読む。どこかで読んだような記憶がある。吉行淳之介全集の別巻だったか。

 かつて色川武大が出入りしていた小出版社が若き日の吉行淳之介がいた雑誌社の近くだったという話からはじまる。それから吉行が「驟雨」で芥川賞を受賞した後、「その頃、私にとって、文芸誌の創作欄に吉行淳之介の名前があるのとないのとでは大ちがいで、吉行さんの書いてない号は、なんだか冷たい他人の雑誌のような気がした」——。

 初出は「本」(一九八三年七月号)。

 同巻には吉行淳之介、山口瞳、色川武大の座談会(『想い出の作家たち』)も収録。三人とも元編集者という共通点がある(それにみんな不健康だ)。共通の知り合いだった五味康祐の逸話はだいたいひどいのだが、吉行淳之介は「憎めないところがあったな」と語り、山口瞳も「でも彼がいなくなってみると、やっぱり懐しいね。文壇のパーティに行っても、五味さんのような、いかにも剣豪作家だって感じの人がいなくなった」と回想している。

《吉行 ここに色川さんがいる、剣豪作家じゃなくて、剣豪という感じ(笑)
 山口 それと、尾崎一雄さんとか木山捷平さんのような、いかにも小説家だな、という風貌の人がいなくなった。今の作家はみんな銀行員みたいでしょう。
 色川 ぼくは大泉の都営住宅にいた頃の五味さんのところへ原稿依頼に行ったんです。ちょうど選挙の時期でね、五味さんの家は交叉点の角にあったから、その家の窓の外に選挙カーが停って演説を始めた。すると五味さん、ステレオをかけて音を最大限に大きくした。これが演説も何も聞えなくなるほどのボリュームでね、選挙カーは途中で演説を中止して行っちゃった。しかし、物も言わずに突然大きな音を出すとは、ヒステリックな人だな、と思いましたね》

 この三人の“文芸雑談”はずっと読んでいたくなる。初出は『オール讀物』(一九八三年七月臨時増刊号)。わたしは文芸誌の小説には興味がなく、読むのは専ら対談と座談会である。小説は本になってから読めばいいかなと……。

2021/08/24

一病息災

 十代から二十代にかけて、わたしは虚弱体質で年がら年中風邪をひいていた。そのおかげで風邪のひきはじめの二、二歩手前の症状を察知できるようになった。
 たとえば、肩凝り、背中のだるさ、足の冷え、酒(サントリーの角)、お茶、珈琲の味など、すこしでも異変を感じたら葛根湯を飲む。二日おきに納豆を食い、食べなかった日は整腸剤を飲む。微熱(三十六度後半)があるときはビタミン剤(気休め)を飲む。

 とくに毎日飲んでいる(自分で作る)お茶、珈琲の味覚の変化は体調のバロメーターになる。いちおう「個人の意見です」と断っておく。

 今のわたしは健康なのかというとそうではない。疲れるとすぐ体調を崩す。だからなるべく疲れないよう、休み休み生活しているにすぎない。一般の五十代の日本人の平均より体力がないだろう。

 新型コロナの前から部屋の換気の必要を唱えているが(『日常学事始』本の雑誌社)、これも若いころに風邪をひきまくったことで学んだ。
 換気をしないと部屋の空気が澱み、ウイルスだけでなく、カビも繁殖しやすくなる。

 あと中年以降の健康状態の大きな変化は貼るカイロのおかげかもしれない。冷え性がかなり改善された(これも個人差があるとおもう)。

《一病息災という言葉があるね。あれも、一種のバランス志向の言葉なんだろうね。まるっきり健康な人よりも、ひとつ病気を持っている人の方が、身体を大事にするので、かえって長生きする、というわけだ》(「一病息災——の章」/色川武大著『うらおもて人生録』新潮文庫)

 色川武大は健康だけでなく、生き方にも、どこか不便かつ生きにくい部分を守り育てたほうがいいと説く。完全無欠な生活を目指せば、それはそれで心身に負担がかかる。

 みなさんお大事に。

2021/08/22

世間とチグハグ

 木曜日、新宿と神保町(仕事)。東京堂書店、色川武大著『オールドボーイ』(P+D BOOKS)がベストセラーの二位。収録作の半分くらいは『明日泣く』(講談社文庫)と重なる。“芹さん”こと将棋の芹沢博文の晩年を描いた「男の花道」は再三四読している。“神童”、“若き天才”と呼ばれ、テレビにもひっぱりだこだった棋士が年齢とともに勝てなくなり、酒、ギャンブルに溺れ、親しい人たちの忠告も聞かず……。芹沢九段が亡くなったのは一九八七年十二月、享年は五十一。

 表題「オールドボーイ」のヒロインのみどりは三重県の僻村の出身という設定である。三重といっても広いが、この僻村は色川武大の友人でインド研究家の山際素男の郷里——志摩郡船越村(現・志摩市大王町)あたりではないかと勝手に想像する。

 ただし、みどりは上京前の一時期、名古屋で過ごしている。

《そして東京。まぶしい都会の、眼くるめくような光源の部分に夢中で突進した。それはまったく別世界で、三重の生家のことなど頭の中から消えていた。石にかじりついても、自分はこの光の中で生息しなければいけない。頭のてっぺんから爪先まで、ナウい、ピカピカした人の中で》

「オールドボーイ」の初出は『週刊小説』一九八九年二月十七日号。
 三重は田舎かもしれないが、名古屋、大阪、京都に出ることはそれほど難しくない。この小説の時代設定が八〇年代だとすると、名古屋に暮らしていたこともあるみどりからすれば、東京は「まったく別世界」というほどの差はない……気がする。すくなくとも僻村と名古屋、名古屋と東京を比べたら、僻村と名古屋の差のほうが大きいだろう。

……というのが三重県民(母は志摩育ち)で一浪して名古屋の予備校に通い、「オールドボーイ」の初出年に上京したわたしの感想だ。

 一九二九年三月生まれの色川武大がこの小説を書いたのは還暦前——。最晩年の作品である。
「オールドボーイ」の主人公・館石は小説の中でこんなふうに評されている。

《不良少年がそのまま四十近くになってしまって、それで世間とチグハグになっている顔なのだ》

 色川武大は「世間とチグハグ」な人たちへの郷愁を誘う作品が多い。単に昔はよかったという話ではない。昔には戻れないと諦めつつ、世間と折り合いがついていない生き難い人に寄り添う。寄り添うというか、色川武大もそちら側に身を置く作家だったといってもいい。

『うらおもて人生録』(新潮文庫)の「向上しながら滅びる——の章」にこんな一節がある。

《人間がこの世に住みつこうとするならば、その土台に合わせて、自分をどこかで適応(状況にあてはめる)させていかなければならないんだな》

……「土台」と「適応」の話はいずれまた。

2021/08/17

閑話休題

 土曜日、西部古書会館。ガレージのところにあった七〇年代の古雑誌を何冊か買う。『文芸』(一九七二年一月新年特大号)は永井龍男、井伏鱒二の対談「文学・閑話休題」が目当。この対談は『井伏鱒二対談集』(新潮文庫)にも収録されているが、初出の雑誌には二人が歓談中の写真がある。
 志賀直哉が亡くなったのは一九七一年十月二十一日。雑誌の発売日から逆算すると、この対談は志賀が亡くなってからまだそれほど日が経っていない。
 戦後しばらくして、井伏鱒二は河盛好蔵に連れられて志賀直哉の家に行った。しかし志賀さんは留守で「広津さんのところか映画館ということで、広津さんのところに行ったら……」。
 当時、志賀直哉と広津和郎は熱海に住んでいた。一九四八年か四九年ごろか。広津家に行くと「いまここへ帰っていらっしゃいますと広津さんの奥さんが言う」。
 志賀さんは河盛さんから井伏さんを紹介されるや否や近所の店でサントリーの角瓶を買いに行き、「ひとりごとのように、井伏君は酒で有名だからねと言われた」。

 井伏鱒二が志賀直哉に会いに行ったことについては——。

《永井 別に用事ということではなしに?
 井伏 話を聞きにね。僕はほとんど口がきけなかった。河盛さんは話題が豊富だからよく話した。志賀さんの禁煙当時だが僕はプカプカとタバコばかりふかしてウイスキーを飲んでいた。あとで人から聞いた話だが、井伏君というのは無口だねと》

 志賀直哉は井伏鱒二の十五歳年上だから当時六十五歳。井伏五十歳前後、河盛四十代半ばくらいか。井伏、河盛は荻窪に住んでいた。そこから宿もとらず連絡なしに熱海行く。居なければ居ないで別にかまわなかったのだろう。電話が普及する前の文士の交遊はのんびりしていた。

《永井 僕は晩年のものはあまり読んでないので、まとめて読みたいのですが、晩年というか、筆を断つ直前のものを読みたいと思っているが。
 井伏 最晩年のものでは、産経に出た新年随筆の「雀の子」に感心した。感心のあまり、その原稿がほしいと思って、産経記者の吉岡達夫君にいろいろ交渉して、吉岡君からもらった》

 大らかな時代というか何というか。後に志賀直哉は自分の原稿を井伏鱒二が所持していることを知るが、自分が書いたのか妻が清書したのか覚えてなかった。吉岡達夫は小沼丹の小説や随筆にもよく出てくる。
 井伏鱒二は他にも志賀直哉の原稿を持っていることを自慢すると、永井龍男は「二つも持ってるとは不届き千万だ」と……。

《井伏 原稿に消しがあるね。清書したあと、「しかし」を消して前からの続きで「が」にしたり……その話はいつかあんたにしたよ。そしたら、僕達一生あれで苦労するのだなあと。「が」とか「しかし」でね。
 永井 そういうことがありましたな》

 対談時、井伏鱒二は七十三歳、永井龍男は六十七歳。なんてことのない雑談だが、二人の言葉の端々から志賀直哉への敬意、そして文学の滋味が漂っている。

《井伏 その作家を研究しようとすれば、その作家の失敗作は非常にためになるね。
 永井 そうそう。そして若いうちの作品というのは、破綻だらけで一向さしつかえないと思う。そのなかに、ここのところが光っているぞというものが一ヶ所あればいいでしょう。そういうものがなんかこのごろ無視されているような、人の目に立つようなテーマを扱って、そしてアッピールすること。そういうことのほうが強くなっていますね》

 五十年くらい前の対談だが、今の編集者も永井龍男の発言を噛みしめてほしい。名文家で知られた永井龍男の言葉というのがまたいい。

2021/08/13

新居格のこと

  八月十二日(木)から九月二十日(月・祝)まで「モボ・モガの生みの親 新居格の仕事」が徳島県立文学書道館で開催(『些末事研究』の福田さんのツイッターで知る)。こんな状況でなければ今すぐ行きたい。徳島には東京からフェリーで行きたいのだが、まだ実現していない。

 新居格は徳島県坂野郡大津村(現・鳴門市)生まれで上京後は長く高円寺に住んでいたアナキストであり評論家である。戦後、杉並区の区長や生活協同組合の理事長もつとめた。

『随筆集 生活の錆』(岡倉書房、一九三三年)の「断想」に「わたしは天下国家のことを論ずるのはきらひだ。村のこと、町のこと、町の中の知合ひのこと、その人達の商売の好調、生活のよさ、運命の明るさについて考へることがすきだ。その人達と陽気な挨拶を交はし、朗らかに語ることがすきだ」とある。
 新居格の随筆の軸は散歩と読書だった。日常、そして生活を大切にしていた。彼は精神の平穏を保つために歩き、本を読んでいたようなところがある。そして平熱の文章を書くことを心がけていたようにおもう。
 さらに表題の「生活の錆」にはこんな一節がある。

《僕は号令を発するような調子で物を云ふことを好まない。肩を聳やかす姿勢は大きらひだ。啖呵を切るやうな云ひ方をするのが勇敢で悪罵することが大胆だと幼稚にも考へてゐるものが少くないのに驚く。形式論理はくだらない。まして反動だの、自由主義だの、小ブルジョワだのと云ふ文字を徒らに濫用したからと云つて議論が先鋭になるのではない。どんなに平明な、またどんなに物静かな調子で表現しても内容が先鋭であれば、それこそ力強いのだ》

 たしかに新居格の文章は「平明」で「物静か」なものが多い。戦前戦中の時代状況を考えれば、稀有な資質といってもいいだろう。わたしがくりかえし読みたくなる文章もそういうものだ。

『遺稿 新居格杉並区長日記』(波書房、一九七五年)を読むと、娘の新居好子さんの「父を語る」で「父は成人になって柔和な寛容な性格の奥に、幼い頃の孤独を秘め、個人的に誰れ彼れと騒いだり、はめをはずすことはなかった」とありし日の新居格を回想している。

2021/08/11

「列外」の人

 火曜日、最高気温三十八度。晴れの日一万歩、雨の日五千歩を目標にしているのだが、最近は晴六千歩、雨三千歩くらい。ただ歩数に関してはあくまでも目安にすぎす、目的はなるべく家の外に出ることなので気にしない。
 先週、神保町の澤口書店で『幻妖 山田風太郎全仕事』(一迅社、二〇〇七年)を入手。後に再編集したものが角川文庫から刊行されているが、一迅社版はB5判(週刊誌サイズ)で新刊書店、古書店でも見た記憶がなかった。二〇〇〇年代以降に刊行された好きな作家の書籍でも見落としがある。

『幻妖 山田風太郎全仕事』の「山田風太郎という『生き方』」に「もう何もやらなくても、全然良心にとがめを感じないなあ」という発言があった。『図書新聞』(一九九三年一月一日号)に掲載された中島河太郎との対談での言葉。風太郎、七十歳ごろか。さすがは「列外」の人である。

《「山田、列外へ!」——これはいい言葉だ。そうだ。私はいままで、いつもこの世の列外にいるような気がし、やがてそのことに安らぎを得て来たようだ。列の中にはいると、かえって、これは変だと違和感を感じるのである》(「風々院日録」/『半身棺桶』徳間文庫)

 このエッセイの初出は『新潮45』(一九八八年一月号)。風太郎、六十五歳(まもなく六十六歳)。「風々院日録」はこんな文章も出てくる。

《このごろ若い人に、「出世なんかしなくっていい、えらくなんかならなくっていい。好きなことをやって、平凡に一生を過したい」という風潮がはやり出しているそうだ。もしそれがほんとうなら、私は彼らの偉大なる先人である》

 やりたいことはないが、何とか気楽に暮らしたい。若いころから風太郎はそう願っていた。わたしものんびりした生活を送りたかった。親の期待を拒否し、競争を避け、面倒な責任を背負わされずにすむ「列外」の人に憧れていた。しかし「列外」で食っていくにはどうすればいいのか——。

 山田風太郎は「忍法帖」をはじめ、多額の印税があったから、飲むぞ寝るぞの暮らしができたのは事実だろう。永井荷風は貯金があったから戦中、軍への不服従を貫けたという話とも重なる。

 貯金があっても、もっと働きたい、もっと影響力を行使したいという人もいる。ようするに、金の多寡、才能の有無だけでなく、気質や体質の問題でもある。

 三つ子の魂百までというが、「列外」の人は幼少期から列からはぐれがちでそんな自分がどうやって生きていけばいいのかを考え続けてきたにちがいない。誰もがそうなれるわけでもない。なりたくてなるというより、気がついたらそういうふうにしか生きられなくなっていた——というのが実状なのではないか。

2021/08/06

退避火

 マイケル・ルイス著『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(中山宥訳、早川書房)の第七章「アマチュア疫学者」にブラッド・ピット主演の映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作者ノーマン・マクリーン(一九〇二−一九九〇)の名が出てきた。
『リバー・ランズ・スルー・イット』は『マクリーンの川』(渡辺利雄訳、集英社文庫、単行本は一九九三年)と『マクリーンの森』(渡辺利雄訳、集英社、一九九四年)として日本でも刊行されている。あと『マクリーンの渓谷 若きスモークジャンパーたちの悲劇』(水上峰雄訳、集英社、一九九七年)という作品もある。一九九〇年代の集英社の海外文学の編集者は素晴らしい本を作った。しかしこの邦題では何の本なのかさっぱりわからないのが残念である。前二作は『リバー・ランズ・スルー・イット』のままで刊行していれば……。

 ノーマン・マクリーンは大学で英文学を教え、退官後、七十歳を過ぎて小説を書きはじめる。「リバー・ランズ・スルー・イット」という題は鴨長明の「方丈記」の「ゆく川の流れは絶えずして」にも通じる気がする(自信はない)。

『最悪の予感』で取り上げられているのは「リバラン」ではなく『マクリーンの渓谷(原題は『Young Men and Fire』)』である。一九四九年夏のモンタナ州のマン渓谷の森林火災におけるスモークジャンパー(森林降下消防士)を綴ったノンフィクションでノーマン・マクリーンの遺著でもある。
 なぜ森林火災の話が感染症のパンデミックについて書かれたノンフィクションに登場するのか。
 山火事の消火と防疫には共通点がある。火災と感染症は拡大する前に抑えたほうがいい。火は小さいうちに消せ(そのほうが楽だ)。今回は失敗したが、後世にこの教訓は伝えねばならない。

『マクリーンの渓谷』にはワグ・ドッジという人物が猛烈な炎に迫られたさい、あらたな火を放ち、難を逃れるエピソードがある(その後、彼の行為は問題になる)。その話を『最悪の予感』は次のように紹介する。

《消防隊員がそんな行動をとった前例はなかったものの、以後、草むら火災の消火活動ではそれが標準的な手段となった。「エスケープ・ファイア(退避火)」と呼ばれる》

『最悪の予感』に登場する退役軍人省の“上級医療顧問”のカーター・メシャーが『マクリーンの渓谷』から得た教訓は「煙が晴れるのを待っていてはいけない。事態が明確に見えてくるころには手遅れになっている」というものだった。
 さらに『最悪の予感』の第八章は「マン渓谷にて」という小題で『マクリーンの渓谷』の引用からはじまっている。

 最晩年のノーマン・マクリーンが書き残したメッセージは三十年の歳月を経て、新型コロナの最前線で甦る。感染拡大を止める「エスケープ・ファイア」に相当するものは何か——。

『最悪の予感』には、未知の感染症の危機に一早く気づき、その後の予測を立て、最善の対策を提言しようとした人物が何人も登場する。ただし、優れた知見が実施されるためには、さまざまな障害がある。決定権を持つ人のところにその声が届くか否か。

《カーターはよく、二週間後の自分を想像して、その自分にこう問いかけてみる。「きみが知っている未来にもどづくと、二週間前、どんな行動をとっていればよかったと思う?」と》 

『最悪の予感』の主要人物にチャリティ・ディーンという保険衛生官がいる。
 カーターたちは公衆衛生の専門家を探していて、チャリティの居所を突き止める。チャリティは分厚いバインダーを持って現われ、「六週間前に、ウイルスの重要な特徴をかなり正確に突き止めてあり、それを活かして将来を予測できそうだと伝えた」。

 マイケル・ルイスは「もし彼女が全権を握れたら、アジア諸国が採用しているきわめて賢明な戦略の数々をカリフォルニア州に導入するだろう」と綴っている。当時のチャリティは担当を外され、何も手伝うことができない状況にいた。

 適材適所というのは、ほんとうに難しい問題だ。

2021/08/01

四〇五八

 二十九日(木)、夕方神保町。この日も文学展パンフレット漁り。『愛媛新聞創刊120周年記念 高橋新吉の世界展』(一九九六年)など。愛媛の文学展は正岡子規と夏目漱石が多い。『高橋新吉の世界展』が開催されていたことは知らなかった。高橋新吉は一九〇一年西宇和郡伊方町の生まれのダダイスト詩人である。

 土曜日、西部古書会館のち阿佐ケ谷散歩。コンコ堂、八木義徳の本がたくさん並んでいた。『家族のいる風景』(福武書店、一九八五年)など。この日、都内の新型コロナの感染者数は過去最多の四千五十八人(※訂正しました)。

 この生活はいつまで続くのか。今の状況はよしあしでいえば、「あし」ばっかりな気もするが、強引に「よし」を見いだすなら、何か一つのことに専念したい人からすれば、集中しやすい環境といえるかもしれない。
 人付き合いが減り、散財する機会が減り、その分、自分一人の時間が増える。

 新刊のマイケル・ルイス著『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(中山宥訳、早川書房)を読む。プロローグから引き込まれた。二〇〇四年、中学生の女の子が科学研究コンテストのために未知のウイルスによるパンデミックに関する調査をはじめる。父は科学者でその人脈(一流のプログラマー)も加わり、感染症がどのように拡大していくかのモデルを築き上げていく。

 ワクチンの数が足りないときどうすればいいか。アメリカ政府は「最も死亡リスクの高い、高齢者にワクチンを投与する」という方針だった。これは今回の新型コロナにおける日本の対策も同じだ。

 ところが――。

《「さかんに社会的な交流をして、感染を拡大させているのは、若い人たちなのよ」と娘が言い出したんです》

 若者にワクチンを投与した場合の予想を計算した結果、「病気を媒介する能力」が減少し、「高齢者は感染しなかった」。もちろん、この研究がそのまま現実になるとはかぎらない(ワクチンを打っても感染が防げるわけではなく、無症状の感染者が増えることで拡大してしまうこともあるだろう)。
 ただ、それでも十七年前にこうした着眼点でパンデミックについて研究していた人物がいたわけだ。

 本書にはワクチンの確保のための提言をはじめ、感染症に関する危機管理についても記されている。

 どれほど優れた理論(もしくは技術)があったとしても、実行する人がいなければ、机上の空論に終わる。『マネー・ボール』では、出塁率などの指標を駆使して躍進する野球チームを描いたが、その理論自体、八〇年代から野球ゲームの世界では知られていた。

 過去、何度となく感染症は流行してきた。どれだけデータがあってもそれを正しく読み解くのはむずかしい。理論や理屈では人は動かない。集団の動きにはイレギュラーがつきものだ。困ったことに民主主義のルールではできないことも多い(選挙で不利になるような政策は採用されない)。 

 結局、自衛しかない。マスク、手洗い、栄養と休養、部屋の換気を忘れずに。