2024/01/31

鷺ノ宮

 二十七日土曜昼すぎ西部古書会館。橋本治著『義経伝説』(河出書房新社、一九九一年)、安田武著『型の文化再興』(筑摩書房、一九七四年)など。『義経伝説』はあまり見かけない本だ。安田武の『型の文化再興』の「士農工商」にこんな一節がある。

《モノの生産に関しても、人間関係においても、総じて人の生活そのものにおいて、ただ損をしないことだけを念頭に行動し、損得を度外視して頑張ったり、そのために時に大損をしても痩我慢をするといった、そういう「風」を失ってしまった人間の群れ、集団が作り出す社会は、それが、どのような制度、組織、あるいは「憲法」をもっていようと、結局のところ、つまらぬ社会でしかありえないのではないだろうか》

 この問題はむずかしい。「損得を度外視して」といっても損が続けば行き詰まるし、といって得ばかり求めていると人間関係その他いろいろ荒む。商売なら「損して得とれ」みたいな考え方もあるが、それはそれでシビアな駆け引きが必要で面倒くさい。損得を考えなくてすむだけの余裕がほしい(それがむずかしい)。

 古書会館のあと日当たりのいい道を歩こうと妙正寺川に沿って鷺ノ宮へ。ジョギングをしている人、犬の散歩をしている人、平日と比べて人が多い。
 妙正寺川は鷺ノ宮駅に近づくにつれ、大きく蛇行する。冬のよく晴れた日に歩くと気持いい。

 鷺ノ宮の白鷺せせらぎ公園〜高円寺北口のコミュニティバス(二時間に一本くらい)が走っている。まだ乗ったことがない。

 西武新宿線の鷺ノ宮駅北口の中杉通りを歩いて西武池袋線の中村橋駅方面を散策する。
 鷺ノ宮は駅周辺は中野区だけど、すこし北に行くと練馬区になる。区が変わっても町の連続性がある。練馬区は一九四七年八月に板橋区から分離独立した区である。

 いなげや中村南店で金トビ名古屋きしめん、お好み焼きなどを買う。ごま油、オリーブオイルなど、油類が値上りしている。

 いなげやの周辺をうろうろして帰りは中村南三丁目から阿佐ケ谷駅行きの関東バスに乗り、駅の手前の世尊院前で降りる。中野区鷺宮と杉並区阿佐谷を通るから「中杉通り」か。

 豊島園(練馬城址)、中村八幡神社、鷺宮八幡神社(鷺宮大明神)、世尊院は鎌倉古道沿いにある。所沢道も気になる。

2024/01/29

体内電池

 毎年一月二月は生活のリズムが不安定になる。
 伊藤比呂美著『たそがれてゆく子さん』(中公文庫)所収「不眠」というエッセイに「昆布の薄皮」という言葉が出てくる(二〇二二年一月十一日のブログでも紹介した)。

《頭のシワに、さば寿司にかかっているような昆布の薄皮がぴったり貼りついた気分である》

 この数年、わたしは晴れの日一万歩(雨の日五千歩)の散歩を続けている。腰のあたりに貼るカイロもつけている。汁もの、炒めものにしょうが入れる。肉を食う。酒を減らす。睡眠をとる。
 冬対策はそれなりにやっているのだが、それでも「昆布の薄皮」状態になる。今年もなってしまった。
 一月二十三日、二十四日、二十五日の三日間——朝寝昼起、昼寝夜起、夜寝朝起と睡眠時間がズレ、体が重く、頭がぼんやりする日が続いた。

 わたしはこの状態を「冬の底」と呼んでいる。

 古くなったバッテリーみたいなもので、こまめに充電していてもすぐ残量が数パーセントになる。不調時に焦ってもしょうがない。今は修復期くらいの気持でだらだら過ごすしかない。

 二十代のころはこの体内電池の残量が五%くらいになっても一晩寝ればフル充電状態に回復する。
 四十代五十代になると電池の残量がわずかになると回復に三日、ヘタすると一週間くらいかかる。

 冬に体調を崩す人が多いのは日照時間が短いとかいろいろな説があるけど、寒中、体温の維持のため、普段以上にエネルギーをつかっているからではないか。体を冷やさず、ちゃんとメシを食い、よく寝る。冬を乗り切るにはそれしかない。

2024/01/22

心細し

 先週、池袋で打ち合わせ。目白駅から池袋まで歩く。途中、古書往来座、カフェ・ベローチェ南池袋一丁目店でコーヒー。池袋はベローチェが八店舗もある。高円寺には一軒もないので羨ましい(中野は三店舗)。

 往来座では森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫、一九七九年)など。学術文庫の『十六夜日記』は現在品切で古書価は定価の四倍くらいになっている。『十六夜日記』は鎌倉中期の日記文学——作者・阿仏尼は十代で出家し、その後、三十歳前後で藤原為家の側室になった。

 一二七九(弘安二)年、阿仏尼は正妻との相続問題を幕府に訴えるため鎌倉に向かう。

 阿仏尼は一二二二(貞応元)年の生まれ(推定)。没年は一二八三(弘安六)年ごろ。

 同書「旅路の章」は不破の関、笠縫の駅、洲俣、一の宮などを通る美濃廻り東海道の旅の記録である。

 時代によって東海道は伊勢廻り、美濃廻りなど、コースがちがう。
 現在の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。
 街道史と鉄道史は密接な関係がある。「駅」という言葉にしても街道由来である。

 洲俣の注に「美濃の国安八郡。源を飛騨山に発し、尾張の国との境を流れる。当時はかなり大河だったらしい。古くは『更級日記』にもみえる」とある。

《二十三日、天竜の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔もおもひいでられて、いと心細し》

《二十四日、昼になりて小夜の中山越ゆ》

 学術文庫の解説では西行の「いのちなりけり小夜の中山」を紹介している。

 西行は一一一八(元永元)年生まれ、一一九〇(文治六年)年没。阿仏尼が生まれる三十年ちょっと前に亡くなっている。年は百歳以上離れている。

 阿仏尼は西行の歌だけでなく、様々な逸話にも精通している。阿仏尼にとって西行は憧れの人だった。

『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』によると、古典語の「心細し」は「『源氏物語』などで一種の美感を示す語として用いられている」とある。
 阿仏尼は西行が天竜川で武士に「人数が多い」と舟を降ろされ、鞭で打たれた逸話を思い出し、心細くなった。でも阿仏尼からすれば、天竜の渡りの「いと心細し」は単なる不安ではなく、かつて西行が渡った川を自分も渡ることにたいする感慨もあったかもしれない。

2024/01/17

上路

 土曜昼すぎ西部古書会館。大均一祭初日(一冊二百円)——『別冊山と溪谷 歩く旅』(NO.1、一九九九年)含め九冊。『歩く旅』の特集は「中山道六十九次を歩く」。綴込付録「中山道533kmを歩く パーフェクト・ガイド&マップ」(三十五頁)。
 午後三時、新中野まで散歩。途中、小雨そのあと雪(霙)がすこし降る。

 室町時代の作・謡曲「山姥」の百万山姥は琵琶湖北岸から礪波山へ。
 礪波の関は万葉集——大友家持の歌「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添え君を留めむ」の歌でも知られる。

 礪波山は越中と加賀の国境にあり、標高二百七十七メートル。もうすこし高い山かとおもっていた。場所は金沢と高岡の中間くらい。北上すれば能登半島である。

 木下良編『古代を考える 古代道路』(吉川弘文館、一九九六年)の「北陸道 その計画性および水運との結びつき」(金坂清則)の付箋を貼ったところを読み返す。

《京への公式日数は、越前が六日、加賀が八日、能登と越中が二七日、越後が三六日、佐渡が四九日であり、越後と佐渡の日数は出羽の五二日次いで長かった》

「加賀が八日、能登と越中が二七日」——地図を見るとこんなに日数の差が出るのは信じ難い。それほど難路だったのか。古代の道、わからない。

 北陸道は「重要な水運ルート」で湊を兼ねる駅が多かった。積雪期に陸路が通れなくなると船で移動した。

 謡曲「山姥」の場合、百万山姥は従者を連れていて、途中、乗物(駕籠?)も利用している。琵琶湖以外は船に乗っていないと仮定すると京から礪波山まで十日、あるいは二週間くらいかかっているかもしれない。

 礪波山を経て、いよいよ百万山姥は境川へ。

《雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとゞ都は遠ざかる、さかひ川にも着にけり》

 三越路(みこしじ)は越前・越中・越後の三国、または三国への道である。
 越中と越後の境を流れる境川から山姥の里までは上路(あげろ)を通る。現在の県道115号と上路はほぼ重なっている。

 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂、一九七八年)の「滄海駅」の項に「境川を渡った後、さらに海岸をたどると親不知子不知の天険を通ることになる訳で、平野団三は『境川を過ぎた駅馬は上路を越え歌に下ったと思われる』と述べている」とある。

 百万山姥も親不知を避け、上路を通り、山姥の里に迷い込む。

 上路は滄海に通じる。滄海から信濃の善光寺までの道は謡曲「山姥」には記されていない。
 古代の北陸道から善光寺までは水門(みと)から上越妙高を通る道がある。ちなみに、水門は現在の直江津あたり。古代の国府も直江津にあった。

 百万山姥の歩みに関して、糸魚川から姫川沿いに歩いて白馬経由で善光寺に向ったのではないかと考えていた。しかし海沿いの難路を迂回したことを考慮すると、多少遠回りになっても水門(直江津)から善光寺に向かう安全なルートを選んだかもしれない。

 仮に百万山姥が善光寺に辿り着いていたとしたら、帰路は東山道(中山道)を通った可能性もある。行きと帰りで別の道を通るのは江戸期の伊勢参りなどでもよくあった。

2024/01/12

礪波山まで

 誰に頼まれたわけではないが、謡曲「山姥」の百万山姥の歩みを調べている。
 百万山姥は京を出て、琵琶湖北岸から北陸道に向う途中、「愛発(あら地)」を通る。古代三関の愛発の関がどこにあるのか——古道に関する本を読んでも諸説いりみだれている。

 愛発関に限らず、和歌の歌枕の地でもそういうことがよくある。
 白河の関(福島県白河市)の場所は江戸後期(一八〇〇年ごろ)に特定されたが、それまでは不明だった。

 謡曲「山姥」に出てくる地名は「あら地」を経て「袖に露ちる玉江のはし」「かけてすゑある越路の旅」「こずゑ浪立しほこしの」「あたかの松の夕けぶり」「きえぬうき身のつみをきるみだのつるぎのとなみ山」と続く。

 わたしは「玉江のはし」がどこなのか見当もつかなかった(のでネットで検索した)。福井市花堂北に「玉江二の橋」という橋がある。JR北陸本線の越前花堂駅、福井鉄道福武線の花堂駅がもより駅で旧北陸道、狐川にかかる。玉江二の橋が謡曲「山姥」の「玉江のはし」と同じ場所かどうかはわからない。かつてこのあたりは湿地だったという説もあり、川の流れが変わることもある。
「こずゑ浪立しほこしの」の「しほこし」は「塩越(汐越)」で福井県あわら市——西行が歌を作っている。

《夜もすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松》

 あわら市は福井県と石川県の県境の市。二〇〇四年三月に坂井郡芦原町、金津町が合併してあわら市になった。
 今年三月十六日、北陸新幹線芦原温泉駅が開業予定である。芦原温泉からは東尋坊も近い。

「あたかの松」の「安宅(石川県小松市)」もかつて関所があった地で「勧進帳」の舞台である。小松空港のすぐそばだ。

「となみ山」は「礪波山(富山県小矢部市)」で源平合戦で有名な倶利伽羅峠もある。倶利伽羅峠の戦い(一一八三年)は礪波(砺波)山の戦いともいう。

 謡曲「山姥」の信濃の善光寺行きの道のりは古代の関所、古戦場跡など史蹟めぐりもかねていたようだ。
 室町時代は関所が乱立していた時代だった。関所を通るたびに関銭(通行料)がかかる。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社)には「文明十一年(一四七九)には、奈良から山城・近江をへて、美濃の明智に至る間に二十九関をもうけたと伝えている」とある。

 謡曲「山姥」の遊女が東山道(後の中山道)ではなく、北陸道から善光寺に向ったのは当時乱立していた関所を避けようとしたのかもしれない。ちがうかもしれない。

2024/01/09

愛発関

 先週、西部古書会館で買った『古代の宮都 よみがえる大津京』(大津市歴史博物館、一九九三年)を読む。
 前回のブログで「古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り」と書いたが、愛発関は七八九(延歴八)年に廃止されている。謡曲「山姥」は室町時代の作なので、厳密には「愛発(あら地)の関」ではなく「愛発(あら地)と呼ばれる山域」と書くべきだった。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社、一九六四年)の「天下の三関」の項には「三関とも近江の国境で大津の外側におかれていることから、大津京の守りのために設置されたのであろう」と記されている。

『古代の宮都 よみがえる大津京』に「大津京時代の近江における東山道」(足利健亮)には、大津京(近江京)以前「東海道は飛鳥から出て伊賀盆地を経、柘植から鈴鹿を通って東国へ向かっていた」とある。後のJR関西本線に近いルートだ。ちなみに江戸期の東海道は柘植を通らない(近江の土山宿から鈴鹿峠を越える)。

 東海道も東山道も時代によって様々なルートがある。それを調べて何になるのか。小人が不善をなさないための閑つぶしになる。

『完全踏査 古代の道』によると、古代三関のうち愛発関の場所は「考古学的な確証はまだ得られていないが、おおむね近世の塩津街道(現国道8号)と七里半越の西近江街道(現国道161号)との合流点である敦賀市疋田が有力視されている」とのこと。

 愛発関は疋田以外に新道野、追分、道ノ口、関屋などの説もある(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』大明堂、一九七八年)。

 謡曲「山姥」で百万山姥は、陸路ではなく、琵琶湖を船で渡り、そこから「あら地」を通る。
 琵琶湖のどこまで船で行ったかで「あら地」への道も変わってくる。
 仮に琵琶湖最北の塩津あたりまで船で行ってそこから陸路を辿ったとすると、百万山姥は近世の塩津街道(現国道八号)を通り、深坂峠から追分、疋田を通った可能性が高い。これはほぼ現在のJR北陸本線のルートなのである。

 古代三関の鈴鹿関、不破関も明治期に開通した鉄道のルートと重なることを考えると、愛発も北陸本線のどこかにあったのではなかろうかと想像する。

 街道の研究をしていると、つい水路のことを忘れがちである。とくに土地鑑のない場所だとそうなる。

 街道にかぎらず、何か一つのことに熱中している時期はそれ以外の視点を見失いやすい。

 今のわたしは古典を読んでいても、ストーリーより作中人物の移動のことばかり考えてしまう。何年か後に読み返したら「え? こんな話だったの?」となるかもしれない。若いころは地理や歴史をすっとばして人生の教訓みたいなものを探り当てたいとおもっていた。

 そのときどきで読み方が変わる。読書は面白い。

2024/01/06

北陸道

 土曜昼、今年最初の西部古書会館。後藤淑他編『元和卯月本 謡曲百番(全)』(笠間書院、一九七七年)など。

 年末、福原麟太郎の随筆を読み、謡曲「山姥」を知り、古代・中世の北陸道について調べていた。
 謡曲「山姥」が作られた室町時代、京から善光寺に向かうさい、北陸道、中山道(東山道)のどちらがよく利用されたのか。

「山姥」の遊女(百万山姥)は京から西近江街道を通って……と考えていたのだが、『謡曲百番(全)』を読むと「志賀のうら船こがれ行、末はあら地の山越えて、袖に露ちる玉江のはし(以下略)」とあった。
 百万山姥は琵琶湖を船で渡り、古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り、玉江のはしに至る。

 木下良監修、武部健一著『完全踏査 古代の道』(吉川弘文館、二〇〇四年)によると、北陸道は海岸の近くまで山が迫り、陸路の移動がむずかしかったので「水路あるいは海路による交通が盛んであった」そうだ。

 ここ数年、愛読している『全国鉄道絶景パノラマ地図帳』(集英社、二〇一〇年)の大糸線の頁のパノラマ地図を見ると、山姥神社の近くの市振から親不知、青海(旧北陸本線、現えちごトキめき鉄道)にかけては海岸線と山が近い。『完全踏査 古代の道』でも「親不知は、古来から現在に至るまで交通の難所としては全国有数の場所である」と記されている。

 親不知〜青海の海岸の道はこんな感じだった。

《ここを通る旅人は、切り立った海岸縁の断崖の下の狭い砂浜を、波が退いたときをねらって走り抜け、波が寄せたときは岩穴に身を避けて辛くも切り抜けた》(『完全踏査 古代の道』)

 謡曲「山姥」の遊女は海岸沿いではなく、上路の里に迂回して山道で迷い、まことの山姥と出会う。

 ここから(作中には描かれていない)善光寺までの道のりが知りたい。「山姥」の里から青海まで出て、鉄道の大糸線に近いルートで姫川沿いの谷間を抜け、白馬〜簗場あたりから信濃の善光寺に向かったのか。直江津から信越本線に近いルートもあるが、室町時代の道路事情を考えると糸魚川〜直江津間も大変そうである。

 今すぐ答えが知りたいわけではないので気長に調べることにする(答えがあるのかどうかもわからない)。

2024/01/04

冲方丁の読むラジオ

 元日午前中、JR総武線高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷寄り)から富士山を見る。雪が積もり、稜線らしきものが見える。湘南新宿ラインの武蔵小杉駅をすこし過ぎたところでも富士山が見えた。

 正月くらいはいいかと昼酒。夕方、能登半島地震のニュースを見る。

 今年の初読みは昨年十月刊の『サタデーエッセー 冲方丁の読むラジオ』(集英社文庫)——刊行後すぐ読んだので再読である。この本はNHKラジオ第一『マイあさ!』内の「サタデーエッセー」を元に書き下ろしたものだ。

 同書「約束されたレール」は著者が十四歳のときにネパールの学校で学んだことを紹介している。

《責任というと日本ではルールを守らせるという風にとらえがちだと思うんですけれど、そうではなく、「あなたのマストは何だ」と、先生方や大人たちが訊いてくるんですね。自分にとって今最もやるべきことは何だ、それがどう将来につながるのかと》

《最初から「自分はこれをやるべきだ」と自覚し、「いずれこれを成し遂げるために研鑽する」といった意識がなければ、ただ周囲の状況に合わせた受動的な態度ばかりが身についてしまいます》

 わたしはなるべく身軽に気楽に生きたいという欲求が強い。冲方さんの考え方や姿勢とはかなりちがうのだが、それでもこの文章は心に響いた。

 同書「正義感は正義ではない」に「正義中毒」という言葉が出てくる。

「正義感」は社会の維持や改善に有用だが、そうではないこともある——という趣旨のエッセイだ。
 インターネット上のまちがった情報をうっかり信じてしまい、拡散してしたり、無実の人を誹謗中傷したりする。

《お酒を飲むことがやめられなくなるのと同じように、「正義感」から行動することがやめられなくなるのであれば。立派な病気と考えるべきでしょう》

 冲方さんは「正義感」こそが、今もっとも警戒すべき感情だという。自分の正しさに酔い、人を裁く。「正義中毒」になると、その気持よさに抗えなくなる。だからこそ「正義感」の抑制が重要になる。自分の感情が不安定なときは情報と距離をとり、いったん熱を冷ます。

 わたしは散歩をすすめたい。