2023/12/29

山姥

 気がつけば年末、やや低迷気味の一年、充電の年だったと前向きに考えることにする。

 土曜日(二十三日)、午後三時すぎに起き、午後四時前に西部古書会館。入口前のガレージで福原麟太郎の『詩心私語』(文藝春秋、一九七三年)を見つける。二百円。ずっと探していたのだ。嬉しい。白い背表紙の「人と思想」シリーズの一冊で二段組五百頁超(「チャールズ・ラム傳」が丸々収録されている)。

 同書「芸術の鬼」に次のような一節がある。

《芸術は真似事である。真似事は技巧であり、形である。そしてまた伝習でもある。しかし、技巧や形や伝習ばかりでは芸術は生きることが出来ない》

 福原麟太郎は謡曲「山姥」について考察しつつ、芸術に「生命」を与えるものは何かを問う。

 京の遊女が信濃の善光寺詣での途中、越中越後の境の山で道に迷い、山姥と出会う。山姥は遊女に“山姥”を題材にした曲舞を所望する。もともと遊女は“山姥”の曲舞を得意としていたが、まことの山姥は彼女の芸にたいし「心を失っている」と手厳しい。

 遊女が出会った山姥は芸の精神を伝える「霊鬼」でもあった。

《芸術というのはその鬼を探す仕事、鬼に触れる経験である》

 初出は一九四一年九月——福原麟太郎四十六歳。

《生命のある芸術が生れるときには、何かしらの精神を掴まえているのであるが、それが形として技巧として伝えられてゆくうちにその精神を失ってしまい、心を取り違えた技術がそれから派生してはびこる。これを芸術の堕落という》

 舞台に立ち、場数を踏む。技術が向上し、形が洗練され、安定してくる。同時に初々しさ、緊張感が失われる。技巧を磨くことは容易ではないが、心に響く芸に至るにはそれだけでは足りない。
 仮に演者の側に「鬼」が宿っていたとしても、観る側聴く側が感じとれないこともあるだろう。

「芸術の鬼」の話から横道にそれるけど、「山姥」の遊女が京から東山道(中山道)ではなく、北陸道を通り、信濃に至る道筋が気になる。京から善光寺に行く場合、琵琶湖西岸から敦賀あたりに出て北陸道経由のほうが近いのか。さらに船をつかえば、かなり早く辿り着ける。

 地図を見ると、えちごトキめき鉄道の市振駅の東南に山姥神社がある。謡曲「山姥」の物語がこの地(糸魚川市上路)に民間伝承として伝わっている。上路の里、行ってみたいが、大変そうだ。

2023/12/22

暮らしの型

 二十年くらい前に買ったコタツから異音が出るようになったので、ヒーターの部分だけ買って取り換えた。新しいコタツのヒーターは省エネタイプで、今のところ快適である。
 コタツヒーターは「弱」から「強」の間に五段階のメモリがあるのだが「弱」でもけっこう暖い。

 部屋の掃除中、安田武、野添憲治編『暮らしの型再耕』(現代書館、一九九二年)をぱらぱら読む。一九八二年八月号から『望星』で連載していた座談会(鼎談)をまとめたもの——安田武は一九八六年十月、六十三歳で亡くなっているから、没後しばらくして刊行された本ということになる。安田さん、野添さん、武者小路規子さんとの鼎談「生活の周辺をいかに耕すか」でこんな話をしている。

《いまの日本の、特に都会の生活のテンポは早過ぎるというか、適正じゃない。どこか山奥深いところにでも隠遁して暮らさない限り、どうしても回りの時間に引きずられてしまいますね》(武者小路さんの言葉)

 四十年以上前の発言である。今、生活のテンポはもっと早くなっているだろう。とくに仕事は、周囲のテンポと足並みを揃えることが求められ、いつも急かされるような圧を受ける。また日常の選択肢が多すぎて、やらなくてもいいことをやって余裕を失うこともある。

《今後いかにわれわれ自身が自己抑制を回復していかなきゃならないかということですね》(安田さんの言葉)

《人間は本来、五感で生きているはずなのに、いまは二感か、三感でしか生きていない。だから身体全体で見たり、聴いたり、さわったり、感じたりしていく部分がものすごく少なくなってきた》(野添さんの発言)

『暮らしの型再耕』の多田道太郎がゲストの鼎談「遊びは生活を深める」では、原っぱの喪失についても論じている。

《昔といまの遊びを比較して、一番大きな変化は何だろう? 僕は路地がなくなったこと、広く言えば原っぱがなくなったことが第一だと思う》(安田さんの言葉)

《しかし、京都には原っぱはほとんどなかったからなあ。奥野健男氏も『文学の原風景』の中で「原っぱ論」を展開していたけれど、安田さんもそういう思い出があるんだな》(多田さんの言葉)

——奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない。同書は一九八九年に増補版も出ている。古書価高い。
 橋本治が講演で「原っぱの論理」を語ったのは一九八七年十一月だから『暮らしの型再耕』のほうがちょっと先か。安田武と橋本治、歌舞伎が好きだったり、いろいろ共通点がある。『些末事研究』の福田賢治さんは、安田武の影響をけっこう受けているようにおもう。

2023/12/11

水屋

 金曜日、西部古書会館で歳末赤札古本市。大野利兵衛訳編『外人記者のみた横浜 “ファー・イースト”にひろう』(よこれき双書、一九八四年)ほか、郷土史の冊子、パンフレットを買う。

『外人記者のみた横浜』の「水屋」一八七〇(明治三)年八月の記事を読む。

 水屋は肩に棒をのせ、その両端に桶をつり下げ、水を運ぶ仕事である。当時、横浜の外国人居留地は塩水の沼地を埋め立てた町ということもあって、給水は水屋が頼りだった。

《多くの場合、彼らは毎日一定量の水を配って、毎月安い運び料をもらっている。一方、家の使用人とともに一定期間雇われ、水運びの仕事のみならず、すべての力仕事に使われる場合もある》

 昔の話を読むと、蛇口をひねれば、水やお湯が出る暮らし——というのは夢のような話なのだな。何でもそうだが、どんなに便利なものでも普及するとありがたみが薄れる。ふとサッカーの故イビチャ・オシム監督の「水を運ぶ人」という言葉を思い出した。

 夕方、野方まで散歩、途中、大和北公園のイチョウを見る。

 十二月になると毎年のように時間が経つのは早いなとおもう。一年で自分にできることはほんのちょっとしかない。
 一年通して首、肩、腰、膝のどこかしらが痛い(今は右肩)。仕事のトラブルをどうにか乗り切ったかなとおもったら、住居の水回りその他の問題で右往左往——一難去ってまた一難のくりかえしである。無理をすれば体のあちこちガタがくるし、住まい(賃貸)は直しても直してもすぐどこか壊れる。まあそういうものだと諦めている。

 世の中への興味とか自分の将来の不安とか、本を読むにしてもそのきっかけみたいなものがある。しかし四十代以降、そうしたきっかけ待ちで何かをする余裕がなくなった気がする。

 やる気がまったくなくても仕事をしたり、家事をしたり、散歩したり、習慣によって頭や体を動かしているようなところがある。それでもささやかな喜び、小さな達成感みたいなものが得られる。そんな感じで年をとり、いずれは終わりの日を迎える。

 明日、水回りの工事があるのでこれから掃除する。

2023/12/05

古書店マップ

 金曜午前中、西部古書会館。平日開催。『中央線沿線古書店ガイドブック』(東京都古書籍商業協同組合中央線支部、一九八五年)、『かながわ古書店地図帖』(神奈川古書籍商業協同組合、一九九三年)、『大阪古書店案内』(大阪府古書籍商業協同組合、一九九三年)『埼玉県古書店地図』(埼玉古書籍同業組合、一九九四年)、『古書マップ 愛知・岐阜・三重』(尾洲会、一九九四年)、『京都古書店巡り』(京都古書籍商業協同組合、一九九六年)、『増補改訂 大阪古書店案内 平成10年版』(大阪府古書籍商業協同組合、一九九八年)『二〇〇一年版 大阪古書店案内』(大阪府古書籍商業協同組合、二〇〇一年、CDROM付)など、昔の古書店マップをいろいろ買う。前の持ち主の書き込みも参考になる。

 一九八五年の中央線沿線のマップの高円寺のところを見ると十九軒。同じところで営業しているのは南口の大石書店だけ。二十代から三十代にかけて巡回して いた都丸書店、飛鳥書房、青木書店、佐藤書店、西村屋書店も今はない。この三十年、神奈川、埼玉の古書店の数もずいぶん減ってしまった。

 店内が薄暗くてレジの後ろのガラスケースの中に稀少本が並んでいるような古本屋も少なくなった。

 この日、西部古書会館の収穫は『児玉幸多翁追悼文集』(二〇〇八年)——街道関係の著作をたくさん書いている歴史家の小冊子。二百円。それから奈良の街道冊子を数冊。街道本、郷土史関係の小冊子がまとめて出品されているのを見ると同じ人が集めていたのかなと……。

2023/11/21

停年

『現代の随想 福原麟太郎集』(河盛好蔵編、彌生書房、一九八一年)の「停年」を読む。

《停年というのは、普通、銀行会社などでは五十五歳だそうだが、私の勤めていた大学(東京文理科大学)では六十歳であった》

 福原麟太郎が大学を退職したのは一九五五年三月、その四ヶ月後に心臓病になり、半年近く入院した。糖尿病だったこともわかった。自分の病気に気づかなかった。教師をやめる前、「講演をたのまれれば講演をし、委員を依頼されれば委員を勤めた」。

《つまり、心臓病にしても糖尿病にしても、疲れすぎてはいけないということで、これは停年に近くなったかたがたに、是非注意していただきたいことである》

 わたしは今月五十四歳になった。七十年前であれば、停年一年前だ。今は七十年前ではないし、働かずに暮らせる身ではない。それでも仕事にせよ遊びにせよ、減速を心がけようという気持になっている。蔵書にしても増やすのではなく、減らす方向に舵を切るべきだろうと考えている(気が変わる可能性もある)。

 五十歳すぎたあたりから体が疲れにたいしていろいろなシグナルを発するようになった。素直に従うのみである。

 体の老いよりも厄介なのは精神もしくは感情の老いかもしれない。

 福原麟太郎は「停年」の中で「静かに過すことを習え」という古人の言葉を紹介している。もっとも福原自身は「のんびりした途端に病気になってしまった」とも述べている。

 平穏に暮らすのは簡単ではない。

(付記)『福原麟太郎集』の出版社名をまちがえていました(メールで教えてもらった)。

2023/11/20

コタツメモ

 今年は十一月十二日(日)にコタツ布団とハロゲンヒーターを出した。十三日(月)には長袖ヒートテックを着た。貼るカイロは十八日(土)に貼った。神経痛の二、三歩手前の症状(手のひらにピリっとした痛み)があったので活動を控え、湿布を貼る。この時期、体調を崩しやすいので何事も慎重になる。

 この一、二年、自分の足に合う靴をいろいろ試しているのだが、爪先が窮屈だったり、理想に近い靴は値段が高かったりして、まだまだ模索中といったところだ。
 今、愛用している靴も雨の日に弱い(それ以外は快適なのだが)。同じメーカーの全天候型の靴を買ったのだけど、履くときにちょっと窮屈な感じがする。むずかしい。

 服に関しても着心地を重視しているのだけど、これもしばらく着てみないとわからない。同じメーカーのシャツでも肩や首のあたりがちょっときつく感じるものがある。せっかく買ったのだからと我慢して着る。洗濯しているうちにほどよくなじむこともあるが、それまでの辛抱が面倒くさい。というわけで、衣替えのさい、寸法その他しっくりこなかった服を処分した。

 五十代以降、大きな変化は望まなくなったが、その分、日々の微調整に神経をつかうようになった。日課の散歩もそのひとつである。最初のうちはそんなに調子がよくなくても、歩いているうちにすこしずつ元気になる。

 元気にならなかったら、諦めてだらだらする。

2023/11/08

中年散歩道楽

 都内、十一月に入って夏日(二十五℃以上)を記録。毎年十一月のはじめにコタツ布団を出しているのだが、今年はまだである(コタツ布団の洗濯はすませた)。

……というわけで、告知を一つ。

◎十一月十八日(土)十五時〜十七時、佐藤徹也さんとの「中年散歩道楽」というトークショーに出演します(チャージは1000円)。

佐藤徹也 新著『東京近郊徒歩旅行――絶景・珍景に出会う』(朝日文庫)&荻原魚雷 新著『100年前の鳥瞰図で見る 東海道パノラマ遊歩』 (ビジュアルだいわ文庫)W刊行記念

◎本の長屋
高円寺の古本居酒屋コクテイル書房の阿佐ヶ谷寄り三軒目、四軒長屋の一角を改装したシェア型書店です。
〒166-0002 東京都杉並区高円寺北3-8-13

◎お申込みはこちらから。
日付、イベント名、お名前、ご連絡先をお書きいただき下記のメルアドまでお送りください。
honnonagaya@gmail.com

2023/11/03

一週間

 今年の神田古本まつりは十月二十七日、十一月一日、二日——御茶ノ水、神保町での仕事(対談やら何やら)のついでに寄った。『国指定史跡 草津宿本陣』(史跡草津宿本陣、二〇〇六年)、『ビデオガイドブック 人生は映画で学んだ』(河出書房新社、一九九四年)など十冊ほど。『人生は映画で学んだ』の巻頭は橋本治「その頃僕はそこにいた」。橋本治、十八頁も書いている(他の執筆者は三頁くらい)。

《初めて『ウエスト・サイド物語』を見たのは中学三年の時だった。世界は一九六二年で、僕は一四歳だった》

 神田古本まつり開催の間、土・日・月(十月二十八日〜十月三十日)は三重と大阪へ。
 小田急で新宿から小田原まで行って、こだま(駅近くの金券ショップの自販機で切符を買った)で浜松、JR在来線で浜松から豊橋、それから豊橋から名鉄、近鉄と乗り継いで三重に帰省した。
 名鉄の沿線、鎌倉古道(二村山、豊明市沓掛町など)に寄りたかったのだが、今回は見送り。知立駅から名古屋駅に向かうつもりが、津島線直通の電車だったので遠回りして弥富駅まで行く。途中下車しなかったが、旧鎌倉街道――萱津宿の近くを通る(新川橋駅、須ヶ口駅)。
 弥富駅はJRと名鉄、あとちょっと離れたところに近鉄弥富駅もある。弥富は佐屋街道(宮〜桑名)、巡見街道(亀山〜関ヶ原)などが通る。

 久々に近鉄四日市駅で降り、近鉄百貨店内の歌行燈でうどんを食う。

 新幹線で名古屋まで一本で行くより、適当に途中下車しながらのんびり移動するほうが楽しい。青春18きっぷの時期だと、ほぼJRの在来線の移動になるので、それ以外の時期はなるべく私鉄に乗りたくなる。清水吉康の地図(『東海道パノラマ遊歩』ビジュアルだいわ文庫)を見ながら、車窓からの景色をチェックする。

 旅行中は一日二万歩くらい(約三時間歩く)。体力を温存しつつ、休憩多めに歩くようにしている。足の裏全体に体重が分散するウォーキングシューズ、快適である。そんなに疲れない。

 翌日、日帰り(三重に)で大阪(茨木市)に行く。行きは近鉄(伊勢中川から特急に乗る)+環状線(鶴橋駅から大阪駅)+阪急。茨木市立中央図書館で富士正晴の講演会。講師は世田谷ピンポンズさん。講演&ライブ(十曲以上歌ったのではないか)。富士正晴の詩にも曲をつけていた。いい講演だった。

 来年は中山道をもうすこし歩きたい。

2023/10/24

新編 不参加ぐらし

 今日から富士正晴『新編 不参加ぐらし』(中公文庫)が書店に並ぶ。カバーイラストは楓真知子さん、カバーデザインは細野綾子さん。

 中公文庫のアンソロジーとしては梅崎春生『怠惰の美徳』、尾崎一雄『新編 閑な老人』に続いて三冊目の編著である。

 一年前に大阪の茨木市立中央図書館で富士正晴について講演をした。一時間半の予定が四十五分で終わってしまったのだが、このときのテーマも「不参加ぐらし」で今回の文庫で選んだ随筆を中心に喋った。
 詩三篇、小説二篇、随筆四十篇。富士正晴の文章の中に溶け込んだ人生哲学の面白さをどうすれば形にできるだろうかと考えながら編集した。

 小説を二篇に絞り込むさい、「誤流先生伝」は入れようと決めていた。収録した随筆の中に陶淵明の「五柳先生伝」の話も出てくる。

 表題作「不参加ぐらし」に「発展もなく進歩もなく充実もなく」という一文があり、五十代のわたしもそういう気分なのだが、生きている以上は何らかの工夫は必要だともおもっている。

 工夫の一つに「不参加」もある。スケジュールに余白を作る。余暇を多めにとる。
 ここ数年、ガタのきた体のことを考え、充実より安穏を選びがちなのだが、それでいいのではないかとおもっている。「怠け者の記」「われ動かず」「何もせんぞ」「健康けっこう 長寿いや」といった随筆も年老いてからの目安、指針として参考になるのではないか。

 所収作の中では「増点主義」もおすすめである。
 人付き合いのコツは最初にあまり高い点をつけず、すこしずつ加点していく。

 人間関係にかぎらず、本を読んだり映画を観たりするとき、最初に期待しすぎると、そこそこよい作品であっても残念な気持になることがある。スポーツの応援もそうかもしれない。

 低い点からはじめて、こんないいところもあった——という増点主義のほうが楽しめるのではないか。この本もそういうふうに読んでくれたら嬉しい。

2023/10/18

雑記

 土曜の昼、西部古書会館。福原麟太郎著『野方閑居の記』(新潮社、一九六四年)の英文学者の大和資雄宛署名本百五十円。線引き有。『野方閑居の記』は家に四、五冊あるかも。この日、福原麟太郎著『天才について』(毎日新聞社、一九七二年)も買った。『天才について』は講談社文芸文庫(一九九〇年)と収録作がほぼ同じ。ただし単行本は「対談 師を語る」(聞く人・外山滋比古)が入っている。

 福原麟太郎が住んでいた野方は高円寺から近い。沿線はちがうけど隣町である。歩き慣れてくると距離が近くおもえる。野方に行くと肉のハナマサで買物する。

 最近は東京メトロ丸ノ内線の新中野駅方面もよく散歩するようになった。途中までは桃園川緑道を歩く。車が通らない道を歩いているほうが疲れが少ない気がする。
 東高円寺駅からすこし先にスーパーの三徳、新中野駅まで行くと肉のハナマサがある。
 野方も新中野も急に雨が降ってきたとき、バスで高円寺に帰ってこれるのもいい。

 隣の町まで歩いて買った肉や野菜を料理する。なぜかいい仕事したような気分になる。

 一日一万歩(雨の日以外)の日課——なるべく東西南北どの方向でもいいから隣の町まで足をのばそうと心がけている。同じ歩数でも町内をぐるぐる回るより、すこしでも遠くまで歩いたほうが達成感がある。
 自分の体感を把握する手段としても散歩は有効なのではないかとおもっている。歩くことで心身を調律する。

 歩いているとき「(この先、自分は)何ができて何ができないか」とよく考える。家ではそういうことはなるべく考えないようにしている。本を読んだり、パソコンに向っていたり、体を動かさずに思索に耽っていると「日本中至るところの街道を調べたい」「古典から現代に至る街道に関する文献を読みたい」みたいなことを夢想してしまう。

 しかしすぐ疲れる五十代の肉体は頭で「できる」とおもったことを全て実行するのは厳しい、というか、無理だ。時速四キロで歩く。その体感や時間の感覚を元に何ができるかと考える。たいしたことはできないが、すこしずつやるしかない。

2023/10/12

東海道パノラマ遊歩

 荻原魚雷+パノラマ地図研究会『東海道パノラマ遊歩』(ビジュアルだいわ文庫)が刊行——。
 清水吉康の『東海道パノラマ地図』(金尾文淵堂、一九二九年)を文庫の形で復刻し、わたしは日本橋〜神戸までの解説、コラム、キャプション(半分くらい)を担当した。
 清水吉康の鳥瞰図は山あり谷あり川あり、東海道の地形が精密に描かれている。

 琵琶湖東岸から関ヶ原、大垣のあたりがお気に入り。伊吹山、不破の関——この地が古代から重要な交通の要所だったことがわかる。道の成り立ちは偶然ではない。

 巻末付近には菱川師宣の『東海道分間絵図』、吉田初三郎の『近畿東海大図絵』も収録している。

 企画・編集は造事務所。
 本文デザインを担当したYさん(飲み友だち)に古地図コレクターのHさん(造事務所)を紹介してもらい、今回の企画に参加することになった。

 すこし前に『更級日記』や『十六夜日記』を読んでいたときも、清水吉康の鳥瞰図を参照していた。鉄道の路線だけでなく、東海道や中山道、脇往還も描かれている。古戦場の跡地なども記されているので歴史地図としても重宝するでしょう。ぜひ手にとって清水吉康の地図の魅力を堪能してほしい。

2023/10/07

萱津宿

 十月、涼しくなった。着々と衣替えが進む。晴れの日一万歩、雨の日五千歩の散歩は継続中。とにかく外に出る。気のりしなくても外に出るとそれなりに歩ける。

『江古田文学』の特集「小栗判官」(二〇二二年十二月発行)——たまたま美濃路の墨俣、青墓あたりのことが気になって調べていて、この特集を知った。「小栗判官」が浄瑠璃、歌舞伎の人気演目という知識はあったが、自分の興味と重なるかどうかは別だ。

 今のわたしは美濃廻り東海道、伊勢廻り東海道の変遷を追っている。

 尾藤卓男著『平安鎌倉古道 鎌倉〜京都』(中日出版社、一九九七年)は勉強になった。
 萱津宿は平安時代から室町時代の間、「不破越え」の道と「鈴鹿越え」の道が落ち合う道で「萱津の傀儡(遊女)は京の殿上人にも知られるほど有名な宿場町だった」。

《津島線の県道を渡って北上し八王子社の前に出る。
 このあたりは宿の口の字名を残し、南宿の長者屋敷(真奈屋敷)があった地で、頼朝公が宿泊したのは南宿であったかも知れぬと古老の話であった。
 鈴鹿越えの伊勢路と不破越えの美濃路の合流地点であったと考えられている》

 八王子社(八王子神社)は愛知県あま市下萱津池端あたり。宿ノ口界隈は旧鎌倉街道といわれる道が通る。名鉄津島線の新川橋駅か須ヶ口駅がもより駅か。名古屋駅から六、七キロ、歩いていける距離である。

 萱津宿がにぎわっていたということは、鎌倉古道(旧東海道)のころは伊勢廻り美濃廻りいずれも、多くの人の行き来があったと考えていいのかもしれない。
『平安鎌倉古道』の一宮市のところでは「照手姫袖掛け松」の石碑の写真が載っている。石碑は牛野神明社(一宮市牛野通二丁目)内にある。

 各地の旧鎌倉街道に「小栗街道」と呼ばれている道がある。熊野古道にも「小栗道」という道がある。いずれも小栗判官が通ったという逸話からその名がついた。
「小栗判官」は京〜常陸の東海道+熊野古道が舞台である。街道沿いに暮らす人々にとって特別な物語だったにちがいない。

 傀儡と浄瑠璃も関係が深い。傀儡は旅芸人でもあった。

2023/10/01

説教集

 最近、仕事をしていると記憶が虫食い状態になることに気づいた。忙しい時期は日々のことをほとんど覚えていない。働いて疲れをとってまた働いてのくりかえし。一週間二週間あっという間に過ぎてしまう。

 九月二十七日水曜。JR中央線で御茶ノ水駅、坂を下って神保町。均一で『説教集 新潮日本古典集成』(新潮社、一九七七年)を買い、新刊書店を回り、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。
『説教集』は「をぐり(小栗判官)」が目当だったが、「しんとく丸」も面白い。

 すこし前に『江古田文学』第百十一号(二〇二二年十二月)の特集「小栗判官」を入手していた。『江古田文学』は特集に独自色がある。バックナンバーが気になる。

 美濃路の青墓のあたりのことを調べていて、「小栗判官」の舞台が美濃廻りの東海道、さらに熊野道(小栗街道)も舞台と知り、気になった。

『説教集』の「をぐり」は美濃の国・墨俣からはじまる。

 東海道の藤沢宿を調べていたとき、「小栗判官」や「説経節」の話がいろいろ出てきたのだが、そこから掘り下げようとはおもわなかった。橋本治も『もうすこし浄瑠璃を読もう』(新潮社、二〇一九年)で「小栗判官」を取り上げている。

『江古田文学』の特集を読んでいておもったのは、中世の人々の命の軽さである。戦、災害、病、飢饉――毎日が命がけといっても過言ではない。
 旅もそうだ。まともな地図もなければ、安全な道はどこにもない。行ったことのない土地であれば、目的地そのものが漠然としている。

 はるか昔の話とはいえ、現代においても世界を見渡せば、中世くらいの感覚で暮らしている人々はいくらでもいる。今の日本でも状況(境遇)によっては、古代や中世の人と変わらぬ感覚が表出することがあってもおかしくない。

 善悪の価値、命の重さ軽さ、わたしはそうしたものに普遍性があるとおもって暮らしているが、そうではない。

 小栗判官は京都でいろいろやらかして常陸(茨城県)に流され、相模の国の照手姫の噂を聞く。中世は常陸も東海道に属していた。

 毒をもられ、冥界へ行き、餓鬼阿弥として生き返った小栗は、上野が原(神奈川県藤沢市)から東海道を西に向かう。
 酒匂の宿、足柄箱根、伊豆の三島、浮島が原、富士川、清見が関、三保の松原、田子の入り海、駿河の府内、丸子の宿、宇津の谷、藤枝、島田、大井川、佐夜の中山、日坂峠、掛川、袋井、池田の宿、今切、吉田、赤坂、矢作、鳴海、熱田の宮……。
 ここから杭瀬川、青墓と美濃廻りの東海道という道行になる。

 東海道中、各地の宿場、名所、歌枕の地を通り抜ける。精密な地図、写真もなかった時代、説教節の道中語りは見せ場、聞かせ場だったのではないか。

2023/09/27

橘南谿

 今年八月はじめにオオゼキ東高円寺店が閉店した。鶏のせせりをよく買っていた。オオゼキ杉並和田店は東京メトロの中野富士見町駅の近くにあり、地図を見たら家から三キロくらい。
 月曜、中野富士見町まで散歩した。往復九千九百歩(行きは鍋屋横丁を通った)。そんなにしょっちゅう行くことはないとおもうが、杉並和田店は高円寺から徒歩圏内と判明した。

『東路記 己巳紀行 西遊記 新日本古典文学体系』(岩波書店)の続き。

 岸井良衞著『山陽道』(中公新書、一九七五年)に橘南谿(なんけい)の話が出てきて、何年か前に『東西遊記』(全二巻、東洋文庫、一九七四年)は入手済。『東西遊記』は1巻が『東遊記』、2巻が『西遊記』である(新日本古典文学体系の『西遊記』はその一部)。
 橘南谿は一七五三(宝暦三)、伊勢久居(現・三重県津市)の生まれ。職業は医者だった。

 東洋文庫『西遊記』続編「巻之一」の「碑文(三重)」で橘南谿は次のように記す。

《余、熊野海浜の長島という所に遊びしに、仏光寺という禅宗の寺あり。其寺に石碑あり。碑面に津浪流死塔と題せり。裏に手跡も俗様にて、文も俗に聞こえやすく、宝永四年丁亥年十月四日未刻大地震して、津浪よせきたり、長島の町家近在皆々潮溢れ、流死のものおびただし。以後大地震の時は其心得して、山上へも逃登るべき様との文なり。いと実体にて殊勝のものなり。誠に此碑のごときは、後世を救うべき仁慈有益の碑というべしとなり》

 宝永地震は一七〇七年十月二十八日。

 さらに橘南谿は「幅狭く海の入込みたる常々勝手よしという湊は、皆其時津浪来たりて人家皆々流れたり」と海幅の狭い湊は大地震のときに用心すべきと警告する。

 南谿の「西遊記」は一七九五年、続編は一七九八年刊。宝永地震から約九十年後に碑文の内容を伝えたことになる。
 仏光寺は三重県北牟婁郡紀北町長島——江ノ浦の近くにある。紀伊長島は『群像』編集長・大久保房男の郷里でもある。

 南谿は津波だけでなく、洪水への注意喚起も書き残している。

《されば海も川も不時にゆえなくして俄に水引去るは、跡にて大水必ず来る事ありと、用心すべき事なり》

2023/09/24

東路記

 土曜昼、西部古書会館。『歴史と文化の散歩道』(東京都政策報道室、一九九六年)など。『歴史と文化の散歩道』は大判、二百四十頁、カラーで定価は千二百六十円。「杉並コース」の高円寺駅から平和の森公園、北野神社、新井薬師前駅などを通る三・八キロ。いい感じの散歩道だ。

 日曜、中野の古本案内処に行き、そのあと新井薬師、沼袋、野方と歩いてバスで高円寺に帰る。平和の森公園の近くのライフでベーコンエピを買う。

 古本案内処で『東路記 己巳紀行 西遊記 新日本古典文学体系』(岩波書店、一九九一年)など。『東路記』『己巳紀行』は貝原益軒。『西遊記』は橘南谿。家に帰って『東路記(あづまじのき)』を読む。面白い。すごい。

 東海道で宮(熱田)、それから美濃路を歩く。

《青墓は、昔の宿駅なり。今は小里なり。町なし。名所なり。古歌有。長者が屋敷の跡有り。朝長の社は、青墓の西の道より北の谷のおくに四五町にあり》

 益軒、地理+歴史の紀行文で陸路以外のルートもいろいろ記している。

《上方より下る道筋は、今洲より関ヶ原へゆかずして、関が原の西より南へわかれ、東へ行く。牧田と云宿、今洲より二里、牧田の東に高田といふ宿あり。其東に、唐末と云所有。是。大垣の南也。唐末より河船にのり、桑名へも宮へもゆく也》

 おそらく唐末は烏江か。養老鉄道に烏江駅、美濃高田駅あり。烏江駅の近くに牧田川が流れている。牧田川は揖斐川に合流し、伊勢湾に出る。
 美濃の大垣と伊勢の桑名は水運の関係でかなり密接なつながりがあった。

 それから『東路記』に次のような記述もある。

《吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる》

 吉田の川は豊橋の豊川。豊川から三河湾に出て、そのまま白子に向かったのか、それとも知多半島沿いのどこかの町から白子に渡ったのか。
 徳川家康は伊賀越え(一五八二年)の後、鈴鹿の白子から岡崎に帰った(諸説あり)といわれているのだが、百年ちょっと後の貝原益軒の時代に白子と三河を船が行き来していたというのは興味深い。

 貝原益軒(一六三〇年生)が写本『東路記』を書いたのは一六八五年。五十四歳。

 わたしも今年五十四歳になる。運命を感じる。

2023/09/20

生活地帯

 新居格の随筆に「生活地帯」という言葉があった。
 高円寺、新宿、銀座……。戦前戦中、新居格が歩きまわっていた町のことである。

 ここ数年、わたしは週の半分くらい高円寺の徒歩圏内から出ない。南は東高円寺から新高円寺、北は野方、東は中野、西は阿佐ケ谷、荻窪——「生活地帯」はだいたいそんな感じだ。
 スーパーのオオゼキが今年八月一日に閉店、ちょくちょく文具を買っていた百円ショップのコモ・バリエも六月末に閉店し、しばらく東高円寺方面は足が遠のいていたが、また散歩するようになった。

 コロナ禍中、野方によく行くようになった。家から野方までの間はまだまだ知らない道がある。
 西武新宿線沿線に行くと町の雰囲気が変わる。野方の南口から北口の商店街に行こうとすると、よく踏切に引っかかるのだが、それすら新鮮におもえる。

 東京に三十年以上暮らしていても訪れたことのない町は無数にある。一、二度しか行ったことのない町の記憶も薄れてきている。

 四十代後半から自分の郷里(三重県)の郷土史や郷土文学の本を集めるようになったのだが、歴史や地理に関して知らないことばかりだ。十代のころの自分は「生活地帯」が狭く、地元に興味がなかったのだ。今は行きたい町だらけで時間が足りない。

2023/09/11

照手姫

 土曜、西部古書会館。未読の古典を数冊、吉田幸一、神作光一、橘りつ編『歌枕名寄』(古典文庫、一九七四年)の二、三、四巻など。家に帰ってから『歌枕名寄』は八巻まであることを知る。揃いで買ったほうが安くすむパターンか。いいってことよ。四巻は伊勢国の歌枕も収録——わたしの郷里の三重県鈴鹿市の近辺は、鈴鹿山、鈴鹿河(川)が歌枕である。鈴鹿峠は三重県亀山市(かつては鈴鹿郡)、滋賀県甲賀市にまたがっていて鈴鹿市ではない。

 夕方六時すぎ、晴れの日一万歩の日課のため、荻窪に散歩。ずいぶん日没が早くなった。かかとがすり減った靴で歩くと、なんとなくだが疲れやすい。気のせいか。

 九月中、仕事がつまっているのだが、その先はほとんど予定がない。四十代のころは予定がないとすぐ不安になったが、今はわりと平気というか、「その分、本が読めるやん、歩けるやん、部屋の掃除できるやん」とおもえる。メンタルが強くなったのか、鈍くなったのか。

 古書ワルツで松尾一著『岐阜県の中山道(新版)』(まつお出版、一九九三年)を買う。郷土史家の街道研究は勉強になる。
 同書「赤坂宿から垂井宿へ」に青墓の話が出てくる。
 美濃赤坂は中山道の宿場町だが、もともとは旧杭瀬川の湊があった。水運が盛んだった土地で伊勢湾にも船が出ていた。杭瀬川は一五三〇年の大洪水で大きく流れが変わった。

《青墓の集落は東山道の駅があったところで、このあたりに長者屋敷があった。代々源氏にゆかりある青墓の長者大炊氏は、平治の乱で落ちのびた源義朝と長男儀平、次男朝長、三男頼朝を助けているが、次男朝長はここで亡くなり近くの円興寺に葬られた》

 他にも青墓には源義経に関する話、歌舞伎や浄瑠璃の「小栗判官」の照手姫にまつわる伝承も残る。照手姫は相模の国のお姫様——ということをネットで検索して知る。JR相模線の上溝駅周辺にてるて通り、てるて橋がある。

 青墓の地名の由来は諸説あるが、周辺に古墳がいくつか存在することから「大墓(王墓)→青墓」となった説が有力らしい。

 旧街道沿いは古墳がたくさんある。古墳があったから道ができたのか、人の往来が多い道だったから古墳ができたのか。
 先に道があったと考えるほうが自然だろう。ただ、古墳やら神社やら寺やらができてから、地名がつくこともよくある。歌枕の地名の由来を調べるのも面白そう。

 西行や芭蕉の旅は、歌枕探訪が目的だったという話もある。わたしもそういう旅がしたい。

2023/09/09

歌枕

 街道を歩いたり、街道本を集めたりするようになって七年ちょっとになる。街道に関する文献を読み、地図を見ているうちに、いつの間にか和歌や古典にたいする苦手意識が薄れてきた。知りたいことがあると勉強がそんなに苦にならない。

 五年十年と何か一つのことを追いかけていると、最初のころには想像していなかったようなことに興味がわいてくる。靴や足の調子にも気をつかうようになった。そういう変化も楽しい。

 高校時代、古典の授業はずっと退屈だった。どこで何をしているのかもわからないまま読んでいたせいかもしれない。源平合戦の話にしても自分が歩いた場所が出てくるだけで急に面白くなる。

 街道沿いには歌碑や句碑が無数にある。すこしずつ見覚えのある地名や歌が増えていく。専門家からすれば初歩の初歩の知識であっても、それが古典を読む手掛かりになる。

 古典(紀行文)を読むさい、歴史や地理の感覚が大切だなと……。精密な地図がなかったころの旅はどんな感じだったのか。目印になるような場所、道標みたいなものは今とは比べものにならないくらい重要だったにちがいない。

 歌枕の土地は交通の要所が多いのも偶然ではない。

2023/09/05

青墓

 日曜夕方、二日連続で西部古書会館。『坂本太郎著作集 第八巻 古代の駅と道』(吉川弘文館、一九八九年)——前の日、買うかどうか迷って棚に戻した本を入手する。名古屋以西の東海道(美濃廻り、伊勢廻り)に関する記述あり。

《鎌倉時代の東海道は近江から琵琶湖にそって北進し、美濃・尾張にかかるもので、いまの東海道線の鉄路に近いものであった。これに反し古代と江戸時代の東海道は近江から南に下って伊勢の鈴鹿をこえ伊勢から尾張に入るものであった》(「第三部 交通と通信の歴史」/同書)

『更級日記』や『十六夜日記』を読み、平安、鎌倉期の東海道は美濃廻りで、美濃の墨俣が交通の要所だったことを知った。
 わたしは東海圏(三重県鈴鹿市)に生まれ育ったのだが、墨俣はなじみのない町だった。古代の美濃の国府が不破郡垂井にあったことも街道に興味を持つまで知らなかった。垂井は中山道と美濃路の追分もある。古代・中世の街道(東山道)の青墓(青墓宿)という土地も気になる。もより駅は美濃赤坂駅——東海道本線の荒尾駅と垂井駅の間くらいにあり、美濃国分寺(跡)も近い。

『古代の駅と道』には美濃の宿駅として、野上、垂井、青墓、株瀬川、墨俣、黒田、小熊の名が記されている。

《遊女記いふ所の神崎、江口、蟹島の三所を初め、淀川沿岸に於ける彼らの活動は最も旺盛である。その他の地方に於いても、肥後の遊君、青墓のくぐつの如き、才学ある者もある。相模の足柄と、美濃の野上とにゐたことは、更科日記に記される。(中略)遊女のゐる所は、殆どすべて交通の要地である。換言すれば宿駅である》(第一部 上代駅制の研究/同書)

 青墓、傀儡(くぐつ)の地だったのか。墨俣と青墓あたりなら郷里の家から日帰りも可能である。

2023/09/03

とはずがたり

 土曜昼すぎ、西部古書会館。山本光正著『房総の道 成田街道』(聚海書林、一九八七年)、上方史蹟散策の会編『熊野古道』(向陽書房、一九九五年)など。『成田街道』は署名本だった(書き込み多し)。『斎藤茂吉資料』(斎藤茂吉記念館建設実行委員会、一九六五年)も買う。

 夕方、馬橋稲荷神社の祭を見に行き、パエリアをテイクアウトする。生ビール飲む。昨年も同じ屋台のスペイン料理を食べた。

 仕事の合間、池田香澄『とはずがたり 全訳注』(上下巻、講談社学術文庫)の街道絡みのところをちょこちょこ読む。学術文庫の書き下ろし古典全訳注のシリーズ、品切本の中には定価の倍くらいの古書価がついているものがある。『とはずがたり』の下巻、東海道の旅も綴られている。「美濃の国赤坂の宿」を通る。美濃廻り東海道である。巻末の年譜を見ると一二八九(正応二)年二月、「作者都を出立。東海道の旅」とある。作者(九我雅忠女)は三十歳か三十一歳。西行に傾倒している。やはり西行は避けて通れないのか。

 本を読んでいるうちに次に読みたい本が見つかる。文章を書いているうちに次に書きたいことが見つかる。知りたいことがすこしずつ増えていく。

 今は街道本を中心に読んでいるが、そこから派生する形で地図を見たり、古典を読んだり、歩いたりすることが楽しくなった。あと何年仕事を続けられるかわからないが、読みたい本、歩きたい場所はいくらでもある。生活さえ行き詰まらなければ、退屈しのぎには困らないだろう。問題は生活の持続である。

2023/08/28

阿波踊り

 土曜日、四年ぶりの高円寺阿波踊り。午前中、西部古書会館。辻井浩太郎著『郷土新書24 三重縣新誌』(日本書院、一九五一年)、堀淳一、山口恵一郎、籠瀬良明著『そしえて文庫94 地図の風景 近畿篇Ⅲ 奈良・三重・和歌山』(そしえて、一九八〇年)など、郷土史本を買う。

 午後、阿佐ケ谷散歩。古本屋めぐり後、夕方、高円寺に帰る。茶処つきじで緑茶ハイ(いつもこの店でほうじ茶を買っている)。あづま通りの出店でナポリタン、炒飯など。日曜の阿波踊りでは庚申通りの焼き肉屋の牛カルビ串(一本二百円)を買う。この二日間、祭り飯を堪能した。阿波踊りは歩きながら人だかりの隙間から見たくらい。

 新城常三著『鎌倉時代の交通 日本歴史叢書 新装版』(吉川弘文館、一九九五年)を読む。第一版は一九六七年刊。著者は一九一二年生まれ。三鷹市(井ノ頭)に住んでいた。

《美濃は律令制度上は東山道に属するが、中世においては実質的には東海道である。すなわち鈴鹿峠越えの伊勢路が衰頽して、平安末以降、東海道は尾張を北上、美濃・近江を経由した》

 中世に東海道が伊勢廻りから美濃廻りになった理由が知りたいのだが、よくわからない。中世の交通の発達は都と各地の荘園の輸送が関係している。徒歩の旅ではなく、荷物を運ぶためのルートとなると、鈴鹿峠や木曽三川の河口付近(湿地帯)を通る伊勢廻りより、美濃廻りのほうが楽だったのかもしれない。

 重い荷物を運ぶ。人手も手間もかかる。遠くからものを運ぶ場合、輸送コストの問題も生じる。人件費その他を考えると、遠くから米などの重い荷物を運搬するのは割に合わない。だから地域によって荘園から中央に運ばれる貢納品はちがう。

 たとえば、中世の東北は金や馬が“年貢”だった。馬で移動することを考えると美濃廻りのほうが、川を渡る伊勢廻りよりも安全だった。中世の東海道が、伊勢路から美濃路になったのは馬も関係しているかもしれない(確証はない)。

 東海道は季候が温暖で道も平坦なところも多いが、河川は「年中行事のような増水・氾濫」があり、「交通上の困難と障碍の重み」は予想以上だった。いっぽう道や宿場、橋の整備が進むにつれ、東海道の利用者が急増する。

『鎌倉時代の交通』によると、鈴鹿峠を越える東海道は「平安中期よりこの道路は裏街道化した」とある。
 鎌倉幕府は「美濃路に駅制を設置して公式に新東海道と定めた」そうだ。

 鎌倉期の美濃路廻りが、江戸期に再び伊勢路廻りになる。さらに明治の鉄道の時代になると東海道本線は美濃路、近江路廻りになった(このあたりのことも今調べている)。

 東海道の一地域だけでも時代によってルートが変わる。たぶん今わたしが「わかっている」ことも数ヶ月後には変わっている可能性が高い。
 それでも地理や歴史の知識がすこしずつ増えていくことで『更級日記』や『十六夜日記』など、これまで興味のなかった古典文学が面白くなる。

2023/08/21

柳純三

 八月下旬、猛暑日が続く。例年以上に湿度が高いように感じる。散歩を続けているうちに風通しのいい道とそうでない道があることに気づく。高円寺の場合、東西の道がよく風が通る。

 稲垣達郎著『角鹿の蟹』(筑摩書房、一九八〇年、講談社文芸文庫)に尾崎一雄のことを書いた「本ならびに柳純三」「ある小春日のひとこま」の二篇あり。

 稲垣達郎は早稲田の高等学院時代、尾崎一雄の一年後輩で当時から知り合いだった。稲垣は尾崎の下宿を訪れたとき、(学生でありながら)「下宿に、こんなに本をもっている」ことに驚嘆する。

《明治期の文藝書の、そのころすでに珍本にぞくしていたものや、限定版の詩集——私家版『転身の頌』などのたぐいが豊富だった。『月に吠える』初版のごときは、岩野泡鳴宛の贈呈署名本であり、ところどころに泡鳴の書入れがあった。「ARS」「朱欒」など、手に入れにくくなっていた雑誌もそろっていた》

 そんな回想から尾崎一雄の習作時代の詩や短歌の話になる。詩の題は「焦心」——一九二三年二月「映像」創刊号(文藝部の詩誌)が初出らしい。
 学生時代の尾崎一雄は「柳純三」の筆名をつかっていた。

《をぐらい春の
 うすべにいろの寂しさを
 歪んだこころにしなしなとかんじ
 憂愁の影長く
 とある針葉樹林にさまよひ入った》(「焦心」抜粋)

 尾崎一雄、二十三歳の詩。稲垣は柳純三名義の詩について「朔太郎風」と評している。もし柳純三として詩作を続けていたら、後の「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」は生まれなかった。

「ある小春日のひとこま」は、冒頭付近で明禅法師の「しやせまし、せずやあらまし」(『徒然草』)を引いている。
 するかしないかで悩むようなことは、たいていしないほうがいい。たしかそんな話だ。

 稲垣は「本ならびに柳純三」について余計なことばかり書いてしまったのではないかと……。

「ある小春日の〜」では尾崎一雄が斎藤茂吉の歌を愛唱していた逸話を紹介している。尾崎一雄は、何度となく随筆その他で俳句や短歌の話を書いているが、わたしはそんなに関心がなかったので読み飛ばしていた。最近、昔の詩歌や古典に出てくる地名に興味があって、古書会館でもそういう本に手が伸びるようになった。

2023/08/14

十七年

 二〇〇六年八月にブログをはじめて十七年。十七年、中途半端な数字だなとおもったのだが、ライターの仕事をはじめたのは一九八九年六月だから三十四年——ちょうど半分だと気づいて、あらためて自分以外にはどうでもいい話だなとおもった。

 ふとおもいだしたのだが、二〇〇八年夏、酔っぱらって懐中時計をなくし、しばらくそのかわりになるものを探していた(わたしは腕時計しない派)。あるとき旅先の文房具店でタニタの万歩計を見て時計の機能があることを知り、日々の歩数がわかったら面白そうだなと……。というわけで、万歩計生活は十五年になる。万歩計を持つようになってから散歩の時間が増えた。

 あの日、懐中時計を落とさず、そのまま持ち続けていたら、今とはちがう人生になっていたのかもしれない。たいしたことではないが、それなりの時間を経てふりかえると、ものすごく些細なことがその後の人生を左右していることがある。

 話は変わるが「どこそこに行きたい」みたいなことを書くとそこを訪れる確率が高まるような気がする。あと人名や地名を書くと、いろいろな本を読んでいるときにその言葉が目に入りやすくなる(ふだんはびっくりするくらい読み飛ばしている)。

 しょっちゅう「晴れの日一万歩、雨の日五千歩」と書くのも、それによって意識や行動が変わるのではないかと考えているからだ。何とかの法則みたいな話だが、今は言葉が自分を動かしている感じだ。年をとって各種の欲が衰えたせいか。もともとそういう傾向があったのか。

 思考が漠然としてきたので今日はこのへんでやめる。

2023/08/13

富士川渡る

 金曜、近所の郵便局に行ったら閉まっていて、休日(山の日)と知る。そのまま中野まで散歩し、帰りにヨークフーズ with ザ・ガーデン自由が丘中野店(……正式名称、知らなかった。以前はイトーヨーカドーだった)で食材を買う。

 土曜の昼、西部古書会館。ガレージのところで「少年少女名作全集」(講談社)が大量に出ていた(百円)。坪田譲治訳『源平盛衰記』(一九六〇年)の巻を買う。ビニカバもきれい。美本。
『源平盛衰記』——富士川の戦い、墨俣川の戦いなど、それぞれ川の両岸に陣取り、攻防を繰り広げる場面がちょくちょくある。

 榎原雅治著『中世の東海道をゆく』(中公新書)の富士川に関する記述を読む。

 中世の富士川の河口——飛鳥井雅有の『春の深山路』は「富士河は袖がつくほどの浅さで、心を砕くほどの浪もない。多くの瀬が流れ分かれている中に家が少々ある」と記す。

《弘安三年(一二八〇)十一月に雅有の渡った富士川は、衣の袖がつく程度の浅い流れで、たいした波もなかったのである。そのかわりに多くの流れがあり、「せきの島」と呼ばれる中州には家も点在していたのである。また『十六夜日記』にも「富士川渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる」とあり、富士川の下流が多くの流れに分かれていたことが知られる》

 鎌倉時代の富士川の河口は時季によっては歩いて渡ることができたようだ。すこし前に「田子の浦」で「富士川は船で渡るしかない」(二〇二三年八月四日)と書いたが、『十六夜日記』のころは、そうではなかったことになる。

 先週、書店まわり中、島内景二著『新訳 十六夜日記』(花鳥社)が出ていることを知った。今年の六月刊。目次に「東海道の旅の日録」の章がある。『新訳 更級日記』も気になる。

『十六夜日記』の阿仏尼は醒が井を通り、美濃に入る。中山道の醒ケ井宿は一度歩いたことがある。至るところに水路があるきれいな町だった。
 美濃と尾張の境の洲俣川(墨俣川)は、川に舟を並べた浮橋を渡った。

 これまで縁がなかった地域の歴史や地理を知る。街道趣味の副産物といえるかもしれない。今度三重に帰省したら、岐阜に足をのばし、墨俣のあたりを歩きたい。

2023/08/07

美濃路NOW

 季候、体調によってちょくちょく目標の歩数は変わるが、もうしばらく晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課を続けたい。健康のためというより、気分転換の効果が大きい。

 金曜の夜、荻窪散歩。古書ワルツで新川みのじ会『美濃路NOW』(ブックショップ「マイタウン」、一九九七年)など。荻窪からの帰り道、阿佐ケ谷を通ると七夕祭りでにぎわっていた。前に街道を研究するにあたり古典はなるべく避けたい……みたいなことを書いたのは、興味がないからではなく(興味はめちゃくちゃある)、先行研究が膨大すぎて目を通している時間がないという理由もある。五十代のおっさんが気づくようなことは、たいてい誰かがすでに指摘している。

 平安時代と江戸時代——さらに現在では“東海道”のルートがちがう。『更級日記』の名古屋以西の道のりは桑名や四日市などを通る東海道ではなく、墨俣や大垣など美濃路+中山道を歩いたり、川を渡ったりしている。

『美濃路NOW』は宮(熱田)、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣、垂井と東海道と中山道をつなぐ美濃路の宿場町を徒歩&自転車で綿密に調査している。国土地理院の地図を元にした小冊子も付いている。ブックショップ「マイタウン」は「一人出版社」で「ネット古書店」である。

「墨俣宿」の項に『十六夜日記』の話が出てくる。

《『十六夜日記』を書いた阿仏尼は建治三年(一二七七)十月十九日、墨俣を通っている》

 『更級日記』は上総(現在の千葉、茨城)から京に向かうが、『十六夜日記』は京から鎌倉に向かう。このルートも江戸期の“東海道”ではなく、名古屋以西は大垣や墨俣を通っている。中世の東海道は後の中山道(近江路)+美濃路のルートだったのか。

 榎原雅治著『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』(中公新書、二〇〇八年)に「東海道は『東海道』か」という項がある。同書は『源平盛衰記』などを引き、(鎌倉末期に)「湖東から美濃へ抜ける道は『海道』と呼ばれていたことになるだろう」と記す。

《まさしく中世の東海道は美濃廻りのコースだったのである》

『更級日記』や『十六夜日記』の作者が“東海道”を歩いたという場合、美濃廻りの“東海道”を指す。鉄道の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。墨俣は木曽三川の長良川と揖斐川の間にあり、(京からだと)一宮、清須、名古屋に向かう。

『中世の東海道をゆく』によると、中世の木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)は、今とちがい、揖斐川の分流の杭瀬川が本流だったようだ。同書は揖斐川(杭瀬川)の流れが変わったのは、一五三〇(享禄三)年の大洪水の影響という説(ただし根拠は不明)を紹介している。中世の長良川も今と流れがちがう。東海道は洪水、台風などの水害で時代によってルートが変わる。当然、川の付近の町に与えた影響は甚大だった。川の流路の変化は街道にも大きく関係している。

2023/08/04

田子の浦

 木曜神保町。『星新一展 資料編』(世田谷文学館、二〇一〇年)を七百円(ただし文学館のハンコ付)。先週の『永田耕衣展』に続き、二週連続でほしかった文学展パンフを入手することができ、大満足である。そのあとM出版のMさんに会い、『星新一展』のパンフを自慢すると「このときの世田谷文学館行きました」といわれる。

 今週は晴れの日一万歩をクリアしている。

 話は変わって前回の『日本古典文学紀行』の「火の山富士と田児の浦」(高橋良雄)の続き。高橋良雄は歌枕の研究で有名な人である。しかし古典の研究書、読みたい本がことごとく一万円くらいする。我が道は雑本にありと腹を括る。

 《上古代の田児の浦あたりの東海道は、後に難所の一つとされるようになった薩埵峠を越える山道ではなく、興津・由比・蒲原あたりは、駿河湾沿いの道であり、それは海岸にせり出していた山裾を通る「親不知子不知(おやしらずこしらず)」のような険しい海沿いの難所の道であった》

 田子の浦はJR東海道本線でいえば吉原駅のあたり。富士山の山頂から海に向かってほぼ南に位置する。薩埵峠は由比、興津の間の峠である。

「火の山富士と田児の浦」では「田児の浦ゆ打出て見れば」の歌について薩埵峠のある海岸沿いの難所は船で通過したのではないかと……。

 さらに「『更級日記』にも『田子の浦は、浪高くて、船に漕ぎめぐる』とあるのは、舟遊びなどではなく、難所の海沿いの道を船で通過したことを記すのであろう」と論じている。

『日本古典文学紀行』の「火の山富士と田児の浦」を読むまで『更級日記』の作者は上総から京までひたすら陸路を移動したとおもっていた。街道のことばかり考えていたせいで海のことをすっかり忘れていた。

 山(峠)を行くか海を行くか。田子の浦のすこし先には富士川もある。
 富士川は船で渡るしかない。とすれば、田子の浦から薩埵峠の先まで一気に駿河湾を船で移動していたとしてもおかしくない。

 海の移動か。今後の課題としておこう。

2023/08/01

旅の途中

 話が尻切れトンボになったり、その日買った(読んだ)古本によって話題が変わったり、このブログは散歩の途中のメモくらいの気分で書いている。
 いろいろ道草をしてそこから取捨選択をして……という地道な作業を経て一本の原稿になる……ときもあればならないときもある。

 昨晩、「『更級日記』の話はもう書かないのか」と旧知の編集者にいわれた。すこし前に『更級日記』の名古屋以西のルートを調べていた。六月、京都に行った帰り、大垣駅から岐阜羽島駅までのバスに乗った。岐阜羽島駅からはじめて新幹線に乗った。『更級日記』は途中、大垣市の墨俣を通っている。墨俣といえば木下藤吉郎の一夜城で知られる土地だが、昔から交通の要所だった。

『更級日記』の作者は三重を通る江戸の東海道ではなく、名古屋から西は美濃路+中山道に近いルートを経て京都に向かったとおもわれる。東海道は時代によってコースが変わっている。それを調べるだけでも時間がいくらあっても足りない。

 久保田淳編『日本古典文学紀行』(岩波書店、一九九八年)所収「火の富士と田児の浦」(高橋良雄)に『更級日記』の富士山の火山活動に関する記述の引用あり。『十六夜日記』にも「ふじの山を見れば煙もたゝず」という箇所がある。

 大町桂月に「近藤重蔵の富士山」という随筆がある。

《『田子の浦ゆ打出でて見れば眞白にぞ富士の高根に雪は降りける』。古来富士山を咏じたる詩歌多けれども、これより以上の名吟あるべしとも思われず》

 桂月が紹介しているのは万葉集の元歌。新古今の田子の浦と富士の歌は「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」となっている。わたしは新古今の歌のほうがなじみがある。

 大町桂月もあちこちの街道を歩いている。

2023/07/28

夏の土

 水曜昼すぎ猛暑の神保町を歩く。悠久堂書店で『虚空に遊ぶ 俳人 永田耕衣の世界』(姫路文学館、一九九六年)。千五百円。
 姫路文学館のパンフレットはなかなか見かけない。長年、文学展パンフは五百円以下というルールを自分に課していたのだが、五十歳以降はやめた。さすがに五百円縛りは厳しい。もちろん今までもどうしても欲しいものは五百円以上で買うこともあった。

 永田耕衣は一九〇〇年二月兵庫県加古川生まれ。九七年八月二十五日没。『永田耕衣の世界』展の開催時は健在だった。晩年は神戸の須磨に住んでいた。数日前、別件(街道関係)で須磨のことを調べていたばかり。

 神田伯剌西爾でアイスコーヒーを飲みながら永田耕衣展の図録を見ていたら大町桂月(一八六九〜一九二五)に関する頁があった。

《高等小学校のころ、私は大町桂月主幹の「学生」といふ雑誌を愛読してゐた》 

 パンフレットには『桂月百話』(教文社、一九二六年)の書影も掲載されている。

 若き日の福原麟太郎も大町桂月の熱心な読者だった。先日、買った随想全集(福武書店)の年譜(明治四十年 十三歳)にも「徳冨蘆花、大町桂月、北原白秋などを愛読す」とある。大町桂月は「中野あるき」という散歩エッセイも書いている(青空文庫にあり)。

「あんぱんを落として見るや夏の土」という耕衣の句を知る。

 本の雑誌社に寄って帰りは九段下駅から地下鉄で中野駅——北口の中野セントラルパークを通って帰宅する。

2023/07/23

文化とは

 土曜日曜、西部古書会館。土曜は『夕暮・牧水と自然主義歌人展』(日本現代詩歌文学館、一九九五年)、『伊藤信吉生誕100年記念展』(前橋文学館、二〇〇六年)など、文学展パンフを買う。
 夕方六時ごろ、大和町八幡神社の大盆踊り会を見に行く。ものすごい人だかり。参道は前に進めず、裏の幼稚園のほうに回る。歩いている途中でスーダラ節が耳に入ってくる。それから函館いか踊り。噂には聞いていたが、はじめて見た(ちょっと踊る)。子どもたちが楽しそうだった。いい祭りだ。
 大和町八幡神社はしょっちゅう散歩で行く。住宅街に突如現われる小さな神社だけど、参道がある。参道には魚魂碑(釣魚の慰霊碑)もある。近くに妙正寺川が流れている。大和町の八幡神社は「やはた」、鷺ノ宮の八幡神社は「はちまん」と読む。ややこしい。

 日曜、西部古書会館、『福原麟太郎随想全集』(全八巻、福武書店、一九八二年)をバラで五冊(一冊百五十円)。随想全集は井伏鱒二、河盛好蔵、庄野潤三が編集している。八巻「日記・書簡」の月報で福田恆存が「福原先生」というエッセイを書いている。

 福原麟太郎の『メリー・イングランド』を一読した福田恆存はこんな感想を述べる。

《先生は英国に「勉強」しに行つたのではない、少くともそれが第一目的ではなく、それよりも先生は英国に「遊び」に行つたのだ》

《文化とはさういふものである。さうしなければ身に附かぬものである。眉間に皺の渋面と文化とは何の縁もない》

 昔、中国の古典で似た話を読んだ記憶がある。固く張った弦は切れやすいみたいな逸話だった。出典は忘れた。

2023/07/20

鈴鹿山

 二〇一四年春あたりからずっと同じメーカーのウォーキングシューズ(かかとの部分にエアクッションが入っている)を履き続けていた。ただし、ここのところ、最初に買ったころと比べて数千円値上がりしていたので、もうすこし安い靴も試してみようと別のメーカーのものを買ってみた。値段は半額。軽い。体重が足の裏全体に分散している感じがして楽だ。膝への負担感もない。

 しばらく新しい靴で歩きまわった後、前の靴を履いたらすごく重たく感じる。すでに違和感がある。人体は不思議である。

 福原麟太郎の『命なりけり』の流れで『西行全歌集』(岩波文庫、二〇一三年)をぱらぱら読んだ。西行、鈴鹿の歌もあることを知る。
「鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになり行くわが身なるらん」

「命なりけり」の歌は「西行法師集」のところにある。
「年たけて又越ゆべしと思きや命成りけり佐夜の中山」

 巻末の初句索引を見ていたら「秋来ぬと」の歌もある。
「秋来ぬと風にいはせて口なしの色染めむる女郎花かな」

 福原麟太郎の「秋来ぬと」は随筆の一行目に古今集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞ驚かれぬる」を引いているので、西行の「秋来ぬと」からとった題ではない。
 街道歩きをはじめて以来、行く先々で西行と芭蕉の歌碑句碑を見かける。この二人は本からではなく、街道を通してなじみになった。芭蕉は西行の歩いた後をけっこうなぞっている。
 芭蕉にも鈴鹿山の句がある。
「ほっしんの初に越ゆる鈴鹿山」

 郷里にいたころ、わたしは西行や芭蕉にまったく興味がなかった。郷土文学や郷土史にたいする関心の高まりも老いのひとつのあらわれなのか。

2023/07/17

二筋道

 散歩中、今年の秋に「コメダ珈琲店高円寺北口店」オープンの貼り紙を見る。駅北口の座・高円寺に向かう道の途中、セブンイレブンだった場所だ。セブンイレブンの前は紳士服店だったかちがったか。高円寺にコメダ珈琲店ができるのは嬉しい。

 連休前に福原麟太郎著『命なりけり』の単行本(文藝春秋新社、一九五七年刊)を日本の古本屋で買う。
 講談社文芸文庫の『命なりけり』の巻末に『この世に生きること』『命なりけり』『福原麟太郎随想録』などを底本に——と記されていたので単行本と収録作がちがうことはわかっていた。
 単行本は「三人称単数」「わが身世にふる」「南窓雑筆」の三部構成。文芸文庫は五部構成なのだが「南窓雑筆」が入っていない。

「南窓雑筆」は西日本新聞夕刊の連載(一九五六年十一月から一九五七年二月はじめまで)。「南窓雑筆」の中に勉強と職業のことについて書いた話がある。教師になった福原麟太郎は自分が勉強したいこと、学校で教えることがかけ離れていることに焦っていた。
 そして詩人や芸術家は「生きていることと職業とが非常に近接している」と……。

《もし、勉強は勉強、職業は職業という二筋道をはじめから覚悟しておれば、焦燥に悩まされることはなかつたであろう》

 いっぽう西洋人はそこまで勉強と職業の純一を求める気持はそれほど激しくないのではないかとこんな例をあげている。

《あのT・S・エリオットという詩人批評家のごとき、長い間、銀行員をしており、名声が定まつてノーベル賞をもらうようになつてからも、フェーバー社の出版顧問をしていた。いまもたしかそうである》

 勉強と職業——あるいは趣味と仕事の配分に関して、長年わたしも悩んできた。趣味でやっていることも、いつの日か何らかの形で仕事になるかもしれないし、ならないかもしれない。ならなくてもいいかな楽しければ。バラバラにやってきたことが何かの拍子につながることがある。それはそれで楽しいわけだ。

 長年、小説や随筆によく知らない地名が出てきても調べもせず頁をめくり続け、読み終えると忘れていた。街道に興味を持って以来、すぐ地図を見て、さらに土地の歴史も調べるようになった。西行の「命なりけり」の歌に出てくる小夜の中山は『更級日記』にも出てくる。

 若いころ、一日何冊も本を読んでいたときはわからないところはそのままにしていた。近年は一冊の本をじっくり読むことが増えた。調べれば調べるほどわからないことが増えていく。そろそろ自分のやることを絞り込まないといけない気がしている。とっちらかった雑学雑文の世界を生きたい気持もある。

 この先も迷い続けるのだろう。なかなかまとまらない。

2023/07/11

秋来ぬと

 昨日(七月十日)、日中の最高気温三十七度(杉並・練馬)。午後二時、散歩しようとおもったが、すぐ引き返す。午後六時、阿佐ケ谷、荻窪を散歩する。

 庄野潤三著『世をへだてて』(講談社文芸文庫)の最初の作品「夏の重荷」は「英文学者ですぐれた随筆家であった福原麟太郎さんに『秋来ぬと』という随筆がある」ではじまる。「秋来ぬと」も『命なりけり』の所収作である。庄野潤三は『命なりけり』を「本棚から取り出して頁を操ることの多い随筆集」と書いている。わたしは二年前に『世をへだてて』を読み、それから『命なりけり』を読んだ。

 散歩中、「命なりけり」の「なりけり」について考えていた。百人一首に「我が身なりけり」というのもあったな。「秋来ぬと」も百人一首である。

 前回、西行の「命なりけり」は「鎌倉時代のもの」と書いたのだが、後で調べたら平安末期か鎌倉初期か微妙な時期で……。
 学生のころ、鎌倉時代のはじまりは一一九二年と覚えた。近年は一一八五年説が有力らしい。この説もいずれ変わるかもしれない。「イイクニ(一一九二)」から「イイハコ(一一八五)」と語呂合わせも変わった。西行の「命なりけり」はその間の作なのだ。
 晩年の西行は伊勢に住んでいた。西行の「命なりけり」は伊勢に移住した後の歌である。街道や郷土史(郷土文学)の研究でも西行は避けて通れないのだが、あまり深入りしないつもりだ。

 福原麟太郎の「秋来ぬと」に「暑い立秋であった」とある。

《三十三度九分の暑さと新聞に出ていたから、郊外の私の家でも三十二度には昇ったであろう》

 一九五六年八月七日の話である。今なら八月上旬で三十三、四度は珍しくない。

2023/07/06

命なりけり

 JR中央線で御茶ノ水駅に行き、神保町を散策して神田伯剌西爾でアイスコーヒー。福原麟太郎著『天才について』(講談社文芸文庫、一九九〇年)を再読する。『野方閑居の記』(新潮社ほか)所収の「或る日曜日」は「ひどく暑い朝である」という書き出しから、文芸評論家の青野季吉が亡くなった話になる。
 青野季吉は一九六一年六月二十三日没。享年七十一。
 福原麟太郎と青野季吉は戦後まもなく「風雪」という文芸誌の座談会で知り合った。一八九〇年生まれの青野は福原より四つ年上である。
 その後、青野が亡くなる四年くらい前のこんな逸話を紹介する。

《私が、『命なりけり』という随筆集を出した時、やや激しい口調で「なりけり」というような生活態度はいけないと思いますね、とはっきり言って下さった。これは「命なりけり小夜の中山」という西行法師の歌から借りたものであったから、西行的な世界観を否定する意味もあったであろう》

「或る日曜日」の初出は「放送文化」(一九六一年八月)で青野季吉が亡くなって、そう月日が経たないうちに書かれたものだ。

『命なりけり』の単行本は文藝春秋新社から一九五七年十月に出ている。
「命なりけり小夜の中山」の小夜の中山(静岡県掛川市)は、東海道の三大難所(あと二つは箱根、鈴鹿峠)の一つで金谷宿と日坂宿の間にある。
 西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」という歌は晩年の作品——平安? 鎌倉時代? 「命なりけり」は『源氏物語』の「桐壷」の一首「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」も有名だろう。『源氏物語』の最初に出てくる和歌である。

 福原麟太郎の「命なりけり」の表題エッセイは闘病記(心臓の手術後のリハビリ記)でもあるから、わたしは青野季吉の「『なりけり』というような生活態度はいけない」は西行の否定ではなく『源氏物語』の「命なりけり」が頭に浮んでいたのではないかなと……。勝手な想像ですけどね。

 夜七時前、神保町から帰り道、市ケ谷まで歩いた。夕焼けがきれいだった。途中、一口坂の小諸そば(市ケ谷店)で鴨ステーキ丼セット(丼+冷たい蕎麦)を食う。鳥からうどん以外のものを食べるのは久しぶり。当初は快速が止まる四ツ谷駅まで歩くつもりだったが、小諸そばで満腹になったので市ケ谷駅で電車に乗った。

2023/07/02

本の長屋

 土曜日、西部古書会館大均一祭(初日二百円)。わたしが行ったのは午後二時すぎだけど、盛況だった。
 以前、京都の扉野良人さんに教えてもらった添田知道著『利根川随歩』(三學書房、一九四一年)という装丁がちょっと凝った本があって、ちょうど川関係の本を集めはじめていた時期だったのですぐ入手して読んだ。大均一祭で『利根川随歩』があり、「え? ビニカバ?」と奥付を見たら、一九七四年に崙書房が刊行したほぼ装丁そのままの復刊本だった。崙書房は千葉(流山市)の出版社。二〇一九年七月末に休業した。千葉県の本を数多く刊行していた。『利根川随歩』の三學書房版のほうは頁がぼろぼろだったので、均一価格ということで崙書房版も買うことにした。

 夕方、小雨になったので高円寺のコクテイル書房の並びにある「本の長屋」に「文壇高円寺古書部」の古本を並べてくる(入口近くのいちばん下の棚)。私小説、文学展パンフなど。今後は大判の本(図録など)も売りたいとおもっている。

 大均一祭(二日目百円)、福原麟太郎の本二冊、野田宇太郎著『風景と文学』(文一総合出版、一九七九年)など十冊。家に帰って『風景と文学』を見たら、署名本(別紙の謹呈の紙にだが)だった。

 先日、三重と京都に行ったさい、直前に神保町の文庫川村で岩波文庫の『更級日記』(鉛筆の書き込み有)を買ってカバンに入れた。前の持ち主、註釈に「?」をつけまくっている。
 新刊の河合隼雄著『河合隼雄の人生論』(PHP文庫)の「輪廻転生」の項を読んでいたら、ここにも『更級日記』の話が出てきた。

『浜松中納言物語』の主人公の父は唐の国の第三王子に生まれ変わっていたという話から——。

《『浜松中納言物語』の作者は『更級日記』と同一の作者ではないかといわれている。そして、そのなかにも転生のことが語られている》

 街道への関心から『更級日記』のことが気になりはじめたのだが、転生も絡んでくるとは……。ここ数年の異世界研究は無駄ではなかった。

2023/06/27

三重京都三泊四日

 六月のある日、西部古書会館で岡崎武志さんと立ち話中、「今度、山本(善行)が三重で喋るらしいで」と教えてもらったのだが、その日は翌日だった。今年四月にオープンしたばかりの三重県津市久居のHIBIUTA AND COMPANYのイベント——。

 二十三日(金)から三泊四日で三重に帰省(一泊は京都)していた。
 行きは小田急で小田原、JR東海道本線で三島まで行き、そこからこだまで浜松、再びJRに乗り、蒲郡で途中下車、名古屋でJR関西本線に乗り換え、JR桑名駅で中原中也の「桑名の夜」の詩碑を見て、アピタでスガキヤラーメン(肉入)を食い、鈴鹿の郷里の家に帰る。初日からけっこう歩いた。
 街道に関しては東京と三重の間の東海道、中山道、甲州街道+脇街道を軸に研究し、あと三重県の隣接県の宿場には行けるだけ行こうとおもっている。
 翌日はすこしのんびりしようと家の掃除、鈴鹿ハンターで衣類などを買う。ハンター内の喫茶ボンボン、麺類、丼、定食のメニューが充実している。

 二十五日(土)、早朝、郷里の家を出てJR関西本線の河曲駅に行く(道をまちがえて一時間くらいかかった)。途中、川神社という神社があった。亀山駅で降り、すこし散歩する。亀山から貴生川駅に行き、近江鉄道に乗り換え、日野駅へ。滋賀県の日野町は三重とも関わりが深い。日野は東海道と中山道をつなぐ脇街道の町で伊勢神宮に向かう「伊勢道」と呼ばれる道の追分もある。
 しばらく歩いて再び貴生川駅に戻り、京都に向かう。すでに汗だく。御陵駅の近くの駐車場でシャツを着替える。
 ひさしぶりの古書善行堂。そのあと『些末事研究』の座談会のため、五条のcafeすずなりに移動する。
 善行堂に行く前にホホホ座に寄り、南野亜美、井上梓著『存在している 編集室編』(日々詩編集室、HIBIUTA AND COMPANY、二〇二三年)を買う。店長の山下さんに他の日々詩編集室の冊子も見せてもらった。

 わたしが上京したのは一九八九年の春だけど、郷里にいたころ、三重にいながら何かをする発想はなかった。
 七年前の五月末に父が亡くなり、それから東京と三重をしょっちゅう行き来するようになり、街道や宿場町に興味を持つようになった(きっかけは武田泰淳著『新・東海道五十三次』中公文庫)。
 わたしは車の免許を持っていないので帰省すると父が運転する車であちこち移動していた。父がいなくなってからは電車+バス+徒歩で県内をうろつくようになり、しだいに地元のよさを知った。山も川も海もそして道も面白い。

 読んで知ること、歩いて知ること、どちらも大事だ。五十代になって、できないことも増えてきたが、若いころより自分に足りないところがよく見えるようになり、それをどう補うかについて考える時間が増えた。自分の足りないもの——それが歩くことだったのかもしれない(もしくは車の免許かもしれない)。

 今回三泊四日の旅で十万歩ちょっと歩いた。両足にマメができた。

2023/06/21

更級日記

 街道の研究でどのくらいの古典を読めばいいのか。行き当たりばったりに本や雑誌を読み、そのときそのときの関心のある記述を集める。わたしはそういうやり方が好きなのだが、めちゃくちゃ時間がかかるのが難点だ。

 先日、島田裕巳著『最強神社と太古神々』(祥伝社新書)の目次を見ていたら「山の神と山神社」という項目があった。中国の山岳信仰は有名だが、日本もそう。山の神をまつる山神社がたくさんある。
 さらに数頁先の「富士山に最初に登った人物」では平安時代の漢学者・都良香の『富士山記』が出てきて、菅原孝標の娘の『更級日記』の話になる。『更級日記』には「山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ち上る」と当時の富士山の様子が描かれている。

《これは1020(寛仁4)年、彼女が13歳の時に、父親が役人として赴任していた上総国(千葉県北部、茨城県南西部)から、家族と共に京都に上る途中、東海道での出来事とされています》

 河北新報社編集局編『みちのくの宿駅』(淡交新社、一九六三年)所収の川端康成の「宿駅」でも『更級日記』の話があった(六月十三日のブログ参照)。
 わりと近い時期に読んだ先月刊行の新書と六十年前の古本の両方に『更級日記』の話が出てきたのはたまたまなのかもしれないが、たぶん読めということなのだろう。

2023/06/13

けやき公園

 晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課を続けているうちに体が歩くことを欲するようになった。少なくとも一時間くらい歩かないとそわそわする。

 土曜日の昼、西部古書会館。『週刊読売』臨時増刊「緊急特集 グアム島28年 横井庄一さんの全生活」(一九七二年二月十八日)を二百円。近鉄、西武、身延線などの鉄道本を百円。鉄道関係の資料はどこまで集めるか悩みの種である(キリがない)。

 そのあと阿佐ケ谷散歩。高円寺北四丁目の馬橋公園から阿佐ケ谷の神明宮のあたりに続く斜めの道を歩く(この通りの名前はあるのだろうか)。コンコ堂で今の仕事に必要な本を見つける。店外の棚から河北新報社編集局編『みちのくの宿駅』(淡交新社、一九六三年)も買う。冒頭に川端康成の「宿駅」という随筆あり。

《戦争中、昭和十八年(満州国の康徳十年)、私は「満州日日新聞」に、「東海道」という小説を連載した》

 川端康成は東海道を歩いたが、この連載は中断してしまう(「東海道」は『天授の子』新潮文庫所収)。川端は「東海道を京にのぼった、二人の王朝の少女、小野小町と菅原孝標の娘」に関心を抱く。

《文学少女の孝標の娘の旅は、「更級日記」に、自分で書いて、よく知られている。上総から京まで、九十一日の道中であった。十三歳の少女であった。小野小町も東海道をのぼったとすると、十三歳ぐらゐの少女であった。小町の素性は明らかではないが、出羽の国からの采女だったといふ一説がある。もしさうだと、東海道のその先きの「奥の細道」から、小町は歩いたのだらうか》

 川端康成は一八九九年六月十四生まれ。「東海道」は一九四三年七月に連載開始した。四十四歳。戦中、川端は中世の古典に傾倒する。街道の研究をする上で古典は避けられない。できれば素通りしたかったのだが。

 帰り道、阿佐谷地域区民センターの屋上にある阿佐谷けやき公園に寄る。地域区民センターはけやき公園プールがあった場所にできた。二〇二二年四月オープンだから、まだ新しい。
 屋上の公園のすぐ下を中央線の電車が通る。
 この日は曇り空だったので空気の澄んだ晴れの日にまた行きたい。

2023/06/08

仕事と散歩

 二月末からの歯科通いがとりあえず月曜で終わった。夜、ちょっと飲みに行く。久々にはしゃいでしまう(ほんとうに久々なのか?)。

 火曜、池袋で打ち合わせ。山手線の目白駅で降りる。打ち合わせ先は古書往来座のすぐ近く。往来座で『日本近代文学館創立十五周年記念 現代作家三〇〇人展 仮名垣魯文から戦後作家まで』(一九七七年)などを買う。『現代作家三〇〇人展』は紺色、『日本近代文学館創立記念 近代文学史展』(一九六三年)は緑色でほぼ同じ表紙である。文学展のパンフレットは表紙が色ちがいで中身が同じものがたまにある。この二冊はちがった。
『現代作家三〇〇人展』は尾崎一雄の「開館十年」も収録している。この文学展は伊勢丹新宿店の本館七階クローバーホールで開催されていた。

 店番の退屈君に夕方から雨の予報が出ていると教えてもらう。

 打ち合わせ後、池袋から歩く(地図なし、オイルコンパスのみ)。途中、肉のハナマサで喜多方ラーメン(醤油)を買う。手前にいたお客さんがハナマサのレトルトカレーを大量に買っていた。うまいのか? 気になる。

 目白駅から目白通り、聖母坂通りを歩く。新宿区落合第一地域センターの前を通るとこの地に暮らした文士の名前を記したパネルのようなものがあった。尾崎一雄も落合に暮らしていた。このあたりも文士村だった。妙正寺川を渡り、西武新宿線の下落合駅へ。
 下落合駅手前の聖母坂通りと新目白通りの交差点からスカイツリーが見えた。東の方向、交差点からスカイツリーまで一本道が続いている感じ——いいものを見た。

 下落合駅付近で小雨が降ってくる。当初は家まで歩いて帰るつもりだったが、行く先を東中野駅に変更する。上落中通りを西へ。梅の湯という銭湯がある。昔、自転車で梅の湯の前を何度か通った。東京メトロの落合駅から東中野駅は近い。

 ライフ東中野店で夏用の帽子と夏用の靴下(三足五百九十八円)を買ってJR総武線に乗って家に帰る。

2023/06/04

どつこい

 もう六月か……と書きかけ、「もうろく」という言葉が入っていることに気づく。最近、昔、読んだ本や漫画の記憶がどんどんあやふやになっている。

 木曜の昼、JR中央線快速で御茶ノ水駅へ。今、蔵書整理中なので神保町で一軒だけ古本屋をのぞき、『生誕100年記念展 歌びと 吉野秀雄』(神奈川近代文学館、一九九二年)を買って、神田伯剌西爾へ。神奈川近代文学館の文学展パンフは面白いものが多い。吉野秀雄のパンフは「旅と酒」の頁がよかった。酔っぱらって地べたで寝ている写真や日本歌人クラブの集まりで酔っぱらって上半身裸になっている写真なども収録されている。

《酔い疲れたあとの吉野さんの駄々には、誰もが手古摺つた》(上村占魚)

 吉野秀雄は酔っぱらうと「どつこい、おれは生きてゐる」などとがなりたてた。
 もともと体が弱く、ずっと病と戦ってきた歌人でもあるが、酒を飲むとかなり奔放な酔っ払いになる。
 体力の限界まで飲むのだろう。酔っぱらって満員電車の床で寝たという逸話も残っている。

 年譜を見ると、二十一歳で肺尖カタル、二十三歳で気管支喘息などの病歴が記され、「神経痛悪化」「リウマチ悪化」といった言葉も出てくる。
 五十三歳、「一月、喀血して半年療養。三月、糖尿病(以後持病となる)。四月、入院」。

 わたしは丈夫なほうではないが、(今のところ)「半年療養」みたいな大病はしていない。
 ただ、五十代になって、体のあちこちにガタがきていて「こんなにいろいろなことができなくなるのか」と……。ひまさえあれば、作家の年譜を眺めているのだが、人はいつまで生きるかわからない。生きていても衰える。どんなに衰えても「どつこい、おれは生きてゐる」くらいの気持があったほうがいい。

2023/05/31

老荘風

 土曜日昼、西部古書会館。すこし前に読書欲が減退していると書いた気がするが、カゴ一杯買う。
 杉浦明平著『桃源郷の夢』(冬樹社、一九七三年)は署名本だった。宛先は寺田博——『海燕』の編集長。三百円。ビニカバがけっこう汚れていたが、手にとってよかった。家に帰って激落ちくんできれいにする(激落ちくんが真っ黒になる)。

 古書会館に行くと買うつもりのない、読むつもりのなかった本や雑誌を大量に購入してしまう。週末、家でごろごろしながら、昔の雑本、雑誌を読むのは至福の時間だ。

 山本善行著『古本のことしか頭になかった』(大散歩通信社、二〇一〇年)を読み返していたら、「あとがき」に「何も心配しないで(働かないで)一日じゅう本が読めたらいいのにな、などと呑気なことを考えているうち、五十四歳になってしまった」という一文があった。
 わたしは今年の秋五十四歳になるのだが、何にも成長しないまま年だけとってしまったなと……。書評や随筆を書いて、あとは散歩と昼寝と読書ができれば——それがわたしの夢なのだが、現実は甘くなく、仕事の合間にいろいろな煩雑な手続きが必要な雑用が押し寄せてくる。

 杉浦明平の「桃源郷の夢」は西洋人の考えたユートピアではなく、老荘風の桃源郷に暮らしたい——そんな夢想を語った短い随筆である。

《さいわい、わたしの家には桃の木が数本あって、三月下旬にはうらうらと桃の花ざかり、その花の下にねむるのは、すっかりなまけぐせのついたわたしには、何よりもたのしい》

 世の中にはビッグになりたい、裕福な生活がしたいといった夢を抱く人もいるらしいのだが、わたしは怠けたい、のんびりしたい派である。社会の片隅でひっそり暮らしたい。その気持は年とともに強まっている。

2023/05/25

下落合

 最近といってもこの二週間くらいのことだが、電車で高円寺と神保町を行き来する日(週一回くらい)に小野寺史宜著『銀座に住むのはまだ早い』(柏書房)をすこしずつ読み続けている。今年二月刊行の二十三区(二十三回分)の町歩きエッセイで電車の中と喫茶店で一区ずつ読んでいて面白い。著者は一九六八年生まれ。世代も近いし、最初の本が出た年齢も近い(三十代後半)。単行本の元になった文章はリクルートの「SUUMOタウン」の連載だった。
 昨日は新宿区の下落合のところまで読んだ。読み終えるのが惜しくてゆっくり頁をめくる。

《降り立った下落合駅は、それ自体が神田川と妙正寺川に挟まれている。そもそも、二つの川が落ち合う場所ということで、落合、となったらしいのだ》

 わたしは高円寺から野方に向う途中、妙正寺川沿いをよく歩く。落合あたりから東中野までの神田川の遊歩道も好きだ。

 東京の小さな川沿いの道を歩くのは楽しい。そんなに自然豊かな感じではなく、コンクリートで護岸された川なのだが、緑に囲まれていて、ゆっくり歩ける。いい気分転換になる。
 下落合の回では七曲坂も出てくる(昔、わたしは迷った)。小野寺さんは(たぶん)事前にそんなに下調べせず、にぎやかなエリアよりも、ちょっと人の少ない寂しそうなほうを歩きがちで、そのあたりの感覚が読んでいて心地いい。このエッセイに出てくる喫茶店にすごく行きたくなる。

 いちおう部屋探しが目的の二十三区歩きなのだが、途中から関係なくなる。歩きたいように歩く。

 四十代半ばくらいから、人生の一回性についてよく考えるようになった。若いころのような「人生一度きりだから(好きなことをしよう)」といった感覚ではなくて、季節の移り変わりや知らない町の風景、あるいは飲み屋や喫茶店で何てことのない雑談をした後の余韻みたいなものが、妙に胸に迫ってくる。
 七年前の五月に父が亡くなったことも関係しているかもしれない。時間は有限であり、自分の体も今まで通りに動くとはかぎらないんだなと……。自分の足で歩くこと、酒が飲めることも健康だからできるのだ。
 長年、本に埋もれる生活をしてきたが、町のこと、自然のこと、そして人間のこと、わからないことだらけである。現実の一日一日を大切に生きてこなかった。

 小野寺さんのエッセイに出てきた妙正寺川は、うちからだと徒歩十分ちょっとなのだが、どこからどこまで流れているのか知ったのはわりと最近である。荻窪から落合まで。十キロもない。そんな小さな川のそばに井伏鱒二、阪田寛夫、古木鐵太郎、耕治人、福原麟太郎、さらに尾崎一雄や林芙美子が暮らしていた。

『銀座に住むのはまだ早い』の杉並区の回では善福寺川を歩いている。

2023/05/21

本の片付け

 土曜日、荻窪散歩。家を出たら傘がいらないくらいの小雨だった。古本を買うかもしれないので傘を持って行く。

 四月半ばくらいから、蔵書の整理をやっていて、仕事部屋の本を減らした。レコードとCDも減らした。今年の秋で五十四歳、来年は五十五歳——昔のサラリーマンなら定年という齢も近づいて、仕事部屋もいつまで借り続けるかわからないなとおもい、今年一年くらいかけて本を減らすことにしたのだ。
 街道関係の図録や大判の本が増えたせいで仕事部屋の小窓が開けられなくなっていたのでそれもなんとかしたい。本の背表紙が見えない状態は精神衛生によくない。

《年をとって読書力は非常に衰えたし、小さな活字を夜読むということがうるさくなったので、書物の数をこなしてゆく速さは鈍ったが、本がほしいと思う心持は大して弱まらないらしく、結局、読まない本、主として古本を、沢山買って机のまわりに積んでゆく》(「古本のこと」/福原麟太郎著『書齋の無い家』文藝春秋新社、一九六四年)

 一九六二年あたりに連載していた随筆だから、福原麟太郎、六十八歳くらいか。
 わたしは五十代の入口あたりから読書量が減った。地図を見る時間が増えた。以前より、散歩したり、料理をしたり、のんびり過ごすことに時間を割くようになった。

 自分を律し、制御できる人に憧れる。昔の文士の中には、自分の感情を制御できず、周囲に当たり散らし、自己嫌悪に陥って……みたいな人も多かった。中原中也にしても喧嘩に明けくれていた四谷花園アパート時代は二十代後半だったし、何より郷里の親から同世代の勤め人の給料以上の仕送りをもらっていた。それで働かないと食っていけない同業者たちに「おまえらはダメだ」と絡みまくる。酒に飲まれ、睡眠薬に溺れ、錯乱しまくっていたころの太宰治にしても、今のわたしより一回り以上若い。

 自己制御不能に陥ってしまう人は努力や修業でどうにかなるわけでもなく、どうしようもなく、そうなってしまう。昔は性格の問題だと考えられていたが、脳の機能の問題と解釈したほうが納得がいく。

 たまに銀行の窓口、スーパー、コンビニのレジなどで、キレ散らかしているおっさんを見かけるが、あれは前頭葉の萎縮など、加齢による脳の機能の低下(障害)が原因といわれている。つまり、五十代あたりで急に怒りっぽくなった場合、病気の疑いもある。

 酒の席で怒りまくっていた自分より十歳くらい年上の同業者のことをおもいだす。アル中ではないかと疑っていたが、脳の病気だった可能性もある(もうこの世にいない人の話である)。

 静かに穏やかに年をとる。けっこうむずかしいことなのだ。感情を抑えるには体力もいる。体力が低下すると、酒の酔い方もひどくなる。そのあたりも今後の課題である。

2023/05/15

新聞紙包みの釣竿

 葛西善蔵が押入から釣竿を引っ張り出す話は何だったか。すこし前に『フライの雑誌』の堀内さんと今の時代とまったく関係ないテーマについて語り合ったのだが、お互い、酔っぱらって作品名が出てこないままうやむやになった。

《自分は、今日も、と言つても、何んヶ年も出して見たことはないのだが、押入れから新聞紙包みの釣竿を出してみた》

 あらためて読み返すと、不思議な書き出しである。何故こんなはじまり方なのか、よくわからない。『葛西善蔵集』(新潮文庫)の編者の山本健吉は「酔狂者の独白」の「この書出しの一節は何度読んでも情懐の深いものである」と評す。この作品は嘉村礒多が口述筆記している。

《一昨年は、夏の暮れから初冬へかけて日光の湯本で暮らしたが、何んと云ふことなしに持って行つた竿で、ユノコの鱒をだいぶ釣りあげたのである》

 ここのところ、小説や随筆の内容をあらかた忘れ、たまにおもいだすことが多くなった。「日光の湯本で暮らした」時期のことを書いたのが「湖畔手記」で一九二四年の作、「酔狂者の独白」は一九二七年の作である。
「酔狂者の独白」は口述筆記ながら、二ヶ月以上かかっている。

『葛西善蔵集』(新潮文庫)の解説を読んでいたら「椎の若葉」は「この頃牧野信一との交友がはじまり、これは酒中の口述を牧野が筆記したものである」とある。
 ところが『古木鐵太郎全集』三巻所収の「葛西善蔵」には「『椎の若葉』といふ小説は、あれは私が談話筆記したものである」と述べている。いっぽう山本健吉の解説では「湖畔手記」を「当時の『改造』記者古木鐵太郎に口述したもの」としているが、これも古木の話とはちがう。
 古木は「それから暫くして、気分転換といふ気持もあられて、日光の湯本に行つて、そこで二ヶ月ほどもかゝつて書かれたものが、あの有名な『湖畔手記』だ」という。

 また古木の「葛西さんのこと」でも「『椎の若葉』——この作品は、私が談話筆記をしたものである」とし、「『湖畔手記』といふ小説には自信を持つてゐられたやうだった。またあの作品を書かれてゐる時ほど葛西さんの気持が緊張してゐるやうに見受けられたことはなかった」と……。

 新潮文庫の解説の影響かどうか、「椎の若葉」が牧野信一の口述筆記という説は何度か見かけた。

2023/05/14

コタツ布団しまう

 今年は五月六日にコタツ布団を片づけた(四月以降、ほとんどつけていなかったが)。それから扇風機を出した。
 十一月くらいから四月末あたりまでは押入に扇風機をしまい、コタツの季節が終わったら入替える——というのが我が家のルールなのだけど、どうでもいい話だな。

 毎年同じようなことをくりかえしているようでいて世の中は変わっていく。

 五十歳をすぎると過去の自分を更新していく感覚みたいなものがなかなか得られなくなる。それが老いってものなのか。
 気力や体力の衰えもそうだが、一度体調を崩すと回復に時間がかかる。
 若いころは寝てりゃ治るで乗り切っていたが、寝てるだけだと体力がどんどん落ちてしまうのである。だから休みながらも、すこしずつ体を動かして、筋力を維持していく必要がある。最初から体調を崩さないのが一番いいわけだが、それもむずかしいのである。

 四月から五月にかけて、体調不良でいろいろ迷惑をかけてしまった。健康こそが礼儀作法の基本というのは山口瞳の教えなのだが、そのとおりだなと……。

2023/05/05

連休中

 五月の連休、二種類の仕事を抱え、頭の切り替えに四苦八苦する。四月は体調不良(+アレルギー性の結膜炎も併発)でほとんど酒を飲んでいなかったのだが、月末にペリカン時代が十三周年ということで『ペリカン 弓田弓子詩集』(山脈叢書、一九七九年)を渡そうとおもい、飲みに行く。三杯。

 仕事の合間、『電車のなかで本を読む』(青春出版社)を読んでいたら、山本善行撰『上林曉 傑作小説集 孤独先生』(夏葉社)が届く。ちょうどアンソロジー作りの追い込み作業中だったので刺激を受ける。

 遅ればせながら『SFマガジン』(六月号)を買う。特集「藤子・F・不二雄のSF短編」——連休明けに読みたい。

 今はすっかり元気になって健康のありがたみを噛みしめているところだ。不調の底の時期は本もなかなか読めなかった。
 晴れの日一万歩、雨の日五千歩以上の散歩の日課は、天気に関係なく一日五千歩以上を目標にすることにした。でも平均すると一日七、八千歩は歩いている。そのくらいが自分には合っているのだろう。
 とにかく続けることが大事なのだ。続けるためには無理はできない。

 近年は夢とか希望とか、そういうことをあまり考えなくなった。それより日々温柔でありたい、平穏に過ごしたいという気持が強い。そうあれたら、それ以上望むことはない。

2023/04/29

進んだり戻ったり

 歯科通いも後二回。体調もやや上向きになり、日課の散歩を再開した。仕事が滞ってしまったが、今は心身のメンテナンスを最優先しようとおもっている。
 古書ワルツで『没後50年 岡本一平展 現代マンガのパイオニア』(朝日新聞社、一九九七年)、『丹羽文雄と「文学者」』(東京近代文学博物館、一九九九年)など。岡本一平展のパンフは百頁もある。東海道五十三次漫画旅行(大正十年)のスナップも収録している(岡本一平は東海道が好きだった)。
 丹羽文雄は郷里(三重県)の作家なのだが、あまり読んでいない。本を読むにはタイミングとか波長とかいろいろあって、丹羽文雄はなかなかきっかけがないまま今に至っている。
 荻窪から歩いて帰ってきて、そのあと商店街を歩いていたら、中野の古書案内処さんと会う。「こんにちは」と挨拶されたが、逆光で顔が見えなくて別の誰かに声をかけたのかとおもって、つい後ろをふりかえってしまう。今週は金曜日から西部古書会館で古書展が開催中だった。夕方行った。

 ちょくちょく東アジアのニュースを追いかけている。すこし前に「新中式」という言葉を知った。建築やファッションなど、中国の伝統を取り入れた様式である(日本の「和モダン」みたいなものか)。近年、漢服もブームになっているようだ。
 技術の進歩は早いし、新しい価値観みたいなものも次々と更新されていく。いっぽう温故知新ではないが、古いものや昔のものを見直す動きもある。

 近未来の世界を舞台にした漫画を読んでいると、斬新かつ機能性を追求したデザインの家や服装が描かれることがある。未来の世界にも伝統の要素がけっこう残っているのではないかなと……。そんなことを散歩中に考えた。

 文化というものは、進んだり戻ったりしながら、移り変わっていく。文学もそういうところがあるようにおもう。

2023/04/22

病み上がりの思索

 体調が悪化し、一週間くらい古本屋にも喫茶店にも行かず、寝たきり生活を送っていた。寝てばかりいたので、変な夢をたくさん見た。

 昨日すこし外出したら、半袖の人だらけ。わたしは長袖+ジャケットを着ていた。都内、日中の最高気温は二十七度だった(群馬は三十度以上のところもあったようだ)。

 中年太りという言葉があるが、年をとると体重が減るのも早い。数日寝込むと三、四キロ痩せる。体調は回復しても、気力や体力が戻るまでに四、五日かかる。

 一日二食か三食、肉と野菜のバランスのとれた食事をとり、ゆっくり寝る。好きな本を読む、好きな音楽を聴く。そういう時間を過ごせればよしとしたい。

 本を読んでいて、自分と似た考え方の人を知る。すると、自分はまちがってなかったと嬉しくなるのだが、自分もその人もおかしい可能性はけっこうある。

 体調不良は体のしんどさでなんとなくわかるが、思考の変調の自覚はむずかしい。基本はおかしいとおもいながら、生きていくほうがよいのかもしれない。

2023/04/14

九二年の雑誌

 仕事の時間、休む時間のバランスが崩れ、一週間のサイクルがぐだぐだになる。プロ野球が開幕したことも関係しているかもしれない。大規模黄砂のニュースを見る。水曜の夜、長時間散歩したら、翌日、目がしばしばした(いまだに違和感あり)。

 先週、西部古書会館の大均一祭があった(初日二百円、二日目百円)。三日目は欠席した。

 先日、ユーチューブ「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」(何回かに分けて放映)で岡崎さんといっしょに高円寺を歩いた。最初に向かったのは西部古書会館。今さらながら「ZQ」(あづま通りにあった古本屋兼中古CD屋)は「ジーキュー」と読むことを知る。ずっと「ゼットキュー」だとおもっていた。深夜も営業していてよく行った(何回か本も売っている)。

 大均一祭では『太宰治8号 特集 井伏鱒二』(一九九二年)、『最新日本語読本 新潮四月臨時増刊』(一九九二年)など。積ん読本がたまる。『太宰治8号』の「中谷孝雄氏に聞く」(牧野立雄)で「日本浪漫派」創刊前後の話が詳しく語られている。
「日本浪漫派」は一九三五(昭和十)年三月創刊。
 中谷孝雄は太宰治を「日本浪漫派」に誘う。太宰は「『日本浪漫派』は嫌だ。寒気がするほど嫌だ」とごねる。太宰、まだ学生である。その後、三号から参加する。そのとき書いた作品が「道化の華」だった。

 中谷孝雄は三重生まれで「日本浪漫派」創刊時、高円寺に住んでいた。一九〇一(明治三十四)年十月生まれ。亡くなったのは九五年九月。長生きだ。

『最新日本語読本』を読んでいたら、カラーでSHARPのワープロの「書院(WD-551)」の広告があった。標準価格二十二万円(税別)。そのころ、わたしは東芝のルポという機種のワープロをつかっていた。たぶん十万円前後だった気がするが、記憶があやふやになっている。

 同誌に中野不二男の「日本ワープロ解体新書」も収録。九〇年代、ワープロで是か非かの議論があった。中野氏はワープロ派——一九九二年当時で十年目と書いているので、かなり初期からのユーザーだ。

《ワープロは、しょせんは筆記具である》

 当時、ワープロで書いた文章はダメだみたいな意見を何度か読んだ記憶がある。今のAIに関する議論の行方はどうなるのか。

2023/04/09

竹内浩三の下宿

 昨日、荻窪の「本で旅するVia」で岡崎武志さんとPippoさんのトークショーを見る。終わりごろ、竹内浩三の東京での下宿の話になり、Pippoさんは「江古田」といっていたのだが、わたしは「高円寺」ではないかと……。でも打ち上げ中、自信をなくす。勘違いかもしれない。

『定本 竹内浩三全集 戦死やあはれ』(藤原書店、二〇一二年)所収の「天気のよい風船」(冬休み日記 別題——タケウチコウゾーについて)に「ボクが浪人中の一九三九年七月に上京するときに、トシちゃんがハルキにボクの下宿の世話をたのみ、かつまた、ボクのカントクをたのんだ」とある。トシちゃんは浩三の兄、ハルキは兄の親友で中学の二年先輩。

 そのころハルキは高円寺に住んでいた。浩三は「それで下宿もハルキの下宿のすぐちかくにきめ、めしは同じうちにたべに行くことになった」と書いている。

《ここでボクのコーエンジ生活がはじまるわけである》

 その後、ハルキはコーエンジからセンゾク池に引っ越す。(おそらく一九四〇年の秋ごろの)コーエンジ生活は「不健康であった」と回想——。

《現在はなかなか健康である。めでたいと思う。エコダへ移ったのがよかったのである》

「天気のよい風船」は創作の部分もありそうなので下宿先の証拠としては弱い。ただし一九四〇年ごろの姉や兄への手紙に「通学」のための交通費が月六円かかると書いている。下宿先が江古田なら大学まで徒歩で通える。

「高円寺風景」には板橋のY君と池袋で食事して「省線で高円寺に帰る」という記述あり。

『伊勢人』(特集「竹内浩三が見たNIPPON」二〇〇七年八・九月号)は、浪人中から大学時代に送った姉宛の「手紙の住所をもとに、浩三が下宿していた高円寺界隈を歩くと、現住所の高円寺北、庚申通り商店街や純情商店街の一帯で、昔ながらの雑貨店や金物屋などが点在していた」と記す。

 全集所収「わが青春の竹内浩三」(中井利亮/中学時代からの浩三の友人)に「江古田の日大芸術学部近くの下宿は十畳の広さだが、足の踏み場もなく、夥しい書物が取り散らかり、垢じみたシーツの万年布団はポッカリと大きな煙草穴をあけていた」とある。

 おそらく浪人中と大学入学してしばらくは高円寺に住み、そのあと江古田界隈に引っ越したというのがわたしの推測である。

2023/04/05

新井宿の店

 火曜日、中央線で東京駅まで出て、京浜東北・根岸線快速でJR大森駅へ。かつて大森界隈には馬込文士村があった。
 駅前の八景天祖神社に寄ってからカフェ「昔日の客」に行く。「昔日の客」は古本屋の山王書房店主・関口良雄さんの息子の関口直人さんの店。
 関口直人さんはいつお会いしても明るい。
 尾崎一雄の四十周忌ということで貴重な署名本、写真、直筆原稿などを展示していた。
 尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)の全集未収録作「狸の説」は関口直人さんに教えてもらった。

《東京大田区の、旧式呼称で新井宿に住む古本屋の関本良三が、大崎五郎未亡人から、今戸焼の狸を貰ったというハガキをよこした》

 尾崎一雄は尾崎士郎と共に作っていた『風報』という雑誌が縁で関本良三と知り合う。関本良三は関口良雄、大崎五郎は尾崎士郎がモデルだ。「狸の説」には関本が『古書通信』に発表した「正宗白鳥訪問記」を気にいり、許可を得て『風報』に転載した経緯が記されている。
 ちなみに関口良雄著『昔日の客』所収「正宗白鳥先生訪問記」は『風報』(一九五九年十二月)が初出となっている。

 私小説や昔の古本屋の話をしているうちに一時間以上経っていた。知らない人名がいろいろ出てきた。
 岡田睦が山王書房や尾崎一雄のことを書いた随筆も見せてもらう。

 帰りは臼田坂を通り、都営地下鉄の馬込駅まで歩く。大森界隈は古東海道(鎌倉街道)が通っていた。

2023/03/31

桝渡式

 三月三十一日、尾崎一雄の命日(冬眠忌)。一九八三年三月に亡くなって四十年。「昔日の客」の関口直人さんから電話あり。
 この日、高円寺駅ガード下の「高円寺マシタ」がオープンしたので、散歩のついでに見に行く。そのあと桃園川遊歩道、馬橋稲荷神社、馬橋公園で桜を見て、昼すぎ西部古書会館(初日は木曜だった)。横山高治著『伊勢平氏の系譜 伝説とロマン』(創元社)を買う。刊行年は一九八五年三月——壇ノ浦の戦いの八百年後に出た本である。
 著者は一九三二年三重県津市の生まれ。元読売新聞の社会部記者だった(刊行時のプロフィールは大阪本社編集局連絡部次長)。三重県関係の史書をたくさん書いている。

『伊勢平氏の系譜』の目次に「南島町の八ガ竃」という項がある。

《この八ガ竃伝説は「平家の落人部落」の由来を伝える伝説もさることながら古式床しい民俗行事の「桝渡式」で有名である》

《桝渡式というのは、塩を焼いて暮らしていた時代に用いていた古い桝と古文書三十通からなる八ヵ竃の「宝物」を受け渡しする行事だが、この古文書は南北町時代から紀州藩領だった江戸時代のものまでという貴重な文書。この中にいわゆる平家の系図一点が含まれているのである》

 平維盛の庶子、行弘とその一党は平家一門が壇ノ浦で滅亡後、この地に入った——というのが「八ガ竃伝説」である。
 横山氏は「伝説の確証はきわめる由もない」としている。書き方が慎重で、勉強になる。

 わたしも各地の伝承、伝説の類は半信半疑というスタンスである。歴史上の人物の経歴も時代によって変わることがある。古い系図の類もあやしいものが多い。でもちょっと信じたほうが、想像が広がって面白い。

 平維盛そのものがいつどこで亡くなったか、数々の説があるのだ(有名なのは和歌山の那智の滝で入水した)。「平維盛の庶子、行弘」が実在したかどうかは定かではないが、南島町に塩を作る方法を伝えた人物はいる。壇ノ浦から南島町の間には塩の名産地がたくさんある。昔は土地ごとに塩の作り方がちがったから、その製法を調べたら、南島町に流れついた一族がどのあたりから来たのか、あるていど絞りこめるかもしれない。

2023/03/29

南島町と日野町

 月曜夕方、荻窪散策、行きは電車で帰りは歩いた。荻窪〜阿佐ヶ谷間の大陸飯店にはじめて行く(何度か店の前を通って気になっていた)。醤油ラーメン、五百五十円。

 桑野淳一著『熊野灘もうひとつの古道 南島町 浦竃の謎を追う旅』(彩流社、二〇〇九年)を読む。三重県の南島町(現・南伊勢町)は、わたしの母方の郷里(浜島町/現・志摩市)も近い。どちらも海岸線が入り組んでいて、陸の移動はけっこう大変なところだ。

 南島町は「竃」の字が付く集落が多い。このあたり「平家街道」と呼ばれる山道があるらしい。
 平家の落人が生計のため、塩を作った。塩を焼くための竃が地名の由来といわれている。
 昔は海上交通が盛んで、陸路では行きにくい地域でも人の行き来がけっこうあった。地図を見ているだけではなかなかそういうことに気づかない。

 この本、南島町のことから、和歌山、滋賀と話が広がる。
 たとえば、近江商人と伊勢商人のつながりについても紙数を割いている。
 一五八八(天正十六)年、松坂城に蒲生氏郷が入城した。

《彼は近江商人、とりわけ日野からの商人をもろとも連れてこの地に移り住んだため、今日でも松阪駅の近くに日野町という地名を見ることができる。近江の日野町から移り住んだ人々が形成した町である》

 近江の日野から松阪に移った商人たちが松坂商人(伊勢商人)になった。

 滋賀県の日野町(蒲生郡)は東海道の水口宿に近い。中山道の愛知川の少し先の五箇荘(小幡)から御代参街道(近江商人街道)という道があり、日野町を通り、東海道の土山宿に至る。御代参街道は中山道と東海道を結ぶ脇街道で、土山宿の先に鈴鹿峠があり、そこを越えると三重県である。

 歯科通い(まだしばらくかかりそう)が一段落したら、日野町(滋賀・三重)を歩いてみたい。

2023/03/26

社会恐怖症

 土曜午後一時すぎ、西部古書会館。筒井作蔵著『五日市街道を歩く』(街と暮らし社、二〇〇六年)など。同社の江戸・東京文庫シリーズが好きで少しずつ集めている。筒井作蔵は『青梅街道を歩く』も書いている。街と暮らし社、二〇一三年五月以降、新刊が出ていない。

 そのあと小雨の中、野方に散歩、肉のハナマサで米(五キロ)を買ってしまったので環七に出て野方消防署のバス停からバスで帰る。いつも買っている米だが、高円寺のスーパーより三百円くらい安かった。バス代は二百十円。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』(vol.13)に「社会恐怖症」というエッセイを書いた。四頁。
 最初にタイトルが浮んで、あとは行き当たりばったりに書こうと決めた。たまたま近所の飲み屋で流れていた曲の話も書いた。佐々木伶さんの「人間が怖い」という曲なのだが、文中ではややぼかしている。というか、執筆中は店で聞いたばかりで誰の歌なのかよくわかっていなかったのだ。すこし前のライブの映像を見たら、自分の記憶と歌詞がちょっとちがっていた。

 夜まで一冊の雑誌をじっくり読む。

2023/03/22

終わりよければ

 WBC準決勝メキシコ戦、朝から視聴。攻めの時間、守りの時間、一球一球痺れた。村上宗隆選手のサヨナラ打——テレビの前で声を上げてしまった。いい試合だった。

 近所の飲み屋で予選を観ていたとき、村上選手がずっと不調で燕党のわたしはちょっと居心地がよくなかったのだが、「栗山英樹監督も元ヤクルトだから」と……。

 決勝のアメリカ戦、両チームの投手リレーも見ごたえがあった。ここまで日本代表は僅差リードの展開がほとんどなかった。若手の投手たち、世界の舞台でも平常運転なのがすごい。中村悠平捕手、素晴らしい。ヤクルトの背番号「27」の重みが増した。

 WBC優勝を見て神保町へ。桜も満開に近い。一週間ぶりに電車に乗ったら、JRと東京メトロの運賃が値上がりしていた(三月十八日から)。JRの初乗り運賃は百五十円になった。

 ウェブの「高円寺経済新聞」に「旧高円寺ストリート2番街、『高円寺マシタ』に刷新 7飲食店オープンで」(三月十七日付)という記事があった。高円寺駅の西方面のガード下「高円寺ストリート2番街」はケンタッキーフライドチキンや洋品店、地下にラーメン店街などがあった。二〇二一年十月末に閉館し、ずっと工事中だった。
 営業再開は三月三十一日からでケンタッキーフライドチキンの高円寺店も再オープンするそうだ。

「高円寺ストリート2番街」は中古レコード屋のRARE(レア)があったエリアだ。RAREの閉店は二〇一九年四月末——かれこれ四年になる。
 わたしが上京した一九八九年、九〇年ごろは高円寺のガード下には都丸書店分店、小雅房、球陽書房分店の三軒の古本屋があった。毎日のように通っていた。ガード下の古本屋がなくなったのは寂しい。

2023/03/20

昭和十年代 その三

『文学・昭和十年代を聞く』の阿部知二の社会分析(自己分析も含む)をもうすこし紹介したい。

《さらに憶説に過ぎないのですが、明治以来の文学をみても田舎から出て来た人が、たとえば写実主義とか自然主義とか西洋の主義を受け容れたと思います。藤村や花袋や独歩にしてもそうです。都会人は自己の文化伝統があるから、それ以上受け容れる余地がない。田舎から出て来た人は伝統的文化に恵まれないから、かえって素朴に抵抗なく西洋近代を受け容れたということがあると思います》

 阿部知二は一九〇三年、岡山県勝田郡湯郷村(現・美作市)の生まれで、生後すぐ島根県大社町、九歳のときに姫路市に移り住んだ。その後、旧制高校(名古屋)を経て、東京帝大に入る。
 経歴を見るかぎり、阿部知二自身、「田舎から出てきた人」である。いっぽう父が中学の教師で「田舎ではいくらか本を読んだりする階層」だったとも語っている。

『冬の宿』でも卒業間近の大学生が、合理性を気にせず生きる人々に戸惑い、翻弄される場面がたびたび描かれる。
 阿部知二は『文学・昭和十年代を聞く』のインタビューでこんなことを語る。

《ぼくは今だって年は寄りながら叙情的なものへの傾斜をなかなか脱却しきれない。(中略)その一方で、いよいよ強く主知的なものの必要というのが考えられる。それはぼくの身にとっては不幸な精神分裂です》

 旧制高校から帝大に進んだエリートであり、「文化的リベラリズム」を身につけた阿部知二だが、世の中の多くの人は「主知的なもの」では動かない。しかも阿部知二自身、「叙情的なもの」にも愛着がある。

 知と情の調和を目指すのか、あくまでも知を貫くのか、情に流されるのか。ひとりの人間の中にもそうした揺れがある。

(……続く)

2023/03/18

昭和十年代 その二

『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房)の「新興芸術派の周辺 阿部知二氏」は、一九七〇年三月十六日の日付がついている。五十三年前のインタビューである。
 阿部知二は一九〇三年六月生まれ。一九七三年四月、六十九歳で亡くなった。今年生誕百二十年、没後五十年になる。
 数社の日本文学全集にも入っている著名な作家で、『白鯨』『宝島』『ホームズ』などの翻訳者としても有名だが、わたしは素通りしてきた。一年ちょっと前に『冬の宿』(P+D BOOKS)を読み、こんなにすごい作品を書く人だったのかと……。一九三六(昭和十一)年の作品だが、人物描写の冷徹さが容赦ない。主人公の下宿先の大家さん一家の生態(妻に暴力をふるいまくり、とにかく金にだらしない)が微細に描かれている。

 それはさておき、阿部知二は昭和十年代についてこんなふうに語っている。

《昭和十年代の前半期にはこの日本でも資本主義というものがかなりな程度成熟していたということがあったのではないでしょうか。もちろん、その資本主義は根本的には矛盾をもっていた弱いもので、性格的にはミリタリズムと絶対君主制がくっついた黒い危険なもので、もちろんそれが本質的な部分であったとすべきでしょう。(中略)しかし、同時に、そこに資本主義的リベラリズムも混じりあっていたのです》

 資本主義の成熟によって教育水準も上がり、文学、思想の読者も増えた。その結果、「文化的リベラリズム」も育った。
 阿部知二も青年期にそうしたモダニズム文学の洗礼をうけ、その思潮に身を置くようになった。

 小林秀雄の誘いで阿部は『文学界』に参加する。

《ぼくは——あるいはぼくたちは、『文学界』の座談会か何かで、昭和十四年か五年ぐらいでも、日本における家族主義といいますか、この島国の中で、よくいえば調和、わるくいえばなれ合いのようなものがある、と話し合ったような記憶もありますが、それは戦争が終るまで「ムード」としてつづいたと思います》

(……続く)

2023/03/17

昭和十年代 その一

 文学的立場編『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房、一九七六年)は、阿部知二、井伏鱒二、金子光晴、中野重治、舟橋聖一、中島健三、石川淳、久野収の名が並ぶ。

《昭和十年代という時代は、だれにとっても、むつかしい、つらい時代だったが、文学者にとっても、それを切りぬけるということの特別に困難な時代だった》(まえがき)

 この本を読むのは二度目だが、内容はほとんど忘れていた。
 阿部知二は一九五〇年ごろ、ペンクラブでイギリスに行ったとき、ジョン・モリス(ウィリアム・モリスの孫)が制作にかかわったラジオドラマの話を聞く。
 アメリカで捕虜になった日本人の兵隊が民主主義者になって帰国する。父は戦前戦中と変わらぬ超国家主義者のままで、親子の対立が起き……。そんな筋書だったらしい。
 阿部知二はその話を聞いた帰り道に「どうもおかしい」とおもう。西洋人と日本人はちがうし、インテリと庶民もちがう。

《日本の場合は、「お父さん、帰りました」と言ったら「イヨーッ、帰ったか。一杯呑め」。つまり、そこでは思想の問題で、おれは絶対天皇崇拝の国家主義だ、ぼくは民主主義だといって喧嘩しません》

 多くの日本人は、人と人との衝突を避ける温和な雰囲気、生活知みたいなものを大切にする。自らの思想を表明せず、何事もうやむやにしがちである。

《ぼくは現在もそういう精神風土が日本において、よかれ悪しかれ残っていて、思想の問題をあいまいにしていると思います》

 阿部知二は、そうした「矛盾した渾沌とした人間の情動」について考えることが文学の重要な役割とし、「文学における知性」の問題を追究していた。

 何が正しくて何が間違っているのか。人間の情はそうした思考には収まらないところがある。わたしも「一杯呑め」の側に親近感をおぼえ、思想信条で敵味方を分ける世界になじめないまま今に至っている。

(……続く)

2023/03/13

西鷺宮駅

 土曜、西部古書会館(初日は金曜)。朝日新聞社編『人さまざま』(朝日文化手帖、一九五三年)など。『人さまざま』は文壇や画壇で活躍する著名人(百二十名)の寸評、エピソード集——古木鐵太郎著『折舟』(校倉書房)に寄稿していた浜本浩も収録されていた。
 浜本は高知の人(生まれは愛媛)で「『改造』の記者を辞めてから、大衆小説を書き出した」とある。

『折舟』所収、浜本浩の「微笑の人」に次のような記述あり。

《「改造」創刊以来、作家係として働いた編集部員は少くない。が、今もなほ、往年の大家連から、好意を以て記憶されている者は、三人か四人しかゐない。古木鉄太郎君はその一人であつた》

『古木鐵太郎全集』の追悼文を読むと、古木の人柄を「温厚」「素直」と評した文言が並ぶ。編集者としては得難い資質だったかもしれないが、作家としては不遇だった。しかし人の縁には恵まれた人生だったのではないか。

『折舟』所収作だと、わたしは「月光」が好みの作品だった(全集では題名が「月の光」になっている)。

《鷺宮に越してから今日は四度目の十五夜である》

 古木が野方から鷺宮に引っ越したのは一九三八年四月——。
 鷺宮の八幡神社の祭、家族の話などが続く。子どもたちは野方の国民学校に電車で通っている。買物も野方に行っていたようだ。
 散歩中、古木はこんな思索をする。

《……自分は自分の貧しい生活を想ふと、どうにかしなければならないと思つた。いゝ小説を書きたいと思ふが、それがなかなか出来ないのだ。そして自分は自分の現在の仕事のことや、将来の生活のことなどをいろいろ考へながら帰つて来た》

 わたしも散歩中にこういうことをよく考える。どうにかしなければ。

 今回「月光」を読んでいて次の一文が気になった。

《線路の所まで来て、そこから線路に沿つて畠の傍を歩いて行くと、すぐ向うに、ついこの前出来た新しい駅が見える》

 新しい駅は何駅か。作中「自分は踏切の所から西鷺宮の駅の方へ向つて」という文章がある。ネットで検索。西鷺宮(西鷺ノ宮)駅はかつての西武新宿線の駅で一九四二年九月五日開業(一九四四年八月二十日閉鎖、一九五三年廃止)した駅のようだ。鷺ノ宮駅と下井草駅の間にあった。

「月光」のころは駅ができたばかり。「四五日前の夜、そこでその落成祝の余興」があった。バラックの舞台があり、「素人の万才や浪花節や落語」が演じられた。西鷺宮駅のことを調べてなければ、この作品が一九四二年の秋の話と気づけなかった。

 古木の家(当時は借家)には畑があり、さつまいも、里芋、れいし、韮などを作っている。それを世田谷に住む病気で療養中の兄におすそわけする。野菜をあげたり、もらったり。古木は日常の些事をよく記した。
 兄の家に行き、故郷(鹿児島薩摩郡さつま町)の話をする。

《「君はまだ家屋敷と、地所も少しあるから、郷里に帰つても何とか暮せるよ。僕はもう何も無いから、何処か、U(少し離れた温泉場)の辺りに家をこしらへて、そこで百姓をしたり釣をしたりして暮したいと思ふよ」と云ふので、そんなら自分は郷里へ帰れば何とか暮して行けるのか知らと思つて、そのことが一寸不思議な気もした》

 戦時中の話だが、わたしも近所の友人と似たような話をよくする。温泉、釣り、畑か。「U」はどこだかわからないが、地図を見ながら、さつま町の川の近くのこのあたりかなと予想する。

2023/03/07

折舟

 先月から歯科通い。今回初診のさい、過去のレントゲン写真が手前のディスプレイに映し出され、その日付が二〇〇八年、一一年、一五年、一九年とだいたい四年間隔で自分が歯の治療をしていることがわかった。開業した年からずっと同じ歯科である。
 やはり先送り癖はよくない。目に見えるくらい悪化してから行って、いつも後悔する。

 麻酔が効いたまま、荻窪へ。岩森書店で古木鐵太郎著『折舟』(校倉書房、一九六六年)を買う。『折舟』は古木鐵太郎の十三回忌に刊行された本で古木の作品だけでなく、尾崎一雄、小田嶽夫、上林曉、木山捷平、外村繁、中谷孝雄、浜本浩の追悼文も収録。あとがきは浅見淵。函や表紙の題簽(だいせん)は尾崎一雄が書いている。

 古木鐵太郎は改造社の編集者で上林曉と同僚だったこともある。
 木山捷平の回想に高円寺(旧地名・馬橋)の話あり(かつて古木も高円寺に住んでいた)。

《私は昭和七年から十一年にかけて馬橋にゐた。
 そのころ同人雑誌はちがつてゐたが、古木さんはその馬橋のうちによく立ち寄つてくれた。(中略)古木さんは他にちよつと類がないほど散歩ずきな人だつた》

 戦前の文士はみなよく歩いた。その中でも「類がないほど散歩ずき」といわれるのは、よっぽどのことである。

 小田嶽夫の追悼文には——。

《文学青年と言ふと、何か狷介な、若しくは無頼な感じのものの多いなかにあつて、古木君は若いときから改造社に何年かゐたせいもあつてか、そんなクセのまつたく無い非常に温和な人柄であつた。大人であつた。葛西善蔵の「湖畔手記」を取つたのが彼ださうであり、彼は聞かれるままにわれわれに葛西善蔵をはじめ、いろいろ有名作家の印象を語つてくれ、それがわれわれに大きな刺戟になつたものだ》

『折舟』所収の「山の花」は、葛西善蔵のことを書いた随筆のような小説である。葛西が滞在していた日光湯本の板屋旅館に行き、同じ宿に泊る。

《自分はあんなに度々催促に其所まで行くつもりはなかつたのだが、葛西さんの小説がなかなか出来上がらないので、仕方なく何度も行くことになつたのだつた》

 葛西善蔵と古木鐵太郎は二人でよく湯ノ湖の路を散歩した。朝夕の食事もいっしょだった。

《酒を飲んで生活が乱れてゐるやうに世間では思はれることもあつたが、自分は決してそんな感じのものではなかつたと思ふ。自分はよく葛西さんの仕事をされる様子を傍で見てゐたが、それは実に真剣な感じのものだつた》

 たぶん編集者が横にいれば、作家はそうする。

2023/03/03

趣味の会

 戦前の中央線界隈の文士の趣味について調べているうちに、高円寺に暮らしていた龍膽寺雄がシャボテン(サボテン)にのめりこんだのはいつごろか知りたくなった。龍膽寺雄が高円寺から神奈川県高座郡大和村下鶴間(現・大和市中央林間)に転居したのは一九三五(昭和十)年十一月。彼が中央林間に引っ越したのは、シャボテンを栽培するための広大な敷地が必要だったというのも理由の一つである。つまり、それ以前からシャボテンの栽培はしていた。

 ちなみに「阿佐ヶ谷会」がはじめて開かれたのは一九三六(昭和十一)年といわれている(諸説あり)。

 一九二五(大正十四)年に中村星湖の「山人会」、一九三四(昭和九)年に中西悟堂の「日本野鳥の会」、そして一九三六(昭和十一)年に「阿佐ヶ谷会」と時期はバラバラだけど、趣味の集まりが誕生した。さらにいうと、星湖、悟堂、井伏鱒二のいずれも旧・井荻町(豊多摩郡)に住んでいたのも面白い。

「阿佐ヶ谷会」の初開催は一九三六年(昭和十一)四月——というのは木山捷平の年譜の記録なのだが、この年、二・二六事件が起きている。

 井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)の目次を見ると「阿佐ヶ谷将棋会」「続・阿佐ヶ谷将棋会」のすぐ後に「二・二六事件の頃」という見出しが並んでいる。「二・二六事件の頃」も「阿佐ヶ谷将棋会」の話からはじまる。

《阿佐ヶ谷将棋会の連中は、ABCDEF……お互に世間的には丙と丁の間ぐらいの暮しをしていたが、お互に意地わるをする者もなく割合に仲よく附合っていた》

 そんな話から「左翼文学が華々しく見えていたが、軍部が頻りに政治に口出しするようになる時勢であった」と井伏鱒二は回想する。

《二・二六事件があって以来、私は兵隊が怖くなった。おそらく一般の人もそうであったに違いない》

『荻窪風土記』所収の「阿佐ヶ谷の釣具屋」の冒頭に「戦前、釣の流行で東京に釣師の数が殖えるようになったのは、昭和八、九年頃であったと思う」という記述もある。そのころ、中央線のどの駅にも釣具屋があったらしい。

「阿佐ヶ谷の釣具屋」では一九三三(昭和八)年「大塚金之助検挙。河上肇検挙」「小林多喜二、築地署に検挙、虐殺される……(後略)」と岩波書店の「日本史年表」を引用している。

 小林多喜二は、その後「阿佐ヶ谷会」のたまり場となるピノチオにも出入りしていた。

《多喜二が亡くなったという速報が伝わった日に、私は外村繁や青柳瑞穂とピノチオに集ったが、刑事がお客に化けて入って来ているのがわかったので、私たちはこそこそ帰って来た》

「阿佐ヶ谷会」が誕生した時期に「諸説あり」と付けたのは、以前から井伏鱒二や青柳瑞穂はピノチオにしょっちゅう集まっていたからである。

 わたしは「山人会」「日本野鳥の会」「阿佐ヶ谷会」も一癖も二癖もある文士や学者が集まって、戦前の中央線界隈は楽しそうだなとおもっていた。昭和十年前後は「文芸復興時代」と呼ばれ、華やかな印象を抱いていたのだが、その背景には軍部の圧迫があり、さらに不況も重なり、そんなに単純な話ではないなと……。

2023/02/28

野鳥と山

 わたしが買っている古本の九割は日常生活の役に立つ本ではない。それを知ってどうする(どうにもならない)みたいな本ばかり読んでいる。
 では、なぜ読むのかといえば、昨日まで知らなかった、興味のなかった人や出来事でも知れば知るほど面白くなるからだ。

「日本野鳥の会」の中西悟堂と「山人会」の中村星湖はたまたま同じ町(井荻町)に住んでいて交流があり、共通の知り合いがたくさんいた。

 星湖が「山人会」を創設したのは一九二五(大正十四)年、悟堂が「日本の野鳥の会」を作ったのは一九三四(昭和九)年——この二つの会は現在も活動が続いている。

 一九二三(大正十二)年九月の関東大震災以降、文化・思想にたいする弾圧が苛烈になり、“冬の時代”と呼ばれる歴史があり、同じころ、中央線界隈では“趣味”の活動が盛んになる。
 井伏鱒二をはじめとする「阿佐ヶ谷将棋会」もそうかもしれない。阿佐ヶ谷会は酒が目当の参加者もけっこういた。中村星湖、井伏鱒二は釣りも好きだった。

 昭和初期の文士たちが趣味を楽しんだ背景には各種検閲の煩わしさもあったのではないか。それとも時代と関係なく、ただ楽しく遊んでいただけなのか。

 弾圧を受けた、反抗した——といった歴史だけではなく、わたしは遊んだり、怠けたりして厳しい時代をやりすごした人たちの歴史もあるとおもっていて、そのあたりのことが知りたく古本を読んでいるところもある。

2023/02/26

中村星湖

 土曜日午後、西部古書会館。『中村星湖展』(山梨県立文学館、一九九四年)など、文学展パンフレットを数冊買う。
 中村星湖(一八八四〜七四)は山梨の南都留郡河口村(現・富士河口湖町)生まれ。一九一五年、神奈川県鶴見に移り住み、「釣りに熱中し始める」。その後『釣ざんまい』(健文社、一九三五年)を刊行(同書は復刻版もある)。
 一九二四年、豊多摩郡井荻村に転居。二六年、井荻村→井荻町に。年譜は「豊多摩郡上井草(現杉並区井荻町)」となっているが、現在「井荻町」および「井荻」の地名はない。
 元々「井荻村」は「上井草・下井草・上荻窪・下荻窪」の四つの村が合併してできた村である。「井草」+「荻窪」で「井荻」という地名になったようだ(『杉並の地名』杉並区教育委員会、一九七八年)。旧地名ややこしい。
『中村星湖展』のパンフに山梨日日新聞の「西荻窪より 小説選評」の記事あり。

 一九四五年五月、山梨の郷里の河口湖町に疎開し、晴耕雨読の日々を送る。六十一歳。
 大正末に「山人会」を発足、戦中は活動を中断していたが、一九五一年に復活第一回の総会を高円寺で開催している。

 あと『別冊るるぶ愛蔵版 街道の旅130選』(交通公社のMOOK、一九八七年)も入手できた。表紙は妻籠宿。一九八〇年代の「交通公社のMOOK」シリーズは街道関係が充実している。『別冊るるぶ愛蔵版 街道と町並の旅』(交通公社のMOOK、一九八二年)もよかった。

『街道の旅130選』に山梨県河口湖町のページあり。河口湖は黒曜石の産地で古代から道が開けていて、鎌倉往還も通っている。
 河口湖の産屋ガ崎の説明にこんな記述があった。

《その産屋ガ崎には、「雲霧の暫時百景を尽くしけり」という松尾芭蕉の有名な句碑が立つ。そして肩を並べるように『少年行』で「溶岩のくずれの富士の裾は、じつに広漠たる眺めである」と記した中村星湖の句碑が、また写真家岡田紅陽、日本画家望月春江の碑がある》

 まさか中村星湖の名前を見ることになるとは……。河口湖町が富士河口湖町になったのは二〇〇三年十一月か(河口湖町・勝山村・足和田村が合併し、発足した)。古本、古雑誌を読んでいると、市町村名の変更に戸惑うことが多い。

2023/02/19

夢と一生

 今月十四日、渡辺京二著『夢と一生』(河合ブックレット)が刊行された。生前最後の語りおろし。
 冒頭の「熊本での子ども時代」でこんな話を語っている。

《熊本では上通というのがいちばんの繁華街で、その上通からちょっと切れ込んだ路地に、上林(かんばやし)という地名があって、ぼくはその上林町で育ったんです。上林暁って小説家がいるでしょう。彼は五高(旧制第五高等学校)生の時、小説を書きだして、そのころちょうど上林町に下宿していたからそれで上林というペンネームにしたわけです》

 五高といえば、上林暁だけでなく、梅崎春生、木下順二も卒業生である。

 渡辺京二は河合ブックレットの版元の河合文化教育研究所の研究員だった。わたしも二十代のころ——九〇年代前半、河合文化教育研究所(「文教研」といっていた)の手伝いをしていたことがある。講演会の受付をしたり、シンポジウムをまとめたり、ちょくちょくそういうアルバイトをした。

 十年以上前の話になるが、その後『些末事研究』を作る福田賢治さんに渡辺京二の本をすすめられた。文教研つながりで名前は知っていたが、本は読んだことはなかった。読んでみたら自分の政治観とちょっと近いかもしれないと……。
 ぐだぐだしているところ、余白や遊びの部分がないと息苦しい社会になる。今の世の中はどんどん窮屈な方向に突き進んでいるのではないか。

『夢と一生』の中で渡辺京二さんは、戦中に軍国少年だったこと、戦後、熱心な共産主義者になったことにたいし、「二度までも同じ間違いをしたんだな」と告白している。

 戦中の渡辺少年はアジアが一つになる理想のコミューンを夢見て、「あの戦争」を「欧米の資本主義からアジアを解放する聖戦」と信じた。しかし敗戦によって日本の帝国主義が誤りだったと知る。戦後、共産主義に傾倒したのも理想のコミューンを求めたからだ。

《軍国主義から共産主義者へ変身した自分は、実は何も変わっていなかったと。生活の根拠なしに、ある理念から別の理念に移っただけだったと》

 では理想の社会を夢見るのは「誤り」なのか。たぶんそう簡単には言い切れない。いつの時代にも一定数の理想主義者がいて、彼らの活動によって社会が改善されてきたところもあるだろう。

 いっぽう(右派とか左派とか関係なく)理想もしくは正義を希求する過程で異端分子を排除しようとする急進勢力が猛威をふるうことがある。人類の歴史を眺めていると、どうやら人の生態には悪人を磔にして石を投げる、火あぶりにすることに歓喜し、熱狂してしまうスイッチみたいなものがあるようなのだ。

 この問題については渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社、二〇一六年)の「二つに割かれる日本人」でも語っている。

《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしてもその邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》 

 こうした「誤り」に陥らないための対処についても『夢と一生』で論じている。この続きはいずれまた。

2023/02/16

中休み

 雪が降ったかとおもえば、最高気温十七度になって、またここのところ寒い日が続いて……しんどい。でもなんとなく春が近づいている気がする。最近、メールの返信がとどこおりなくできるときは調子がいいことがわかった。

 土曜日、西部古書会館。積ん読本が増えていく。書こうとおもっていたことも書かないまま霧散していく。古書会館、完全にコロナ禍前の雰囲気に戻った。初日の午前中に行ったら、いつも入口のところにあるカゴがなくなっていた(※カゴがなくなるくらい盛況だったという意味です)。しばらく散歩して昼すぎにもう一度行く。『波』(新潮社)の臨時増刊号「新潮現代文学読本」(一九七八年八月)など。

『波』の臨時増刊号、丸谷才一「文学全集の話」を読む。ここで筑摩版「現代日本文学全集」にふれている。

《文壇型全集といふことも説明したほうがいいかもしれません。それはつまり、文壇の評価を極度に重んじてゐるといふことですね。その好例としては、正宗白鳥が二巻も占めてゐるといふことがある。谷崎潤一郎が二巻。これなら当り前です。読者の人気もよく、文壇の評価も高まつてゐた。しかし白鳥のものなど、一般読者にとつてどんな意味がありますか》

 この全集は臼井吉見が総指揮の形で作られた。丸谷才一も「臼井さんは狭義の文壇人ではかならずしもなかった」ので「柳田国男に一巻、折口信夫(釈迢空)にも一巻なんて、そんな途方もない文学全集を編むことができたのです」と筑摩の全集を称賛している。

 臼井吉見は旧制中学時代に雑誌で正宗白鳥の短篇を読み、それから文学に傾倒するようになったという話をくりかえし書いている。全集に白鳥が二巻はどうかなという気もしないではないが、臼井吉見にとって、そのくらい白鳥は特別な作家だった。まだ自分の進路が定まっていない、この先どう生きていくかわからない時期に読んだのも大きいだろう。

 日本で新型コロナウイルスの最初の感染者のニュースが流れたのが二〇二〇年一月中旬——三年ちょっと。その日の感染者数を伝える報道も気にならなくなった(ずいぶん前からだけど)。高円寺の夜のにぎわいもコロナ禍前に戻った。

 マスクはコロナ対策というより、防寒対策で今はしている。

 今月末(二月二十八日)で東京メトロの回数券の販売が終了する。わたしは十二枚つづりの時差回数券(二百円区間)を利用していた。神保町に行くとき、時差回数券は東京メトロ東西線の中野駅から九段下駅までのルートでよくつかう。高円寺駅からだとJR中央線で御茶ノ水駅というルートが早いのだが、時差回数券をつかうと片道五十円くらい安い。九段下から神保町の間にも古本屋がけっこうあるので何軒か回れる。
 たかが五十円とはいえ往復すれば百円、均一の文庫一冊分である。そんな小さな節約が本代珈琲代飲み代になる。もっと働けよという意見にたいしてはごもっともと受け止めたい。

2023/02/09

天徳温泉

 晴れの日一万歩雨の日五千歩の日課は、天気関係なく一日五千歩にしていたのだが、三月になったら元に戻そうとおもっている。今も平均すると一日八千歩(室内は計測せず)くらい歩いている。
 歩くこともそうだが、外出時間を増やすのは精神衛生によい。よく眠れる。

 杉並郷土博物館の『中西悟堂生誕120年』のパンフレットを見ていたら、交遊関係のところに石川三四郎、辻潤、新居格の名前があった(他にも詩人、作家の名前は多数あり)。
 一九三四年三月十一日、中西悟堂は「日本の野鳥の会」を創設した。第一回の探鳥会に中村星湖も参加していたことを知る。中村星湖は釣りの本も書いている(未入手)。一八八四年山梨県南都留郡河口村(現・富士河口湖町)生まれ。筆名に「湖」の字を付けたのは河口湖の近くで生まれたからだろうか。

 中西悟堂は古本屋でよく見かけたが、ほとんど野鳥関係の本だったので手にとらなかった。金沢出身ということもこのパンフレットで知った。一八九五年生まれ、亡くなったのは一九八四年。享年八十九。

 悟堂の『野鳥と共に』(巣林書房)は一九三五年刊。パンフレットには徳富猪一郎(蘇峰)が同書を日日新聞(後の毎日新聞)の「日日論壇」で絶讃したことがきっかけでベストセラーになった——と記されている。

 悟道が井荻町に居を移したのは一九三〇年前後、それまでは千歳村烏山(現・世田谷区)にいた。
 井荻に引っ越した理由は天徳温泉(その後、天徳湯に改名。二〇一七年七月廃業)があったから。天徳温泉は東京女子大のすぐ近所にあった。

《烏山の住居には風呂がなく、悟道は、春から夏にかけては、井戸の水をかぶるか、近くの小川で体を洗い、秋から冬にかけては銭湯へ通っていた》

 烏山から西荻の天徳温泉までは約八キロあったが、悟堂はこの銭湯が気にいり、何度となく訪れたらしい。おそらく徒歩で通っていた。

 九十年ちょっと前の話だが、悟堂は三十代半ば——当時、彼は無一物の生活を自らに課していた。烏山の住民が悟堂のような暮らしぶりだったわけではない。

2023/02/05

武蔵野

 このところ、仕事三、掃除七くらいの日々。やはり、本や資料を右から左に動かしているだけでは片づかない。解決策はものを減らすしかない。それがむずかしいわけだが。

 月曜午後三時すぎ三鷹へ。前日飲みすぎて二日酔いになるかと危惧していたが、楽しい酒だったおかげか、おもいのほか体が軽い。酒の席で、途中、何度となく固有名詞がおもいだせない問題が発生した。「志賀直哉の弟子で将棋と釣りが好きな……」といいかけ、瀧井孝作の名前が出てこなかった。

 三鷹のりんてん舎と水中書店、そのあと吉祥寺まで歩いて古書防波堤に行く。
 りんてん舎、きだみのる著『初めに部落ありき』(レインボウブックス、一九六五年)を買う。カバーの装画、本文のカットは秋野卓美。秋野は梅崎春生の小説にしょっちゅう登場する風変わりな画家である。

 水中書店で『中西悟堂生誕120年 野鳥の父、中西悟堂をめぐる人々』(杉並郷土博物館、二〇一五年)。悟堂は井荻町(善福寺池の近く)に暮らしていた。
 他にもなかなか見ることのできない詩集を何冊か手にとる。ふと今年田村隆一生誕百年だったことをおもいだす。一九二三年三月十八日生まれ。関東大震災の年、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一少年百周忌でもある。

 三鷹から吉祥寺までの道は歩いていて楽しい。中町通りはひさしぶり。ずいぶん雰囲気が変わった気がする。

 吉祥寺の防波堤は地図なしで行けるかどうかちょっと不安だったが、無事辿り着けた。横田順彌著『SF事典 異次元世界の扉を開く』(広済堂ブックス、一九七七年)など。「史上最短のSF」は「時間は終わった。昨日で」(ロジャー・ディーリー作)とのこと。

 そのあと吉祥寺の七階建てのユニクロにはじめて入る。長袖ベージュのヒートテックがほしかったのだが、なかった。

2023/01/30

行き詰まった時

 土曜起きたら午後三時半、毎日睡眠時間がズレる。コーヒーを飲んで頭がぼーっとしたまま西部古書会館へ。『季刊銀花』特集「串田孫一の世界」(文化出版局、第百二号、一九九五年)、佐藤正午原作、根岸吉太郎監督の映画『永遠の1/2』(一九八七年)のパンフレットなど。
『銀花』所収、串田孫一「闇に厭きた風」は数行ずつの思索の断片を連ねたエッセイで、もしかしたら単行本に入っているのかもしれないが、調べる気になれない。一九三七年から一九九五年までの著作目録は三百七十六冊、年に平均六、七冊本を出している。

 そのあと西武新宿線方面を散歩する。野方から沼袋に向かって歩いていたつもりが、いつの間にか環七に戻っていた。
 家に帰ると『些末事研究』(vol.8)が届いていた。特集は「行き詰まった時」。わたしは世田谷ピンポンズさん、尾道の古本屋「弐拾dB」の藤井基二さん、福田賢治さんとの座談会に参加した。昨年七月三十日、ふくやま文学館に寄ってから尾道駅で降りたら、福田さんと道で会った。飲み屋で座談会をしたあと、コンビニで酒を買って波止場で語り明かす。この日は「あなごのねどこ」というゲストハウスに泊った。

 翌日、尾道から岡山に向かう途中、写真家の藤井豊さんが駅のホームにいて、そのまま倉敷の蟲文庫に行き、高松の福田さんの家へ。高松は二泊——帰りの飛行機、午前中の便を予約していたのだが、運行中止になって夕方の便に変更し、空港で六時間くらい過ごした。

 この号で執筆しているつかだま書房の塚田さんと飲んだとき、「福田さん、楽しそう」という話になった。塚田さんのエッセイに出てくる「一生幸せでいたければ」の古諺は「釣りをおぼえなさい」というバージョンもある。

2023/01/28

桑名の駅

 押入のレコードを整理していたら、友川かずき(現在はカズキ)『俺の裡で鳴り止まない詩 中原中也作品集』(一九七八年)が出てきた。二十年ぶりくらいに聴く。このアルバムはA面五曲目に「桑名の駅」という曲がある。桑名の夜は暗かつた〜。アレンジはJ・A・シーザー。JR桑名駅のホームに中也の「桑名の駅」の詩碑もある。一九九四年七月、桑名駅開業百周年のときにできた。

 中原中也の詩集の「桑名の駅」には「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪間の不通のため、臨時関西線を運転す」と付記されている。一九三五年の詩。

 わたしは郷里に帰省するときは近鉄を利用することが多い。だから最近までJR桑名駅の中也の詩碑のことを知らなかった(わたしが上京したのは一九八九年春で郷里にいたころはなかった)。

「桑名の駅」のころの中原中也は四谷花園アパートから市ヶ谷谷町に引っ越したばかりだった(ちなみに中也は高円寺に住んでいたこともある)。村上護著『文壇資料 四谷花園アパート』(講談社、一九七八年)に、青山二郎を慕って中原中也が花園アパートに引っ越してきた後の話が詳細に記されている。

《青山二郎が住んで以後は、文士たちの往来も多くなったが、いろんな人物の出入りがあった。いまの作家のように紳士面もしなければ、名士ぶったりしない。彼らは談論風発、朝まででも飲み明かし、大いに青春を謳歌した》

  当時、青山二郎の部屋にはステレオがあり、レコードも二千枚ほど持っていた。中也も青山に刺激され、蓄音機を買い、レコードに凝った。著者の村上護は「彼の音楽に示した関心の深さは、もちろん詩にも反映している」と書いている。 

2023/01/23

歩くだけ

 ついこのあいだ年が明けた気がするのだが、もう一月下旬。何をしていたのかあやふやなまま時が流れていく。カタールのW杯の決勝戦もちょっと前くらいにおもえる。一ヶ月以上前か。

「神奈川近代文学館」の機関誌(第159号/二〇二三年一月十五日発行)に「尾崎一雄没後40年 “天然自然流”に生きる」というエッセイを書いた。文学館の仕事ははじめてかもしれない(文学館に雑誌をコピーしに行くアルバイトはしたことがある)。神奈川近代文学館は一九八四年開設、晩年の尾崎一雄も同文学館の設立に尽力し、亡くなる一年前に名誉館長に就任している。カフェ「昔日の客」の関口直人さんから「読んだよ」と電話があった。尾崎一雄、尾崎士郎の話をいろいろ聞かせてもらった。

 尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)に収録した「歩きたい」(初出『小説公園』一九五四年二月号)は五十四歳のときの作品である。
 大病から回復して、すこしずつ歩けるようになってきた。かつて行った土地を再訪したいと野心を抱くようになる。尾崎一雄の「踏切」(『虫のいろいろ』新潮文庫などに所収)でも再訪したい土地の話を書いている。五十二歳くらい。

《昔通った小学校への道を、再び辿ってみたいという私のひそかな、しかし割に強い願望は、よく考えてみると私のこの頃の傾向の——大げさに言えば象徴なのかもしれない》(「踏切」)

——「小学校への道」は三重県の宇治山田の明倫小学校の通学路である。

 土曜日午後、野方まで散歩した。ここのところ、ひまを見つけては西武新宿線沿線の野方駅〜鷺ノ宮駅あたりを歩いている。通りのあちこちに駅や学校までの距離を記した標識がある。
 野方の北原通り商店街の肉のハナサマ、肉のモモチでいろいろ食材を買う。肉のハマナサ、二十四時間営業だったのか。ハナマサのプロ仕様シリーズの喜多方ラーメン(三玉入り)が好みの味だったのでまた買う。プロ仕様シリーズ——乾物も充実している。
 野方駅の踏切で立ち止まっているとドラえもんのラッピング電車(DORAEMON-GO!)が通り過ぎた。
 高円寺、野方を往復すると八千歩くらい。行きはでんでん橋、帰りは宮下橋を通った。

 野方を歩くようになって耕治人も読み返している。耕治人は野方四丁目に住んでいた。福原麟太郎の家の近所だった。

 本を読むこと、歩くこと——どこかで重なり、つながるとおもっているのだが、どうなるか今はわからない。ただ歩くだけ。歩きながら、何ができて何ができないか、そんなことばかり考えている。

2023/01/17

銭湯デモクラシー

 月曜日、午前中から西部古書会館の大均一祭(三日目一冊五十円)。千百円分買う。この日、『日本現代写真史展 終戦から昭和45年まで』(日本写真家協会、一九七五年)の図録も五十円だった。「人物写真25年」に吉川富三の「尾崎一雄」の写真あり。尾崎一雄は着物姿で頬がげっそり痩せている。髪はまだある。何歳のときの写真か気になる。

 大均一祭、三日間楽しかった。値段を気にせず、本や雑誌を買う。ふだん手にとらないような本も読んでみたら面白い。

 初日、桑原武夫、加藤秀俊編『シンポジウム 20世紀の様式 かたちと心 1930−1975』(講談社、一九七五年)という縦長の大判(二百九十二頁)の本も入手した。アート・ディレクターは辻修平。

 この本に鶴見俊輔「風俗から思想へ」(語り)も収録されている。

《たとえば銭湯デモクラシーということばがあります。戦後にできたことばなんだけれども、「それは銭湯デモクラシーにすぎない」というふうにいうわけですね。これはデモクラシーの初歩というふうにみられる学術用語ですけれども、私はその中にはたかが銭湯デモクラシーという、ひじょうに銭湯を見下げた態度があると思うんですよね。だけど、銭湯に入るときに自然の行儀があるでしょう。湯をよごさないようにとか、熱い湯で人に迷惑をかけないようにとか、知らない人が突如としてそこで殴り合いをしないとか、けんかを避けるようないろんな話題がありますね。そういうルールが江戸時代に発達した。それはひじょうに高いものであって、たかが銭湯デモクラシーにすぎないというふうにはいえないと思う》

 銭湯の世界には上下関係はないし、学歴や職業や地位も関係ない。いわゆる裸のつきあいだ。ただし銭湯にはルールはある。
 湯船に入る前に体を流す。タオルは浴槽に入れない。頭を洗っているときに隣の人になるべくお湯や泡が飛ばないようにする。床はすべるからゆっくり歩く。他にも細かいルールはあるが、基本はまわりの人に気をつかえるかどうかだろう。お湯につかってさっぱりして気持よく銭湯を出て家路につく。そのためにその場にいる人たちが協力し合うのが銭湯デモクラシーなのではないか。

 最初は初心者だから、知らないことがいろいろある。一から懇切丁寧に教えてくれる人がいるとはかぎらない。知らないままだと不都合なことが起こる。だから見よう見まねで暗黙のルールみたいなものを学んでいく。すぐ身につける人もいれば、時間のかかる人もいる。

 わたしは学生時代——一九九二年の夏ごろ、鶴見俊輔さんと知り合った。当時、鶴見さんは七十歳前後だったけど、誰にたいしても態度が変わらない人だった(すくなくともわたしの印象では)。

『シンポジウム 20世紀の様式』はまだまだ紹介した話がある。一九七五年の本だけど、今の時代にも通じる提言の宝庫だ。というわけで、続く。

2023/01/15

ほんとの本

 日曜日夕方、西部古書会館の大均一祭二日目(一冊百円)。十三冊。『月刊ことば』の一九七七年十一月号(創刊号)と七八年二月号など。『月刊ことば』の版元は英潮社、編集人は外山滋比古である。エディトリアルデザインは戸田ツトム。七八年二月号は「文章読本」の特集で山本夏彦が「谷崎文章読本」と題したエッセイを書いている(これが読みたくて買ったといっても過言ではない)。

《本というものは、それを読んだときの年齢と関係があって、弱年のときに読んで感心した本がほんとの本で、それ以後読んだ本はほんとの本でないと、勝手ながら私は区別している》

《本と人の間は縁である。縁で結ばれること人と人の間のごとしと私は思っている。人が本を選ぶことはよく知られているが、本もまた人を選ぶのである》

 山本夏彦は一九一五年六月生まれ。谷崎潤一郎の『文章読本』は一九三四年十一月、萩原朔太郎『氷島』は同年六月の刊行である。当時山本夏彦は十九歳。「この二冊は私にとってそういう時期の本である」と書いている。

 何を「ほんとの本」とするかは意見が分かれるだろうが、十九、二十のころに読んだ本の影響は長く続く。たぶん音楽もそうだろう。

 山本夏彦は谷崎潤一郎の『文章読本』を読み、「耳で聞いてわからない言葉なら使うまい」と決めた。さらに「私は朔太郎以後に詩人はいないと思っている」という。「朔太郎以後」云々の件はそのすこし後で「ずいぶん失礼な言い草で、他の詩人には申訳けないが、目がくらんでほかのものが見えなくなったのだからご勘弁願いたい」と断っている。

 山本夏彦著『完本文語文』(文春文庫)に「萩原朔太郎」というエッセイがある。冒頭で朔太郎の詩集『氷島』の「珈琲店 酔月」を抜粋——。「坂を登らんとして渇きに耐えず」ではじまる文語詩である。

《この年代の詩人は文語を捨て口語に転じるのに悪戦苦闘している。それ以後生まれながら口語自由詩で育った詩人の詩は多く朗誦に耐えない。以後口語文は散文も詩も原則として黙読するものになった》

 《朔太郎は天才だと少年の私は思った。その詩人が昭和九年の「氷島」では全部文語であらわれたのである》 

『完本文語文』の単行本(文藝春秋)は二〇〇〇年、文庫は二〇〇三年に出ている。以来、何度か読み返しているが、山本夏彦がこれほど朔太郎に傾倒していたことに気づかなかった。

2023/01/14

新宿のハーモニカ横丁

 土曜日、西部古書会館の大均一祭(初日二百円)。『現代の随想17 井伏鱒二集』(小沼丹編、彌生書房、一九八二年)など。彌生書房の「現代の随想」シリーズは古本屋でよく見かけるが、この井伏集は持っていなかった。家に帰って目次を見て「新宿のハーモニカ横丁」という随筆を読む。
 新宿の飲み屋街の「道草」「龍」などに通っていたころの話である。

《もうそのころ私は五十前後の年になつてゐたが、私より年上の青野(季吉)さんもこの横丁の常連であつた》

 青野季吉は酒癖があまりよくない。

《酒を飲むと人に講釈するたちであつた》

《上機嫌に文学を談じてゐるかと思ふと、不意に威丈だかになつて怒りだすことがあった》

 井伏鱒二は「青野さんの飲みかたを見て、自分は六十になつたら、いつぱい屋で飲むのは止そうと思つてゐた」と書いている(が、実行できず)。
 青野季吉は一八九〇年二月、井伏鱒二は一八九八年二月生まれだから、年の差は八歳。井伏鱒二が五十歳前後のころ、青野季吉は五十七、八歳だった。

 今、わたしは五十三歳でその間くらい年齢なのだが、酔っぱらうと若い人相手に「講釈」してしまうことがよくある。気をつけよう。

「新宿のハーモニカ横丁」を執筆時、井伏鱒二が何歳だったのか。『井伏鱒二集』には初出が載っていなかった。
 松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九九年)を見る。すると、一九六三年七月、雑誌『芸術生活』に「ハーモニカ横丁」を発表、その後「新宿のハーモニカ横丁」と改題し、『現代の随想17 井伏鱒二集』に初収録した——ことがわかった。
 井伏鱒二、六十五歳。年譜考、ありがたい。
 ちなみに『芸術生活』は古山高麗雄が編集者をしていた雑誌だ。
 古山高麗雄の年譜(『プレオー8の夜明け』講談社文庫の自筆年譜)によると、一九六二年二月「教育出版株式会社を辞し、株式会社芸術生活社に入社、『芸術生活』の編集に従事す」とある。芸術生活社はPL教団の外郭団体で古山さんが退社したのは一九六七年十月——ひょっとして井伏鱒二に原稿を依頼したのは……。わからないのが、もどかしい。

2023/01/12

そういう日

 毎年恒例の一月半ばから二月はじめの間の体がおもうように動かなくなる時期を「冬の底」と名づけて幾星霜。今年は一月十日だったかもしれない(まだわからない)。睡眠時間がズレる。寝ても寝ても眠い。頭が回らない。指に力が入らない。昼すぎに寝て夜八時くらいに起きて、二、三十分過ぎたかなと時計を見ると、二、三時間過ぎている——脳内の時計がヘンな感じになるのも「冬の底」の症状のひとつだ。ずっと継続していた日課の散歩(一日五千歩以上)の記録も途絶えてしまった。また明日から歩こう。

 四十代以降、貼るカイロのおかげでかなり楽になった。簡単には比較することはできないが、ほんとうに何もできなくなるほどつらい人からすれば、カイロ一枚で改善してしまうわたしの症状は軽度なのだろう。

 若いころのほうが心身ともにきつかった。今より元気な分、落差が激しかったせいもあるだろう。部屋そのものが古い木造のアパートで寒かった。冬の朝方、室温が十度以下になることもしょっちゅうあった。

 今は天気のせいと割り切り、余計なことを考えないよう心がけている。部屋をあたたかく保ち、あたたかいものを食う。そして自分のエネルギーのすべてを回復につかうのだ……とイメージしながらゆっくり休む。ようするに怠けている。

《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》

《ろくに物も考えず、ぐうたらぐうたら時を過ごしたような気がする》 

——「日常」/古山高麗雄著『二十三の戦争短編小説』文春文庫。初出は『別冊文藝春秋』一九九一年夏号。古山さん、七十歳、まもなく七十一歳になるころに書いた作品である。

 古山さんも寒さが苦手だった。初出は夏号だけど、冬がくるたびに読みたくなる。

2023/01/08

古書展

 土曜日、今年最初の西部古書会館。暇つぶしに読む本を……くらいのつもりで棚を見ていたら、カゴいっぱいになった。
 買ったのは『井伏文学のふるさと』(ふくやま文学館、二〇〇〇年)、『昭和の風俗画家 長瀬寶』(大磯町郷土資料館、一九九〇年)、『こぶし 鉄道百年記念号』(東京西鉄道管理局 一九七二年、非売品)、他に街道関係の紙ものなど。

『こぶし』の鉄道百年記念号に「中央線鉄道唱歌」(福山寿久作詞、福井直秋作曲)が載っていた。一九一一(明治四十四)年の作。

《五 「中野」「荻窪」「吉祥寺」 「境町」より十余町 多摩上水の岸の辺は 桜ならざる里もなし》

 当時「高円寺」「阿佐ケ谷」「西荻窪」はなかった(この三駅は一九二二年開業)。この冊子の「中央線鉄道唱歌」は「二十」の「小淵沢」まで。中央線の唱歌はまだまだ続く。明治末、東京〜甲府間は約六時間かかった。甲州街道を徒歩で行くと三、四日、今は特急に乗れば一時間四十分である。

 時代と共に移動の速度は上がる。移動時間の短縮により、世の中が変化する。しかし変化の速度はしだいにゆるやかになる。進歩の鈍化といえばいいのか。技術の世界にかぎらず、表現の世界にもそういうことがあるようにおもう。

2023/01/06

仕事始め

 水曜日、神保町、神田伯剌西爾、マンデリン。古本屋をまわる。

 家に帰ると金井タオルさん編集の『月刊つくづく』一月号が届いていた。ホチキスで止めた手作り冊子。定価百円。金井さん、この三年間ひたすらミニコミを作り続けている。わたしはこの号で金井さんの雑談の相手をした。
 以前、金井さんにインタビューしてもらったこともあるのだが、こちらが言いよどんでも、うまく拾ってくれるので、すごく話しやすかった記憶がある。

 今回の雑談は高円寺の喫茶店で一時間くらい。そのあとのほうがいっぱい喋った。終電、間に合ったのか。

 年が明け、(完全に自分のせいで)止まっていた仕事にとりかかりはじめる。本調子になるまで待っていたら何も進まない。一歩ずつやるしかない。わかっていても、いや、言い訳はよそう。とりあえず、作業のための時間を作る。どのくらいで形になるか、量は足りているのか、ゴールがぼんやりとでも見えるところまで行ければどうにかなる。まだ何も見えない。

2023/01/03

正月

 年末年始、高円寺で過ごす(阿佐ケ谷まで散歩したが)。おせちを食べた。一日、氷川神社も馬橋稲荷神社も人でいっぱいだった。初詣は二日にした。町に人があまりいない。年中無休の店もあるが、三日か四日まで休みの店が多い。

 年末から晴天続き、星がよく見えた。気温は低いが風がないので歩きやすい。

 電子書籍で漫画のセールがいろいろあり、五十冊くらい購入した。星里ちもる『夜のスニーカー』(ゴマブックス&ナンバーナイン)を読む。連載時期は二〇〇九年〜二〇一〇年(「週刊プレイボーイ増刊 漫'sプレイボーイ」など)——。

 主人公の男性はウォーキングが趣味。第一話では合コンで知り合った女性とホテルにいっしょに入るが、何もせずに出て歩いて高円寺のアパートに帰る。鞄の中には常にウォーキングシューズが入っている。
 その後、飲み会で知り合うヒロイン(書店員)は中野に住んでいる。二人とも異性にたいし、苦手意識を持っているのだが、いっしょに歩いているうちに……という話。

「歩いて高円寺まで!?」「こっからだと3時間は歩きますよ」というセリフがある。

 どこから歩いたのかは描かれていないが、徒歩三時間は約十二キロ。日本橋〜高円寺がだいたいそのくらいの距離である。別の飲み会のシーンでは東京タワーが見える場面があったので品川あたりから歩いたのだろうか(確証なし)。

 最近、漫画を読んでいて、この場所はどこらへんだろうとよく想像する。正月に読んだ別の漫画で登場人物(小説家)が歩いている道を見た瞬間「ここは青梅街道の荻窪付近かな」と……。

『夜のスニーカー』は特別読み切り「晴れた日に遠くが見える」という短篇も収録——。漫画家志望の高校生が主人公で住んでいるのは方言の感じから九州(たぶん福岡県)だろう。この作品も川沿いの絵が素晴らしい。でも何という川なのかはわからない。