2019/10/31

昔日の客と古代の道

 都営三田線神保町駅十七時五十九分とメモ帳に記し、家を出る。神保町界隈で仕事をして予定の電車に乗る。
 電車の中で田村隆一著『詩人の旅 増補新版』(中公文庫)を読む。前日「奥津」まで読み、「鹿児島」から。「鹿児島」と「越前」がいい。長野は「佐久」と「伊那」を旅している。初出を見ると五十歳以降の紀行文だ。「金色のウイスキー」という言葉が出てくるたびに酒が飲みたくなる。
 今月の中公文庫は中央公論新社編『富士日記を読む』も刊行。戦中派の本がどんどん充実している。

 三田駅で都営浅草線に乗り換え、西馬込駅へ。はじめて降りる駅だ。地図は持っていたが、夜は方向感覚がおかしくなる。いきなり目的地の反対側に向かって歩いてしまい、住所表示を見て引き返す。
 西馬込駅から桜並木の道を歩いた。このあたりは「古東海道」が通っていた。地図を見ながら歩いているのに自信がない。
 オイルコンパスを持ってくればよかったと反省する。荻窪圭著『東京古道散歩』(中経の文庫)で古代東海道の話を読んでいたのだが、古道のルートは専門家のあいだでもけっこう意見が分かれる。中原街道、池上道、旧東海道、古代東海道……。大田区の街道、かなり面白そう。

 この日の目的地は「カフェ 昔日の客」。かつて山王書房のあった場所にできた関口直人さんの店。
 店内には尾崎一雄の色紙、山高登の版画などが飾られていた。山王書房店主の関口良雄の朗詠、歌唱のテープを聴かせてもらう。
 関口直人さんから尾崎一雄の書斎でアルバイトした話などを聞く。話が止まらない。先月大森にオープンしたばかりのあんず文庫を紹介してもらった。
 久しぶりに直枝政広さんとお会いした。岡崎武志さん、萩原茂さんと東京駅経由でJR中央線で帰る。

 大森界隈は、日中、じっくり歩きたい。

2019/10/28

高円寺三十年

 わたしがJR中央線の高円寺界隈に引っ越してきたのは一九八九年十月中旬——二十歳になるひと月前のことだ。
 高円寺に三十年。これまで払ってきた家賃を計算すると「中古のマンションなら買えるやん」とおもわないでもない。ただ、高円寺に移り住んできたころは、バブルの最盛期で二十三区内にマンションなんて買えなかった。というか、どこも買えなかった。三十年前どころか十年前でも無理だ。
 この三十年、高円寺内を転々としてきた。かつては敷金・礼金・前家賃と不動産屋への手数料――当時は敷・礼二ヶ月というのが相場だった。そういえば、いつまで家賃を手渡しだったのか。すくなくとも二十代のころは大家さんか不動産屋に家賃を直接払っていた気がする。

 上京後、はじめて不動産屋をまわったとき、高円寺と吉祥寺の物件を紹介された。高円寺に決めたのは西部古書会館の存在が大きかった。
 最初に住んだ東武東上線沿線の下赤塚の寮(単身赴任中の父の働いていた自動車のプレス工場の独身寮)から高円寺への引っ越しのさい、味二番という中華屋さんの角の狭い路地を曲るとき、車のドアを擦ってしまい、その修理代がかかったのも今となってはいい思い出だ。
 引っ越し当初は、テレビもエアコンもなく、部屋ではレコードを聴き、古本ばかり読んでいた。
 もしお金があったり、行動力があったりしたら、こんなに古本を読む生活を送ることはなかったにちがいない。
 人生何が幸いするかはわからない。それが幸いなのかどうかはさておき、就職もせず、高円寺でふらふらと本読んで酒飲んで原稿を書いて、まもなく五十歳になる。

 年々欲しいものはなくなっているが、行きたい場所はどんどん増えている。時間がほしい。自分の中にこんな欲があったとは……。とはいえ、さすがにこの齢になると、大幅な人生の軌道修正みたいなことは考えにくい。「この道を選んだよかった」とおもえるよう努力するしかない。

2019/10/23

余生の研究

 五十歳という年齢が近づき、自分の関心が「余生」に移行している。
 このまま東京にいるのか。ずっと賃貸の部屋に住み続けるのか。蔵書をどうするのか。

 働き方や暮らし方も含めて、もうすこし楽な方向に切り替えたい——ということに関しては二十代半ばあたりから考えていたわけだが、そのおもいがより切実になってきた。

 余生や老後のあり方にしても、平均寿命がのびた今と昔ではちがう。自分の考え方も変わってきている。

 若いころ、というか、わりと最近まで老後は田舎の平屋の一軒家に住むのが夢だった。現実問題として都内に平屋を買うのはむずかしいというのもその理由だ。しかし齢をとってから知らない土地に移住するのは楽ではないだろう。
 いっぽう今より狭い部屋になり、駅からの距離が遠くなっても、今まで通り高円寺界隈のアパートの一室に暮らし続けるという選択肢もある。今は仕事があるからいいが、仕事が減ったりなくなったりしたら、当然、東京での賃貸生活は厳しくなる。

 三木卓著『降りたことのない駅』(文和書房)に「夭折の研究」というエッセイがある。

《しかし、同時に年譜を見ていて思うことがある。それは夭折した者のものである。あきらかにそうなる、と思われるような仕事の仕方をしている者がある。量としてみても、この期間では、あきらかにエネルギーや栄養の収支からいっても疲労度からいっても肉体はすかんぴんになって、喰われている、と思われる。また質としてみると、なんとなく、やはりこの人は、大いそぎで自分の仕事を終わらせて死んだんだな、と思わせるものがままあって、ふしぎである》

 このエッセイでは「肉体の収支」という言葉も出てくる。

 余生あるいは老後というものは細やかな自分の肉体における収支計算が必要になってくる。これだけ働いたらこれだけ休む。休めないなら働かない。

 昔からそんなことばかり考えていた気もするが、老いによる体力の低下は体感してみないとわからない。

2019/10/21

ドラフト後

 Suicaを記名式に切り替えた。古いカードは反応が鈍くなっていた(郷里に帰省したとき、近鉄の自動改札でいつもひっかかっていた)。新しいSuicaは紛失再発行サービスもあるようだ。それだけでも交換する意義ありだ。今さらなのだが。

 ドラフトから一夜明けて……と書いていたら、もう四夜。ドラフト一位の競合九連敗中だったヤクルトはようやく星稜の奥川恭伸投手を引き当てた。たまたま出先でテレビを見ていたのだが、おもわず「よし!」と声が出てしまった。野球好きの知り合い(ホークスファン)に「おめでとう」と声をかけられる。これが余裕というやつか。
 二〇〇七年、五球団競合の仙台育英の由規(佐藤由規)投手以来か。十二年前か。当時の高卒ルーキーも今年三十路か。月日が経つのは早い。

 毎年ドラフトから数日間は、新入団の選手の情報を追いかけるため、インターネット漬けになる。二、三時間、あっという間に経ってしまう。ゲームをしていたときもそうだった。酒もそう。人生って何だろう。

 もし仮に野球を観ず、ゲームをせず、酒を飲まず、ひたすら仕事に打ち込んでいたら……とたまに考えるのだが、そうすると人間関係もすべて変わってしまい、もはや自分ではない。

2019/10/17

寝てみたり

 先週金曜日の夜から台風十九号の情報を追いかける。ここ数日、寒暖の差が激しく、睡眠時間がズレ続ける。寝起きから数時間、頭がぼーっとしている。
 テレビを見ながら開高健の『白いページ』(全三巻、角川文庫)を再読する。

《毎日、毎日、寝てみたり、起きてみたり、書いてみたり、ちょっと飲んでみたり、ちょっと破いてみたり、また寝てみたり、また起きてみたり》(「励む」/『白いページⅡ』)

 昔からこういう書き出しが好きだ。
 このエッセイにある人物の名前が出てきた。ある日、開高健が銀座のバーに行くと、吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作がいた。

《それにまじって古山高麗雄氏がすみっこにすわっていた。古山氏と私は初対面だけれど、かねがねその『プレオー8の夜明け』に感心していたところなので、さっそくその話をはじめた》

 酔っぱらった開高健は古山氏に着ていたセーターや帽子を進呈してしまう。
 ちなみに講談社文庫版の『プレオー8の夜明け』の解説を開高健が書いている。この夜の出会いが、解説を書くきっかけになったのかもしれない。

《いつか、古山さんと酒場ではじめて出会ったとき、かねてから感心していたものですから、非礼と知りつつそのことをむきだしに述べたところ、たまたまよこにいた吉行淳之介さんが、ちょっと考えてから、
「歳月のせいだね」
 といったことがあります》

《この空前の大量消費時代に“文学”を守りぬくには怠惰か病気ぐらいしかない》

 いずれも『プレオー8の夜明け』の開高健の解説の言葉だ。ちょっと勇気づけられる。

2019/10/11

同じメニュー

 水曜日、神保町、小諸そばのち神田伯剌西爾。からだが快復したら、小諸そばの秋メニューのうどんを食べようとおもっていた(ふだんはから揚げうどん)。
 昔から同じ店で同じメニューばかり頼んでしまう傾向がある。同じものばかり食べても飽きない。

 内田百閒は毎日同じ店の蕎麦を食べていた。

《蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである。続けて食つてゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまつてゐる為に、箸に縺れる事もなく、日がたつに従つて、益うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである》(「菊世界」/『無絃琴』旺文社文庫)

 百閒の随筆の中でも有名なものなので読んだ人もいるかもしれない。題の「菊世界」は昔の煙草の銘柄。子どものころから吸っていた煙草の変遷を回想し、「今の常用は朝日である」と綴る。

《どうして朝日にきめたかと云ふ特別な理由もなささうである。ただきめた以上は、時時変つては困るのである》

2019/10/08

中央線文化

 ようやく秋らしい季候——とおもったら夕方から雨。ここ数日、からだに痛みもなく、いい睡眠ができている。元気になったので、秋用のシャツや冬用の布団カバーの洗濯、雑誌のスクラップ、パラフィンがけをやる。コタツを出すのはあとひと月ちょっとか。

『橋本治雑文集成 パンセⅤ 友たちよ』(河出書房新社)をひさしぶりに読み返していたら、戸井十月との対談(「欲望を計算に入れない『理性』なんて、もうとっくに死んでいるんだよ……)の中でこんな発言があった。

《戸井 俺の感じだけど、例えば中央線文化っていうのか、中央線から石を投げると作家に当たるというぐらい、学校の先生をやっていて書いてますとか、自称作家なんていう人がいっぱいいるわけよね。それが、なにか違うと俺は思うんだ。「そんな、たいそうなものなの?」って感じがしちゃう。べつに、バカにしてるんではなくてね。(略)》

 戸井十月の発言を受け、橋本治は「ぼくは、近代文学なんてまず読んでないよ。読んでないから、作家が中央線に多いなんていうのも、わりと新しい知識なんでね」と答えている。
 この対談は一九八〇年ごろのものだが、その約四十年後の今でも「石を投げると」という状況は残っている。
 わたしが高円寺に引っ越してきた当時、深夜、近所の飲み屋のカウンターで飲んでいると、しょっちゅう物書や編集者と会った(自分を棚に上げていわせてもらえば、面倒くさい話になることが多い)。こうした「中央線文化」の雰囲気は好き嫌いが分かれる。

 とはいえ「中央線文化」がどういうものか説明がむずかしい。
 中央線文士の時代、七〇年代のフォーク、ヒッピー文化、八〇年代から九〇年代にかけてのインディース、バンドブーム期でもその色調は異なる。あるいは高円寺と荻窪と吉祥寺では町の雰囲気はけっこうちがう。
 共通点があるとすれば何だろう。貧乏くさいところか。みんながみんなそうというわけではないが。

2019/10/01

井戸の絵

 東京メトロの東西線で高円寺に帰るとき、中野駅止まりの電車だったら、中野から高円寺に歩いて帰る。線路沿いではなく、住宅街をあみだくじ方式で通り抜ける。桃園川の遊歩道もよく歩く。午後六時前なのに空は暗い。

 日曜日、西部古書会館。井伏鱒二の九十歳の誕生日を記念して作った絵本『トートーという犬』(白根美代子絵、牧羊社)などを買う。収録作の「すいしょうの こと」の絵にたいし、井伏鱒二が「この井戸の石組はちがうわ」といって、描き直すことになったという逸話がある。
 井伏鱒二は「井戸も城壁の石組みも、基本は同じなんだ」と白根美代子に説明した(川島勝著『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』文春文庫より)。
 なぜかこのやりとりが記憶に残っていて、「すいしょうの こと」の井戸の絵を見たいとおもっていたのだ。
 先日、岡山の矢掛や総社の旧山陽道を歩いているときに、石組の壁をいろいろ見た。いわゆるレンガのような均等な積み方ではなく、大小さまざまな形の石を複雑に組み合わせている。この話を知らなかったら、気づかずに通りすぎていたかもしれない。

 帯状疱疹の症状もおさまってきた。まだすこし脇腹付近に神経痛が残っているが、かなり楽になった。とはいえ、確実に肉体は衰えてきている。
 電子レンジが神経痛に反応するというのも発見だった。レンジのあたためボタンを押した途端、脇腹あたりがピリピリ痺れた。ちょっと気持いい。