2026/10/16

どうでもいい話

 何かを「知る」ということは、偶然の要素がけっこうある。雑読乱読の結果、偶然知ったことが頭の中でとっちらかっている。

 高円寺駅はJR総武線(各駅)と中央線(快速)の二路線が乗り入れている。わたしは総武線に乗ることが多い。中央線(快速)のホームにホームドアが稼働しはじめたのは二〇二六年六月十五日から(総武線のホームはまだ付いていない)なのだが、あまり電車に乗らない日々を送っているので、七月になるまで気づかなかった。

 高円寺駅(阿佐ケ谷駅、西荻窪駅も)は、土・日・祝日に中央線の快速が止まらない。昔は土曜日に快速を利用できた。いつから土曜日も通過するようになったのか。
 インターネットで検索すると一九九四年十二月——とあった。一九九〇年代半ば、旅に出て、東京駅から高円寺駅に帰るとき、土曜日だったことを忘れ、荻窪駅まで乗り過ごしてしまったことが何度かある。

 わたしが高円寺に移り住んだのは一九八九年十月中旬——三十七年前である。当時、自動改札はなく、駅員さんがキップを切っていた。駅にはエスカレーターやエレベーターもなかった。
 ちなみに、わたしが高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷駅寄りの一番端)から富士山をはじめて見たのは一九九五年一月である。「あの山、富士山なのか?」と信じられない気分だった。
 東京メトロ丸ノ内線新高円寺駅付近の五日市街道の路上から富士山が見えると知ったのはわりと最近である。たまに天気のよい日に五日市街道まで散歩するのだが、晴れていても見えるとは限らない。

 総武線の「総」が下総・上総、「武」が武蔵と知ったのは二十代半ばあたりだったとおもう。高円寺の飲み屋で教えてもらった。
 東京の国立市が「国分寺」と「立川」の合成地名ということも上京してしばらくの間は知らなかった。いつ知ったのか忘れたが、意外におもった。

 相模と武蔵で「相武」ということもある。小田急(小田原線)に相武台前駅(神奈川県座間市)、JR相模線の相武台下駅(神奈川県相模原市)などの駅名に「相武」という言葉がつかわれている。相武台前駅は一度だけ降りたことがある。

 四十代半ば以降、地図を見る時間が増えた。本を読んでいて知らない地名に出くわすと、すぐ調べる癖がついた。以前は読み飛ばすことが多かった。興味がないと記憶に残らない。情報とはそういうものだ。

 ここ数年、散歩道の樹木や花の名前を知りたいとおもっている。今のところ、ほとんどわからない。

2026/10/11

老いのなか

 十月八日(木)、秋晴れ。東高円寺の蚕糸の森公園、天祖神社に行く。
 散歩帰り、ブックファースト中野店に寄る。目当ての本はなかったが、上野誠著『NHKテキスト 100分de名著 万葉集』(NHK出版、二〇二六年)があったので買う。今月五日(月)が第一回の放送だった。上野誠のNHKテキストだと『こころをよむ 万葉びと、その生と死と』(NHK出版、二〇二四年)もよかった。古典と縁なく過ごしてきた人たちにその面白さを伝えたいという熱を感じる。

『万葉びと、その生と死と』の第八回「人生をふりかえる〜沈痾自哀文の世界(巻五の八九六のあと)」に「人間、長生きしたとしても、その後半生は老いのなかにあり、病のなかにある。そういうなかでどうやって生きていったらいいのか、ということが山上憶良の晩年の文学です」とある。

 わたしは歌枕に興味をおぼえ、『万葉集』を読みはじめた。最初に好きなったのは山上憶良だった。憶良の「晩年の文学」は、私小説や随筆にも通じる。

 散歩中、この先「何ができて何ができないか」とよく考える。老い衰えていく頭と体でもなるべく日々楽しく過ごしたい。

 学者や物書きは年をとってもそのまま同じことを続ける人が多い。しかし五十歳を過ぎれば、頭も体もガタがくる。だから「ポンコツ化」を自覚する必要がある。ものおぼえがわるくなり、おぼえていたことを忘れる。自分の土台となっていた能力そのものが衰える。

 若い世代の文芸や音楽に触れても「必要ない」とおもうことが増えた。それも老いの兆候だろう。
 ここ数年、自分の感覚を体に合わせることを心がけている。若いころのイメージで動くとケガをする。信号が変わりそうになったら早足になったり……。焦らない、急がない、と自戒していても慌ててしまう。
 あと早とちりも増える。過去のデータから類推して、すぐわかった気になってしまう。

 ミスもそうだが、それ以上に「こんなことをやっていて何になるのか」とおもいがちになる。

 何の役にも立たないこと、ひまつぶしをどう肯定するか。それもまた余生の文学のテーマである。

2026/10/07

旅にしあれば

 十月六日(火)、不規則睡眠で早起き。午前九時半、高円寺図書館に行く(本の返却)。一階の階段前に行列ができている。杉並区公式キャラクター「なみすけ」のぬいぐるみを買う人の列だった。
 図書館の三階から東京スカイツリーを見る。雲は出ていたが、くっきり見えた。夜、けやき公園の屋上から新宿副都心を見る。けやき公園の広場で鈴虫の音が聞こえた。

 古山高麗雄著『旅にしあれば』(小沢書店、一九九四年)を再読する。同書所収の「老いの自覚」にこんな一節があった。

《私は、老人くさくなるまいとか、老人らしくしようとか、そういうことはどちらもまったく考えない。ただ自然に過ごしている》

 初出は『あーむ・ちぇあ』(一九八九年三月)。『あーむ・ちぇあ』は見たことがない。古山高麗雄は一九二〇年八月生まれ。当時六十八歳。

 随筆集の題名の「旅にしあれば」は『万葉集』に出てくる言葉である。

《家離り旅にしあれば秋風の寒き夕に雁鳴き渡る》(作者未詳)

《家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る》(有間皇子)

『旅にしあれば』に「岐路に立つ名松線」という紀行文がある。名松線は三重県の松阪駅と伊勢奥津(いせおきつ)駅を結ぶ四十三・五キロの鉄道である。

《名松線という名の、松は松阪だが、名のほうはどういうことかと聞いてみたら、名張の名ということであった》

 もともと名松線は名張まで延ばし、奈良の桜井に至る予定だった。

 古山高麗雄は名松線に乗り、途中下車しながら終点の伊勢奥津駅に行き、地酒を飲む。若宮八幡宮に寄る。多気(たげ)の北畠神社にも行く。

《多気では、結城屋という伊勢本街道沿いの旅籠風の旅館に泊まった》

《そのあたりは、昔は宿場町として賑わったあたりで、当時を偲ばせる古い建物が残っていた》

 わたしも伊勢奥津駅の周辺を散策したことがある。『旅にしあれば』は何度か読んでいるはずなのに、名松線の話を忘れていた。他の紀行集に入っているとおもっていた。内容はなんとなくおぼえていても、どの本に書いてあったのか、わからなくなる。

 伊勢奥津の川上山若宮八幡宮は歌人・岡野弘彦の生家でもある。
 名松線の伊勢奥津駅のまわりもかつては伊勢本街道の宿場町だった。わたしが三重にいたころは一志郡美杉村(現在は津市美杉町)。今も旧街道の雰囲気が残っている。近くを流れる雲出川もいい(鮎やアマゴが生息している)。名松線の車窓からも雲出川が見える。

 美杉町内には石名原宿、奥津宿、多気宿の三つの宿場町がある。