十月下旬、例年、コタツ布団を出す準備をする時期なのだが、冷房をつけた。二十一日(水)、東京都心の最高気温は三〇・三度を記録した。観測史上最も遅い真夏日だった(名古屋も大阪も)。
千田稔著『平城京遷都 女帝・皇后と「ヤマト」の時代』(中公新書、二〇〇八年)を読みはじめる。
街道の研究で古代三関(とくに鈴鹿関)について調べていたとき、飛鳥時代の近江大津宮に興味を持った。そのあと『万葉集』に大津宮をしのぶ歌(柿本人麻呂の「近江荒都歌」など)があることを知った。
予備校生のころ、近江八幡出身の友人(名古屋に下宿していた)と三重滋賀論争(?)をしたことがあった。そのとき「昔、滋賀は都だった」と自慢され、負けた気分になった記憶がある。
奈良や滋賀は郷里(三重)の隣接県ということもあって、この十年、何度か歩いた。大津の周辺もよく歩いている。
近江路を歩いていると、ここに道ができた理由がなんとなくわかる気がする。
『平城京遷都』の刊行は二〇一八年三月——地理や歴史に興味を持つ前だ。本はこちらが準備不足だと、よい読者になれないこともある。ようやくこの本を読む時期が来た。
十八年前(三十代後半)、自分は何をしていたのか。過去のブログを読み返した。自転車で古本屋まわりをしていて、中村光夫の評論を再読していた。
二〇〇八年三月二十四日のブログ「廃物」で中村光夫著『文學の回帰』(筑摩書房、一九五九年)の「ふたたび政治小説を」の次の一節を引用している。
《文藝評論はこのごろ書きにくくなりました。僕が小説を頭から眞にうける年齢を少しすぎてしまったせいかも知れませんが、それだけはありません》
わたしも四十歳前後あたりから、「頭から眞にうける」みたいなことが減り、淡々と本を読んだり、音楽を聴いたりするようになった。それはそれでわるくない。
中村光夫著『青春と女性』(レグルス文庫、一九七五年)の「読書について Ⅰ」に「書物は生き物」という言葉がある。
本は生き物であり、現実とは別の時間と空間を作っている。そんな話をしている。
《そこで僕等はプラトンと話をすることもできれば、白楽天や、老子の「語」を聞くこともできる。そして読書とは、この眼に見えぬが確かに存在する、また主として死者から成り立っているが、おそらく現実の人間の生きる社会よりずっと人間的な精神の社会に身を以て生きることなのである。物を読むという一見無駄な暇潰しに似た行為が、僕等の短い人生の貴重な時間を惜しみなく割くに値するのは、主としてこのためなのである》
中村光夫は古典を読むことで「見ぬ世の友」と語らう喜びを何度となく書いている。
年をとると「短い人生」の残り時間はさらに短くなる。本を読むと、この世にいない昔の人でも心を通わせることができる。時間の感覚が広がる。
千年以上前の歌に心が動く。歌枕の地を訪れ、昔と同じ山をのぼったりくだったりし、川や海を見る。残りの人生、そういう旅がしたいとおもっている。
『平城京遷都』に「近江遷都」の話も出てくる。近江に都が遷ったのが六六七年三月。白村江の戦いの大敗が六六三年。「近江遷都」は白村江の戦いが関係している。そして近江遷都は、壬申の乱(六七二年)ともつながる。
《通説のようになっているのは、海外からの侵攻を恐れて飛鳥よりも防備上安全な土地を選んだというのであるが、はたしてどうであろうか》
《なぜ大津なのか。その理由は交通的位置を重視したからと考えられ、淀川水系によって難波津と結ぶことができ、一方では琵琶湖水運と北陸の敦賀とも連結できる有利性に着目したためである》
水運もそうだが、琵琶湖の南岸は東西南北の交通の要所だった。すこし東に行けば、木曽三川(当時と今とでは川の流れがちがう)があり、伊勢湾に通じる。
琵琶湖の南の「瀬田の唐橋」は「唐橋を制する者は天下を制す」といわれてきた。この唐橋も大津宮遷都のときに架けられた。壬申の乱のさい、大友皇子(近江朝廷軍)と大海人皇子(反乱軍)がこの橋を挟んで攻防戦を繰り広げている。
おそらく織田信長が安土城を築いたのも近江遷都と同じく「交通的位置を重視したから」だろう。
「近江遷都」の時代は日本史の激動期だった。地形のわかる地図を見ながら、壬申の乱のルートを追う。
それにしても飛鳥・奈良時代、生きるのが大変すぎる。