2026/08/12

道のながて

 東京に帰ってきた途端、ブタクサの花粉症になる。日曜日くらいからひどい。目がかゆい。九州にいたときは何ともなかったのに。東京はブタクサが減っていると聞いたが、また増えたのだろうか。あと昔は八月の終わりごろだったが、近年、飛散の時期が早くなっている。昨日、雨が降って楽になった。漢方が効いたのか。

 八月六日(木)、車で鳥栖駅まで。増岡さんに駅近くのアイスキャンデーの店などがある小さな路地を案内してもらう。二日前も通ったのに気づかなった。
 路地の奥にはスナックが何軒かあった。鳥栖駅のうどんもうまいらしい。
 鳥栖は毎年「長崎街道まつり」を開催している(道でポスターを見た)。

 すこし前に川上茂治著『佐賀の街道』(ふるさと社、一九八二年)という街道本を入手していた。郷土史家の街道文献はすごい。歩いている時間がちがう。この本を読み、中原宿を通りかかったときに寄った旅籠の名前を思い出す。
 ひとり旅のときはメモをとりながら歩くのだが、今回はしなかった。なりゆきにまかせた。

 鳥栖駅周辺、平日昼間に歩いている人や自転車に乗っている人をよく見かけた。町の大きさが徒歩生活に適しているのかもしれない。

 このあたりは長崎街道の轟木宿、田代宿の二つの宿場があった。近年の町おこしは「ウォーカブル(歩きたくなる/歩きやすい)」という言葉が鍵になっている。歩く人が増えれば、町も活気が出てくる。わたしの郷里もそうなのだが、車社会になっても宿場町周辺は徒歩の文化が残っているところが多い。

 鳥栖駅から博多駅に行き、新大阪駅までの新幹線(自由席)の切符を買う。それから西鉄の薬院駅に行く。同駅もよりに中野さんの恩師の店のcafe oticotiがある。
 oticotiに行く途中、中野さんはコンビニにこもり、店で会う約束をした新聞社のSさんに渡すための映画の資料を作っている。「待ち合わせの時間に遅れそう」とおもいながらも、中野さんがあまりにも真剣だったので声をかけそびれる。
 Sさんは店の外で待っていた。Sさんと中野さんは西鉄ライオンズの話で盛り上がっていた。Sさん、音楽もすごく詳しかった。
 帰りに「をちこちストーリーズ 遠近話」などの小冊子をもらう。

「遠近話」の「14」に「oticoti」の由来が記されていた。

《漢字で「遠近」と書いて〈をちこち〉と読むんです。お近くの方にはもちろん、遠方からお越しの方にもくつろいでもらえる場所になったらいいな、と思ってこの名をつけました》

『源氏物語』や『更級日記』などの古典に出てくる言葉らしい。わたしは東海圏の出身なので「をちこち」と聞くと両口屋是清の和菓子のコマーシャルが頭に浮かんでしまう。

 この日、わたしは三重県、中野さんは山口県へ。新大阪駅に午後五時台に着き、鶴橋駅で近鉄に乗り換え。鶴橋駅から白子駅までの特急券を買ったら津駅まで特急ひのとりだった。ひのとり初乗車。鶴橋駅を出ると津駅まで止まらない。一時間十六分。津駅のコンビニでビールを買い、郷里の家へ。

 七日(金)、午前十一時半、母の弟のトシおじさんが来る。昼ごはんの前に鈴鹿市一ノ宮町にある都波岐奈加等(つばきなかと)神社に寄ってもらう。

 そのあと鼓ヶ浦駅近くのうどん屋で昼食をすませ、近鉄白子駅から名古屋駅。名古屋駅で名鉄に乗り換え豊橋駅。再びJR。浜松駅から途中下車せず熱海駅まで行く。熱海駅行きの電車、席には座れたが、けっこう混んでいた。

 行きと同じく熱海第一ビルへ。家康の湯(足湯)の時間は終わっていた。熱海駅から小田原駅、小田急で新宿駅まで。家に着いたのは午後八時すぎ。深夜、ペリカン時代で中野さんと飲んだ。

2026/08/09

佐賀へ

 自分がこの世にいられる時間はあとどのくらいなのか。時折そんなことを考える。生きているうちにこれだけはやっておきたい――年々そういう欲が薄れてきている。そのかわりといっては何だが、日常を深く理解したいという気持が強くなっている。
 今回の旅行もそうだった。

 八月四日(火)、鳥栖駅から再び鹿児島本線。この日泊まる予定の増岡謙一郎さんの佐賀の家も同じ沿線にある。長崎街道も近い。

 中野さんは増岡さんが博多駅から乗った電車の時間を推理し、駅で待ちぶせしようとしていた。ところが、すでに増岡さんは家のもより駅に着いている。そのころ、われわれは鳥栖の長崎街道を散策中だった。

 増岡さんが鳥栖駅に戻り、合流することになった。行きも帰りも鳥栖駅前のローソンでだらだらした。五十代のおっさん二人がコンビニ前に座り込み、どうでもいい話をしている。

 今回の旅、佐賀がすごく気に入った。その町が好きになるのは人のおかげでもある。どんな話をしたか、ほとんど忘れてしまったが、電車や車の移動も楽しかった。

 夕方、増岡家に到着する。玄関に犬がいる。おとなしい犬。晩ごはんとビール。テレビのニュースでジュンク堂福岡店オープンのニュースが流れる。わたしが棚の前で立ち読みしている姿が映り、なぜか増岡さんが大はしゃぎする。東の空に赤い月が見えた。庭で花火をした(中野さんがコンビニで買っていた)。
 汗だくの衣類を洗濯してもらい、旅館のような和室で寝た。

 翌朝、増岡さんの母といっしょに犬の散歩をする。急傾斜の坂道をどんどん歩く。北の方角に脊振(せふり)山系の山々が見える。郷里の近鉄鈴鹿線沿線の風景とちょっと似ている。

 この日は午前中から町の施設をいろいろ案内してもらう。主題歌を歌ったミュージシャンの地元ということで中野さんの映画の宣伝をする。

 そのあと増岡さんの運転する車で長崎街道の神埼宿へ。家から近いと聞いていたが、猛暑の中、徒歩で行くのは厳しかったとおもう。
 途中、吉野ヶ里も通った。

 九年庵は春と秋、年二回一般公開される。紅葉の名勝としても知られる。そのすぐ近くに仁比山(にいやま)神社がある。七二九(天平元)年創始の神社。山上憶良、大伴旅人が大宰府に滞在したころにできた神社である。境内の至るところに猿の石造がいっぱい。酒の神も祀っている。

 旅行中、「仁比山神社」の名前を忘れてしまい、何度となく「なんとか山神社で……」といっていたら、中野さんに「魚雷さんが行きたがってた神社なのに、なんで名前が出てこないんですか」とつっこまれる。

 言い訳すると、鳥居をくぐった瞬間から心が奈良時代に飛んでいたのである。奈良時代はまだ仁比山神社という名前ではなかった。もともと「松尾明神」や「山王社」と呼ばれていて、地元では「山王さん」の愛称で知られている。でも単に思い出せなかった。

 神埼宿あたりの窯元にも行ったのだが、わたしは車の中で寝ていた(すこしだけ見たが、寝起きの頭だったせいか、あまり覚えていない)。行きに寄ったのか帰りに寄ったのかすら覚束ない。蕎麦屋にも行った。それは覚えている。

 夜はさざんかの湯。夜景が最高だった。昼は長崎の雲仙のほうまで見えるらしい。

 今回の旅でおもったのは、わたしと中野さんとでは一日の活動量がまったくちがうということ。わたしは食後一時間くらいは体が動かない。頭も回らない。家ではずっと横になっている。中野さんは食べてすぐ俊敏に動く。たぶんわたしの五倍は動いている。そして動くたびにものを落とす。わたしは中野さんに「ぽろぽろ星人」というあだ名をつけた。

 一人で仕事をしたり、旅行したりしていると、なかなか気づけないことにいろいろ気づくことができた。
 この先の自分が変わるかといえば、変わらないだろう。

(……続く) 

2026/08/08

万葉の道

 急遽、九州に行くことになったのだが、とくに計画は立ててなかった。
 今、『万葉集』にはまっているので、奈良時代、山上憶良と大伴旅人がいた太宰府に行きたい。あと佐賀に行ったら、長崎街道の神埼宿にある九年庵のあたりを散策したい。
 旅行中の希望はそのくらい。一番の希望はだらだらしたい——である。
 結果、望みはすべてかなった。

 中洲からタクシーに乗り、降りた場所は戦国武将の名前の焼き鳥屋だった。わたしは中野さんの恩師が来ること以外、何も知らない。
 店に入ると、中野さんの野球部時代の仲間がいる。
 中野さんから恩師のW先生は文学好きということは聞いていた。W先生に『万葉集』の話をすると、中野さんの後輩で詠人舎の末﨑光裕さんから上野誠著『筑紫万葉 恋ひごころ』(西日本新聞社、二〇一七年)を手渡される。

 旅行前、上野誠著『こころをよむ 万葉びと、その生と死と』(NHK出版、二〇二四年)を読んでいて、『万葉集』に興味を持つ前から『万葉学者、墓をしまい母を送る』(講談社文庫、二〇二二年。単行本は二〇二〇年)を愛読していた。末﨑さんは『筑紫万葉 恋ひごころ』の担当者だったそうだ。あと佐賀と長崎のフリーマガジン『SとN』の編集者でもある。

 最初、中野さんのサプライズかなとおもったが、中野さんは自分の後輩が『万葉集』の本を編集していたことを知らなかったらしい。

 ふだんは飲み屋で山上憶良や大伴旅人、街道の話はしないように気をつけている。この日は暴走した。
 もともと『万葉集』に関しては和歌より地理——歌枕に興味があった(鈴鹿の歌もある)。飛鳥、奈良時代は頻繁に遷都している(そのたびに東海道の経路もすこし変わる)。

 近所の図書館で週二冊くらいのペースで飛鳥、奈良時代の本を借りるようになり、『万葉集』関係の本を読みはじめ、今に至っている。
『万葉集』を読んでいるうちに奈良の和歌より、大宰府(太宰府)の和歌のほうが人間味があって面白いとおもうようになった。大伴旅人の酒讃歌も大宰府時代の歌である。
 人生の四苦八苦は万葉の時代も今もそれほど変わらない。

 当時の奈良は仏教勢力が強まっていた時期だったから、都から離れたほうが気楽にのびのびできたのではないか。しょっちゅう宴会してるし。都にいると都のおかしさがわからなくなる。いつの時代もそういうところは変わらない気がする。

 ここ数年、梅が好きになった。太宰府も梅が有名だ。とっ散らかった好奇心がすこしずつ重なったり、つながったりする。

 翌朝、太宰府行きの前に天神のPRONTO(三階建て)に寄った。中野さんは朝食、わたしはアイスコーヒー。PRONTOの三階、寛げた。コーヒーも好きな味だった(自分の記憶の味とちょっとちがっていた)。都内のPRONTOには何年も行ってなかった。仕事の連絡などをいろいろしていたら、以前、梅崎春生の件で電話取材を受けた福岡の新聞社のSさんからメールが届いている(一度も会ったことがない。わたしが福岡にいることも知らせていない)。「今、天神にいるんですよ」と返信したら、この日、ジュンク堂書店福岡店がオープンすることを教えてもらった。
 中野さんとジュンク堂書店福岡店に行く。入口を間違える。そのあと太宰府へ。移動ルートはすべて中野さんに任せて電車に乗る。

 西鉄二日市駅で西鉄太宰府線に乗り換え、太宰府へ。この日も暑かった。意識がモーロー。梅ヶ枝餅の店で冷たい抹茶と梅ヶ枝餅。体力がすこし回復。中野さんはずっと元気だった。わたしのあまりの動かなさに呆れていた。
 旅行前、太宰府は高校の修学旅行で行ったとおもっていたが、街並の記憶がまったくない。何も覚えていない。来ていないかもしれない。

 高校の修学旅行は九州の福岡、長崎、熊本を回った。四十年前の話である。長崎と熊本は覚えている。太宰府を回る組、回らない組があったのだろうか。それともバスで寝ていたのか。太宰府天満宮もはじめた見た……ような気がする。

 中野さんと喋っていると、いつも記憶力(ディテールが無駄に細かい)に感心する。脳の構造は不思議である。

 太宰府のあと、西鉄の二日市駅。そこからJR鹿児島本線の二日市駅まで歩く。だいたい一キロ。途中の商店街がよかった。JRと私鉄で同じ名前でちょっと離れている駅を歩くのは楽しい。

 JR二日市駅から鳥栖駅。駅構内の通路で鉄道、駅の歴史の写真を展示している。見応えがあった。

 長崎街道に興味を持ちはじめたころ、古代から鳥栖は九州の東西と南北の十字路であることを知った。
 鳥栖八坂神社に行ったが、どの道が長崎街道なのかよくわからないまま歩いていた。後から鳥栖周辺の長崎街道は曲がりが多く、複雑な経路であることを知った。

 東海道や中山道を地図を見ながら歩いていて、よく道に迷っている。街道の場合、たまたま迷って歩いた道が古道の可能性もある。

 話は変わるが、電車で九州に来てよかった。電車の中から景色を見ながら移動する。三重から福岡への移動は万葉の道とも重なっている。
 瀬戸内海は船の行き来も多かった。移動中、しばらく会っていない友人や行ってない店のことが頭をよぎった。

(……続く)