2026/11/04

春夫と万葉

 十月三十一日(土)、海(大黒埠頭)を通り、横浜の日野川の近くの寺で法事。すこし北の弘明寺、上大岡のあたりは旧鎌倉街道が通っている。この日、横浜に一泊。翌日、神奈川近代文学館「佐藤春夫展 情あらば伝へてよ」を見る。二十代前半の佐藤春夫、都筑郡中里村(現・横浜市青葉区鉄町)に暮らし、『田園の憂鬱』を書いた。
 鉄(くろがね)町は鶴見川と鶴見川水系の真光寺川の間にある。

 展示に武林無想庵、辻潤、新居格の名がある。佐藤春夫は大正末の「辻潤後援会」にも関わっている。

 佐藤春夫は一八九二年四月生まれ。一九六四年五月没。享年七十二。
 武林無想庵が一八八〇年二月生、辻潤が一八八四年十月生、新居格は一八八八年三月生。たまたまだけど、四歳差である。

 佐藤春夫の本で愛読しているのは『白雲去來』『續白雲去來』(筑摩書房、一九五六年)という随筆集。日本経済新聞で一九五五年四月から連載していた。春夫六十三歳。都丸書房のシールが貼ってある。いつ買ったかは覚えていない。

《もとより岫(山の洞)から吐き出される白雲のやうに悠々たる高人の感懐でないことは筆者自らこれを知ってゐる。さういふ意味の白雲ではない。むしろ俗にいふ雲をつかむやうなとりとめもない日常の雑談風の気軽さで時には時勢を論じたり、世相を批判したり、文壇を語つたり、古典を思ひ、季節を感じ、さては自己の身辺の状況を伝へたり、来客との対談をむし返してみたり、いはば人に見せようとする日記みたいな雑筆と思つていただきたい》(「心の楽屋 はしがきにかへて」/『白雲去來』)

 はしがきの「人に見せようとする日記みたいな雑筆」という言葉が好きで、常々そういう文章が読みたいとおもっている。あと一九五〇年代の随筆集、名著が多い気がする。

 同書「史上人物」に山上憶良の話が出てくる。
 保田與重郎から史上人物を取材した創作の依頼を受ける。法然上人、在原業平などが浮かぶが、他と約束していたり、すぐには書けそうになかったりして困る。

《と、何といふことなしに山上憶良を書いてみようという気になつた。この人に関しては万葉集の歌よりほかには何も知らないが、本来あまり高位の役人ではなかつたようだから、いづれ伝もあまりよくはわかつてゐないだらう。それならば万葉の歌だけを素材にして、あとは空想ででつちあげてもよからう》

《憶良の歌なら、二十歳前後のひところ、万葉を読みかじつた時、ともかくもひととほりは読んでその個性の強い作風に心をひかれてゐた》

 佐藤春夫は憶良について書きつつ、大伴旅人を引き合いに出す案を構想する。
 憶良と旅人を選んだのは「決して気まぐれやでたらめではなく、はなはだ必然のものがあつた」と気づく。

《この二詩人の対比になつた時、芸術のための芸術か、人生のための芸術かといふ自分として当然考へるべき問題を打捨てて置いてあつた考の残骸ともいふべきものを旅人の歌と憶良の歌との対比の間に気づいた》

《当年の筑紫の歌壇では、この二歌人がその二つの相反した傾向を代表しながら、たがひに迫持のやうな形で存在した有様を自分は執筆しながらわが心のなかから掘り出した。また反貴族主義の貧窮詩人憶良のなかには、大逆事件前後の頃の若い自分が隠匿したまま忘れようとしてゐたものを発掘した》

 ここのところ、万葉集の話ばかり書いている。わたしも山上憶良と大伴旅人の二人、万葉の時代の大宰府が気になっている。
 佐藤春夫の随筆の影響ではない。いや、もしかしたら昔この本を読んだとき、頭の片隅にこの二人の名前が残っていたのかもしれない。

 佐藤春夫が山上憶良について書こうとおもったのは年齢も関係しているのではないか。執筆時の佐藤春夫は六十三歳。憶良が大宰府に赴任したのは六十六、七歳。六十代で筑紫歌壇の中心人物となる。老境の表現者としてみても面白い。

 佐藤春夫の憶良の小説が読みたくなる。 

2026/10/30

独善

 十月二十九日(木)、明け方、最低気温は十度ちょっと(東京都心)だった。まだコタツ布団を出していないので布団を腰に巻いて仕事をしていたのだが、手の指先が冷えてきたので今季初の暖房をつけた。

 昼すぎ、阿佐ケ谷散歩(薬局などで買物)。小雨が降ってきたので中央線の高架下を通って帰る。平日の昼間にもかかわらず、雨のせいか、人通りが多い。
 途中、ベルを慣らし続けながら自転車に乗る中高年男性(推定六十代半ば)と遭遇する。しかし、ガード下の商業ゾーンは「自転車走行禁止区域」なのである。あちこちに「自転車のりいれ禁止」の案内板などが出ているのだが、たぶん気づいていない。わたしもいつの間にかルールが変わっているのに、そのことに気づかないことがよくある。見ようとしないと見えない。

 散歩中に公園のベンチ、喫茶店などで読む本をカバンに入れている。今は中野好夫著『風前雨後』(講談社文芸文庫、一九九〇年)をすこしずつ再読している。

 中野好夫は一九〇三年八月愛媛生まれ(徳島育ち)。一九八五年没。

『風前雨後』は一九七六年に毎日新聞社が刊行した同じ題のエッセイ集を底本にしている。五十年前の本である。同書所収の「もはや“戦後”ではない」を読んだ。一九五六年に発表された随筆風の評論である。「もはや戦後ではない」は同年の「経済白書」の序文(執筆者は後藤誉之助)で有名になった言葉だが、中野好夫の評論の題が先である。

 一九五五年は「戦後十年」の年だった。
 その区切りの年に中野好夫は「第一次世界大戦の動き」を思い出す。第一次世界大戦を青年期(また、それに近い壮年期)に経験した世代は「誰もが誰もを信頼しない。頼りになるのは自分だけ」という社会心理に陥った人が多かった。こうした世相は虚無と退廃を生んだ。

 それからしばらくして「ほぼ一九三〇年ごろから、徐々として信頼回復の世代」がはじまる。

《あるものはコミュニズムへ、あるものは全体主義へと走った》

《全体主義への誘惑すら、動機的にいえば信念の回復、価値の再建への指向からであったといえる》

 一九二九年に世界恐慌が起き、「民主主義の危機」をまねいた。

《信頼回復、価値再建というそれ自体善なる意志も、結果としては逆にかえってファッシズムの猛烈な攻勢を導き入れるようになった》

 第一次世界大戦後に広まった個人主義が虚無と頽廃をもたらし、それを何とかしようとして集団主義の風潮が強まった。

 中野好夫は「取り返しのつかない過誤の途」とふりかえる。どうすればよかったのか。わたしは個人主義がもたらす頽廃に耐え、適度にいいかげんでだらしなく、それでも何とかなる社会を目指したほうがよかったとおもう。しかしそうはならなかった。この先もむずかしいだろう。

 中野好夫の「もはや“戦後”ではない」は「戦争そのものの教訓を忘れることであってよいわけではもちろんないし、まして新しい十年への歩み出しが、単に郷愁的な旧日本復活への途などであってはたまらない」とも記している。

《第一に思うことは、国と国との関係を考える上において宿怨とか報復とかいった感情的な考え方に押し流されないこと、また国際間の動きをただ単純に正と邪、善玉と悪玉といった倫理的範疇だけで考えないような習慣をつけることが一番必要なのではなかろうか。またさらにいえば、そうした考え方をむしろ助長させるような教育は慎まなければならないのではなかろうか》

 この中野好夫の論は外交問題への言及である。

《自家側だけが絶対に正で、相手側が絶対に悪玉、すべて「打てよ、こらせよ」式の考え方は、国際的問題の場合非常に危険なように思える》

「打てよ、懲らせよ」は軍歌『敵は幾万』の歌詞の一部である。

 この一節を読み、「国際的問題」にかぎらず、何でも敵と味方に分けたり、自分が「絶対に正」と考えたりしてしまうのは、人(動物)の本能に根ざした感覚なのかもしれないとおもう。

 わたしは他人の「独善」は見抜けるが、自分の「独善」はわからない。自覚することがむずかしい。

2026/10/26

若松道

 上京して三十七年、一九八九年の秋に中央線沿線の高円寺に引っ越してからは毎日何らかの古本を買ったり読んだりする生活を送ってきた。
 古本屋に行っても、目当ての本が買えるわけではない。どちらかといえば、目当てじゃない本を買ってしまうことが多い。その日何を読むか明日何を読むか、自分でもわからない。つまり誰にもわからない。偶然に身をまかせて三十数年という歳月を過ごしてきた。
 今、街道や歌枕に関する本ばかり読んでいるが、二十代三十代の自分からすれば、信じられないとおもう。その時々、何かにのめりこむ。将棋の本やスポーツの本を集めていた時期もあったし、アメリカのコラム集を読みふけっていた時期もある。
 将棋の本は買わなくなったが、今でも気分転換に短い手数の詰将棋をとく習慣は続いている。

 土曜日、起きたら夕方。西部古書会館に行けなかった。先週買った本がほぼ積読のまま(買いすぎた)だったので、今回はパスしようとおもっていた。

 午後七時すぎ、小雨。中野散歩。四季の森公園を通り、ブックファースト中野店に行く。途中、区役所前広場などで「なかの東北絆まつり」が開催していた。公園を通り抜けた先で青森の田子(たっこ)神楽を見ることができた。囃子がリズミカルで腰を低くした姿勢でなめらかに舞う。屋台もいろいろ出ていた。

 先週、西部古書会館で朝日新聞社著『三重県ポケット郷土史』(三重出版商事、一九六五年)を買った。カバーなしの裸本(ただしカバーがあったのかはどうか未確認)。裸本だけど、表紙の題字は田中覚三重県知事が書いている。目次に「壬申の乱」「万葉と三重」などがあり、読みたくなった。

 郷里(三重県鈴鹿市)に帰省すると、神戸公園(神戸城跡)のあたりから、近鉄鈴鹿線の南側を通る旧街道っぽい道をよく散歩する。途中、三日市駅から平田町駅にかけて、光明山如来寺、常超院、寿福院、轉法輪山攝取院、飯野神社などの寺社がある。いちおう「若松道」という名前があるらしい。街道に興味を持つまで知らなかった。伊勢参宮街道の神戸宿と東海道の亀山宿をつなぐ脇街道だったのではないか。そうおもっていた。

『三重県ポケット郷土史』の「古代の交通路」にこんな一節があった。

《都が飛鳥から奈良に移るころは北の木津川ぞいの道が便利になり新家駅 新居村が設けられる。さらに八世紀末、平安京になると江州経由の「アスハ道」が開かれ東海道はいまのように鈴鹿峠を越えるようになった》

「アスハ道」は「阿須波道」と書く。平安時代以降、近江国と伊勢国を結ぶ東海道の経路である。それ以前の飛鳥、奈良時代は伊賀国から加太峠を越える加太越え東海道(加太越え奈良道、大和街道)が官道だった。

 同項は「アスハ道」の話のあと——。

《当時の東海道はおそらく鈴鹿川南岸を通り、国府から神戸町付近で北岸の国分寺近くをへて三重郡の方に出たと思われる》

 亀山宿から庄野宿のあいだを何度か歩いてみて、古代の東海道はもっと北の山裾を通っていたのではないかと考えていた。街道は川の氾濫を避ける意味でも平地より高いところに道を作ることが多いからだ。
 時代によって道の経路は変わる。
『三重県ポケット郷土史』の説を考慮すると、奈良から伊勢に向かうさい、古代三関の鈴鹿関を通り、伊勢の国府を経て、(現在の)近鉄鈴鹿線の平田町駅のほうに向かったのだろう(工場やショッピングモールで旧街道っぽい道は途切れているが)。平田町のあたりから神戸城跡のある近鉄の鈴鹿市駅方面に出て、そこから伊勢街道を北上する。鉄道は古代の道と重なっている。東海道と伊勢街道の分岐は日永の追分(三重県四日市市追分)が有名だが、飛鳥・奈良時代の追分は鈴鹿市の神戸付近だったのかもしれない。

 この神戸を通る鈴鹿川南岸ルートは海に出る近道でもある。伊勢若松もしくは白子まで行けば、船で伊勢湾を渡って知多半島の常滑あたりに行ける。陸路だとかなり遠回りになる。古代の東海道の鈴鹿川南岸ルートは飛鳥・奈良時代の東国への渡海にも適していた。

 この道は徳川家康の「神君伊賀越え」のルートとけっこう重なる。家康が船に乗ったのは白子か伊勢若松か諸説(わたしは白子湊で船を手配し、伊勢若松から三河に帰った説が有力と考えている)あるのだが、いずれにせよ加太越えの経路から伊勢湾に向かった。

 わたしの郷里の散歩道は古代の東海道だったかもしれない。そうとしかおもえない。

 郷里に帰ると三重県伊賀市の「伊賀越」のさしみたまり(三百ミリリットル)を買う。とろみがあってうまい。味噌とみりんは三河のものを愛用している。わたしの食生活は東海の万葉文化圏に属している。