2026/10/21

近江遷都

 十月下旬、例年、コタツ布団を出す準備をする時期なのだが、冷房をつけた。二十一日(水)、東京都心の最高気温は三〇・三度を記録した。観測史上最も遅い真夏日だった(名古屋も大阪も)。

 千田稔著『平城京遷都 女帝・皇后と「ヤマト」の時代』(中公新書、二〇〇八年)を読みはじめる。
 街道の研究で古代三関(とくに鈴鹿関)について調べていたとき、飛鳥時代の近江大津宮に興味を持った。そのあと『万葉集』に大津宮をしのぶ歌(柿本人麻呂の「近江荒都歌」など)があることを知った。
 予備校生のころ、近江八幡出身の友人(名古屋に下宿していた)と三重滋賀論争(?)をしたことがあった。そのとき「昔、滋賀は都だった」と自慢され、負けた気分になった記憶がある。

 奈良や滋賀は郷里(三重)の隣接県ということもあって、この十年、何度か歩いた。大津の周辺もよく歩いている。
 近江路を歩いていると、ここに道ができた理由がなんとなくわかる気がする。

『平城京遷都』の刊行は二〇一八年三月——地理や歴史に興味を持つ前だ。本はこちらが準備不足だと、よい読者になれないこともある。ようやくこの本を読む時期が来た。

 十八年前(三十代後半)、自分は何をしていたのか。過去のブログを読み返した。自転車で古本屋まわりをしていて、中村光夫の評論を再読していた。

 二〇〇八年三月二十四日のブログ「廃物」で中村光夫著『文學の回帰』(筑摩書房、一九五九年)の「ふたたび政治小説を」の次の一節を引用している。

《文藝評論はこのごろ書きにくくなりました。僕が小説を頭から眞にうける年齢を少しすぎてしまったせいかも知れませんが、それだけはありません》

 わたしも四十歳前後あたりから、「頭から眞にうける」みたいなことが減り、淡々と本を読んだり、音楽を聴いたりするようになった。それはそれでわるくない。

 中村光夫著『青春と女性』(レグルス文庫、一九七五年)の「読書について Ⅰ」に「書物は生き物」という言葉がある。
 本は生き物であり、現実とは別の時間と空間を作っている。そんな話をしている。

《そこで僕等はプラトンと話をすることもできれば、白楽天や、老子の「語」を聞くこともできる。そして読書とは、この眼に見えぬが確かに存在する、また主として死者から成り立っているが、おそらく現実の人間の生きる社会よりずっと人間的な精神の社会に身を以て生きることなのである。物を読むという一見無駄な暇潰しに似た行為が、僕等の短い人生の貴重な時間を惜しみなく割くに値するのは、主としてこのためなのである》

 中村光夫は古典を読むことで「見ぬ世の友」と語らう喜びを何度となく書いている。
 年をとると「短い人生」の残り時間はさらに短くなる。本を読むと、この世にいない昔の人でも心を通わせることができる。時間の感覚が広がる。
 千年以上前の歌に心が動く。歌枕の地を訪れ、昔と同じ山をのぼったりくだったりし、川や海を見る。残りの人生、そういう旅がしたいとおもっている。

『平城京遷都』に「近江遷都」の話も出てくる。近江に都が遷ったのが六六七年三月。白村江の戦いの大敗が六六三年。「近江遷都」は白村江の戦いが関係している。そして近江遷都は、壬申の乱(六七二年)ともつながる。

《通説のようになっているのは、海外からの侵攻を恐れて飛鳥よりも防備上安全な土地を選んだというのであるが、はたしてどうであろうか》

《なぜ大津なのか。その理由は交通的位置を重視したからと考えられ、淀川水系によって難波津と結ぶことができ、一方では琵琶湖水運と北陸の敦賀とも連結できる有利性に着目したためである》

 水運もそうだが、琵琶湖の南岸は東西南北の交通の要所だった。すこし東に行けば、木曽三川(当時と今とでは川の流れがちがう)があり、伊勢湾に通じる。

 琵琶湖の南の「瀬田の唐橋」は「唐橋を制する者は天下を制す」といわれてきた。この唐橋も大津宮遷都のときに架けられた。壬申の乱のさい、大友皇子(近江朝廷軍)と大海人皇子(反乱軍)がこの橋を挟んで攻防戦を繰り広げている。
 おそらく織田信長が安土城を築いたのも近江遷都と同じく「交通的位置を重視したから」だろう。

「近江遷都」の時代は日本史の激動期だった。地形のわかる地図を見ながら、壬申の乱のルートを追う。

 それにしても飛鳥・奈良時代、生きるのが大変すぎる。

2026/10/16

どうでもいい話

 何かを「知る」ということは、偶然の要素がけっこうある。雑読乱読の結果、偶然知ったことが頭の中でとっちらかっている。

 高円寺駅はJR総武線(各駅)と中央線(快速)の二路線が乗り入れている。わたしは総武線に乗ることが多い。中央線(快速)のホームにホームドアが稼働しはじめたのは二〇二六年六月十五日から(総武線のホームはまだ付いていない)なのだが、あまり電車に乗らない日々を送っているので、七月になるまで気づかなかった。

 高円寺駅(阿佐ケ谷駅、西荻窪駅も)は、土・日・祝日に中央線の快速が止まらない。昔は土曜日に快速を利用できた。いつから土曜日も通過するようになったのか。
 インターネットで検索すると一九九四年十二月——とあった。一九九〇年代半ば、旅に出て、東京駅から高円寺駅に帰るとき、土曜日だったことを忘れ、荻窪駅まで乗り過ごしてしまったことが何度かある。

 わたしが高円寺に移り住んだのは一九八九年十月中旬——三十七年前である。当時、自動改札はなく、駅員さんがキップを切っていた。駅にはエスカレーターやエレベーターもなかった。
 ちなみに、わたしが高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷駅寄りの一番端)から富士山をはじめて見たのは一九九五年一月である。「あの山、富士山なのか?」と信じられない気分だった。
 東京メトロ丸ノ内線新高円寺駅付近の五日市街道の路上から富士山が見えると知ったのはわりと最近である。たまに天気のよい日に五日市街道まで散歩するのだが、晴れていても見えるとは限らない。

 総武線の「総」が下総・上総、「武」が武蔵と知ったのは二十代半ばあたりだったとおもう。高円寺の飲み屋で教えてもらった。
 東京の国立市が「国分寺」と「立川」の合成地名ということも上京してしばらくの間は知らなかった。いつ知ったのか忘れたが、意外におもった。

 相模と武蔵で「相武」ということもある。小田急(小田原線)に相武台前駅(神奈川県座間市)、JR相模線の相武台下駅(神奈川県相模原市)などの駅名に「相武」という言葉がつかわれている。相武台前駅は一度だけ降りたことがある。

 四十代半ば以降、地図を見る時間が増えた。本を読んでいて知らない地名に出くわすと、すぐ調べる癖がついた。以前は読み飛ばすことが多かった。興味がないと記憶に残らない。情報とはそういうものだ。

 ここ数年、散歩道の樹木や花の名前を知りたいとおもっている。今のところ、ほとんどわからない。

2026/10/11

老いのなか

 十月八日(木)、秋晴れ。東高円寺の蚕糸の森公園、天祖神社に行く。
 散歩帰り、ブックファースト中野店に寄る。目当ての本はなかったが、上野誠著『NHKテキスト 100分de名著 万葉集』(NHK出版、二〇二六年)があったので買う。今月五日(月)が第一回の放送だった。上野誠のNHKテキストだと『こころをよむ 万葉びと、その生と死と』(NHK出版、二〇二四年)もよかった。古典と縁なく過ごしてきた人たちにその面白さを伝えたいという熱を感じる。

『万葉びと、その生と死と』の第八回「人生をふりかえる〜沈痾自哀文の世界(巻五の八九六のあと)」に「人間、長生きしたとしても、その後半生は老いのなかにあり、病のなかにある。そういうなかでどうやって生きていったらいいのか、ということが山上憶良の晩年の文学です」とある。

 わたしは歌枕に興味をおぼえ、『万葉集』を読みはじめた。最初に好きなったのは山上憶良だった。憶良の「晩年の文学」は、私小説や随筆にも通じる。

 散歩中、この先「何ができて何ができないか」とよく考える。老い衰えていく頭と体でもなるべく日々楽しく過ごしたい。

 学者や物書きは年をとってもそのまま同じことを続ける人が多い。しかし五十歳を過ぎれば、頭も体もガタがくる。だから「ポンコツ化」を自覚する必要がある。ものおぼえがわるくなり、おぼえていたことを忘れる。自分の土台となっていた能力そのものが衰える。

 若い世代の文芸や音楽に触れても「必要ない」とおもうことが増えた。それも老いの兆候だろう。
 ここ数年、自分の感覚を体に合わせることを心がけている。若いころのイメージで動くとケガをする。信号が変わりそうになったら早足になったり……。焦らない、急がない、と自戒していても慌ててしまう。
 あと早とちりも増える。過去のデータから類推して、すぐわかった気になってしまう。

 ミスもそうだが、それ以上に「こんなことをやっていて何になるのか」とおもいがちになる。

 何の役にも立たないこと、ひまつぶしをどう肯定するか。それもまた余生の文学のテーマである。