2026/09/27

氷割り

 雨の日が続く。日課の散歩も一日一万歩以下の日が続く。小雨の時間に高円寺図書館に行く。万葉集関係の本を返却し、飛鳥時代と奈良時代の本を借りる。中学、高校時代に勉強したはずなのだが、ほぼ忘れている。日本史の教師の名前も顔も覚えていない。四十年以上前のことだから仕方がない。図書館の中をうろうろして歩数を稼ぐ。不審者っぽい。

 夜、早稲田通りを散歩する。ライブ帰りの知り合い(中野区大和町在住)と道で出くわし、そのまましばらくいっしょに歩く。練馬の話をする。練馬の東武ストアの素晴らしさを力説する。

 散歩中、東京スカイツリー、都庁、代々木のドコモタワー、歌舞伎町タワーなどが見える場所を探している。早稲田通りからもスカイツリーの先端部が見える場所がある。雨の日は見えにくい。
 スカイツリーは高円寺駅北口——東急ストアの前の歩道を中野駅方面に歩くと正面に見える。高円寺図書館の三階の階段あたりからもよく見える。

 大和町に仕事場を借りる前から西武池袋線の練馬駅方面によく散歩していた。帰りはバスに乗る。練馬駅からは一時間に五本くらい高円寺駅行のバスがある。バスの車窓から夕暮れの町、夜の町を見るのも楽しい。

『万葉集』に興味を持ちはじめて、奈良時代の人も花や樹々、月を愛で、宴を開いていたことを知った。一島英治著『万葉集にみる酒の文化 酒・鳥獣・魚介』(‎裳華房、一九九三年)を読んでいたら「万葉集の時代には『氷』を水酒に浸して飲むということが行われていたことは確かと考えられると思います」という記述があった。とはいえ、万葉人でオン・ザ・ロックスを飲んだ人はごく一部だろう。現代に生まれてよかった。

 昨日、日付が変わる時間あたりに近所の飲み屋。角の水割を飲みながら富士山の話をしてしまう。五十回くらいしているかもしれない。高円寺駅のホームの端(阿佐ケ谷駅方面)から富士山が見える。冬の晴れた日の朝と夕方によく見える。

『万葉集』の富士山といえば、山部赤人の「田子の浦ゆ」の歌が有名だが、高橋虫麻呂の「富士の嶺に 降り置く雪は 六月の 十五日に消ゆれば その夜降りけり」という歌もある。虫麻呂は生没年不詳(歌を作っていた時期は七一〇年代後半から)。常陸国(現在の茨城県)に赴任していた記録は残っている。

 飲み屋では『万葉集』の話をしないように気をつけているのだが、この日、たまたま茨城出身の人がいたので、つい虫麻呂の話をしてしまった。
 千葉県市川市の旧松戸街道と真間川を散策したとき、万葉の歌碑があった。高橋虫麻呂の手児奈の歌だった。真間川の近くは市川手児奈通りや桜土手公園の文学の道もある。いい道だった。

 千葉県で気になっているのは、松戸市の鮮魚(なま)街道である。以前、松戸の旧水戸街道は歩いた。鮮魚街道を知ったのはつい最近である。鯖街道、鰤街道、鮎鮓街道など、魚の名の付いた街道を歩きたい。

2026/09/21

万葉の伊良湖

 九月十九日(土)、小雨。シルバーウィーク。昼前、西部古書会館。夜、中野方面を散歩する。大規模開発中の中野駅北口のパークシティのサミット(スーパー)で買物する。パークシティの二階(生活家電のノジマなどがある)の通路から東京スカイツリーを見る。人がいない。高円寺寄りの端っこから都庁も見えた。青く光っていた。
 環七の歩道橋(デイリーヤマザキの近く)から都庁を見る。夜の散歩でよく渡る。

 家に帰って木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』(講談社文芸文庫、二〇一五年)の「伊良湖岬 愛知」を再読する。初出は『週刊朝日』(一九六五年二月)。木山六十歳。木山捷平は一九六八年八月没。享年六十四。

 この紀行文に万葉時代の伊良湖の話が出てくる。

《文献によると、伊良湖は当時伊勢の国(今の三重県)に属していたということだった》

《帰途、われわれは伊良湖岬の麓にある伊良湖港から船にのって、三島由紀夫の『潮騒』で有名な神島を左に眺めつつ、対岸の三重県鳥羽にわたった。鳥羽からかえりみると、伊良湖は一つの島であるかのように見えた。万葉時代は伊勢の国の内であった事情ものみこめたような気がした》

「伊良湖岬 愛知」を読んで以来、わたしは「伊良湖=伊勢国」説を信じるようになった。他の説を知らなかった。飲み屋で何度かその話をした。

 渡辺守順著『万葉集の時代』(教育社歴史新書、一九七八年。新装第三刷、一九八七年)の「伊良湖岬」の項には「『伊良虞』は渥美半島の先端で、行政区画では三河(愛知県)だが、伊勢(三重県)に近いから「伊勢国」といったのであろう」と記されている。

 万葉の時代の伊良湖に関しては様々な説がある。

 松田好夫編『東海の万葉』(桜楓社、一九七六年)の「三河」の章の「伊良湖岬」によれば——。

《「伊勢国伊良虞島」と言われたのは、伊勢国を中心にして、海上遙か視野に入る島々まで広く伊勢国の一部と考えた古代人的大観的発想の結果と見られる。その所属が明確に区分されてから後でも、例えば、古今著聞集にも「参河国より熊野にわたりけるに、伊勢国いらこの渡りにて海賊にあひにけり」とある如く、「伊勢国伊良虞」と後世までも呼び慣わされていたのである》

「古今著聞集」は鎌倉前期に橘成季によって編纂された世俗説話集である。

 さらに『東海の万葉』を読み進めると「伊良湖=伊勢国」説に疑問を抱いていた国文学者の澤瀉(おもだか)久孝が「鳥羽港の海上に答志島があり、その答志島と伊良湖岬との中間に神島がある。その神島が万葉の伊良虞島ではないかといふのが私案である」という異説を紹介していた。

『万葉集』では麻続王が「伊良虞の島」に流刑となり、「うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む」という歌を残した。

「岬」を「島」と勘違いした説もあるが、仮に伊良湖岬が流刑地だったとしたら、すくなくとも海に入って玉藻を食う(誇張表現だろうけど)ような生活にはならなかったのではないか。渥美半島は周囲の波は荒いが、気候は温暖である。
 澤瀉久孝の「伊良虞島=神島(伊勢国)」説は一考の価値あり。伊良虞島が神島だとすれば、「島」「流刑地」「伊勢国」の条件が全て揃う(わかりやすければいいという話ではないが)。澤瀉久孝は三重県伊勢市出身(一八九〇年七月生まれ。一九六八年十月没)。郷土史は土地鑑も重要である。

 また『東海の万葉』は「『遊海島記』(定本柳田国男集・第二巻所収)の記事の一部を紹介しておくと『伊良湖岬、古は伊良虞ヶ島と云へり。中世海は改まりて、寄洲は陸に繋ぎしかば、乃ち三河の国となりぬ。其前は伊勢国度会郡にて、神宮の御荘なりき』」という説もあげている。

 こちらは伊良湖岬は島だったという説である。はるか昔(縄文時代頃?)の伊良湖岬は島だった。そのことは否定されていない。万葉の時代に伊良湖は陸続きだったかどうか。それがわからない。「伊良虞ヶ島」と呼ばれていたことを考えると、満潮時は陸続きではなかったのかもしれない。

 ここまで書いて日曜日。晴れたら永福町あたりまで散歩したいとおもっていたのだが、雨が降っていたので諦める。

(追記)「澤瀉(おもだか)久孝」を「澤瀉(おもがた)」と読み仮名を間違えていた。訂正した。

2026/09/16

解疑

 若者の何とか離れという言葉があるが、中年・中高年もいろいろ離れる。高校野球が終わってからテレビの視聴時間が激減した。たまに見るとCMがうるさく聞こえる。
 近所の某コンビニはレジのところにスクリーンがあり、某社のお茶のCMが流れているのだが、出演者の声が苦手で、その店から足が遠ざかってしまった。
 インターネットも広告を踏まないと先に進めない記事は読まない。「広告=邪魔なもの」という認識になっている。

 九月十二日(土)、午前十一時、西部古書会館。「今日は早いですね」と声をかけられる。均一祭ではないが、百円〜二百円の本が多かった。ガレージで『旅』特集「峠と街道」(一九七三年十一月号、日本交通公社)を見つけ、喜びに浸る。『旅』の街道関係の特集はほぼ揃えたつもりだったが、この号は未入手だった。一九七〇年代の『旅』は連載も充実している。

 この日買った大井重二郎著『万葉集歌枕の解疑』(双文社出版、一九八〇年)は「『伊勢国』伊良湖島」の項あり。渥美半島の先端にある伊良湖(愛知県田原市)は、万葉時代、伊勢の国だった——ということをわたしは木山捷平の紀行文(『新編 日本の旅あちこち』講談社文芸文庫)で知った。現在は「伊良湖=三河国」説のほうが主流なのだが、大井重二郎は「伊良湖=伊勢国」説を探っている。わたしは知らないことを知ると「そうだったのか」と信じてしまいそうになる。万葉の時代の「伊良湖=伊勢国」説を一度も疑ったことがなかった。本に書いてあることが正しいとは限らない。不案内な分野だと判断できない。半信半疑の状態を保ち続けるのはむずかしい。なんとなくおかしいとおもっても、人間の脳は自分が信じたいほうに辻褄合わせをしてしまう。

 自分の知らない情報を拒絶する人もいる。知らない話になると強引に話題を変える。会話が一方通行になる。

 膨大な情報に接しているにもかかわらず、常に現実とかけ離れた結論に至ってしまう人がいる。自分の判断を正しいと信じ、それ以外の選択をした人間を否定する。一度そういう癖がついてしまうとなかなか治らない。