2026/09/13

浜街道

 九月、雨続き。日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)も一日四、五千歩くらいの日が続いていた。
 先週、近所の飲み屋で『フライの雑誌』の堀内正徳さんと飲んでいて、八王子と横浜をつなぐ「絹の道(浜街道)」の話になった。
 堀内さんは絹の道資料館(八王子市)に行ったことがある(フライの雑誌社からも近い)。
 同資料館の近くには旧鎌倉街道の未舗装の古道(鑓水峠)が残っている。鑓水峠のあたりを歩きたい。そんな話をした。「行きましょう」となった。

 九月十一日(金)、午後一時にJR中央線豊田駅で待ち合わせ。堀内さんの車で絹の道資料館に向かう。資料館の人に挨拶し、車を停め、大塚山公園まで歩いた。
 午前中、雨が降ったので道がぬかるんでいる。石の上を歩くと滑る。樹木が生い茂っている。森の中を歩いている感じだった。釣人の堀内さんはそういう道に慣れている。
 大塚山公園の前に「絹の道」の碑がある。

 馬場喜信著『浜街道 「絹の道」のはなし』(かたくら書店新書、二〇〇一年)の「大塚山公園 道了堂のあと」にこの碑の話が出てくる。

《この「絹の道」の碑は、一九五七(昭和三二)年に、故橋本義夫氏(一九〇二~八五)が中心となって建てたもので、浜街道を日本のシルクロードとして、すっかり有名にした記念碑です》

 古道の坂道を二十分くらい歩いて大塚山公園へ。かつては道了堂という御堂があったが、今はない。

《道了堂は、鑓水商人の没落とともにおとろえてゆき、ついに、一九六三年(昭和三八年)に廃寺となりました》

《大塚山は江戸時代のむかしから「十二州見晴らし」と呼ばれて、人々によく知られていました》

 この日、曇り空で山は見えなかった。大塚山公園のすぐ近くの道(古道ではない)から八王子市内を一望することができた。多摩丘陵の地形も面白い。
 公園からの下り道。歩幅を小さく、ゆっくり歩いていたのだが、足が滑り、一度転んで尻もちをついた。
 古道の入口に戻り、絹の道資料館。「大塚山道了堂境内図」という古い絵図がよかった(富士山、筑波山、江ノ島鎌倉、伊豆大島なども描かれていた)。八王子から筑波山が見えた……というのは信じられない(たぶん見えた)。
 浜街道(絹の道)は、神奈川往還、武蔵道、町田街道(一部)などの名もある。同じ街道でも場所ごとに名前が変わる。そのあたりは川と似ている。

 さらに資料館周辺の一里塚(最初、場所がわからず)、道標を見て、鑓水諏訪神社に行く。急な石段(雨のあとは怖い)を慎重に登る。
 街道歩くようになって以来、自分が小柄でよかったとおもうことが増えた。たぶん体が小さい人のほうが坂道に強い。長距離歩行も向いている。転んだときのダメージも小さい(昔から受け身だけは得意だった)。

 帰りは八王子駅まで送ってもらう。八王子も甲州街道の宿場町である。コーヒー好きの堀内さんに案内してもらった歓楽街の喫茶店(憩)、居心地よかった。

2026/09/08

黒曜石の道

 九月になって毎日数時間ずつ寝る時間と起きる時間がズレる変則睡眠が続く。年間通して不規則な時期のほうが長いかもしれない。自由業でよかったとおもうが、予定が立てにくい。不便である。酒を飲まないと睡眠時間がズレる傾向がある。わたしの体はわけがわからない。

 九月五日(土)、夕方に起きて西部古書会館。均一祭(初日全品二百円)。『自然と文化』のバックナンバーが並んでいた。特集「道の文化史」の号(一九八〇年夏季号、観光資源保護財団)を買う。「塩の道」「黒曜石を辿る道」「道と運び道具」など、素晴らしい特集だった。同号の「黒曜石を辿る道」に旧石器時代、長野県の和田峠の黒曜石は「西は愛知県、東は栃木県まで二四〇キロまでが配布圏となった」とある。和田峠から西に向かう道は後の中山道、東の道は甲州街道——JR中央本線は旧石器時代の黒曜石の道と重なっている。
 この号、(真)という人の編集後記も読ませる。

《秩父の隠し道の取材に歩いた国道299号線は、ダンプカーの往来が盛んであった。東京電力の架線工事と、大規模変電所の建築工事のためである。(中略)この隠し道と送電線は、ほぼ同じコースをとるのである。偶然ということではなく、黒部(加賀藩領内の入口)と東京(江戸)を結ぶ最短距離ということもあるが、自然の条件によって類似したのだろう》

『自然と文化』の他の号は翌日(百円)残っていたら買うつもり。なければ諦める。この日、稲垣達郎著『角鹿の蟹』(私家版、署名箋入り、一九七二年)も買う。同書は筑摩書房(一九八〇年)、講談社文芸文庫(一九九六年)などもある。角鹿は「つぬが」と読む。敦賀の古名。稲垣は尾崎一雄の学生時代からの友人。この本にも尾崎一雄のことを書いた随筆が入っている。

 古書会館のあと、夕焼けを見ながら桃園川緑道を通って馬橋稲荷神社の例大祭に行く。参道に人がいっぱい。焼きそばと生ビール。風が気持いい。

 六日(日)、昼に起きて西部古書会館(二日目全品百円)。小雨。昨日、『自然と文化』のバックナンバーがあった棚に直行する。初日に見た冊数と変わらない。以前、インターネットの古本屋で買った歌枕の特集号も残っていた。歌枕の号も含め、十冊ほど買う。CD三枚。『江戸時代動物園 江戸時代人が見た動物たち展。』(帆風美術館、二〇〇八年)が買えてよかった。長谷川雪旦、長谷川雪堤の「魚類譜魚介図画帖」を見る。淡水魚の絵もある。
 図録の間に「江戸時代動物園2 動き出す動物達展」(二〇〇九年五月〜)というチラシが挟まっていた。帆風美術館は青森県八戸市の印刷会社帆風(ばんふう)が運営している美術館。青森も行きたいところがいろいろある。

 均一祭で図録を買うと満足感は大きいのだが、置き場所に困る。

2026/09/03

返り花

 ついこのあいだ八月になったばかりという気分なのだが、もう九月。この勢いだと今年もすぐ終わりそう。

 八月二十九日(土)、三十日(日)、東京高円寺阿波踊り。初日は小雨。町が混む前にスーパーで買物する。店を出たところでコクテイル書房の狩野俊さんと会う(狩野さんとは道でよく会う)。夕方、高円寺駅南口のとんかつ松永の串かつと卵串、北口庚申通りの焼肉肉一のカルビ串を買う。昨年と同じまつりメシ。日曜は抱瓶の沖縄焼きそば(塩)と生ビール(オリオン)。これも昨年と同じである。人混みを避け、ビールを飲みながら住宅街の細い道を歩く。途中、知り合いと会い、「お、いいかんじだね」といわれる。

 日曜は西部古書会館にも行った。『練馬の道』(練馬教育委員会、一九七四年)、吉井貞俊著『遊行 伊勢本街道』(美学社、一九九三年)など。最近、郷土史の冊子を西部古書会館でよく見る(前からあったのだろう。自分が素通りしていただけの可能性が高い)。練馬区は青梅街道や川越街道、さらに鎌倉の古道といわれる道も通っている。

 すこし前、西部古書会館で同じ古書店が出品していた『いたばしの街道めぐり』(板橋区教育委員会、一九七一年、改訂二版は一九七六年)を買った。この冊子もよかった。わたしは郷土史の冊子の手描きの地図が好きである。

 東中野の「ロッホ」(後の「ユーカリ」)のことが気になり、林哲夫著『喫茶店の時代 あのとき こんな店があった』(ちくま文庫、二〇二〇年)の「女たちの東中野」のところを読む。「ユーカリ」のエピソードがいろいろ出てくる。

 福田清人の随筆を読んでみたいとおもい、日本の古本屋で『返り花 私の俳句歳時記』(明治書院、一九八三年)を注文し、九月二日(火)に届いた。
 同書に「東京生活五十年」という随筆が収録されている。

 一九二六(大正十五)年春に福田清人は長崎から上京し、東中野の大村学寮に入る。隣は野口米次郎邸だった。野口米次郎は詩人で評論家。彫刻家のイサム・ノグチの父でもある。
 東京の引っ越し遍歴は綴っているが、「ロッホ」「ユーカリ」は出てこない。

「私の武蔵野」は杉並区成宗(成田西)の話。

《私の家から旧道を逆に東へ四、五分歩くと、阿佐谷方面から曲がりくねって来た鎌倉街道が交差している》

 成宗の周辺は鎌倉攻めの古戦場だったらしい。知らなかった。

「中央線沿線」は中央線文士の話を書いている。

《中野、阿佐谷、荻窪にかけての中央線沿線は、戦前は若い作家たちの居住地帯であった。(中略)当時は手頃な貸家があり、自由な空気が漂い、支えあい、競いあう仲間が周辺にいるといったせいであったろうか》

《それまで中央線文士の主といってよかったのは、新居格であったろう。新居さんは、戦後の選挙による杉並区長に当選した》

 同随筆には「荻窪の古本市」の話も出てくる。

《戦後、数年荻窪のある会館で月一回、古書展が催されていた。その日は午後の大体の時間を決めておいて、上林暁、瀬沼茂樹と落ちあった》

 古書展のあと、喫茶店か飲み屋に寄り、その日の収穫を見せ合う。
 わたしも西部古書会館で岡崎武志さんと会うと、そのあと喫茶店で古本談議をすることがある。昔も今も似たようなことをしている。

「七十の若さ」という随筆は東中野の日本閣で開催された横山敏司の出版記念会の話。

《東中野の出版会の夜、早退した瀬沼君のあと、十和田君と、小雨の中を私のアルト・ハイデルベルヒの情の湧く土地を少し歩いてみた。若い日、よく通った小さい酒場ユーカリのあともむなしく、新しい道路が冷たい雨にぬれて光っていた》

「十和田君」は十和田操。この日の会のゲストだった。