2026/10/30

独善

 十月二十九日(木)、明け方、最低気温は十度ちょっと(東京都心)だった。まだコタツ布団を出していないので布団を腰に巻いて仕事をしていたのだが、手の指先が冷えてきたので今季初の暖房をつけた。

 昼すぎ、阿佐ケ谷散歩(薬局などで買物)。小雨が降ってきたので中央線の高架下を通って帰る。平日の昼間にもかかわらず、雨のせいか、人通りが多い。
 途中、ベルを慣らし続けながら自転車に乗る中高年男性(推定六十代半ば)と遭遇する。しかし、ガード下の商業ゾーンは「自転車走行禁止区域」なのである。あちこちに「自転車のりいれ禁止」の案内板などが出ているのだが、たぶん気づいていない。わたしもいつの間にかルールが変わっているのに、そのことに気づかないことがよくある。見ようとしないと見えない。

 散歩中に公園のベンチ、喫茶店などで読む本をカバンに入れている。今は中野好夫著『風前雨後』(講談社文芸文庫、一九九〇年)をすこしずつ再読している。

 中野好夫は一九〇三年八月愛媛生まれ(徳島育ち)。一九八五年没。

『風前雨後』は一九七六年に毎日新聞社が刊行した同じ題のエッセイ集を底本にしている。五十年前の本である。同書所収の「もはや“戦後”ではない」というエッセイを読んだ。一九五六年に発表された随筆――「もはや戦後ではない」は同年の「経済白書」の序文(執筆者は後藤誉之助)で有名になった言葉だが、中野好夫の評論の題が先である。

 一九五五年は「戦後十年」の年だった。
 その区切りの年に中野好夫は「第一次世界大戦の動き」を思い出す。第一次世界大戦を青年期(また、それに近い壮年期)に経験した世代は「誰もが誰もを信頼しない。頼りになるのは自分だけ」という社会心理に陥った人が多かった。こうした世相は虚無と退廃を生んだ。

 それからしばらくして「ほぼ一九三〇年ごろから、徐々として信頼回復の世代」がはじまる。

《あるものはコミュニズムへ、あるものは全体主義へと走った》

《全体主義への誘惑すら、動機的にいえば信念の回復、価値の再建への指向からであったといえる》

 一九二九年に世界恐慌が起き、「民主主義の危機」をまねいた。

《信頼回復、価値再建というそれ自体善なる意志も、結果としては逆にかえってファッシズムの猛烈な攻勢を導き入れるようになった》

 第一次世界大戦後に広まった個人主義が虚無と頽廃をもたらし、それを何とかしようとして集団主義の風潮が強まった。

 中野好夫は「取り返しのつかない過誤の途」とふりかえる。どうすればよかったのか。わたしは個人主義がもたらす頽廃に耐え、適度にいいかげんでだらしなく、それでも何とかなる社会を目指したほうがよかったとおもう。しかしそうはならなかった。この先もむずかしいだろう。

 中野好夫の「もはや“戦後”ではない」は「戦争そのものの教訓を忘れることであってよいわけではもちろんないし、まして新しい十年への歩み出しが、単に郷愁的な旧日本復活への途などであってはたまらない」とも記している。

《第一に思うことは、国と国との関係を考える上において宿怨とか報復とかいった感情的な考え方に押し流されないこと、また国際間の動きをただ単純に正と邪、善玉と悪玉といった倫理的範疇だけで考えないような習慣をつけることが一番必要なのではなかろうか。またさらにいえば、そうした考え方をむしろ助長させるような教育は慎まなければならないのではなかろうか》

 この中野好夫の論は外交問題への言及である。

《自家側だけが絶対に正で、相手側が絶対に悪玉、すべて「打てよ、こらせよ」式の考え方は、国際的問題の場合非常に危険なように思える》

「打てよ、懲らせよ」は軍歌『敵は幾万』の歌詞の一部である。

 この一節を読み、「国際的問題」にかぎらず、何でも敵と味方に分けたり、自分が「絶対に正」と考えたりしてしまうのは、人(動物)の本能に根ざした感覚なのかもしれないとおもう。

 わたしは他人の「独善」は見抜けるが、自分の「独善」はわからない。自覚することがむずかしい。

2026/10/26

若松道

 上京して三十七年、一九八九年の秋に中央線沿線の高円寺に引っ越してからは毎日何らかの古本を買ったり読んだりする生活を送ってきた。
 古本屋に行っても、目当ての本が買えるわけではない。どちらかといえば、目当てじゃない本を買ってしまうことが多い。その日何を読むか明日何を読むか、自分でもわからない。つまり誰にもわからない。偶然に身をまかせて三十数年という歳月を過ごしてきた。
 今、街道や歌枕に関する本ばかり読んでいるが、二十代三十代の自分からすれば、信じられないとおもう。その時々、何かにのめりこむ。将棋の本やスポーツの本を集めていた時期もあったし、アメリカのコラム集を読みふけっていた時期もある。
 将棋の本は買わなくなったが、今でも気分転換に短い手数の詰将棋をとく習慣は続いている。

 土曜日、起きたら夕方。西部古書会館に行けなかった。先週買った本がほぼ積読のまま(買いすぎた)だったので、今回はパスしようとおもっていた。

 午後七時すぎ、小雨。中野散歩。四季の森公園を通り、ブックファースト中野店に行く。途中、区役所前広場などで「なかの東北絆まつり」が開催していた。公園を通り抜けた先で青森の田子(たっこ)神楽を見ることができた。囃子がリズミカルで腰を低くした姿勢でなめらかに舞う。屋台もいろいろ出ていた。

 先週、西部古書会館で朝日新聞社著『三重県ポケット郷土史』(三重出版商事、一九六五年)を買った。カバーなしの裸本(ただしカバーがあったのかはどうか未確認)。裸本だけど、表紙の題字は田中覚三重県知事が書いている。目次に「壬申の乱」「万葉と三重」などがあり、読みたくなった。

 郷里(三重県鈴鹿市)に帰省すると、神戸公園(神戸城跡)のあたりから、近鉄鈴鹿線の南側を通る旧街道っぽい道をよく散歩する。途中、三日市駅から平田町駅にかけて、光明山如来寺、常超院、寿福院、轉法輪山攝取院、飯野神社などの寺社がある。いちおう「若松道」という名前があるらしい。街道に興味を持つまで知らなかった。伊勢参宮街道の神戸宿と東海道の亀山宿をつなぐ脇街道だったのではないか。そうおもっていた。

『三重県ポケット郷土史』の「古代の交通路」にこんな一節があった。

《都が飛鳥から奈良に移るころは北の木津川ぞいの道が便利になり新家駅 新居村が設けられる。さらに八世紀末、平安京になると江州経由の「アスハ道」が開かれ東海道はいまのように鈴鹿峠を越えるようになった》

「アスハ道」は「阿須波道」と書く。平安時代以降、近江国と伊勢国を結ぶ東海道の経路である。それ以前の飛鳥、奈良時代は伊賀国から加太峠を越える加太越え東海道(加太越え奈良道、大和街道)が官道だった。

 同項は「アスハ道」の話のあと——。

《当時の東海道はおそらく鈴鹿川南岸を通り、国府から神戸町付近で北岸の国分寺近くをへて三重郡の方に出たと思われる》

 亀山宿から庄野宿のあいだを何度か歩いてみて、古代の東海道はもっと北の山裾を通っていたのではないかと考えていた。街道は川の氾濫を避ける意味でも平地より高いところに道を作ることが多いからだ。
 時代によって道の経路は変わる。
『三重県ポケット郷土史』の説を考慮すると、奈良から伊勢に向かうさい、古代三関の鈴鹿関を通り、伊勢の国府を経て、(現在の)近鉄鈴鹿線の平田町駅のほうに向かったのだろう(工場やショッピングモールで旧街道っぽい道は途切れているが)。平田町のあたりから神戸城跡のある近鉄の鈴鹿市駅方面に出て、そこから伊勢街道を北上する。鉄道は古代の道と重なっている。東海道と伊勢街道の分岐は日永の追分(三重県四日市市追分)が有名だが、飛鳥・奈良時代の追分は鈴鹿市の神戸付近だったのかもしれない。

 この神戸を通る鈴鹿川南岸ルートは海に出る近道でもある。伊勢若松もしくは白子まで行けば、船で伊勢湾を渡って知多半島の常滑あたりに行ける。陸路だとかなり遠回りになる。古代の東海道の鈴鹿川南岸ルートは飛鳥・奈良時代の東国への渡海にも適していた。

 この道は徳川家康の「神君伊賀越え」のルートとけっこう重なる。家康が船に乗ったのは白子か伊勢若松か諸説(わたしは白子湊で船を手配し、伊勢若松から三河に帰った説が有力と考えている)あるのだが、いずれにせよ加太越えの経路から伊勢湾に向かった。

 わたしの郷里の散歩道は古代の東海道だったかもしれない。そうとしかおもえない。

 郷里に帰ると三重県伊賀市の「伊賀越」のさしみたまり(三百ミリリットル)を買う。とろみがあってうまい。味噌とみりんは三河のものを愛用している。わたしの食生活は東海の万葉文化圏に属している。

2026/10/21

近江遷都

 十月下旬、例年、コタツ布団を出す準備をする時期なのだが、冷房をつけた。二十一日(水)、東京都心の最高気温は三〇・三度を記録した。観測史上最も遅い真夏日だった(名古屋も大阪も)。

 千田稔著『平城京遷都 女帝・皇后と「ヤマト」の時代』(中公新書、二〇〇八年)を読みはじめる。
 街道の研究で古代三関(とくに鈴鹿関)について調べていたとき、飛鳥時代の近江大津宮に興味を持った。そのあと『万葉集』に大津宮をしのぶ歌(柿本人麻呂の「近江荒都歌」など)があることを知った。
 予備校生のころ、近江八幡出身の友人(名古屋に下宿していた)と三重滋賀論争(?)をしたことがあった。そのとき「昔、滋賀は都だった」と自慢され、負けた気分になった記憶がある。

 奈良や滋賀は郷里(三重)の隣接県ということもあって、この十年、何度か歩いた。大津の周辺もよく歩いている。
 近江路を歩いていると、ここに道ができた理由がなんとなくわかる気がする。

『平城京遷都』の刊行は二〇一八年三月——地理や歴史に興味を持つ前だ。本はこちらが準備不足だと、よい読者になれないこともある。ようやくこの本を読む時期が来た。

 十八年前(三十代後半)、自分は何をしていたのか。過去のブログを読み返した。自転車で古本屋まわりをしていて、中村光夫の評論を再読していた。

 二〇〇八年三月二十四日のブログ「廃物」で中村光夫著『文學の回帰』(筑摩書房、一九五九年)の「ふたたび政治小説を」の次の一節を引用している。

《文藝評論はこのごろ書きにくくなりました。僕が小説を頭から眞にうける年齢を少しすぎてしまったせいかも知れませんが、それだけはありません》

 わたしも四十歳前後あたりから、「頭から眞にうける」みたいなことが減り、淡々と本を読んだり、音楽を聴いたりするようになった。それはそれでわるくない。

 中村光夫著『青春と女性』(レグルス文庫、一九七五年)の「読書について Ⅰ」に「書物は生き物」という言葉がある。
 本は生き物であり、現実とは別の時間と空間を作っている。そんな話をしている。

《そこで僕等はプラトンと話をすることもできれば、白楽天や、老子の「語」を聞くこともできる。そして読書とは、この眼に見えぬが確かに存在する、また主として死者から成り立っているが、おそらく現実の人間の生きる社会よりずっと人間的な精神の社会に身を以て生きることなのである。物を読むという一見無駄な暇潰しに似た行為が、僕等の短い人生の貴重な時間を惜しみなく割くに値するのは、主としてこのためなのである》

 中村光夫は古典を読むことで「見ぬ世の友」と語らう喜びを何度となく書いている。
 年をとると「短い人生」の残り時間はさらに短くなる。本を読むと、この世にいない昔の人でも心を通わせることができる。時間の感覚が広がる。
 千年以上前の歌に心が動く。歌枕の地を訪れ、昔と同じ山をのぼったりくだったりし、川や海を見る。残りの人生、そういう旅がしたいとおもっている。

『平城京遷都』に「近江遷都」の話も出てくる。近江に都が遷ったのが六六七年三月。白村江の戦いの大敗が六六三年。「近江遷都」は白村江の戦いが関係している。そして近江遷都は、壬申の乱(六七二年)ともつながる。

《通説のようになっているのは、海外からの侵攻を恐れて飛鳥よりも防備上安全な土地を選んだというのであるが、はたしてどうであろうか》

《なぜ大津なのか。その理由は交通的位置を重視したからと考えられ、淀川水系によって難波津と結ぶことができ、一方では琵琶湖水運と北陸の敦賀とも連結できる有利性に着目したためである》

 水運もそうだが、大津は東西南北の交通の要所だった。大津京があったとされる場所は大津市中部の錦織(にしこおり)のあたり。

 琵琶湖の南の瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」は「唐橋を制する者は天下を制す」といわれてきた。この唐橋も大津宮遷都のときに造られた。壬申の乱のさい、大友皇子(近江朝廷軍)と大海人皇子(反乱軍)がこの橋を挟んで攻防戦を繰り広げている。
 おそらく織田信長が安土城を築いたのも近江遷都と同じく「交通的位置を重視したから」だろう。

「近江遷都」の時代は日本史の激動期だった。地形のわかる地図を見ながら、壬申の乱のルートを追う。

 それにしても飛鳥・奈良時代、生きるのが大変すぎる。