このあいだの日曜昼すぎ都議選。前日、誰に投票するか、迷った末、二人に絞る。当日、二人のうち落選しそうなほうに投票した。
投票所の帰り、しばらく散歩しようとおもったが、いったん家に帰る。
夕方、桃園川緑道を通って阿佐ケ谷へ。ビーンズ、ヨークフーズを回る。夜、都知事選の結果を見る。杉並区(定員六人)は都民、立民、自民、公明、共産、国民とバラけた。いい傾向だとおもう。
政治は間違える。現在の正解が未来の不正解になることもよくある。(議会制)民主主義は不安定ゆえ間違いを修正しやすいという利点がある。
国政に関しては一党独裁は論外として、二大政党制も望まない。アメリカのような二大政党制は政権交代は起こりやすいのかもしれないが、敵味方に分かれて、支持政党のちがいで、地域その他でいがみ合うようになるのは困る。賛成か反対かの間には「どっちでもいい」とか「わからない」いう意見や立場もあるわけで、何もかもはっきり白黒つけようとするあり方は窮屈におもう。
一人の人間でさえ、加齢や環境の変化によって考え方が変わる。生活の優先順位も変わる。
自分が毎日散歩する人間になるとは想像もしていなかった。
『福原麟太郎随想全集』(福武書店、一九八二年)の六巻所収の「投票にゆく前」というエッセイを読む。初出は一九五八年五月二十二日の朝日新聞。
《私はかつて、私は演説のまずい人に投票すると新聞だか雑誌だかに書いたら、演説のまずい人が誠実な人とは限らないと、真面目な心理学者から別の紙上で反ばくされたことがある。ポスターの一番さっぱりしている人に投票したと書いたら、それは区会議員の場合であったが、やはり笑われた。なるほどそういうのはノンセンスに近いかもしれないが、それでも、それらは、とにかく、選択のカギにはなりうるのだ》
《党か人か、どっちにすべきかわからないではないか、といって投げ出す前に、政治としてやってほしいことを真実やってくれそうな人はだれか当ってみるべきである》
「演説のまずい人」を選ぶという発想はなかった。「まずい」は内容ではなく、話下手という意味だろう。散歩中、たまたま演説を聞いて「投票したくない」とおもった候補者はいた。
次の参院選の候補者選びのさい、ポスターもちゃんと見ようとおもった。