2026/09/21

万葉の伊良湖

 九月十九日(土)、小雨。シルバーウィーク。昼前、西部古書会館。夜、中野方面を散歩する。大規模開発中の中野駅北口のパークシティのサミット(スーパー)で買物する。パークシティの二階(生活家電のノジマなどがある)の通路から東京スカイツリーを見る。人がいない。高円寺寄りの端っこから都庁も見えた。青く光っていた。
 環七の歩道橋(デイリーヤマザキの近く)から都庁を見る。夜の散歩でよく渡る。

 家に帰って木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』(講談社文芸文庫、二〇一五年)の「伊良湖岬 愛知」を再読する。初出は『週刊朝日』(一九六五年二月)。木山六十歳。木山捷平は一九六八年八月没。享年六十四。

 この紀行文に万葉時代の伊良湖の話が出てくる。

《文献によると、伊良湖は当時伊勢の国(今の三重県)に属していたということだった》

《帰途、われわれは伊良湖岬の麓にある伊良湖港から船にのって、三島由紀夫の『潮騒』で有名な神島を左に眺めつつ、対岸の三重県鳥羽にわたった。鳥羽からかえりみると、伊良湖は一つの島であるかのように見えた。万葉時代は伊勢の国の内であった事情ものみこめたような気がした》

「伊良湖岬 愛知」を読んで以来、わたしは「伊良湖=伊勢国」説を信じていた。他の説を知らなかった。

 渡辺守順著『万葉集の時代』(教育社歴史新書、一九七八年。新装第三刷、一九八七年)の「伊良湖岬」の項には「『伊良虞』は渥美半島の先端で、行政区画では三河(愛知県)だが、伊勢(三重県)に近いから「伊勢国」といったのであろう」と記されている。

 万葉の時代の伊良湖に関しては様々な説がある。

 松田好夫編『東海の万葉』(桜楓社、一九七六年)の「三河」の章の「伊良湖岬」によれば——。

《「伊勢国伊良虞島」と言われたのは、伊勢国を中心にして、海上遙か視野に入る島々まで広く伊勢国の一部と考えた古代人的大観的発想の結果と見られる。その所属が明確に区分されてから後でも、例えば、古今著聞集にも「参河国より熊野にわたりけるに、伊勢国いらこの渡りにて海賊にあひにけり」とある如く、「伊勢国伊良虞」と後世までも呼び慣わされていたのである》

「古今著聞集」は鎌倉前期に橘成季によって編纂された世俗説話集である。

 さらに『東海の万葉』を読み進めると「伊良湖=伊勢国」説に疑問を抱いていた国文学者の澤瀉(おもがた)久孝が「鳥羽港の海上に答志島があり、その答志島と伊良湖岬との中間に神島がある。その神島が万葉の伊良虞島ではないかといふのが私案である」という意見も紹介していた。

『万葉集』では麻続王が「伊良虞の島」に流刑となり、「うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む」という歌を残した。

「岬」を「島」と勘違いした説もあるが、仮に伊良湖岬が流刑地だったとしたら、すくなくとも海に入って玉藻を食う(誇張表現だろうけど)ような生活にはならなかったのではないか。渥美半島は周囲の波は荒いが、気候は温暖である。
 澤瀉久孝の「伊良虞島=神島(伊勢国)」説は一考の価値あり。伊良虞島が神島だとすれば、「島」「流刑地」「伊勢国」の条件が全て揃う(わかりやすければいいという話ではないが)。澤瀉久孝は三重県伊勢市出身(一八九〇年七月生まれ。一九六八年十月没)。郷土史は土地鑑も重要である。

 また『東海の万葉』は「『遊海島記』(定本柳田国男集・第二巻所収)の記事の一部を紹介しておくと『伊良湖岬、古は伊良虞ヶ島と云へり。中世海は改まりて、寄洲は陸に繋ぎしかば、乃ち三河の国となりぬ。其前は伊勢国度会郡にて、神宮の御荘なりき』」という説もあげている。

 こちらは伊良湖岬は島だったという説である。はるか昔(縄文時代頃?)の伊良湖岬は島だった。そのことは否定されていない。万葉の時代に伊良湖は陸続きだったかどうか。それがわからない。「伊良虞ヶ島」と呼ばれていたことを考えると、満潮時は陸続きではなかったのかもしれない。

 ここまで書いて日曜日。晴れたら永福町あたりまで散歩したいとおもっていたのだが、雨が降っていたので諦める。

 木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』所収「伊良湖岬 愛知」の再読の続き——。

《話はちょっとそれるが、この渥美半島は豊橋あたりを根元にして西に向って突出している。日本の半島は数えきれないほど沢山あるが、東から西にのびている半島はこの半島が一つしかないのだそうである》

 木山捷平は「(後記、あとである人から、お前の目はガラス玉か、島根県の島根半島が見えなかったのかという注意をうけた。また別の人から、愛媛県の佐田岬半島もそうであると教えられた)」と加筆している。

 訂正の仕方も木山捷平らしい。わたしは間違えたところを残して加筆する方式が好きである(このブログもなるべくそうしている)。島根半島を地図で見る。西から東なのか、東から西なのか、わかりづらい。佐田岬半島は東から西にのびている。どちらも行ったことがない。

 本を読んでいて知らない地名が出てくると地図を見る。昔の自分は読み飛ばしていた。再読すると、読みの抜けや記憶のあやふやさに気づく。ゆっくり読んでも、常に早とちりや勘違いをしている。とくに時系列の読み間違いが多い。気をつけたい。

2026/09/16

解疑

 若者の何とか離れという言葉があるが、中年・中高年もいろいろ離れる。高校野球が終わってからテレビの視聴時間が激減した。たまに見るとCMがうるさく聞こえる。
 近所の某コンビニはレジのところにスクリーンがあり、某社のお茶のCMが流れているのだが、出演者の声が苦手で、その店から足が遠ざかってしまった。
 インターネットも広告を踏まないと先に進めない記事は読まない。「広告=邪魔なもの」という認識になっている。

 九月十二日(土)、午前十一時、西部古書会館。「今日は早いですね」と声をかけられる。均一祭ではないが、百円〜二百円の本が多かった。ガレージで『旅』特集「峠と街道」(一九七三年十一月号、日本交通公社)を見つけ、喜びに浸る。『旅』の街道関係の特集はほぼ揃えたつもりだったが、この号は未入手だった。一九七〇年代の『旅』は連載も充実している。

 この日買った大井重二郎著『万葉集歌枕の解疑』(双文社出版、一九八〇年)は「『伊勢国』伊良湖島」の項あり。渥美半島の先端にある伊良湖(愛知県田原市)は、万葉時代、伊勢の国だった——ということをわたしは木山捷平の紀行文(『新編 日本の旅あちこち』講談社文芸文庫)で知った。現在は「伊良湖=三河国」説のほうが主流なのだが、大井重二郎は「伊良湖=伊勢国」説を探っている。わたしは知らないことを知ると「そうだったのか」と信じてしまいそうになる。万葉の時代の「伊良湖=伊勢国」説を一度も疑ったことがなかった。本に書いてあることが正しいとは限らない。不案内な分野だと判断できない。半信半疑の状態を保ち続けるのはむずかしい。なんとなくおかしいとおもっても、人間の脳は自分が信じたいほうに辻褄合わせをしてしまう。

 自分の知らない情報を拒絶する人もいる。知らない話になると強引に話題を変える。会話が一方通行になる。

 膨大な情報に接しているにもかかわらず、常に現実とかけ離れた結論に至ってしまう人がいる。自分の判断を正しいと信じ、それ以外の選択をした人間を否定する。一度そういう癖がついてしまうとなかなか治らない。

2026/09/13

浜街道

 九月、雨続き。日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)も一日四、五千歩くらいの日が続いていた。
 先週、近所の飲み屋で『フライの雑誌』の堀内正徳さんと飲んでいて、八王子と横浜をつなぐ「絹の道(浜街道)」の話になった。
 堀内さんは絹の道資料館(八王子市)に行ったことがある(フライの雑誌社からも近い)。
 同資料館の近くには旧鎌倉街道の未舗装の古道(鑓水峠)が残っている。鑓水峠のあたりを歩きたい。そんな話をした。「行きましょう」となった。

 九月十一日(金)、午後一時にJR中央線豊田駅で待ち合わせ。堀内さんの車で絹の道資料館に向かう。資料館の人に挨拶し、車を停め、大塚山公園まで歩いた。
 午前中、雨が降ったので道がぬかるんでいる。石の上を歩くと滑る。樹木が生い茂っている。森の中を歩いている感じだった。釣人の堀内さんはそういう道に慣れている。
 大塚山公園の前に「絹の道」の碑がある。

 馬場喜信著『浜街道 「絹の道」のはなし』(かたくら書店新書、二〇〇一年)の「大塚山公園 道了堂のあと」にこの碑の話が出てくる。

《この「絹の道」の碑は、一九五七(昭和三二)年に、故橋本義夫氏(一九〇二~八五)が中心となって建てたもので、浜街道を日本のシルクロードとして、すっかり有名にした記念碑です》

 古道の坂道を二十分くらい歩いて大塚山公園へ。かつては道了堂という御堂があったが、今はない。

《道了堂は、鑓水商人の没落とともにおとろえてゆき、ついに、一九六三年(昭和三八年)に廃寺となりました》

《大塚山は江戸時代のむかしから「十二州見晴らし」と呼ばれて、人々によく知られていました》

 この日、曇り空で山は見えなかった。大塚山公園のすぐ近くの道(古道ではない)から八王子市内を一望することができた。多摩丘陵の地形も面白い。
 公園からの下り道。歩幅を小さく、ゆっくり歩いていたのだが、足が滑り、一度転んで尻もちをついた。
 古道の入口に戻り、絹の道資料館。「大塚山道了堂境内図」という古い絵図がよかった(富士山、筑波山、江ノ島鎌倉、伊豆大島なども描かれていた)。八王子から筑波山が見えた……というのは信じられない(たぶん見えた)。
 浜街道(絹の道)は、神奈川往還、武蔵道、町田街道(一部)などの名もある。同じ街道でも場所ごとに名前が変わる。そのあたりは川と似ている。

 さらに資料館周辺の一里塚(最初、場所がわからず)、道標を見て、鑓水諏訪神社に行く。急な石段(雨のあとは怖い)を慎重に登る。
 街道歩くようになって以来、自分が小柄でよかったとおもうことが増えた。たぶん体が小さい人のほうが坂道に強い。長距離歩行も向いている。転んだときのダメージも小さい(昔から受け身だけは得意だった)。

 帰りは八王子駅まで送ってもらう。八王子も甲州街道の宿場町である。コーヒー好きの堀内さんに案内してもらった歓楽街の喫茶店(憩)、居心地よかった。