2026/07/30

万葉閑話

 福原麟太郎著『読書と或る人生』(新潮選書、一九六七年)にこんな一節があった。

《この間の戦争に日本の青年や学生たちはどんな本を持って出征したのであったろうか。『万葉集』を彼らが愛したことを私は覚えている》

 ここのところ、わたしは『万葉集』にとりつかれている。歌枕について調べているうちに和歌の世界に入り浸るようになった。街道歩きをしていると万葉の歌碑をよく見かける。行く先々で見る。
 日々の生活に疲れていた四十代から五十代にかけて、街道と歌枕の面白さを知ったのは幸甚だった。一生飽きない暇つぶしの種を見つけた気分である。

 そもそも歌枕に興味を持つきっかけは福原麟太郎の随筆「命なりけり」——そのタイトルの元になっている西行の和歌がきっかけだった。

《年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山》

 五十代後半になって、自分が古典好きになるとはおもわなかった。本に導かれ、迷わされ、今に至る。

『読書と或る人生』で、福原麟太郎は出征兵士と『万葉集』について、「遠い昔を今に語る日本人の叙情を喜んだのであろうか」とその心情を推察している。

《古典文学には人間的な古めかしい美しさと並んで、やはり祖国的な香りや味があってそれが古典の意味を深めているのか》

《『万葉集』は出征兵士が背嚢の中に入れてゆくに適当な詩歌集であったのであろう》

 日中戦争、太平洋戦争の時期、『万葉集』は、国威発揚や戦意高揚に利用された。
 西行や芭蕉もそうだった。
 戦後の日本は軍国主義の社会を変えていかねばならない(その方向性は正しい)という気持が強すぎて、俳句も短歌も川柳も否定する人たちがいた。
 戦時中の日本は様々な娯楽を禁じた結果、多くの文化を歪めてしまった。「『万葉集』くらい気楽に読ませろや」と不満を溜めていた人はけっこういたはずだ。

 わたしは山上憶良の影響で伯耆の国や大宰府に行きたくなっている。
 奈良時代の鳥取や福岡の町がどんな感じだったのか知りたい。ひょっとしたら頻繁に遷都していた都より、住みやすかったのではないか。

 大宰府には山上憶良もそうだが、大伴旅人もいた。
 詩——歌を作る上で都と地方の両方の風土、暮らしを知っていることは創作の面でもプラスに働いたにちがいない。

 時代はちがえど、わたしの友人知人も東京からいろいろな場所に移住し、農業をしたり、雑誌を作ったり、音楽をやったり、楽しそうに暮らしている。
 しかも昔とは比べられないくらい移動も楽になった。

『万葉集』を読みながら、自分が高円寺にいる意味について、ついつい考えてしまう。もちろん町への愛着はある。行きつけの飲み屋と西部古書会館――この二つも東京を離れがたい理由になっている。

 いっぽう毎日外で酒を飲まなくなったし、本の置き場所には年中困っている。

 もうすこし家賃が安くて広い部屋が借りられる町に引っ越してもいいのではないか。何十年と同じことを自問自答している。そして結論はいつもうやむやになる。

 山上憶良が伯耆守に任命されたのは今のわたしと同じくらいの齢(五十六、七歳)である。さらに大宰府に赴任したのは六十代半ばすぎだった。奈良時代の平均寿命を考えると、かなりの高齢である。

『万葉集』を読みはじめ、真っ先に山上憶良が気になったのも年齢の問題もある。還暦すぎても創作意欲が衰えなかったどころか、『貧窮問答歌』をはじめ、代表作は大宰府時代に作られている。

 これぞ万葉のロマンである。

2026/07/26

二人の山田五郎

 山田五郎が亡くなった。享年六十七。一九五八年十二月生まれ。共著を含め、著作もいろいろ出している。

 山田五郎の思い出……といっても面識はない。昔、二十代半ばの半失業時代に、わたしは古本屋で山田五郎著『キャフェのテラスで』(清水弘文堂書房、一九八八年)という本を買った。

 わたしがこの本を買った時期は、ちょうど山田五郎がテレビに出始めたころだ。

『キャフェのテラスで』の山田五郎はおそらく一九四〇年前後の生まれ。普通に読めば、まちがえることはない。でも『キャフェ』の山田さん、上智大学卒でヨーロッパに留学をしていて、若いころから雑誌に文章を書き、編集の仕事もしているのである。ほな山田五郎やないか。

 本の帯には「『時』の熟成を伝える『軽文学』の響き!」とある。

『キャフェのテラスで』はやや縦が短い判型で、短文を集めたエッセイ集である。この本に「原稿」と題したエッセイがある。

《私のまわりには、二種類の人間がいる。文章を紙に書きつけるとお金になると考えている人間と、書けば書くほど出費がかさむと考える人である》

《ある時、「もの書き」の一人が、つくづくと話してきかせれくれたことには、同人雑誌に載っている作品ほど、コワイものはないそうである。なにしろ、身銭をきって書くのである》

『キャフェのテラスで』のプロフィール欄には「東京・有楽町にて街頭詩人を勤める。『月刊えくてびあん』編集人。ぐるーぷ・ぱあめ同人。文芸誌『とんぼ』同人」とある。生年月日は載っていない。

 創作集団「ぐるーぷ・ぱあめ」の礒貝浩は同書の装丁・挿画を手がけている。「ぐるーぷ・ぱあめ」は“伝説”の編集プロダクションである。礒貝浩と山田五郎は上智大学時代の知り合い。礒貝浩は一九四〇年生まれ。『キャフェ』の山田五郎も同世代だろう。

 わたしは仕事部屋の本棚に『キャフェのテラスで』と『山田五郎のマニア解体新書』(講談社、二〇〇六年)を並べていた。

『山田五郎のマニア解体新書』の冒頭には「『マニア道』十一箇条」(山田五郎 認定!)が載っている。

一、マニアは趣味を仕事にしない
一、マニアは見返りを期待しない
一、マニアは決して妥協しない
一、マニアは変に欲張らない
一、マニアは気を散らさない
一、マニアは手間ひま、カネを惜しまない
一、マニアは他人にやさしく、自分に厳しい
一、マニアは無口なほうがいい
一、マニアは意味を求めない
一、マニアに定年はない
一、マニアは(いろんな意味で)怖い

 山田五郎自身、いろいろなものを収集してきたが「マニア」の域には達していないと自嘲している。
 同書の対談でみうらじゅんは「人を喜ばせようとか、笑いをとろうとか、エンタテインメントが入るとマニアじゃなくなると思う」と語っている。

 山田五郎著『キャフェのテラスで』に「散歩」というエッセイがある。

《散歩は「趣味」などという範疇はとうに超えている。何かの「役に立つ」というような実用性はない。だからといって即「趣味」と規定するのは早計にすぎよう。断固、何の役にもたたない。むしろ、ここに散歩の骨頂があり、「可愛らしさ」もそこにある》

 街頭詩人であり、同人誌活動もしていた『キャフェ』の山田五郎はNHK・FMの「クロスオーバーイレブン」の台本のスクリプトを担当していた。一九六〇年代の話である。

 何をどう読んでも別人なのだが、わたしは二人の山田五郎を同一人物と思っていた時期がある。別人とわかっていて、それでも読みたいならかまわないが、勘違いで購入しないよう気をつけてください。

(追記) 『キャフェのテラスで』のインターネットの古書価の話を書いたが、記憶違いの可能性があったのでその部分を削りました。ちなみに現在(七月二十八日)在庫なし。『山田五郎のマニア解体新書』も入手難になっているようだ。

2026/07/21

月は上弦

 三連休、ずっと高円寺で過ごす。十八日(土)は西部古書会館と大和町八幡神社の大盆踊り会、十九日(日)は……何をしてたか。布団カバーを洗ったり、大量のタマネギを刻んだり、ニンジンをピーラーで削ったりした。あと漫画を読んでいた。
 二十日(月・祝)は夕方起きて、午後六時半すぎ、高円寺図書館に行く。三階の階段付近から東京スカイツリーがよく見えた。連休の最終日は空が澄んでいる(「週末効果」という言葉があるそうだ)。図書館を出て五日市街道に向かい、富士山が見えるかどうか確かめに行く。東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅近くの青梅街道と五日市街道の分岐点のすこし先の歩道から真っ正面に富士山が見えた。山頂付近はやや雲がかかっていた。

『別冊太陽』特集「古地図を歩く」(一九七六年九月号)を読む。古地図蒐集家・岩田豊樹「古地図入門」の記事が面白い。

《古書展風景を見ると、開門前に行列ができ、我先に目標の棚に突進して陳列棚が倒れた事もあり、売る店以上に収集家の熱は恐ろしい。この常連は古地図の相場と史料価値の知識があり、目星しい図はやはり彼らによって買われてしまう場合が多い》

 五十年前の古書展の記録。昔も今も変わらない。わたしは初日の開館前に並ばなくなって久しい(ゆっくり棚を見たいから)。地図は図録か製本されたものを集めている。古書会館は本だけでなく、絵葉書や地図などの紙モノも売っている。

 万葉集ブームは続いている。大伴旅人の讃酒歌がいい。「験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし」の歌は、現在の酒飲みといっていることが変わらない。考えても仕方がないことで悩むくらいなら、一杯の濁酒(ドブロク)を飲んだほうがよい。そのとおりだとおもう。

 旅人は山上憶良と同時代の歌人で交友関係も深かった。
 私小説作家にたとえると、山上憶良=尾崎一雄、大伴旅人=上林暁という印象だ。といっても、万葉集に関しては今のわたしは浅瀬で足をぱしゃぱしゃしているくらいの感じなので、この先、考えが変わるかもしれない。

 あと高橋虫麻呂も気になる。生没年不詳。常陸の国にいたらしい——ということはわかっている。以前、千葉県市川市の真間川を散策したとき、虫麻呂の歌碑を見た。真間川沿いは晩年の永井荷風も暮らしていた。

 ここ数日、夜九時ごろ、西の空あたりに月がかなり大きく明るく見える。
 馬橋公園から阿佐谷けやき公園屋上部まで歩いて新宿方面の夜景を眺め、月を見ながら家に帰った。