昨晩、深夜二時まで飲んで家に帰ってすぐ寝る。ひさしぶりに十時間睡眠。寝過ぎかなとおもったが、頭と体がすっきりして楽になる。
いつから家にあるのかわからないくらい長く使っている爪切がある。たぶん三十年以上。自分で買った記憶はない。
もはや切れ味は新品のころと比べるとかなり落ちている。でも切れすぎないから、使いやすい。新しい爪切もいくつか持っているが、そうはいかない。
愛用している爪切をお湯で洗った。すると「SAKAI-TOHJI SINCE 1805」という文字が刻まれていた。
SAKAI-TOHJIは堺刀司。一八〇五(文化二)年創業の和泉利器製作所であることがわかった。
堺刀司のオンラインショップを見ると、愛用の爪切と同じものがあった。「堺の歴史爪切」というシリーズの「青色 神父」。千百円(税込み)。
爪切には帽子を被った三人(一人は十字架をかけている)のおじさんの絵が描かれている。
おそらくフランシスコ・ザビエルとその一行の絵だろう。
一五五〇(天文十九)年十二月上旬、ザビエルは二人の従者を連れて堺の地を訪れている。
大阪堺市の二百二十年以上前にできた会社の爪切だと知らずに使い続けてきた。今回はたまたま判明したが、知らないままの道具はいくらでもある。
家で一番よく使うステンレスのハサミを調べたら、岐阜県関市の長谷川刃物(創業一九三三年)のものだった。さっきまで知らなかった。二十年以上前に高円寺駅の近くの文房具屋で買った。
岐阜県関市はドイツのゾーリンゲン、イギリスのシェフィールドと共に「世界三大刃物産地」である。
文壇高円寺
2026/05/22
道具の歴史
2026/05/16
桃園町余話
五月十五日(金)、午前中、西部古書会館。『別冊太陽 パノラマ地図の世界』(平凡社、二〇〇三年)を買う。五百円。近所の図書館にもあり、数回借りていた。
現物を何度か手にとっていると、見つけやすくなる。別冊太陽は二〇〇二年に『吉田初三郎のパノラマ地図』を刊行している。
この日、コタツ布団を洗濯する。翌日、押入にしまう。コタツ布団と入れ替えで扇風機を出す。
夜、中野散歩。桃園川緑道を通り、駅の北口に向かい、ブックファースト中野店のちヨークフーズ。四季の森公園を通って高円寺に帰る。この散歩コースも定番になっている。
……二〇二〇年六月五日の当ブログ「中野桃園町」で山本容朗著『作家の生態学(エコロジー)』(文春文庫、一九八五年)所収「野坂昭如」の次の箇所を引用した。
《丸谷才一も、野坂人脈には、欠くことが出来ない。なにしろ、野坂の旧制新潟高校の先輩で、その上、結婚式の仲人である。丸谷は、今、目黒のマンションにいるが、その前、中野にいた。目と鼻の先に住んでいた私は、時々遊びにいった》
わたしはかつて丸谷才一がいた「中野」の「目と鼻の先」に山本容朗も住んでいたと知り、引用部の「中野」を中野桃園町と勘違いした。丸谷才一に「中野桃園町」(『低空飛行』新潮文庫、一九八〇年/単行本は一九七七年)というエッセイがあり、その印象が強かったからだろう。
丸谷は一九六七年ごろ、中野桃園町から丸ノ内線の新中野駅が最寄りの十貫坂の近くのマンションに移り住んでいる。
《数年前、杉並と中野の境のところにあるアパートに引っ越した》(「十貫坂にて」/丸谷才一著『低空飛行』)
山本容朗著『東京近郊ぶらり文学散歩』(文藝春秋、一九九四年)には「ラーメンの町・荻窪を歩く」で「東高円寺駅から徒歩五、六分の場所に住んでいる」とある。
この部分を読み、山本容朗の住まいは桃園町ではなく、十貫坂の周辺かもしれないとおもったわけだ。
作家がいつ・どこに住んでいたかという問題はややこしい(引っ越し回数が多い人はとくに)。
中野桃園町が中野三丁目などの地名に変わったのは一九六六年十月。かれこれ六十年前である。
わたしが高円寺に引っ越してきたのは一九八九年秋——以来、数えきれないくらい中野駅の周辺を歩いているが、青梅街道の南の十貫坂のほうは不案内だった。
東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅〜新中野駅あたりをちょくちょく散策するようになったのは二〇二一年以降である。
故人の評論家がどこに住んでいたか——たぶん些細な問題だろう。昔読んだ本を再読すると、地理と時系列(年代)を読み間違えていることが多い。読書の癖を自覚していても間違える。
昨日、『作家の生態学(エコロジー)』が行方不明になっていて、半日くらい部屋を探し回った。買い直すかどうか検討していたら見つかった。
《私は、作家の随筆、紀行文など、所謂、雑文のたぐいを読むのが好きだ》
——『作家の生態学(エコロジー)』の表題になっているエッセイにあった言葉。この一文は初読のときから記憶に残っている。自分もまったく同じだとおもったからだ。
そして「雑文の名手といったら、まず、私は吉行淳之介さんと、山口(瞳)さんをあげたい」と書いている。これも共感した。
とくに山口瞳の『酒呑みの自己弁護』(新潮文庫、一九七九年/単行本は一九七三年)は山本容朗の「大事な本」だった。
《自宅と仕事部屋に書籍が分散しているせいか、この『酒呑みの自己弁護』は、探せば単行本を含めると、同じ本が五、六冊あるのじゃないか》
初出は一九八四年ごろ。山本容朗は五十四歳。本が見つからないと買って、そして増える。
『作家の生態学(エコロジー)』は過去の単行本『文壇百話 ここだけの話』(潮出版社、一九七八年)、『現代作家 その世界』(翠楊社、一九七二年、みき書房の増補版あり)などに収録した文章を再編集した文庫である。ひさしぶりの再読だが、面白い。この先も何度か読み返す本になるだろう。
2026/05/11
東京近郊ぶらり文学散歩
ここ数日、日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)は目標歩数に達しない日が続いている。急に暖かくなったせいか、やや夏バテ気味。継続は力というが、時々休んだほうが長続きする——という考え方もある。
今、所持しているデジタル万歩計は午前三時に歩数のカウントが切り替わる。
朝寝昼起のわたしはだいたいその時間は起きている。
午前三時前——ちょくちょく目標の歩数のために散歩していたのだが、その時間に歩くと頭がさえてしまい、眠れなくなる。日課の散歩をはじめたのは、よりよい睡眠のためであるから、これでは本末転倒である。
前の日おもうように歩けなかったら、次の日、その分多めに歩いて足して二で割る方式も試みた。せっかくの気分転換の散歩にもかかわらず、昨日を引きずっている感じがしてやめた。
部屋でごろごろしながら、山本容朗著『東京近郊ぶらり文学散歩』(文藝春秋、一九九四年)を読む。同書「水の郷へ、今昔旅模様 土浦」に高田保の名前が出てくる。高田保は一八九五(明治二十八)年土浦生まれ。山本容朗はこの本の中で旧水戸街道を何度か歩いている。土浦は水戸街道の宿場町だった。
同エッセイには尾崎一雄の名前も出てくる。
《尾崎一雄には「土浦行」という短篇がある。これはこの作家が早稲田大学時代に一方ならず世話になった山口剛先生の三十三回忌の法会のため、土浦に行く話で、昭和四十年一月の『小説新潮』に発表された》
尾崎一雄「土浦行」は『随想集 四角な机・丸い机』(新潮社、一九七四年)に所収。
山本容朗は文壇ゴシップの書き手として知られるが、紀行エッセイも素晴らしい。
同書「ラーメンの町・荻窪を歩く」では、井伏鱒二の『荻窪風土記』に出てくる蕎麦屋の話にふれつつ、こんな一文を書いている。
《私は丸ノ内線・東高円寺駅から徒歩五、六分の場所に住んでいるので、地下鉄に乗ってよく行った》
以前、このブログで山本容朗は「中野桃園町の住人」と書いたことがある。東高円寺駅は杉並区と中野区の区境が近い。
《荻窪はラーメンの町だが、有名な「春木屋」や「丸福」を避け、「丸信」という店へいく》
同エッセイの初出は「食の文学館」(一九九一年八月号)。
山本容朗は一九三〇年四月生まれ。還暦すぎの随筆である。当時、井伏鱒二は生きていた(一九九三年七月没)。
わたしは「荻窪らーめん はなや」が好きだった。昨年八月閉店した。以来、荻窪でラーメンを食べていない。
(追記) 山本容朗のことを「中野桃園町の住人」と書いたのはわたしの早とちり(「中野桃園町」/文壇高円寺、二〇二〇年六月五日)。 最寄り駅が東高円寺駅の山本容朗の住まいは桃園町ではなく、十貫坂周辺の可能性が高い。