2026/09/03

返り花

 ついこのあいだ八月になったばかりという気分なのだが、もう九月。この勢いだと今年もすぐ終わりそう。

 八月二十九日(土)、三十日(日)、東京高円寺阿波踊り。初日は小雨。町が混む前にスーパーで買物する。店を出たところでコクテイル書房の狩野俊さんと会う(狩野さんとは道でよく会う)。夕方、高円寺駅南口のとんかつ松永の串かつと卵串、北口庚申通りの焼肉肉一のカルビ串を買う。昨年と同じまつりメシ。日曜は抱瓶の沖縄焼きそば(塩)と生ビール(オリオン)。これも昨年と同じである。人混みを避け、ビールを飲みながら住宅街の細い道を歩く。途中、知り合いと会い、「お、いいかんじだね」といわれる。

 日曜は西部古書会館にも行った。『練馬の道』(練馬教育委員会、一九七四年)、吉井貞俊著『遊行 伊勢本街道』(美学社、一九九三年)など。最近、郷土史の冊子を西部古書会館でよく見る(前からあったのだろう。自分が素通りしていただけの可能性が高い)。練馬区は青梅街道や川越街道、さらに鎌倉の古道といわれる道も通っている。

 すこし前、西部古書会館で同じ古書店が出品していた『いたばしの街道めぐり』(板橋区教育委員会、一九七一年、改訂二版は一九七六年)を買った。この冊子もよかった。わたしは郷土史の冊子の手描きの地図が好きである。

 東中野の「ロッホ」(後の「ユーカリ」)のことが気になり、林哲夫著『喫茶店の時代 あのとき こんな店があった』(ちくま文庫、二〇二〇年)の「女たちの東中野」のところを読む。「ユーカリ」のエピソードがいろいろ出てくる。

 福田清人の随筆を読んでみたいとおもい、日本の古本屋で『返り花 私の俳句歳時記』(明治書院、一九八三年)を注文し、九月二日(火)に届いた。
 同書に「東京生活五十年」という随筆が収録されている。

 一九二六(大正十五)年春に福田清人は長崎から上京し、東中野の大村学寮に入る。隣は野口米次郎邸だった。野口米次郎は詩人で評論家。彫刻家のイサム・ノグチの父でもある。
 東京の引っ越し遍歴は綴っているが、「ロッホ」「ユーカリ」は出てこない。

「私の武蔵野」は杉並区成宗(成田西)の話。

《私の家から旧道を逆に東へ四、五分歩くと、阿佐谷方面から曲がりくねって来た鎌倉街道が交差している》

 成宗の周辺は鎌倉攻めの古戦場だったらしい。知らなかった。

「中央線沿線」は中央線文士の話を書いている。

《中野、阿佐谷、荻窪にかけての中央線沿線は、戦前は若い作家たちの居住地帯であった。(中略)当時は手頃な貸家があり、自由な空気が漂い、支えあい、競いあう仲間が周辺にいるといったせいであったろうか》

《それまで中央線文士の主といってよかったのは、新居格であったろう。新居さんは、戦後の選挙による杉並区長に当選した》

 同随筆には「荻窪の古本市」の話も出てくる。

《戦後、数年荻窪のある会館で月一回、古書展が催されていた。その日は午後の大体の時間を決めておいて、上林暁、瀬沼茂樹と落ちあった》

 古書展のあと、喫茶店か飲み屋に寄り、その日の収穫を見せ合う。
 わたしも西部古書会館で岡崎武志さんと会うと、そのあと喫茶店で古本談議をすることがある。昔も今も似たようなことをしている。

「七十の若さ」という随筆は東中野の日本閣で開催された横山敏司の出版記念会の話。

《東中野の出版会の夜、早退した瀬沼君のあと、十和田君と、小雨の中を私のアルト・ハイデルベルヒの情の湧く土地を少し歩いてみた。若い日、よく通った小さい酒場ユーカリのあともむなしく、新しい道路が冷たい雨にぬれて光っていた》

「十和田君」は十和田操。この日の会のゲストだった。

2026/08/28

夢花火

 平日木曜夕方、西部古書会館(初日)。古書ことばも参加していて、面白い棚を見ることができた。ガレージや館内にレコードやCDも並んでいた。井上陽水『少年時代』(一九九〇年)の8センチシングル(短冊CD)を買う。百円。ジャケットは藤子不二雄Ⓐの同名漫画『少年時代』。表側にバーコードが入っている。井上陽水『少年時代』のシングルCDは二〇〇八年に再発盤(12センチ)も出ている。
 ほかに津田正四著『福田清人と「文芸広場」』(かたりべ叢書、宮本企画、一九九〇年)など。文庫サイズの叢書。同叢書の「東京暮し六十年」を読む。福田清人は学生時代に東中野(寮)、それから北新宿三丁目(下宿)、世田谷代田(下宿)、東北沢(下宿)、雑司谷(借家)、目白(借家)、豊島区長崎南町(借家)、杉並区和田本町(借家)、杉並区成宗(自宅)と移り住んでいる。
 東中野時代の話に「ロッホ」(後に「ユーカリ」と改名)という喫茶店と酒場を兼ねた店が出てくる。「ロッホ」は「穴」という意味らしい。

《店の娘のヨッちゃんは美人という訳ではないが奔放でテーブルの上に立って「どん底」の唄などを歌っていた。店には林房雄、村上知義、細田民樹、浜本浩、新居格などが現れていた》(「東京暮し六十年」/『文芸広場』一九八五年十二月号、八六年二、三月号より)

 福田清人は一九〇四年生まれ。東中野の学寮から「ロッホ」に通っていたのは一九二〇年代半ばあたりか。当時の「ヨッちゃん」は文壇の有名人だった。

 一九三五年、杉並区成宗(現・成田西)に引っ越した。成宗から成田西に名前が変わったのは一九六九年十月。成田西には成宗城跡がある(鎌倉街道も通っている)。もより駅は東京メトロ丸ノ内線南阿佐ケ谷駅、もしくは京王井の頭線浜田山駅である。

 上林暁の随筆「荻窪の古本市」(山本善行編『文と本と旅と 上林曉精選随筆集』中公文庫、二〇二二年)で上林が最初に会った本好きが福田清人である。

 成宗城がいつできたのか正確な年代はわからない。鎌倉時代からあったという伝承もあるが、築城は室町時代以降という説が有力のようだ。

(追記 その一)わたしが東中野の「ヨッちゃん」のことを知ったのは吉行淳之介著『懐かしい人たち』(ちくま文庫、二〇〇七年)の「三島事件当日の午後」である。

《いまではわが国のジャズ界の母親役のようになっている水島早苗女史は、昭和初年には当時の代表的なモダン・ガール(モガと略して呼ばれていた)で、「ユーカリのヨッちゃん」として有名だった。(中略)このヨッちゃんと私の若死した父親が親しくしていて、小学生のころからその名前を聞いていた》 

(追記 その二)東中野の「ロッホ」。『福田清人と「文芸広場」』に「ロシア語で『穴』を意味すると聞いた」とあり、当初、わたしもそう書いた。そのあと知り合いに「ロッホ」はドイツ語、もしくはアイルランド英語ではないかと教えてもらった。さらにイディッシュ語説も。

2026/08/24

夏の日記

 土曜日、午前中に西部古書会館。『万葉集』関係の本と街道の本を買う。夕方、雨と雷。日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)がおもうようにできない。
 深夜二時、茨城県南部で地震(最大震度五弱)。杉並区も震度四。長い揺れ。本棚の上に積んでいた本が落ちてきた。

 夏の甲子園終わる。今大会、真剣に見たのは八月十五日の三重高校と履正社高校の試合だけ。他の試合は仕事や家事の合間にちらちら眺める感じだった。年をとると野球を見るのも体力がいる。三重高校の校歌に「北は城趾の鈴の屋を」という歌詞がある。「鈴の屋」は本居宣長の書斎である。宣長は鈴の音色が好きで「鈴せんせい」と呼ばれていた。
 鈴の音を聞くと頭の疲れがとれる――宣長はそう信じていた。

 わたしは公園などの水景施設の水の音を聞くのが好きになった。なんとなく頭がすっきりする。
 今から二十年くらい前、三十代半ば、スポーツ心理学の本を読み耽っていた時期がある。怒り、焦り、不安などの感情は自分の脳が作り出しているにすぎない。歩いたり、樹木を見たり、水の音を聞いたりしているうちに、ささくれだった気分がすこしずつ治ってくる。

 深夜の地震で崩れた本の中に常盤新平著『うつむきながら、とぼとぼと』(読売新聞社、一九九二年)があった。この本に「夏の日記」が入っている。
 常盤新平は一九三一年三月生まれ。日記の冒頭付近に「この夏も暑くてかなわないし、証券会社、銀行のスキャンダルがぞくぞくと明るみに出て、いっそううっとうしい」とある。

 証券会社の巨額の損失補填が発覚し、大きく報じられたのは一九九一年の夏である。同じころ、尾上縫(おのうえぬい)事件をはじめ、銀行でも巨額の架空預金証書事件があった。この日記を書いていたころの常盤新平は六十歳。

 還暦になったばかりの常盤新平は一橋診療所で睡眠剤を処方してもらっている(日本とアメリカの行き来による時差ぼけの解消のため)。同診療所で血糖値を測る。いつもより高い。「美人の看護婦さん」から「なるべく水分をとってどんどん尿を出すようにしなさい」「ただし、ビールはいけませんよ」といわれる。

《ニューヨークから帰って、酒はほとんど飲んでいない。酒を飲むにも体力のいる年齢である》

 前にこの本を読んだのはいつだったか。「酒を飲むにも体力のいる年齢である」という文章はまったく覚えてなかった。
 今、この言葉が身にしみる。本を読むのも体力がいる。
 酒も弱くなった。昨今のプロ野球の中継ぎ投手のように連投は二日まで。回跨ぎ(ハシゴ酒)はなるべくしないようになった。
 今のところ加齢による体力の低下は節酒でどうにかカバーしている。そのカバーも効かなくなってきたら、どうするか。
 あらためて『うつむきながら、とぼとぼと』はいい題だなとおもった。