2026/05/06

古典とか

 五月四日(月)の都内の最高気温は二十七度。部屋の換気をしてエアコンの試運転をした。夕方、涼しい風が吹く。そろそろコタツ布団とヒーターをしまう予定である。

 この時期、tenki.jpの「黄砂情報」を時々チェックする。三年前の今くらいの時期、黄砂がすごく飛んでいた日に長時間散歩して体調を崩した。関東の黄砂の飛散量は九州や中国地方より少ないが、それでも空の色が変わるくらい飛ぶことがある。

 岡野弘彦が四月二十四日に亡くなった。享年一〇一。三重県一志郡美杉村(現・津市美杉町)の生まれ。川上山若宮八幡宮の神主の家に生まれた。神社はJR名松線の伊勢奥津駅から山に登ったところにある。駅の周辺は伊勢本街道の奥津宿——旧街道の雰囲気が残っている。岡野弘彦著『花幾年』(中公文庫)に郷里・美杉村の話を書いている。

 一志郡が市町村合併で津市、松阪市に編入された。美杉村が津市になったのは二〇〇六年一月、今年二十周年。平成の大合併以降の地理に疎い。奈良県の橿原と伊勢を直線で結んだとき、その中間あたりが伊勢奥津である。

 連休中、西部古書会館と高円寺図書館に行った。図書館の街道の本は歴史、地理、交通の棚などに分散している。街道と関係する和歌や物語絵巻、浮世絵(名所図)も別の棚にある。
 一つの分野にまとまらないところも街道の面白さかもしれない。

 図書館の隣の福寿院の渓斎英泉の墓参りをする。墓の横に英泉の案内板があり、生没年を見ると、一七九〇(寛政二)年生まれで一八四八(嘉永元)年七月二十二日没とあった。本によっては英泉の生まれた年は一七九一(寛政三)年としている書籍もある。五十七、八歳で亡くなった。
 当時の寿命もそうだが、大酒飲みだったという逸話が残っていることを考えると、よく生きたほうだろう。

 福寿院、長善寺、鳳林寺などがある曲がりくねった道を抜け、環七を渡り、東高円寺のかえる公園(アニメ『輪るピングドラム』に出てくる)、天祖神社に寄り、あまり通ったことのない住宅街の道を歩いていたら、昭和浴場という銭湯の前に出た。そのまま東に進み、中央西公園を通り、北のほうに行くと桃花小学校、庚申橋跡がある。小学校の横の中央公園、橋場公園を抜け、桃園川緑道に出る。
 再び、桃園川緑道を通り、高円寺に帰る。
 桃園川緑道――前から気になっていた今の時期に咲く白い花の木はピラカンサ(バラ科)という名前だった。

 五月二日(土)、昼すぎ、西部古書会館。そのあと野方から練馬にかけて散歩した。野方に行くときは妙正寺川のでんでん橋を渡る。散歩のときの持ち歩き本は久保田淳著『柳は緑 花は紅 古典歳時記』(小学館ライブラリー、一九九三年)。公園のベンチなどで一日十数頁ずつ読んでいる。奥付に「イラスト 柳柊二」とある。春夏秋冬の章のはじめに小さな花や葉っぱの精密な絵が載っている。柳柊二は怪奇もの、SFの挿絵で活躍した人。こういうのを見つけると嬉しい。

 東武ストアで乾麺などを買う。練馬駅北口の平成つつじ公園は(今年の四月から)改修中で入れず。帰りはバスに乗る。
 夕方、三重県、奈良県、和歌山県で地震があった。街道の研究で一八五四(安政元)年十二月の安政東海地震の本を何冊か読んだ。安政東海地震の震源は駿河湾奥。その年(嘉永七)の七月に伊賀上野地震が起きている。
 奈良や上野の地震は怖い。といって、個人にできることはなるべく健康を保つことくらいしかない。何事もなければそれでよし。

『些末事研究』vol.11が届く。特集は「自由に生きてみた」。座談「鶏を捌いて食べる」(内澤旬子、荻原魚雷、福田賢治)に参加した。創刊が二〇一四年三月だから、干支ひとまわり。だいたい年に一回。座談会の自分の喋り、あいかわらず、とっとらかっている。あと人の話を拾わない傾向がある。飲み屋でもよくやってしまう。

 同誌の座談会、大学の話になったとき、「当時は思わなかったけど、今は古典とか地理学とか、そういうのを学生時代に勉強しておけばよかったなって」と喋っている。

2026/04/30

白子と平坂

 街道の研究をはじめたのは二〇一六年六月(この年の五月末に父が亡くなった)からなので、まもなく十年になる。三重の郷土史、郷土文学の本を集めるようになったのも同じころか。
 街道と絡めて郷里(三重県)の歴史もちょこちょこ調べているのだが、今さらながら三重県の場合、陸路(東海道、伊勢街道)だけでなく、海路も重要だったことに気づく。伊勢商人は海運によって栄えた豪商である。

 わたしは東京と三重の往復でJRの在来線(東海道本線)によく乗る。在来線は車窓がいいし、途中下車して宿場町を散歩するのも楽しい。
 豊橋駅~名古屋駅の間は東海道沿いということもあって名鉄に乗ることが多い。

 次に帰省するときはJR東海道本線の海に近い駅を歩きたい。Googleの地図で三河地方のJRの駅周辺を見ていて、平坂街道を知った。
 平坂街道の始点の小坂井はJR飯田線の小坂井駅の近く。平坂街道は三河地方の塩を運ぶ「塩の道」でもあった。

 すこし前の西部古書会館の均一祭で買った海の博物館、石原義剛著『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』(風媒社、一九九六年)の目次を見ていたら第十章「三河湾全域 西尾から豊橋まで」という章があった。
 同章に「名残り少ない平坂湊」という小見出しがあり、「西尾市の観光や文化財地図に、三州五ヶ湊の一つだった平坂湊の史跡を伝えるものはない」と記されている。

 同書によれば「平坂湊は、現在、平坂入江と呼ばれる水筋の奥にあった」とのことだが、正確な場所は不明――。

 三州五ヶ湊は大浜(現・碧南市)、鷲塚(現・碧南市)、平坂(現・西尾市)、犬飼(現・蒲郡市)、御馬(現・豊川市御津町)で、一六三五(寛永一二)年に定められた。
 平坂湊は白子湊(三重県鈴鹿市)ともつながりがある。

 本多隆成、酒井一編『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)の第三章「東海道と伊勢湾の地域と民衆」の「伊勢湾の海運と伊勢商人」の項に「白子と平坂」という見出しがあった。読んでいたはずなのに記憶にない。知らない地名、固有名詞を読み飛ばしている。たぶんこの癖は治らない。

 江戸時代に白子湊と平坂湊は木綿などの運搬が盛んな港だった。この二つの港は尾張の物資の集荷も担っていた。

《白子廻船が運賃値上げを要求したり、洩積や拾荷などによって仲間荷物の運送に支障をきたしたときは、しばしば平坂が白子の代替港としての役割を担わされた》

 古代から伊勢と三河は伊勢湾をはさんで舟運が行われていた。白子湊も三河と行き来があった港の一つである。
 尾張や美濃の荷物を江戸に輸送するさい、なぜ伊勢湾対岸の白子湊が利用されたのか。

『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』の「鈴鹿 白子港と大黒屋光太夫」の項には「江戸初期から紀州藩の所領だった白子はその親藩としての特権を活用して、商売を発展させた」とある。

 江戸時代の白子湊は伊勢松阪や知多の木綿を集め、江戸に運んだ。庶民の衣料が麻から綿に変わり、木綿を染めるための型紙(伊勢型紙)が発展したのも当時の流通経路と関係ある。
 ちなみに松阪も紀州藩の飛地だった。

 白子湊から江戸に木綿を運び、帰りは房総半島で生産された干鰯(ほしか)を運んだといわれている。干鰯は鰯を乾燥させた肥料で木綿の栽培にも利用された。千葉には伊勢神宮の神領もあった。

 木綿商といえば、国学者の本居宣長の家(三重県松阪市)も江戸に店を持つ木綿問屋だった。宣長自身は商いに興味がなく(若き日に奉公に出るが一年くらいでやめて郷里に帰っている)、ひたすら書物と趣味に耽溺したいと願った道楽者である。地図(絵図)好きでもあった。自作の地図も残している。

 わたしが就職もせず、古本ばっかり読んでいる人生を送るようになったのは本居宣長の「好信楽」の教え……ではないけれど、街道の研究をはじめて以降、松阪は好きな町になった。
 鈴鹿と松阪、滋賀と松阪のつながりにも興味がある。
 鈴鹿もそうだが、松阪も伊勢参宮の往来によって情報が集まり、文化が育った——といろいろな本に書かれている。わたしもそうおもっていた。しかしやはり舟運、商人の情報網は無視できない。

 歴史を知ることで地理の感覚が変わる。地理を知り、歴史の認識が変わる。そういうことが今の自分には面白い。

2026/04/26

平坂街道

  寒暖差か気圧のせいだろうか、今週、軽い頭痛が続いていた。もう治ったが、今は様子見といったところ。
 ちょっとした不調でも不安になる。そして酒を控える。

 週末、西部古書会館。久々に予算オーバー(五千円超)。文学展パンフと街道の図録を大量に購入した。ガレージで『旅』特集「川の旅情」(一九七四年九月号)、『旅』特集「街道と町並みの旅」(一九八六年九月号)――日本交通公社を二冊。幸先よい。特集「街道と町並みの旅」の号は持っているかもしれないとおもいつつ、記憶にない表紙だったので買った。わたしが持っていたのは『別冊るるぶ愛蔵版13 街道と町並みの旅』(交通公社のMOOK、一九八二年)だった。『旅』と『別冊るるぶ』、特集のタイトルは同じだが、内容はちがう。

 日本交通公社出版事業局は『旅 別冊(愛蔵版)』というムックも刊行していた。『旅 別冊』の特集「地図 夢・謎・愉しみ」(一九八四年)、特集「花 情熱・神秘・驚異」(一九八五年)、特集「鉄道 追憶・熱狂・冒険」(一九八五年)の三号集めた。どの号もすごい。

『別冊るるぶ愛蔵版』はよく見る号とあまり見かけない号がある。ある特集の号を気長に探している。

 四、五十年前の『旅』を読むと、もうこの風景は見れない、ということ以上に、細部にまで力を入れ、熱のこもった雑誌を毎月作るのは不可能だという気持になる。

 家に帰り、東海圏の地図を見る。JR東海道本線の愛知御津(あいちみと)駅の周辺から三河湾に向かう平坂(へいさか)街道という道があることを知った。最初は数kmの短い道かとおもったら、約四十kmも続いている。江戸時代の感覚だと徒歩で丸一日の距離である。

 平坂街道は東海道の吉田宿(豊橋)と御油宿の間の小坂井(JR飯田線小坂井駅がもより駅)から分岐し、蒲郡を通り、平坂湊(西尾市)に至る道である。地図(Google Map)でルートを調べていて、何度も道を見失う。

 平坂湊は西尾市平坂町にあった。かつては西三河の水運の要所だったが、矢作川の河口付近は埋め立てられている。街道の終点の港があった場所を探す。「平坂港前」というバス停(平坂町丸山)があるが、わからない。

 今週の土日は高円寺びっくり大道芸開催。火を吹く人と高い所に吊るされて回る人と足に棒をつけて歩く人などを見る。高円寺図書館に行き、『週刊ベースボール』のバックナンバーを読み、街道の本を借りる。
 そのあと阿佐ケ谷散歩。南口のパールセンター商店街のカルディ、ココスナカムラで買物する。
 帰りは阿佐谷東公園を通り、桃園川緑道へ。阿佐谷東公園の隣の保育園に藤棚が見えた。阿佐ヶ谷神明宮の藤もそろそろ見頃か。藤を見るのは梅、桃、桜の次の楽しみになっている。