梅の話ばかり書いている気がするが、一昨日、五日市街道経由で梅里中央公園に行き、蠟梅(ロウバイ)を見てきた。そろそろ花が散りそう。
二十五年くらい前に住んでいたアパートの近くのお寺に寄る。梅とおもっていた木が、寒緋桜(カンヒザクラ)と知る。
散歩の途中、喫茶店に寄ったときに読む用の本をいつもカバンに入れている。座談集や対談集はすこしずつ読み継ぐのにちょうどいい。
数日前から外出先で梅棹忠夫編著『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』(NHK出版、二〇〇〇年)を再読している。前に読んだのは十年以上前か。どこかで文庫化していないかとおもい、紀伊國屋書店のサイトで検索したら、二〇二〇年に臨川書店が新装版を刊行していた。六年も気づかないとは……。元版の『日本の未来へ』はB6判で四六判の単行本よりすこし小さい(新書よりすこし大きい)。B6判の本はいい。
『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』の第II部「民族と国家、そして文明」の梅棹忠夫の発言、以前読んだときの付箋が残っている。
《梅棹 差別、少数者の問題は、違う文化、つまり自分が生まれ育った環境や風俗習慣、物の考え方と違うやつは全部悪いと思う。おかしいと思う。異端なるものと思う。基本的にはそういうことなんです。文化というのは要するに、「全部、自分が正しくて、ほかのやつは全部いかん」ということを教えるんです》
あらゆる文化は差別を孕んでいる。宗教や思想もそうかもしれない。
多くの移民を受け入れた国々で排外主義が巻き起こっている。
先進国の道徳からすれば、外国人を差別するのは悪である。いっぽう自国あるいは生まれ育った地域の風俗、風習を守りたいという人がいる。「自分が正しくて、ほかのやつは全部いかん」という考えは文化の根幹にある。ゆえに、摩擦が生じる。
梅棹氏の発言を受け、司馬遼太郎はこんな話をしている。
《司馬 梅棹さんのところの地域同人雑誌である『千里眼』にも、どなたか書いていましたね。日本人の顔の洗い方は特殊ですね。両手を上下に動かす。中国人は顔を動かす。で、他の連中は何々を動かす。青春時代に仲良くなった東南アジア系の人が日本人から見て、非常に下品な顔の洗い方をした。ところが、あとになってその人ともう一度話をしたところ、逆に「あなたを品のいい日本人だと思っていたが、あの洗い方は嫌だった」と(笑)。つまり、顔の洗い方一つで目の前が真っ暗になるほど相手を否定したくなる》
われわれの文化は正しい。否、世界に合わせてアップデートすべきだ。ローカル志向か、グローバル志向か。わたしはどっちつかずである。
一人の人間の中に「保守(仮)」の部分と「リベラル(仮)」の部分が混在している。この二つの間のゆらぎのようなものがなくなると思考が硬直化する。
そうなる前に隠居したい。