2026/06/09

道中閑話

 六月七日(日)、梅雨入り(関東甲信・東海地方)。夕方、阿佐ケ谷散歩。スギ薬局でおにぎりせんべいの銀シャリが売っていた。二袋買う。

 先週の西部古書会館は均一祭。初日、街道関係の本がけっこう出ていた。よくあることだが、一週間ちょっと前に日本の古本屋で買った本を見つけてしまう。
 この日は和田篤憲著『道中閑話 雲助・道中女・宿場』(協和書院、一九三七年)、大島延次郎著『日本交通史概論』(吉川弘文館、一九六四年)など。
『道中閑話』は、函入の本だが、中の本の装丁(大名行列の版画っぽい絵)がかっこいい。「森川武一文庫」という印有。本文はですます調だった。
 巻末に協和書院の図書目録が付いている。

 大島延次郎は『日本の路』(至文堂、一九五五年)を読んで以来、すこしずつ集めている。一八九四(明治二十七)年栃木生まれ。『日本交通史概論』は古代から近代までの道の歴史をまとめた一冊で写真や地図も随所に入っている。

 古代三関(伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発)について「大津を首都としたころに、三関とも近江の国境である大津の外側に、大津京の衛りのため設けられたのであろうと考えられる」とある。
 古代三関が大津京の防衛のために作られたという説は、本居宣長も述べていて、大島延次郎は宣長の説に賛意を示している。

 最新の研究成果——を知るのも面白いが、わたしは昔の学者の本が好きである。参考文献に見たことも聞いたこともないような史料が載っている。

 三十代のころは「(金はないが)時間がたっぷりある」というおもいが、自信の源になっていた。
 五十代後半——金も時間も気力も体力もない。多くの先人たちもこの問題に直面してきた。

 人間の寿命には限りがある。調べものに終わりはない。だからテーマを絞る。ゴールを決める。その重要性はわかっているつもりなのだが、街道に関しては知りたいことがどんどん増えてゆく。二十歳前後に文学が好きになったときもそうだった。「自分の好きな文学はこのあたりだ」とわかるのに十年くらいかかっている。

 街道の研究も十年。そろそろ軸を決めたい。

2026/06/02

都会の隙間

 不規則睡眠期に入る。朝寝昼起の生活が昼寝夜起、夜寝朝起とズレていく。そういう時期、夢をよく見る。
 鈴鹿の郷里の家から近鉄の急行で名古屋に向かう。名古屋駅を抜けて、地下街のエスカに入る。一九八八年、予備校時代の通学ルートである。ひさしぶりにそのころの夢を見た。

 夢の中で漫画喫茶に行く。名古屋ではじめて漫画喫茶を知った。上京後も漫画喫茶によく行った。

 通学や通勤で電車に乗る。今のわたしはそういう生活を送っていない。そのかわり散歩する。高円寺図書館には週二、三日くらい通っているかもしれない。図書館の階段を上がった三階のところでスカイツリーを観測している。
 今、万葉集関係の本を数冊借りている。

 散歩といえば、すこし前、セシオン杉並に行って「ぱーくまっぷ 杉並区公園マップ」を入手した。住宅街の小さな公園も載っている。
 公園の名前、樹木草花の名前……。長年、気にせず生きてきた。

 夜の七時前、桃園川緑道、馬橋稲荷神社、阿佐谷東公園を通り、阿佐ヶ谷パールセンターへ。阿佐谷東公園は何度も通っているが、いつも方向感覚がおかしくなる。
 八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店、世田谷ピンポンズさんの『都会なんて夢ばかり』『感傷は僕の背骨』(本の雑誌社)が平積になっていた。『都会なんて』の「いつものお店で待ち合わせ」にわたしも登場する。よく行く飲み屋も出てくる。家に帰って、三軒茶屋の話を読み返す。
 夜八時、阿佐ケ谷からの帰り道、けやき公園の屋上部で夜景を見る。
 スカイツリーが見える。階段付近から新宿方面を眺める。ドコモタワーと歌舞伎町タワーがよく見える。
 渋谷方面の光るビルは、渋谷スクランブルスクエア。ずっと名前がわからなかった。

 一日一回、遠くが見える場所、空が広く見える場所に行くと、いい気分転換になる。

2026/05/27

荒都

 散歩中、何ができて何ができないかということをよく考える。そうした思索は外を歩きながらのほうがよい。
 家の中だとできないことばかり考えてしまう。

 夕方、妙正寺川まで行く。川沿いの道は風の通りがよい。あと空が広く見える。

 どこを歩くか迷ったら、川、神社、公園を目指す。

 十年前に街道の研究をはじめた。そのうち歌枕に興味が出てきた。万葉集に出てくる地名を地図で調べる。あっという間に一日が過ぎてしまう。
 万葉集には近江大津宮をしのぶ歌がいくつかある。柿本人麻呂の「ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも むかしの人に またも逢はめやも」が有名か。

 大津宮は飛鳥時代——西暦六六七年に飛鳥岡本宮から遷都。六七二年の壬申の乱までの約五年間存在したといわれる都である。

 先週の西部古書会館で西郷信綱著『日本古代文学史』(岩波現代文庫、二〇〇五年)を買った。あちこち頁が折れている。前の持ち主は頁の下の角を折る人だったようだ。

 西郷信綱は梅崎春生の旧制第五高等学校時代の同級生(大学も同じ)。一九一六年大分県津久見の生まれ。

《万葉時代には一句の音数が五・七の十二音じたてに定型化していく傾向がいちじるしくなる。また、いくつかあった形式のうちひとり短歌形式が次第に超群するという現象があらわれてくる》

 万葉時代になると、記紀歌謡にはほとんどなかった情景歌、四季の歌が増えてくる。五・七出入りの句は、踊りの足どりからきている。

《『万葉集』をよむ場合、普通、まずすらすらと心をひかれるのは家持か赤人か憶良あたりで、それから人麿が面白くなり、初期への興味がおこってくるのは——もしおこってくるとすればだが——、一ばんおくれるのではないか》

 初期の万葉はとっつきにくく「背のびしないとつかめぬ何か異質なもの」がある——西郷信綱の言葉。わたしは「初期万葉」という区分すら知らなかった。五十代半ばあたりに地理、地名の関心から万葉集を読むようになった。街道を歩いていると、万葉の歌碑をよく見る。メモする。急ぎ足ではなく、ゆっくり学ぶことが古典をたのしむコツかもしれない。

 万葉の時代、さらにその前の時代——歌と踊りは不可分の関係にあった。

『日本古代文学史』では、人麻呂(人麿)の近江荒都の歌を取り上げている。

《玉たすき、畝傍(うねび)の山の、橿原の、日知(ひじり)の御世ゆ、あれましし、神のことごと、樛(つが)の木の、いやつぎつぎに天(あめ)の下、知らしめししを、天(そら)にみつ、大和を置きて、あをによし、奈良山を越え、いかさまに、念(おも)ほしめせか、天(あま)ざかる、夷(ひな)にはあれど、石走る、近江の国の、楽浪(ささなみ)の、大津の宮に、天の下、知らしめしけむ、天皇(すめろぎ)の、神の命(みこと)の、大宮は、ここと聞けども、大殿は、ここと云へども、春草の、茂く生ひたる、霞立つ、春日の霧(き)れる、ももしきの大宮処、見れば悲しも(巻一)》

 西郷信綱は「玉たすき」「あをによし」などの枕詞は神語、口踊歌謡の呪句、聴覚的暗喩だったと解説している。

 冒頭「玉たすき、畝傍の山の、橿原の」を読み、奈良県橿原市に人麿神社があることを思い出した。以前、奈良の橿原からの古道を調べていたとき、人麿関係の神社があちこちにあることを知った。兵庫県明石市の柿本神社、島根県益田市の高津柿本神社もそう。

 郷里の古代三関の鈴鹿関(東海道)は、近江大津宮(大津京)と関係が深い。鈴鹿関は大津京の東方防衛のための関所だった。同じく古代三関の東山道の不破関、北陸道の愛発(あらち)関も大津京のころの交通の要所だった。

 古典を読むとき、東海道が伊勢廻りか美濃廻りか、また伊勢廻りであれば、伊賀越(加太越)か鈴鹿峠越か——その時代の東海道の経路が気になる。

 郷里の三重にいたころ、伊賀や名張は遠く感じていた。街道に興味を持ちはじめてから、それらの地が交通の要所だったと知った。
 四日市や津ではなく、なぜ鈴鹿に伊勢の国府があったのか。
 古代三関の鈴鹿関の管理が国司の重要な任務だったからだといわれている。

 古典や歴史の本を読んでいて、郷里がすこしでも関係していると興味が強まる。
 生まれ育った町や今暮らしている町の知らない歴史を知る。地理や歴史が自分と重なる。

 自分の場所がすこしずつ広がっていく感じがする。