2024/12/04

成長の罠 その一

 十二月。本の運び出しなどで久々に筋肉痛になる。ようやく資料の整理もゴールが見えてきた。気疲れの要素のない単純作業を続けていると、ランナーズハイみたいな状態になる。

 付箋を貼ったまま行方不明になっていた本——塩沢由典著『今よりマシな日本社会をどう作れるか 経済学者の視野から』(編集グループSURE、二〇一三年)が見つかった。この本に「成功の罠」という言葉が出てくる。

 日本が欧米諸国を追いかける立場だったころは経済も活発だった。ところが、トップランナーの仲間入りした途端、長い低迷期に突入し、今に至る。

《キャッチアップの時代とトップランナーの時代とでは、本当は社会のあり方、教育、あらゆるものが変わらなければいけないはずだった》

 しかし日本は変わらなかった。変われなかった。

《経営学の世界ではよく「成功の罠」という言葉を使います。経営学では、この言葉は企業の経営方針について使うのですが、日本の場合は、経済全体が「成功の罠」に陥ってしまった》

 キャッチアップの時代からトップランナーの時代になっても、ずっと同じやり方を続けていれば、社会は低迷する。スポーツ、芸事などでも、素人のうちは、ちょっと練習すれば上達するが、レベルが上がるにつれ、そうもいかなくなる。それと似ている。

 経済学には古典派、新古典派など、いろいろな派がある。どの理論も一長一短というか、完璧なものはない。あらゆる政策が誰かにとってプラスになれば、マイナスになることもある。プラスマイナスゼロの人もいる。

 おそらく誰もが満足できるような理論はない(たとえば、わたしは累進課税に賛成だけど、富裕層の人たちは嫌がるだろう)。

 経済理論はやってみないとわからないことも多い。新しい理論を試して失敗するより、このままでいいという人が多数派を占める世の中であれば、優れたアイデアも実行に移すのは困難である。
 問題はまだまだある。少子高齢化と人口減少……。先進国の中で日本はこの問題に関してはトップランナーであり、まだ乗り越えた経験のある国がない。

 ただし、ものは考えようで、戦争や飢餓のない国は、かなり恵まれいるともいえる。世界を見れば、日本よりマシな社会のほうが少ない。少ないからこそ、成長のための方策がわからない。

……この話、もうすこし続けます。

2024/11/28

『鐵』

 土曜夕方、西部古書会館。今回も三冊縛り。『写真集相模原』(相模原市教育研究所、一九八二年)、『「モダン昭和」展』図録(NHKサービスセンター、一九八七年)、『鐵』文化特集「東京・鉄の文化地図」(川崎製鉄株式会社、一九八四年)。三冊七百円。『鐵』は、神吉拓郎、安田武、永六輔がエッセイを書いている。「文学の中の鉄と東京」という記事——尾崎一雄『芳兵衛物語』、上林曉『母ハルエ』などを取り上げている。滝田ゆう『懐かしのチンチン電車』も。執筆者の名前は不明だが、いい記事だった。読んでいると、中に「ごあいさつ」と題した黄緑の紙がはさまっていた。

《「鐵」誌は、当社の広報誌として昭和45年に創刊し、現在126号を数えております。(中略)今回、とくに鉄の文化的側面をより深く考えてみるために、ページを倍増し、別冊として特集号を編集いたしました》

 この別冊は六十頁ちょっと。巻末の「編集室通信」によると、制作の所用日数は約五ヶ月とのこと。藤森照信が企画段階から深く関わっていたようだ。

 木曜夕方四時すぎ、高円寺駅の総武線ホームの端(阿佐ケ谷寄り)から久しぶりに富士山が見えた。しばらくぼーっと眺めていたら、いつの間にかすぐ隣で小学生男子も富士山を見ていた。
 五十代以降、高円寺駅から電車に乗る日(中央線の快速には滅多に乗らない)も週二日くらいになったので富士山が見えると嬉しい。帰りはドコモタワーを見る。阿佐ケ谷寄りの八号車あたりの総武線ホームは、駅の南口の広場のイルミネーションとドコモタワー、都庁のライティングが見える。ドコモタワーは中野寄りの総武線ホームの端からも見えるが、八号車付近のほうがおすすめ。

 そろそろ中野区大和町の大和北公園の巨大なイチョウも見ごろか。先週末はまだ葉が緑だった。大和北公園からすこし北に行くと妙正寺川にたどりつく。夕方、天気のいい日に妙正寺川を鷺ノ宮方面に歩くのも楽しい。途中、マルエツ中野若宮店とツルハドラッグ中野若宮店がある。買物して家に帰る。

2024/11/21

貼るカイロ

 十九日、この秋はじめて貼るカイロを装着。寒暖差が激しかったので、神経痛と腰痛予防のために貼った。すっかり貼るカイロなしでは生きていけない体になっている。

 先週の西部古書会館。今回も本は三冊、あと伊勢鉄道開業記念(一九八七年三月)と開業一周年記念(一九八八年)の下敷(裏は時刻表)があったので買う。伊勢鉄道は第三セクターで、元は国鉄の伊勢線。本社は三重県鈴鹿市桜島町にある。わたしが郷里の鈴鹿市にいたのは一九八九年春まで。高校時代は近鉄で津新町まで通学していた。高校を卒業したのは一九八八年春で、そのあと名古屋の予備校に通っていたころ、何度か伊勢鉄道に乗った。わたしが上京した年、親も市内で引っ越した。伊勢鉄道だと乗り換えなしで名古屋に行ける。ただし近鉄のほうが本数が多く、駅も近いのでたまにしか乗らない。

 鈴鹿市関係の資料では『特別展 斎宮・国府・国分寺 伊勢のまつりと古代の役所』(斎宮歴史博物館 三重県埋蔵文化財センター、一九九六年)も買った。古代の伊勢国府は鈴鹿にあったといわれている。何年か前、安楽川沿いを散策中にその跡地らしき場所を彷徨った。伊勢の国府跡をはじめ、能褒野神社、加佐登神社、白鳥塚古墳などの史跡は江戸期の東海道からちょっと離れている。
 東海道と伊勢参宮街道が分岐する日永の追分から亀山にかけての古代の東海道は上記の史跡の近くを通っていたのではないか。

 五年前、五十歳になったとき、ここで一区切りという気持になった。知らない町を歩いたり、バスに乗ったり、そういう時間を増やしたほうがいいと考えた。本の読み方にしても、寄り道を多くしたい。

……なんてことを書いていたら、読みかけの本が行方不明になる。付箋を貼ったところまではおぼえているのだが、どこへ行ったやら。そのかわりといってはなんだが、数週間前から探していた『やなせたかしの世界』(公益財団法人やなせたかし記念 アンパンマンミュージアム財団、二〇一九年)が見つかる。なぜかわたしは白い背表紙だったとおもいこんでいた。黒だった。

 やなせたかしはインタービューやエッセイなどで、戦争と飢えのない世界を希求し、『アンパンマン』を創作したという話をくりかえし語っている。一九一九年生まれ。やなせたかしの弟は戦死している。

 世代を一括りにするのはむずかしいのだが、ある時期の多くの日本は、やなせたかしのように戦争は懲り懲りだ、ひもじいおもいをするのは嫌だという強い感情があった。焼跡世代の人たちも空襲と空腹にたいする怖れがあった。
 自分の同世代にそうした思想の幹となるような感情はあるのか。あったとしても千差万別のような気がする。

(追記)「戦争と飢えのない世界」を「戦争と飢えの世界」と書いていた。丸一日、気づかなかった。訂正した。