2021/09/27

そんな日々

 土曜と日曜、西部古書会館。初日午前中は人が増えた。図録、雑誌、街道関連、文庫を少々。街道や宿場関連の本を探しているせいか「古道具」の本を見て「古道」の本かと反応してしまう。あと「武士道」や「茶道」など、「道」という字が入った本を見ると「そんな街道があるのか」と……。

 この数年、図録関連は同じものを二冊買ってしまうことが多い。記憶力の衰えと蔵書の整理が行き届かず、把握し切れなくなっているせいか。

 日曜日、ロマンコミック自選全集、あすなひろし『行ってしまった日々』(主婦の友社、一九七八年)を格安で買えたのは収穫だった。巻末「そんな私・そんな日々」は読者からの便りを紹介し、あすなひろしが返事のようなものを書いている。

 水戸の大学生からの手紙に「先生は『シティーボーイ』でもあり、また音楽はジェームス・テイラー、ディブ・ロギンス等のシンガーソングライターがお好きなのではないでしょうか。そして今の一番のお気に入りはマイケル・フランクス?」とあった。

 あすなひろしは読者の勝手なイメージに困惑。ちなみに水戸の学生の音楽の好みはわたしと似ている。たぶんこの時代のアメリカの音楽でいえば、スリー・ドッグ・ナイトも好きだったにちがいない。
 お便りコーナーは読者の住所が印刷されている(水戸の学生は住所なし)。昔の本、雑誌にはよくあることだった。このコーナーに『わが青春の鎌倉アカデミア』(岩波同時代ライブラリー、一九九六年)などの著作もある脚本家の廣澤榮(広沢栄)の「ヤツが描く人たちはみんなステキなンだなあ」という手紙も。廣澤榮はあすなひろしの漫画の原作・脚色もしていた。

 すこし前に『東京古書組合百年史』(東京都古書籍商業協同組合)を入手した。「中央線支部史」に西部古書会館の土足化の改修工事のことが書いてあった。以前は(お世辞にもきれいとはいえない)スリッパに履き替えていたのだが、いつ切り替わったか記憶があやふやになっていた(東日本大震災の前だったか後だったか……)。
 お客さんが多いときは入口の前の靴が積み重なり、自分の靴を探すのに苦労したのも今となってはいい思い出だ。

《この改修工事を境に、「B&A」「小さな古本博覧会」「均一祭」などの独自のコンセプトの即売会が新たに登場した》

 改修工事は二〇一〇年八月。十一年前か。月日が経つのは早い。

2021/09/25

井伏備忘録 その七

 金曜日、午後二時半ごろ、高円寺駅に行くと電車が止まっているとアナウンスが流れた。この日、荻窪か西荻窪の古本屋を回るつもりだった。新高円寺まで歩いて丸ノ内線に乗る。
 古書ワルツで井伏鱒二著『たらちね』(筑摩書房、一九九二年)を買う(持っていたはずなのだが、探しても見つからなかった)。

《私が福山(誠之館)中学に入学して、寄宿舎に入ると、上級生たちが先輩の噂をして、「この学校には、卒業生のなかに、福原の麟さんといふ秀才がゐた。とてもおだやかな秀才だつた」と云つてゐた》

「福原の麟さん」は英文学者でエッセイストの福原麟太郎。一八九四年十月生まれ。井伏鱒二は一八九八年二月、早生まれだから学年でいえば三年ちがいか。同郷ということは知っていたが、これまで二人の年の差を意識したことがなかった。

 午後三時すぎ、まだ電車は動いてなかったので途中阿佐ケ谷の古本屋に寄り、高円寺まで歩いた。
 家に帰り、井伏鱒二著『鶏肋集・半生記』(講談社文芸文庫)所収の「牛込鶴巻町」を読み返す。初出は一九三七年。学生時代の六年間、井伏鱒二は(ほぼ)早稲田界隈に下宿していた。

《鶴巻町の裏通りは本郷や神田や三田の学生町とちがい、ずぼらな風をしても目立たないような気持がする。街が引立たないせいもあるだろう。(中略)三十男が悄気込んで歩いていても、不自然な姿とは思われない。ふところ手で腕組して歩いても町の人は怪しまない。本郷や神田などに行くと、私はとてもそういうずぼらな恰好をして散歩する心の余裕がない。勝手にずぼらな恰好ができるところは牛込鶴巻町である。鶴巻町は私の散歩みちの故郷である》

 この話も井伏鱒二の好みがよくあらわれている気がする。
 近年すこし町並は変わってしまったが、荻窪界隈もずぼらな恰好で歩ける気楽さがある。

 以前、井伏鱒二の随筆でその人の歩き方と文章は似ているという話を読んだ記憶があるのだが、今はどこに書いてあったか思い出せない(勘違いかもしれない)。
 勘違いを元にした想像だが、堂々と歩く人は堂々とした文章を書く。逆にとぼとぼ歩く人はとぼとぼとした文章を書いてしまうのではないか。井伏鱒二の文章は着の身着のままの恰好でなじみの町を歩いているような感じがする。

2021/09/24

井伏備忘録 その六

 秋分の日、高田馬場から早稲田——鶴巻町のあたりを散歩し、古書現世、丸三文庫に寄る。
 家に帰って河盛好蔵編『井伏さんの横顔』(彌生書房、一九九三年)所収の今日出海「かけ心地の悪い椅子」を読む。井伏鱒二の小説について「彼の作品は面白いが、面白がらせようとは一切しない」と批評し、そして——。

《井伏は年をとって気むずかしくなったのではなく、始めから気むずかしかったのだ。だから自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった。気分が鬱屈すると旅に出た。それも余り人目につかぬ甲州あたりの山の湯へ行って、ひっそりと湯につかっていた》

「自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった」という言葉は井伏鱒二を的確に言い表わした言葉のようにおもう。今日出海はそのことをよくもわるくもいっていない。
 自分の資質、特性を守り抜くこと。たぶんその先にしか詩や文学はない——たぶん少数意見かもしれないが、わたしが好きな文学はそういうものだ。

「かけ心地の悪い椅子」では今日出海が京都の旅先で井伏鱒二と会い、飲み歩いたときの話も書いている。
 真夜中、店を閉めようとしている老婆が営む赤提灯の小汚い飲み屋があった。井伏鱒二は「一杯だけ飲ませてくれないか」と頼んだ。飲みはじめると、いつの間にか老婆は井伏鱒二を「先生」と呼び、次々とつまみを出した。二人は午前三時すぎくらいまでその店で飲んだ。

《かけ心地の悪い椅子に、あんなにゆっくり落ち着いていられるのは、余程修業を積まねば出来るわざではない》

 むしろ井伏鱒二はそういう店のほうが落ち着く性格だったのではないか。

『井伏さんの横顔』所収の木山捷平「眼鏡と床屋」にこんな話が出てくる。

 戦時中、ある春の日、木山捷平は荻窪の井伏邸を訪ねた。井伏鱒二は留守で、井伏の妻は「いまそこの床屋に行つてゐますから」といった。待っていても、まっすぐ家に帰ってくるかわからない。

《教えてもらつて行つてみると、その床屋は間口一間奥行二間あるかないかの粗末なミセだつた》

 木山捷平は「荻窪にはもつとハイカラな店が沢山ある筈なのに、どうしてこんな店に井伏氏が来てゐるのか訳がわからなかつた」と訝しみつつ、次のように推理する。

《これは多分、井伏氏が荻窪に引越して来た時、はじめて行つた店なのであらう。そのころ、昭和初年には、この井荻村へんは草深い田園だつたので、床屋といへばこの店が、ただ一軒あつただけなのかも知れない》

 あくまでも木山捷平の想像だが、いかにも井伏鱒二らしい話だなと……。

2021/09/22

井伏備忘録 その五

 甲州街道は江戸から甲府ではなく、長野の下諏訪まで続いている。諸説あるのだが、甲州街道は江戸に何かあったとしても、甲府まで出れば富士川を下って駿府へ、あるいは下諏訪に出て中山道に辿り着く。いわば脱出路として整備された道だ。

 井伏鱒二は関東大震災後、甲州街道〜中山道——中央本線で郷里の広島に避難した。疎開先の甲府が空襲を受け、再疎開したときもそうだ。

《下戸塚の自警団員に訊くと、七日になれば中央線の汽車が立川まで来るようになると言った。箱根の山が鉄道線路と一緒に吹きとんで、小田原、国府津、平塚は全面的に壊滅したと言われていた。中央線だけは息を吹き返しそうになったので、立川まで歩いて行けば、そこから先は乗車させてくれると言う。広島行きならば、塩尻経由で名古屋で乗り換えればいい》(「関東大震災直後」/『荻窪風土記』新潮文庫)

 『荻窪風土記』の「関東大震災直後」は当時の高円寺の話が詳しく書かれている。高円寺駅まで来たが、訪ねようとおもっている先輩の住所がわからない。幕府の鳥見番所があったところ、桐の木畑の中の二十軒あまりの借家の一軒という記憶がある。通りすがりの警防団員に訊くと「鳥見番所のあったところなら、南口だね」と教えてくれた。
 光成信男は大学の先輩で学科はちがったが、小説を書いていた。学生時代の井伏を岩野泡鳴の創作月評会に連れていったのも光成だった。
 光成の家に行った井伏は自警団員として高円寺の夜警をした。震災後、井伏は歩いて立川まで行く途中、中野と高円寺で一泊ずつしている。後に光成から井伏は出版社の仕事を紹介してもらうが、最初は三ヶ月、再び同じ社に戻ったが一ヶ月でやめている。計四ヶ月。このころ小説は書いているが、ほとんどが同人雑誌である。

《中央線の鉄道は、立川・八王子間の鉄橋が破損していたが、徐行できる程度に修理が完了したという》(「震災避難民」/『荻窪風土記』)

 わたしは『荻窪風土記』を読み、九月一日の関東大震災だけでなく、九月二日に新潟の柏崎地方でも大きな地震があったことを知った。この地震で柏崎駅前の倉庫が倒壊した。
 また関東大震災のとき、駿河湾で大海嘯もあった。

《浮島沼は水位が六尺も高くなって荒れ狂い、三保の松原では何十艘もの船を町のなかに置き去りにして行くほどの大津波を起した》

 立川駅から汽車に乗る。井伏鱒二の乗った汽車は「避難列車第一号」だった。

 高円寺から先、井伏鱒二はだいたい中央線を線路沿いに歩いた。そのとき、いずれは荻窪あたりに住みたいと考えたのではないか。東海道線が不通になっても中央線沿線であれば、郷里に帰ることができる。

 そして震災から四年後、一九二七年九月——井伏鱒二は荻窪に新居を建てた。二十九歳。

2021/09/18

小休止

 木曜日、御茶ノ水駅から坂を下って東京堂書店と三省堂書店で新刊本をチェックする。以前、松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九九年)を見かけた神保町の古本屋に行ってみたのだが、値段を見てひるむ。松本武夫は『井伏鱒二自選全集』の年譜の作成者でもある。「井伏備忘録」はあと二回ほど書く予定——。

 そのまま九段下方面に歩いてブンケンロックサイドへ。店頭のワゴンで図録が半額で売っていた。『特別展 弥次さん喜多さん旅をする 旅人100人に聞く江戸の旅』(大田区立郷土博物館、一九九七年)を買う。以前、滋賀の草津宿街道交流館に行ったときにこのパンフレットを閲覧して、いつか欲しいとおもっていたのだ。ようやく買えた。あと別の店で『生誕一〇〇年 漂泊の俳人 種田山頭火展』(毎日新聞社、一九八一年)と『産經新聞創刊六十周年 もうひとりの芥川龍之介 生誕百年記念展』(産經新聞社、一九九二年)も。『山頭火展』は百八十頁、『芥川展』は百六十頁以上もある。新聞社主催の文学展の図録は力作揃いだ。家に帰り、積ん読状態の図録を整理していたら『もうひとりの芥川龍之介』は入手済だったことが判明した。よくあることだ。

 先週の水曜日、毎日新聞夕刊にかごしま近代文学文学館の「向田邦子の目 彼女が見つめた世界」の記事があった。今年没後四十年だったことを思い出す。かごしま近代文学文学館は過去に梅崎春生や黒田三郎の企画も開催していた。鹿児島は父の郷里(生まれは台湾)で五歳から高校卒業まで大口市(現・伊佐市)にいた。父方の親戚とはわたしはまったく交流がなかったが、年に一度、芋焼酎を送ってもらっていた。家には黒伊佐錦と伊佐美があった。父は年中お湯割りで飲んでいた。

2021/09/16

井伏備忘録 その四

『鶏肋集 半生記(※鶏は旧字)』(講談社文芸文庫)に「疎開記」「疎開日記」が収録されている。

《昭和十八年六月上旬、私は家族をつれて山梨県石和町附近の甲運村に疎開した》

 疎開記では六月上旬。しかし文芸文庫の年譜は「五月、山梨県甲運村に疎開」とある。ずいぶん前に「日本の古本屋」で松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九八年)という本があることを知った。今のところ未読(未入手)である。読みたい気持ともうすこしいろいろ自分で考えたい気持が半々。著者の松本武夫は文芸文庫の『鶏肋集 半生記』の「人と作品」の筆者でもある。

 井伏鱒二「半生記」には関東大震災のころの回想も綴られている。
 大正十二年、一九二三年九月一日——井伏は下戸塚の下宿の二階に住んでいた。地震から七日目、中央線経由で一時帰郷を決める。大久保から中野、そして「高円寺に所帯を持っていた光成という学校の先輩のところに寄った」。
 光成は新聞記者の光成信男である。井伏は立川まで線路づたいに歩いた。

《立川から汽車に乗った。避難民は乗車切符の必要がなかった》

 立川から甲府、上諏訪、岡谷、塩尻の駅名も出てくる。愛国婦人会の団体に豆、餡パンなどをもらっている。
 塩尻では汽車は二時間停車すると知らされ、町に草履を買いに行く(下駄が片方割れかけていた)。
 草履代を払おうとすると「避難民からお金を受取るわけには行かない」と押し戻された。中津川で愛国婦人会から握り飯と味噌汁をもらった。

「半生記」では中津川までは詳細に記されているのだが、そこから先は「郷里に帰ると一箇月あまりで上京した」と話が飛ぶ。
 中津川から名古屋——おそらく東海道本線、山陽本線で広島に帰ったのだろう。

 再び上京すると、高円寺で世話になった先輩に聚芳閣という出版社を紹介してもらった。

《編輯の能力がないのに出版社に勤めていたので、著者に対しても気の毒なことになるようであった》

 それで社をやめるが、翌年同じ会社に再就職する。

《今度は無欠勤で出社していたが、つい奥附のない本を出すという大失敗をした》

 二十七歳。「恥ずかしくて社にいられなくなったので」一ヶ月あまりで退社する。井伏鱒二のエピソードの中でも一、二を争うほど好きな話だ。

 大正末に井伏鱒二は同人雑誌に参加するが、プロレタリア文学が隆盛となり、「私を除く他の同人がみんな左傾して雑誌の題名も変えた。私だけが取り残された」という。

《私が左翼的な作品を書かなかったのは、時流に対して不貞腐れていたためではない。不器用なくせに気無精だから、イデオロギーのある作品は書こうにも書けるはずがなかったのだ》

『井伏鱒二対談集』の河盛好蔵との対談「文学七十年」にもそのころの話が出てくる。

《河盛 つまり井伏さんの時代の文学青年は、いかにして自然主義文学から逃れるべきかということに苦心したのですか。
 井伏 それがタコの足に捕まったようになってしまったな、僕は。脱却できなかった。それと左翼運動、これはどうしても駄目だった》

2021/09/15

井伏備忘録 その三

 再び山梨の話に戻る。

 石和から温泉が出たのは昭和三十年代——観光地としてはまだまだ歴史は浅い。
 井伏鱒二の「旧・笛吹川の趾地」によると「昭和三十六年一月二十四日、山梨交通の社員保養寮の宿舎に井戸を掘つてゐると、不意に温度五十度の温泉が吹き出した。(中略)吹き出た場所は、明治四十年の大洪水で被害を受けた笛吹川の趾地であつた」そうだ。

《旧笛吹川は小さな川にして、差出の磯から平等川といふ名前で甲運亭のわきを流すようになつてゐる》

 すこし前に「泰淳とも桃の花見で行ったのだろうか」と書いたが、河盛好蔵編『井伏さんの横顔』(彌生書房、一九九三年)の武田泰淳「『五十三次』と『三十六景』」にこんな記述があった。

《山梨の万力山の桃観に先生と同行した日、まことに楽しかりし風無くしてうららかにはれた春のまひる、むれかえるほどの桃花の色が暖気の裡に、ものうげにかすむあたりの田園風景に溶け入り、二台の車を連ねて行く我ら一同が、ことごとく先生を中心とした「井伏的人物」と化したが如くだった》

 泰淳は一宮ではなく、万力山と書いている。このときの桃観には深沢七郎も同行していた。井伏鱒二の桃観は恒例行事(四月のはじめごろ)だったから、甲運亭の人と行ったのは別のときの可能性もある。

『井伏鱒二対談集』(新潮文庫)の深沢七郎との対談「自然と文学」にも武田泰淳一家、井伏鱒二、深沢七郎の桃観の話が語られている。

《深沢 あれはもう七、八年前ですか
 井伏 あれから僕は、桃の花を見に毎年行っているのです、四月十日前後に》

 対談の初出は『文芸』(一九六九年六月号)。七、八年前ということは一九六一年か二年。場所は——。

《深沢 あれは勝沼の上のほうでしたね。
 井伏 一宮の上のほうです。去年、一人であそこをずっとまわってみたが、いまの県知事の家のあたりがいいですね、塩山(えんざん)の南のほうですよ》

 萩原得司著『井伏鱒二聞き書き』(青弓社、一九九四年)には武田泰淳が荻窪にいたころの話が出てくる。

《武田泰淳は、ぼくが戦争後ここへ来たときに、この裏あたりにいたんだ。小説を書いている奥さん(武田百合子)がいるだろう。あのひとと一緒になった前後の頃だ。この近くの裏にいたので、それで知り合いになった。……あれは秀才だよ……》

 井伏鱒二は一八九八年二月十五日、武田泰淳は一九一二年二月十二日生まれ。鈴木(武田)百合子と結婚したのは一九五一年十一月——。

《武田とは、荻窪駅のまえで酒飲んだりしたけど、あの人はあまり飲まないほうで、ビールが好きだったんだ。晩年はだいぶ飲んでいるということは、噂で聞いていた》

 井伏にとって、泰淳は秀才で頭のいい人という認識だった。かつて泰淳と同じ京北中学校(東洋大学の井上円了が作った学校)出身の古川洋三から「クラスでいつも成績がいちばん良かった生徒が、武田泰淳だった」と教えられた。

『井伏鱒二聞き書き』の略年譜は山梨の疎開は一九四四年七月となっている。
 本文中の註釈には「甲府に疎開していた期間は一年と六日間」(本人談)で「逆算すると従来の年譜と若干のくいちがいがでてくる」。

 かならずしも本人の記憶が正しいとはかぎらない。甲府疎開は一九四四年五月か六月か七月か。しばらく宿題としたい。

2021/09/12

井伏備忘録 その二

 土曜日、西部古書会館。『井伏鱒二自選全集』(新潮社、全十三巻)を衝動買い。全巻揃いの美本が、一巻分の定価よりも安いとは。嬉しいやら悲しいやら。でも退屈しのぎに全集はもってこいだ。

 井伏鱒二の山梨疎開時代の話はあちこちで読んできたが、いつごろだったかはあんまり意識してこなかった。

《昭和十九年六月、私は戦争中に山梨県の甲運村(今の石和町の地続き)に疎開して、甲府市が空襲で焼けた翌々日、広島県福山市外加茂村に再疎開して、終戦後二年目に(昭和二十二年六月)東京に転入し、それからは毎年のように笛吹川へ釣りに行つた》(「旧・笛吹川の趾地」/『井伏鱒二自選全集』第一巻』)

 井伏鱒二が山梨県の甲運村に疎開したのは一九四四年六月(年譜では五月や七月となっているものもある)、そしてその翌年に——。

《七月十日(昭和二十年)
 甲州から広島県に再疎開。妻子を連れ八日午後一時、日下部駅発、中央線経由にて名古屋より京都に至り、大阪空襲中の故をもつて山陰線を選び、万能倉駅に下車、午後十時生家に着く》(「疎開日記」/『井伏鱒二自選全集』第八巻)

 一九四五年七月六日の深夜から七日にかけて甲府空襲があった。それからすぐ広島に再疎開したことになる。日下部駅は現・山梨市駅である。八日の昼に山梨を出発し、三日かけて郷里に辿り着いた。広島に向かうのに京都から大阪、神戸などの都市を通らず、いったん日本海側に出る。このあたりの用心深さが井伏鱒二らしい。行動が素早く、なおかつ遠回りし、時間がかかっても安全そうなルートを選ぶ。

 万能倉駅は福塩線。井伏一家は鳥取駅のホームで一泊し、その後、伯備線に乗り換えたとおもわれるが、そこから先のルートがわからない。倉敷に出て山陽線で福山駅に出るコースか、途中で芸備線に乗り換えるコースか。空襲の危険が低そうなのは後者だが、ものすごく時間がかかる。

2021/09/11

井伏備忘録 その一

 暑さが戻る。神保町で探していた『別冊 井伏鱒二 風貌・姿勢』(山梨県立文学館、一九九五年)を買う。『別冊』ではない『井伏鱒二 風貌・姿勢』(山梨県立文学館、一九九五年)もいいパンフレットだ。監修に飯田龍太、小沼丹、河盛好蔵、庄野潤三、三浦哲郎、安岡章太郎の名がある。

『別冊』の八木義徳のエッセイ。『風景』の編集長時代、井伏鱒二の名前を「井伏鰌二氏」と誤植した。井伏鱒二を敬愛する八木義徳は「失態中の大失態」とショックを受け、お詫びの手紙を出す。その返事には——。

《そういうことはよくありがちなことだから、あまりお気づかいなさらぬように、という寛容な言葉が書かれていた》

 井伏鱒二自身、編集者時代、「奥付」なしの本を作っている。

『別冊』の「傍証・甲運亭」(湧田佑)に「元女中頭 岩崎むら氏聞き書き」がある。

 甲運亭は笛吹川支流平等川から引いた堀割の岸にあった。

《この近くでは平等川の鮠(ハヤ)を釣られるのですが、いつ見に行きましても余り釣れません。(中略)この近くに一宮という桃の名所がありますが、春など桃の花見にお供したこともございます》

 わたしも山梨に行くと平等川沿いの宿によく泊る(もより駅は石和温泉駅)。甲運亭は、甲府市と笛吹市の境くらいのところにあった。戦時中、井伏鱒二が疎開していたのもこのあたりだった。

 深沢七郎との対談で井伏鱒二は、山梨で余生を送りたいという話の流れで、「いつか、武田(泰淳)君なんかと行った、一ノ宮ですか、あそこらもよさそうですね。西日がよく当たって」と語っている。

 泰淳とも桃の花見で行ったのだろうか。山梨は日本一の桃の産地である。

 井伏鱒二は神経痛を患ってからは「土手から釣る隠居釣り」を好むようになったとも語っている。

《現に私は、五十過ぎても水に立ちこむ釣をして神経痛を拗らせてしまった。私のうちから荻窪駅まで六丁。その道を大通りに出るあたりまで行くと腰痛がこみあげて来る》(『釣人』新潮社、一九七〇年)

 この話どこに書いてあったか思い出せずにいた。付箋大事だ。

 先月、井伏鱒二と河盛好蔵が熱海に行ったときの話に「当時、志賀直哉と広津和郎は熱海に住んでいた。一九四八年か四九年ごろか」と書いたが、井伏鱒二の年譜(『釣師・釣場』講談社文芸文庫、二〇一三年)に「一九四九年 一月、志賀直哉を熱海大洞台に訪ねる」とあった。井伏鱒二、五十歳。まちがってはいないが、確認してから書けばよかった。

 話は変わるが、一九八一年二月に『新潮』で「豊多摩郡井荻村」の連載がはじまった。この連載は後に『荻窪風土記』となる。八十二歳(まもなく八十三歳)で書きはじめている。

2021/09/09

書くインタビュー

 緊急事態宣言再延長。都内、感染者数は減少傾向だが、ワクチン接種率がもうすこし上がるまではガマンといったところか。

 佐藤正午著『書くインタビュー4』(小学館文庫)を読みはじめる。『3』は二〇一七年五月刊だから四年ぶりの刊行——。

 デビュー当初、佐藤正午は安岡章太郎に「けちょんけちょん」に貶された。『ビコーズ』のあの台詞がそうだったのか。

 この巻はインタビュアー(メールでの往復書簡っぽい体裁)に盛田隆二も登場する。
 どこまで本当でどこまで嘘か。本当の中に嘘があって嘘の中に本当が混ざっているかんじ。というわけで、このシリーズは一巻からずっと半信半疑のまま読み続けている。盛田隆二も架空の盛田隆二なんじゃないかと……。

 中年以降、いろいろな感覚が鈍くなったせいもあるが、本を読んでいて、作家から怖さを感じることが減った。しかし佐藤正午の「書くインタビュー」シリーズは自分の読みにまったく自信が持てない。そこが怖い。

 わたしは佐藤正午を(熱烈に)愛読するようになったのは、エッセイ「転居」(『豚を盗む』光文社文庫)を読んだのがきっかけだった。

《生きることの大半はまず、繰り返しである》

 繰り返していくうちにちょっとずつ変わる。わたしはそういう変化の仕方を好ましくおもっている。マンネリ、ワンパターンが嫌いではない。

2021/09/07

秋の声

 土曜、午前中、西部古書会館。小雨。涼しい。夏が終わったみたい。朝寝昼起が昼寝夜起になる。

 先週、三省堂書店の神保町本店が来年の三月に建物を建替える件について知らされる。
「困るんじゃないですか」
「神保町界隈の出版社で働いている人はみんな困るとおもいますよ」

 月曜、東高円寺。住宅街を歩いていたら高円寺天祖神社があった。三十二年くらい住んでいる町でもまだ知らない神社があるとは……。
 この数年、東高円寺は月一くらいのペースで散歩しているのだが、いつもはスーパーのオオゼキのある商店街を通る。東高円寺駅の近くの北海道料理の居酒屋でザンギの親子丼をテイクアウト。ワンコインでずっしり。

『犀星 室生犀星記念館』のパンフレットに「小景異情」の原稿用紙の写真が載っている。犀星の字、丸っこくて読みやすい。いろいろな文士の字を見てきたけど、犀星の字がいちばん好きかもしれない。
 同パンフレットに「金沢の三文豪」という言葉が出てきた。その一人は室生犀星。あと二人の名前は記されていない。泉鏡花はすぐにわかったが、あと一人がおもいだせない。なぜか秋田雨雀が浮んだが、絶対にちがうよなと……。
 ちなみに、雨雀の本名は秋田徳三。金沢の三文豪の残りの一人の名前と似ている(それですぐごっちゃになる)。

 金沢は北陸新幹線が通ったけど、名古屋や大阪から特急で行くルートもいい。現実逃避で旅の計画ばかり立てている。北陸方面は二泊三日だと足りない。というか、移動だけで疲れる。中年の旅は一県一県ゆっくり回るほうがいいのか。

2021/09/03

小景異情

『週刊大衆』(九月六日号)の連載『ニューシニアパラダイス』(監修・漫画 弘兼憲史/企画・文責 木村和久)を読んでいたら「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という小題が付いていた。
 室生犀星の「小景異情」の一節だが、同コラムには「タイトルは室生犀星の有名な詩の冒頭です。還暦を過ぎると妙に故郷が恋しくなります」とある。
 たしかに犀星の「小景異情」のこの部分はものすごく「有名」だが、「ふるさとは〜」は「小景異情(その二)」の出だしなんですね。

「小景異情(その一)」の冒頭は、
「白魚やさびしや
 そのくろき瞳はなんといふ」
——である。昔、わたしも「小景異情」は「ふるさとは〜」ではじまる詩だとおもっていた。まさか六篇の連作詩だったとは……。
 偶然というか何というか『週刊大衆』の同コラムを読む数日前、神保町の古本屋で『犀星〜室生犀星記念館』(二〇〇二年)を買い、「小景異情」のことを考えていたところ、かつての自分と同じ勘違いをしている文章に出くわしたわけだ。

「小景異情」が収められた『叙情小曲集』(感情詩社)は大正七(一九一八)年九月刊。パンフレットの年譜を見ると、一九一三年に『朱欒(ザンボア)』の五月号に「小景異情」掲載とある。『朱欒』は北原白秋が作った文芸誌である。朱欒は「ザボン」とも読む。
 室生犀星は一八八九年八月一日生まれだから、二十三歳のときに「小景異情」を発表した。『叙情小曲集』覚書には「二十歳頃より二十四歳位までの作にして、就中『小景異情』最も古く、『合掌』最も新しきものなり」とある。犀星の言葉をそのまま信じるなら「小景異情」は「二十歳頃」の作ということか。鮎川信夫の『現代詩観賞』(飯塚書店、一九六一年)には「小景異情」は「作者が十九歳のときの作品」と記されている。犀星、早熟、否、老成しすぎ。

 犀星は二十二歳ごろまで東京と金沢を行ったり来たりしている。年譜によると、上京した年は大正二(一九一三)年十一月。「ふるさとは遠きにありて〜」は上京前——金沢時代の詩なのだ。これも意外といえば意外である。

 ちなみに「小景異情」の「その二」には「うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても 帰るところにあるまじや」という言葉もある。

 この部分もいろいろな解釈ができそうだが、今日のところはこのへんで……。

2021/09/02

きりがない世界

 先日、おそらく四半世紀ぶりくらいに村松友視の『夢の始末書』(角川文庫)を読み返し、いろいろ忘れていたことをおもいだした。

《私は、好きな作家しか担当しなかった。そして、その作家たちは、それぞれにきわめて個性的な存在だった》

 村松の好きな作家の一人に後藤明生もいた。後藤明生が亡くなったのは一九九九年八月。わたしは没後しばらくして古書価が上がりはじめてからちょこちょこ読むようになったが、生前は守備範囲外の作家だった。

『夢の始末書』の中では後藤明生は重要な登場人物の一人である。

《「挟み撃ち」を読んで、私は後藤明生に長文の手紙を書いた》

《手紙は、原稿用紙をかなり費やし長ったらしいもので、封筒に入れて宛名を書くときに、その厚さに私自身がおどろいた》

 それが『海』の「夢かたり」の連載(一九七五年)につながる。同作はつかだま書房の『引き揚げ小説三部作』にも所収——。

 村松友視は後藤明生の担当編集者だったが、後藤は作家志望の村松に小説を書くことをすすめ、文章の指導をした(当時、後藤は平凡社の『文体』の責任編集者でもあった)。

《「ぼくはね、歌うたいと同じだと思うんですよ」
「歌うたい……」
「つまり、風呂やトイレの中でいくらうまく歌っているつもりでも、客の前で歌ってみなければ、駄目だということですね」
「駄目、ねえ……」
「つまり、一回恥をおかきなさいってことですかねえ」》

 このあたりのやりとりも読んでいたはずなのにおぼえていなかった。今回の再読で「風呂やトイレの中で……」のセリフが強く印象に残った。

《「載ったあとは、作品のひとり歩きですよ」
「はあ……」
「誰か編集者が喰いつけば成功」
「喰いつかなければ……」
「また、新たに挑戦する」
「はあ……」
「きりがない世界ですよ、これは」》

 物書の世界は下手な鉄砲ではないが、どれだけ弾を撃ち続けられるか。何だったら小説——文学にこだわる必要もない。武田泰淳は開高健に小説が書けなくなったらルポを書きなさいと助言した。いろいろ書いているうちに、自分に合ったジャンルが見つかることもある。