福原麟太郎著『読書と或る人生』(新潮選書、一九六七年)にこんな一節があった。
《この間の戦争に日本の青年や学生たちはどんな本を持って出征したのであったろうか。『万葉集』を彼らが愛したことを私は覚えている》
ここのところ、わたしは『万葉集』にとりつかれている。歌枕について調べているうちに和歌の世界に入り浸るようになった。街道歩きをしていると万葉の歌碑をよく見かける。行く先々で見る。
日々の生活に疲れていた四十代から五十代にかけて、街道と歌枕の面白さを知ったのは幸甚だった。一生飽きない暇つぶしの種を見つけた気分である。
そもそも歌枕に興味を持つきっかけは福原麟太郎の随筆「命なりけり」——そのタイトルの元になっている西行の和歌がきっかけだった。
《年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山》
五十代後半になって、自分が古典好きになるとはおもわなかった。本に導かれ、迷わされ、今に至る。
『読書と或る人生』で、福原麟太郎は出征兵士と『万葉集』について、「遠い昔を今に語る日本人の叙情を喜んだのであろうか」とその心情を推察している。
《古典文学には人間的な古めかしい美しさと並んで、やはり祖国的な香りや味があってそれが古典の意味を深めているのか》
《『万葉集』は出征兵士が背嚢の中に入れてゆくに適当な詩歌集であったのであろう》
日中戦争、太平洋戦争の時期、『万葉集』は、国威発揚や戦意高揚に利用された。
西行や芭蕉もそうだった。
戦後の日本は軍国主義の社会を変えていかねばならない(その方向性は正しい)という気持が強すぎて、俳句も短歌も川柳も否定する人たちがいた。
戦時中の日本は様々な娯楽を禁じた結果、多くの文化を歪めてしまった。「『万葉集』くらい気楽に読ませろや」と不満を溜めていた人はけっこういたはずだ。
わたしは山上憶良の影響で伯耆の国や大宰府に行きたくなっている。
奈良時代の鳥取や福岡の町がどんな感じだったのか知りたい。ひょっとしたら頻繁に遷都していた都より、住みやすかったのではないか。
大宰府には山上憶良もそうだが、大伴旅人もいた。
都と地方の両方の風土、暮らしを知っていることは創作の面でもプラスに働いたにちがいない。
時代はちがえど、わたしの友人知人も東京からいろいろな場所に移住し、農業をしたり、雑誌を作ったり、音楽をやったり、楽しそうに暮らしている。
しかも昔とは比べられないくらい移動も楽になった。
『万葉集』を読みながら、自分が高円寺にいる意味について、ついつい考えてしまう。もちろん町への愛着はある。行きつけの飲み屋と西部古書会館――この二つも東京を離れがたい理由になっている。
ただ、年をとるにつれ、以前ほど外で酒を飲まなくなったし、本の置き場所には年中困っている。
もうすこし家賃が安くて広い部屋が借りられる町に引っ越してもいいのではないか。何十年と同じことを自問自答している。そして結論はいつもうやむやになる。
山上憶良が伯耆守に任命されたのは今のわたしと同じくらいの齢(五十六、七歳)である。さらに大宰府に赴任したのは六十代半ばすぎだった。奈良時代の平均寿命を考えると、かなりの高齢である。
『万葉集』を読みはじめ、真っ先に山上憶良が気になったのも年齢の問題もある。還暦すぎても創作意欲が衰えなかったどころか、『貧窮問答歌』をはじめ、代表作は大宰府時代に作られている。
これぞ万葉のロマンである。
2026/07/30
万葉閑話
2026/07/26
二人の山田五郎
山田五郎が亡くなった。享年六十七。一九五八年十二月生まれ。共著を含め、著作もいろいろ出している。
山田五郎の思い出……といっても面識はない。昔、二十代半ばの半失業時代に、わたしは古本屋で山田五郎著『キャフェのテラスで』(清水弘文堂書房、一九八八年)という本を買った。
わたしがこの本を買った時期は、ちょうど山田五郎がテレビに出始めたころだ。
『キャフェのテラスで』の山田五郎はおそらく一九四〇年前後の生まれ。普通に読めば、まちがえることはない。でも『キャフェ』の山田さん、上智大学卒でヨーロッパに留学をしていて、若いころから雑誌に文章を書き、編集の仕事もしているのである。ほな山田五郎やないか。
本の帯には「『時』の熟成を伝える『軽文学』の響き!」とある。
『キャフェのテラスで』はやや縦が短い判型で、短文を集めたエッセイ集である。この本に「原稿」と題したエッセイがある。
《私のまわりには、二種類の人間がいる。文章を紙に書きつけるとお金になると考えている人間と、書けば書くほど出費がかさむと考える人である》
《ある時、「もの書き」の一人が、つくづくと話してきかせれくれたことには、同人雑誌に載っている作品ほど、コワイものはないそうである。なにしろ、身銭をきって書くのである》
『キャフェのテラスで』のプロフィール欄には「東京・有楽町にて街頭詩人を勤める。『月刊えくてびあん』編集人。ぐるーぷ・ぱあめ同人。文芸誌『とんぼ』同人」とある。生年月日は載っていない。
創作集団「ぐるーぷ・ぱあめ」の礒貝浩は同書の装丁・挿画を手がけている。「ぐるーぷ・ぱあめ」は“伝説”の編集プロダクションである。礒貝浩と山田五郎は上智大学時代の知り合い。礒貝浩は一九四〇年生まれ。『キャフェ』の山田五郎も同世代だろう。
わたしは仕事部屋の本棚に『キャフェのテラスで』と『山田五郎のマニア解体新書』(講談社、二〇〇六年)を並べていた。
『山田五郎のマニア解体新書』の冒頭には「『マニア道』十一箇条」(山田五郎 認定!)が載っている。
一、マニアは趣味を仕事にしない
一、マニアは見返りを期待しない
一、マニアは決して妥協しない
一、マニアは変に欲張らない
一、マニアは気を散らさない
一、マニアは手間ひま、カネを惜しまない
一、マニアは他人にやさしく、自分に厳しい
一、マニアは無口なほうがいい
一、マニアは意味を求めない
一、マニアに定年はない
一、マニアは(いろんな意味で)怖い
山田五郎自身、いろいろなものを収集してきたが「マニア」の域には達していないと自嘲している。
同書の対談でみうらじゅんは「人を喜ばせようとか、笑いをとろうとか、エンタテインメントが入るとマニアじゃなくなると思う」と語っている。
山田五郎著『キャフェのテラスで』に「散歩」というエッセイがある。
《散歩は「趣味」などという範疇はとうに超えている。何かの「役に立つ」というような実用性はない。だからといって即「趣味」と規定するのは早計にすぎよう。断固、何の役にもたたない。むしろ、ここに散歩の骨頂があり、「可愛らしさ」もそこにある》
街頭詩人であり、同人誌活動もしていた『キャフェ』の山田五郎はNHK・FMの「クロスオーバーイレブン」の台本のスクリプトを担当していた。一九六〇年代の話である。
何をどう読んでも別人なのだが、わたしは二人の山田五郎を同一人物と思っていた時期がある。別人とわかっていて、それでも読みたいならかまわないが、勘違いで購入しないよう気をつけてください。
(追記) 『キャフェのテラスで』のインターネットの古書価の話を書いたが、記憶違いの可能性があったのでその部分を削りました。ちなみに現在(七月二十八日)在庫なし。『山田五郎のマニア解体新書』も入手難になっているようだ。
2026/07/21
月は上弦
三連休、ずっと高円寺で過ごす。十八日(土)は西部古書会館と大和町八幡神社の大盆踊り会、十九日(日)は……何をしてたか。布団カバーを洗ったり、大量のタマネギを刻んだり、ニンジンをピーラーで削ったりした。あと漫画を読んでいた。
二十日(月・祝)は夕方起きて、午後六時半すぎ、高円寺図書館に行く。三階の階段付近から東京スカイツリーがよく見えた。連休の最終日は空が澄んでいる(「週末効果」という言葉があるそうだ)。図書館を出て五日市街道に向かい、富士山が見えるかどうか確かめに行く。東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅近くの青梅街道と五日市街道の分岐点のすこし先の歩道から真っ正面に富士山が見えた。山頂付近はやや雲がかかっていた。
『別冊太陽』特集「古地図を歩く」(一九七六年九月号)を読む。古地図蒐集家・岩田豊樹「古地図入門」の記事が面白い。
《古書展風景を見ると、開門前に行列ができ、我先に目標の棚に突進して陳列棚が倒れた事もあり、売る店以上に収集家の熱は恐ろしい。この常連は古地図の相場と史料価値の知識があり、目星しい図はやはり彼らによって買われてしまう場合が多い》
五十年前の古書展の記録。昔も今も変わらない。わたしは初日の開館前に並ばなくなって久しい(ゆっくり棚を見たいから)。地図は図録か製本されたものを集めている。古書会館は本だけでなく、絵葉書や地図などの紙モノも売っている。
万葉集ブームは続いている。大伴旅人の讃酒歌がいい。「験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし」の歌は、現在の酒飲みといっていることが変わらない。考えても仕方がないことで悩むくらいなら、一杯の濁酒(ドブロク)を飲んだほうがよい。そのとおりだとおもう。
旅人は山上憶良と同時代の歌人で交友関係も深かった。
私小説作家にたとえると、山上憶良=尾崎一雄、大伴旅人=上林暁という印象だ。といっても、万葉集に関しては今のわたしは浅瀬で足をぱしゃぱしゃしているくらいの感じなので、この先、考えが変わるかもしれない。
あと高橋虫麻呂も気になる。生没年不詳。常陸の国にいたらしい——ということはわかっている。以前、千葉県市川市の真間川を散策したとき、虫麻呂の歌碑を見た。真間川沿いは晩年の永井荷風も暮らしていた。
ここ数日、夜九時ごろ、西の空あたりに月がかなり大きく明るく見える。
馬橋公園から阿佐谷けやき公園屋上部まで歩いて新宿方面の夜景を眺め、月を見ながら家に帰った。
2026/07/18
阿須波
季節の音楽——春の歌、夏の歌、秋の歌、冬の歌がある。不思議におもうのは歌詞がなくても夏の歌は夏っぽく、冬の歌は冬っぽく聴こえる。沖縄民謡はぜんぶ夏っぽい(偏見)。
夏の歌でも夏の終わりごろの曲はすこし陰りがある。不思議である。
万葉集を読んでいると哀しい夏の歌がけっこうある。夏=明るいというわけではない。奈良時代の前半は寒冷期だったという話もある(中期から温暖になった)。
季節の移り変わりを歌にする。古来、自然と文化は重なり合っている。
すこし前に西部古書会館で扇野聖史著、犬養孝監修『万葉の道 巻の一 明日香編』『万葉の道 巻の二 山辺編』『万葉の道 巻の三 奈良編』(福武書店、一九八二年)の三冊買った。同シリーズは全四巻で『巻の四 総集編(全巻索引)』があることを家に帰ってから知った。
数巻のシリーズものをバラで買って、なかなか揃わず、結局、全巻セットを買ったほうがよかった——ということがよくある。
他にも万葉集関係の本がいろいろあった。興味がなかったときには目に止まらなかった本だ。
二年以上探している本(持っていたけど、手放した)がある。「日本の古本屋」でそんなに高くない値段で買える。でもその本を見つけることが今のわたしの張り合いになっている。そういう本があると棚を見るときの集中力が上がる。
『万葉の道』シリーズは地図の本としても優れている。史跡だけでなく、「タバコヤ」とか「ジャスコ」とか「のみもの販売機」とか「公民館(トイレあり)」といった町の細かい情報も記されている。四十年以上前の本だから、いろいろ変わっているだろう。
万葉の時代の東海道は伊賀越え(加太越え)だった。伊勢国府のあった鈴鹿市内を通っている。近江から伊勢に抜ける鈴鹿峠越えの阿須波道(あすはみち)は九世紀ごろに開通した。
阿須波道の「阿須波」という言葉は万葉集(防人歌)に出てくる。阿須波の神(阿須波神)は旅の安全の神、屋敷神として信仰されていた。旅に出て再び家に戻る。昔の旅は常に危険と隣り合わせだった。
阿須波の神——街道や万葉集に興味を持たなかったら、たぶん知らないままだった。知ったからといって、何がどうなるわけでもない。
2026/07/15
風の通る道
十四日(火)、東京都心の最高気温三十五度の予想——今年初の猛暑日。
夕方四時半、風の通りがよい道を選んで散歩する。風があるだけで二、三度涼しく感じる。
高円寺周辺は南北より東西の道のほうが風の抜けがいい。同じ東西の道でも風が止まる場所がある(わたしの自宅の周辺がそう)。
歩いていて樹木の葉が揺れているのが見えるとその近くに行って日陰で休む。高円寺駅の南口広場の噴水のところで夕涼みする。この広場に「風の塔」(山本衛士/一九九七年)という防災モニュメントがある。この塔のまわりに鳩が百羽以上いる。鳩、人が近づいても逃げない。
夜八時ごろ、東のほうから気持いい風が吹く。たぶん海からの風だろう。
夏の東京、凪の時間は蒸し暑くて散歩には向いていない。
日曜日、西部古書会館の均一古本フェスタで『文芸年鑑』(新潮社)の昭和五十年版、五十三年版、五十八年版を買った(いずれも百円)。平成以降の『文芸年鑑』は何冊か持っていたのだが、処分してしまった。
荻窪に行くとき、丸ノ内線の東高円寺駅を利用していた文芸評論家の山本容朗の住所を調べる(『文芸年鑑』昭和五十八年版)。蚕糸の森公園のすこし南の杉並区和田——女子美術大学の近く。そこから東のほうに歩いていくと丸谷才一が目黒区三田に引っ越す前のアパートがあった十貫坂にたどり着く。山本容朗の家(仕事場?)からは徒歩四、五分くらい。
十貫坂もそうだが、このあたりは古い道が残っている。風の通りのいい道も多い。
山本容朗の家は丸ノ内線の東高円寺と中野富士見町の中間くらい。ちょっと南に行くと神田川がある。わたしは高円寺から中野富士見町まで散歩するとき、このあたりをよく通る。
2026/07/13
アド・ホック
急に暑くなる。不規則睡眠はまだ続いている。昨日、東高円寺散歩。蚕糸の森公園に人工の滝があって、その近くはちょっと涼しい。高円寺駅南口広場の小さな池にも滝っぽいものがあって、そこも涼スポットである。水の音を聴くと頭がすっきりする。
十一日(土)、午後三時すぎ、西部古書会館の均一古本フェスタ(初日二百円)に行く。買い過ぎないよう、カゴを持たずに館内を回る。『世田谷の古道に沿って…瀧坂道・大山道・登戸道・筏道』(財団法人せたがやトラスト協会、一九九二年)、村松昭の散策絵図シリーズ『高尾山絵図』(聖岳社、一九八二年)、『玉川上水散策絵図 30キロの史跡緑道』(聖岳社、一九八七年)、『野川散策絵図』(ベースボール・マガジン社、一九八九年)が買えたのは大収穫。古書会館に入って最初の一周目は散策絵図シリーズを見落としていた。精算前になんとなく中央の列の棚が気になって、じっくり見たら散策絵図シリーズがあった(背表紙が見えない状態で積んであった)。古本勘が冴えていた。でも一周目ですぐ気づかなかったのは反省点である。
村松昭は一九四〇年千葉生まれの鳥瞰図絵師。『多摩川散策絵図 源流から河口まで』(聖岳社、一九八六年)に感銘を受け、他のシリーズも入手したいとおもっていた。『玉川上水散策絵図』は一番欲しかったパノラマ地図である。
夜八時、大和町の仕事部屋に寄ってから中野まで散歩する。ヨークフーズの中野店でだしまろ酢などを買う。常備菜はだし酢で炒めている。四季の森公園、人がいっぱいいた。犬の散歩をしている人が多い。
加藤秀俊著『続・隠居学』(講談社、二〇〇七年)を読む。『隠居学 おもしろくてたまらないヒマつぶし』(講談社、二〇〇五年)の続編。『隠居学』は講談社文庫に入ったが、『続・隠居学』は文庫化していない。
加藤秀俊は一九三〇年四月生まれ。二〇二三年九月没。享年九十三。『隠居学』では、小学生のころから隠居の身分に憧憬の念を抱いていたという。
《とりわけ「隠居」という気楽な身分になってみれば、あんまり有用だの実用だのといったことにかかわる必要なんかない》(『隠居学』あとがきより)
『続・隠居学』の「思いつき主義」はジャズの即興の話から「アド・ホック」について論じている。「アド・ホック」は「その場だけの」といった意味である。
《「アド・ホック」といえばお芝居などの「アド・リブ」というのもまったく語源はおなじ。ちゃんと台本どおりにセリフをいうだけが役者の能じゃない。その場の思いつきで咄嗟のひとことが芝居に色をそえる。漫才の台本作家、秋田実先生に二、三回お目にかかったことがあるが、いや、台本なんてのは心おぼえみたいなもの、その日の客をみてアド・リブで気の利いたギャグが連発されなきゃ漫才じゃない、といったようなことを力説なさっていた》
『続・隠居学』は「因果の証明」の章もよかった。今の世の中、何でも「科学」で説明できると考える人が多い。
《人間というのはなかなかに複雑にできているから、その行動や思考をつねに「原因」「結果」でキレイに解明することは不可能なのである》
人間の体は個人差があり、「無限の変数」が働いてるのでそう簡単には説明できない。何事も計算通り、思い通りにならない。そこに人間の面白味がある。
意味があるのかないのか。役に立つのか立たないのか。そういったこともすぐには証明できない。
わたしも職業上どうしても「お金になる/ならない」という思考に縛られている。自分の隠居への憧れは、有用無用の縛りから自由になりたい——という気持があるのかもしれない。
十二日(日)も西部古書会館に行く。二日目(一冊百円)で買った古本の話はいずれまた。
2026/07/10
どうでもいい話
九日(木)、夕方、駅前の青果店でヒラタケを買う。いつも買うシメジの倍以上の量で百円だった。パッケージをよく見たら、小さく(シメジ)と記されている。「ヒラタケとシメジは同じなのか?」とおもって家に帰って調べたら、シメジ(シメジ科)とヒラタケ(ヒラタケ科)は別種のキノコだった。一九七〇年代〜八〇年代あたりにかけて、人工栽培されたヒラタケをシメジとして売っていた時期があり、現在も「ヒラタケ(しめじ)」と併記することがあるそうだ。ヒラタケを「寒茸」と呼ぶ地域もある。
夜七時半、馬橋公園を通り、中野区若宮まで散歩。マルエツ中野若宮店でたまごサラダパンなど。空は藍色、西の空にかなり明るい宵の明星が見えた。風が気持いい。帰りは妙正寺川沿いの道を歩いた。
柴田練三郎著『どうでもいい事ばかり』(集英社、一九七四年)を読む。柴田練三郎は一九一七年三月生まれ。一九七八年六月没。享年六十一。この本、一篇ごとに岩田専太郎の挿絵が付いている。贅沢である。本の最後に「この雑文が上梓される直前、岩田専太郎氏が急逝された。痛恨とは、まさにこのことである」と書いてあった。
岩田専太郎は一九七四年二月十九日になくなっている。享年七十二。
そのころ松本清張が「西海道談綺」を『週刊文春』に連載していて、その挿絵も岩田が担当していた。
『どうでもいい事ばかり』の目次を見ていたら「東海道五十三次について」というエッセイがあった。
《私は、幾年か前、必要あって、東海道五十三次(正確にいえば、お江戸日本橋と京都三条大橋を加えれば、五十五次だが)を丹念に、旅をして歩いてみたことがある》
柴田練三郎も街道作家だった。五十三次の「次」は宿場から宿場へ、人や物を「継ぐ」という意味がある。日本橋と京都三条は始点と終点のため、五十三次に含めなかった。あと鎌倉時代の東海道は六十三次(六十余次)あり、江戸時代の東海道と経路もちがう。鎌倉時代は箱根ではなく、足柄越えだった。
杉並区内も「鎌倉道」が通っている。近所の散歩でも歴史を学ぶ機会はけっこうある。
それはさておき同書の巻頭の「小さな事件について」にこんな一節があった。
《「どうでもいい」とは、今晩飲もうか、というさそいに対する返辞にもなるし、選挙の際、どの党派の候補者に一票を投じようかとまよった挙句の気持にもなるし、生きるべきか死すべきか、という最も重大な瀬戸際に立たされた時の、考えつかれたすてばちな心情をも表現している》
わたしも「どうでもいい」とおもうことは多い。「小さな事件」はニュースで知っても翌日には忘れてしまう。世間を揺るがすような大事件でさえ、一週間もしないうちに他の話題に関心が移る。何か発信しようと考えているうちに「どうでもいい」という気分になる。わたしの関心事は大多数の人にとって「どうでもいい事ばかり」であり、世の中は「どうでもいい」の集積で出来ている。
この日、ヒラタケを使った塩焼きそばと中華風のスープを作った。
2026/07/03
天気痛
雨の日はいつもとちがう時間に眠気が起きやすい。睡眠時間がズレる。妙な夢を見る。そういう研究があるのかどうか。
中野区大和町の仕事部屋の掃除中、横尾忠則著『彼岸に往ける者よ』(文藝春秋、一九七八年)の背表紙が目に飛び込んできたので再読する。
横尾忠則は一九三六年六月二十七日生まれ。つい先日、九十歳になったばかり。
適当に開いた頁(日記)に「天気が悪い(梅雨)せいか頭が痛い」という一文があった。日付は六月二十八日。刊行年と同じ年と考えると四十二歳。当時の横尾忠則は不眠に悩んでいた。
日記は愚痴が面白い。横尾忠則は自身の日記を「エゴのゴミ箱」といっている。
わたしも雨の日、頭痛+船酔いみたいな感じになることがある。あと肩こりもひどくなる。今は右の手首が痛い(湿布を貼っている)。
梅雨の時期、頭痛や肩こりになるのは低気圧、高湿度など、天候不順のせいだろう。内耳(耳の奥)が気圧の変化を感知しやすい人がいる。
そういう人は低気圧のときに調子を崩しやすい(症状の軽重には個人差がある)。「天気痛」という呼び名もある。
湿度が高いと体内の水分が汗として蒸発しないせいで血行不良になる。これが疲れや怠さにつながる。肩こりもそう。
散歩のとき、メッシュのウォーキングシューズを愛用しているのだが、雨の日は防水仕様の靴を履いている。いつもの靴ではないから、足が怠くなるのかとおもっていたのだが、気圧や湿度が原因かもしれない。
このブログで高円寺周辺の路上から東京スカイツリーやドコモタワーを探す話をよく書いているが、遠くを見るのは精神衛生によい。ちょっとした気晴らしになる。
雨の日は視界がよくない。そのことがストレスになっている可能性もある。遠くが見えないかわりに、樹木の多い遊歩道や神社や公園に行く。
それから川や海など、水辺(ブルースペース)の景色を見ると、頭の疲れがとれたり、緊張が和らいだりする効果がある。
樹木の揺れ、水面のゆらぎや光の反射などを見ると心が落ち着くという研究もあるようだ。大雨や台風のときに川に行かないように気をつけたい。
以前、低気圧の片頭痛のときにカフェインを摂取するといい(飲み過ぎに注意)——という記事を読んだ。わたしはやる気がでないとき、疲れがとれないとき、豚のレバー、もしくは鰹や鮪のたたきが食べたくなる。
夕方、高円寺の庚申通りの豊島屋(前の建物が取り壊されて、通りの奥に移転したばかり)でレバーとカシラの焼き鳥を買う。