2023/02/28

野鳥と山

 わたしが買っている古本の九割は日常生活の役に立つ本ではない。それを知ってどうする(どうにもならない)みたいな本ばかり読んでいる。
 では、なぜ読むのかといえば、昨日まで知らなかった、興味のなかった人や出来事でも知れば知るほど面白くなるからだ。

「日本野鳥の会」の中西悟堂と「山人会」の中村星湖はたまたま同じ町(井荻町)に住んでいて交流があり、共通の知り合いがたくさんいた。

 星湖が「山人会」を創設したのは一九二五(大正十四)年、悟堂が「日本の野鳥の会」を作ったのは一九三四(昭和九)年——この二つの会は現在も活動が続いている。

 一九二三(大正十二)年九月の関東大震災以降、文化・思想にたいする弾圧が苛烈になり、“冬の時代”と呼ばれる歴史があり、同じころ、中央線界隈では“趣味”の活動が盛んになる。
 井伏鱒二をはじめとする「阿佐ヶ谷将棋会」もそうかもしれない。阿佐ヶ谷会は酒が目当の参加者もけっこういた。中村星湖、井伏鱒二は釣りも好きだった。

 昭和初期の文士たちが趣味を楽しんだ背景には各種検閲の煩わしさもあったのではないか。それとも時代と関係なく、ただ楽しく遊んでいただけなのか。

 弾圧を受けた、反抗した——といった歴史だけではなく、わたしは遊んだり、怠けたりして厳しい時代をやりすごした人たちの歴史もあるとおもっていて、そのあたりのことが知りたく古本を読んでいるところもある。

2023/02/26

中村星湖

 土曜日午後、西部古書会館。『中村星湖展』(山梨県立文学館、一九九四年)など、文学展パンフレットを数冊買う。
 中村星湖(一八八四〜七四)は山梨の南都留郡河口村(現・富士河口湖町)生まれ。一九一五年、神奈川県鶴見に移り住み、「釣りに熱中し始める」。その後『釣ざんまい』(健文社、一九三五年)を刊行(同書は復刻版もある)。
 一九二四年、豊多摩郡井荻村に転居。二六年、井荻村→井荻町に。年譜は「豊多摩郡上井草(現杉並区井荻町)」となっているが、現在「井荻町」および「井荻」の地名はない。
 元々「井荻村」は「上井草・下井草・上荻窪・下荻窪」の四つの村が合併してできた村である。「井草」+「荻窪」で「井荻」という地名になったようだ(『杉並の地名』杉並区教育委員会、一九七八年)。旧地名ややこしい。
『中村星湖展』のパンフに山梨日日新聞の「西荻窪より 小説選評」の記事あり。

 一九四五年五月、山梨の郷里の河口湖町に疎開し、晴耕雨読の日々を送る。六十一歳。
 大正末に「山人会」を発足、戦中は活動を中断していたが、一九五一年に復活第一回の総会を高円寺で開催している。

 あと『別冊るるぶ愛蔵版 街道の旅130選』(交通公社のMOOK、一九八七年)も入手できた。表紙は妻籠宿。一九八〇年代の「交通公社のMOOK」シリーズは街道関係が充実している。『別冊るるぶ愛蔵版 街道と町並の旅』(交通公社のMOOK、一九八二年)もよかった。

『街道の旅130選』に山梨県河口湖町のページあり。河口湖は黒曜石の産地で古代から道が開けていて、鎌倉往還も通っている。
 河口湖の産屋ガ崎の説明にこんな記述があった。

《その産屋ガ崎には、「雲霧の暫時百景を尽くしけり」という松尾芭蕉の有名な句碑が立つ。そして肩を並べるように『少年行』で「溶岩のくずれの富士の裾は、じつに広漠たる眺めである」と記した中村星湖の句碑が、また写真家岡田紅陽、日本画家望月春江の碑がある》

 まさか中村星湖の名前を見ることになるとは……。河口湖町が富士河口湖町になったのは二〇〇三年十一月か(河口湖町・勝山村・足和田村が合併し、発足した)。古本、古雑誌を読んでいると、市町村名の変更に戸惑うことが多い。

2023/02/19

夢と一生

 今月十四日、渡辺京二著『夢と一生』(河合ブックレット)が刊行された。生前最後の語りおろし。
 冒頭の「熊本での子ども時代」でこんな話を語っている。

《熊本では上通というのがいちばんの繁華街で、その上通からちょっと切れ込んだ路地に、上林(かんばやし)という地名があって、ぼくはその上林町で育ったんです。上林暁って小説家がいるでしょう。彼は五高(旧制第五高等学校)生の時、小説を書きだして、そのころちょうど上林町に下宿していたからそれで上林というペンネームにしたわけです》

 五高といえば、上林暁だけでなく、梅崎春生、木下順二も卒業生である。

 渡辺京二は河合ブックレットの版元の河合文化教育研究所の研究員だった。わたしも二十代のころ——九〇年代前半、河合文化教育研究所(「文教研」といっていた)の手伝いをしていたことがある。講演会の受付をしたり、シンポジウムをまとめたり、ちょくちょくそういうアルバイトをした。

 十年以上前の話になるが、その後『些末事研究』を作る福田賢治さんに渡辺京二の本をすすめられた。文教研つながりで名前は知っていたが、本は読んだことはなかった。読んでみたら自分の政治観とちょっと近いかもしれないと……。
 ぐだぐだしているところ、余白や遊びの部分がないと息苦しい社会になる。今の世の中はどんどん窮屈な方向に突き進んでいるのではないか。

『夢と一生』の中で渡辺京二さんは、戦中に軍国少年だったこと、戦後、熱心な共産主義者になったことにたいし、「二度までも同じ間違いをしたんだな」と告白している。

 戦中の渡辺少年はアジアが一つになる理想のコミューンを夢見て、「あの戦争」を「欧米の資本主義からアジアを解放する聖戦」と信じた。しかし敗戦によって日本の帝国主義が誤りだったと知る。戦後、共産主義に傾倒したのも理想のコミューンを求めたからだ。

《軍国主義から共産主義者へ変身した自分は、実は何も変わっていなかったと。生活の根拠なしに、ある理念から別の理念に移っただけだったと》

 では理想の社会を夢見るのは「誤り」なのか。たぶんそう簡単には言い切れない。いつの時代にも一定数の理想主義者がいて、彼らの活動によって社会が改善されてきたところもあるだろう。

 いっぽう(右派とか左派とか関係なく)理想もしくは正義を希求する過程で異端分子を排除しようとする急進勢力が猛威をふるうことがある。人類の歴史を眺めていると、どうやら人の生態には悪人を磔にして石を投げる、火あぶりにすることに歓喜し、熱狂してしまうスイッチみたいなものがあるようなのだ。

 この問題については渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社、二〇一六年)の「二つに割かれる日本人」でも語っている。

《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしてもその邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》 

 こうした「誤り」に陥らないための対処についても『夢と一生』で論じている。この続きはいずれまた。

2023/02/16

中休み

 雪が降ったかとおもえば、最高気温十七度になって、またここのところ寒い日が続いて……しんどい。でもなんとなく春が近づいている気がする。最近、メールの返信がとどこおりなくできるときは調子がいいことがわかった。

 土曜日、西部古書会館。積ん読本が増えていく。書こうとおもっていたことも書かないまま霧散していく。古書会館、完全にコロナ禍前の雰囲気に戻った。初日の午前中に行ったら、いつも入口のところにあるカゴがなくなっていた(※カゴがなくなるくらい盛況だったという意味です)。しばらく散歩して昼すぎにもう一度行く。『波』(新潮社)の臨時増刊号「新潮現代文学読本」(一九七八年八月)など。

『波』の臨時増刊号、丸谷才一「文学全集の話」を読む。ここで筑摩版「現代日本文学全集」にふれている。

《文壇型全集といふことも説明したほうがいいかもしれません。それはつまり、文壇の評価を極度に重んじてゐるといふことですね。その好例としては、正宗白鳥が二巻も占めてゐるといふことがある。谷崎潤一郎が二巻。これなら当り前です。読者の人気もよく、文壇の評価も高まつてゐた。しかし白鳥のものなど、一般読者にとつてどんな意味がありますか》

 この全集は臼井吉見が総指揮の形で作られた。丸谷才一も「臼井さんは狭義の文壇人ではかならずしもなかった」ので「柳田国男に一巻、折口信夫(釈迢空)にも一巻なんて、そんな途方もない文学全集を編むことができたのです」と筑摩の全集を称賛している。

 臼井吉見は旧制中学時代に雑誌で正宗白鳥の短篇を読み、それから文学に傾倒するようになったという話をくりかえし書いている。全集に白鳥が二巻はどうかなという気もしないではないが、臼井吉見にとって、そのくらい白鳥は特別な作家だった。まだ自分の進路が定まっていない、この先どう生きていくかわからない時期に読んだのも大きいだろう。

 日本で新型コロナウイルスの最初の感染者のニュースが流れたのが二〇二〇年一月中旬——三年ちょっと。その日の感染者数を伝える報道も気にならなくなった(ずいぶん前からだけど)。高円寺の夜のにぎわいもコロナ禍前に戻った。

 マスクはコロナ対策というより、防寒対策で今はしている。

 今月末(二月二十八日)で東京メトロの回数券の販売が終了する。わたしは十二枚つづりの時差回数券(二百円区間)を利用していた。神保町に行くとき、時差回数券は東京メトロ東西線の中野駅から九段下駅までのルートでよくつかう。高円寺駅からだとJR中央線で御茶ノ水駅というルートが早いのだが、時差回数券をつかうと片道五十円くらい安い。九段下から神保町の間にも古本屋がけっこうあるので何軒か回れる。
 たかが五十円とはいえ往復すれば百円、均一の文庫一冊分である。そんな小さな節約が本代珈琲代飲み代になる。もっと働けよという意見にたいしてはごもっともと受け止めたい。

2023/02/09

天徳温泉

 晴れの日一万歩雨の日五千歩の日課は、天気関係なく一日五千歩にしていたのだが、三月になったら元に戻そうとおもっている。今も平均すると一日八千歩(室内は計測せず)くらい歩いている。
 歩くこともそうだが、外出時間を増やすのは精神衛生によい。よく眠れる。

 杉並郷土博物館の『中西悟堂生誕120年』のパンフレットを見ていたら、交遊関係のところに石川三四郎、辻潤、新居格の名前があった(他にも詩人、作家の名前は多数あり)。
 一九三四年三月十一日、中西悟堂は「日本の野鳥の会」を創設した。第一回の探鳥会に中村星湖も参加していたことを知る。中村星湖は釣りの本も書いている(未入手)。一八八四年山梨県南都留郡河口村(現・富士河口湖町)生まれ。筆名に「湖」の字を付けたのは河口湖の近くで生まれたからだろうか。

 中西悟堂は古本屋でよく見かけたが、ほとんど野鳥関係の本だったので手にとらなかった。金沢出身ということもこのパンフレットで知った。一八九五年生まれ、亡くなったのは一九八四年。享年八十九。

 悟堂の『野鳥と共に』(巣林書房)は一九三五年刊。パンフレットには徳富猪一郎(蘇峰)が同書を日日新聞(後の毎日新聞)の「日日論壇」で絶讃したことがきっかけでベストセラーになった——と記されている。

 悟道が井荻町に居を移したのは一九三〇年前後、それまでは千歳村烏山(現・世田谷区)にいた。
 井荻に引っ越した理由は天徳温泉(その後、天徳湯に改名。二〇一七年七月廃業)があったから。天徳温泉は東京女子大のすぐ近所にあった。

《烏山の住居には風呂がなく、悟道は、春から夏にかけては、井戸の水をかぶるか、近くの小川で体を洗い、秋から冬にかけては銭湯へ通っていた》

 烏山から西荻の天徳温泉までは約八キロあったが、悟堂はこの銭湯が気にいり、何度となく訪れたらしい。おそらく徒歩で通っていた。

 九十年ちょっと前の話だが、悟堂は三十代半ば——当時、彼は無一物の生活を自らに課していた。烏山の住民が悟堂のような暮らしぶりだったわけではない。

2023/02/05

武蔵野

 このところ、仕事三、掃除七くらいの日々。やはり、本や資料を右から左に動かしているだけでは片づかない。解決策はものを減らすしかない。それがむずかしいわけだが。

 月曜午後三時すぎ三鷹へ。前日飲みすぎて二日酔いになるかと危惧していたが、楽しい酒だったおかげか、おもいのほか体が軽い。酒の席で、途中、何度となく固有名詞がおもいだせない問題が発生した。「志賀直哉の弟子で将棋と釣りが好きな……」といいかけ、瀧井孝作の名前が出てこなかった。

 三鷹のりんてん舎と水中書店、そのあと吉祥寺まで歩いて古書防波堤に行く。
 りんてん舎、きだみのる著『初めに部落ありき』(レインボウブックス、一九六五年)を買う。カバーの装画、本文のカットは秋野卓美。秋野は梅崎春生の小説にしょっちゅう登場する風変わりな画家である。

 水中書店で『中西悟堂生誕120年 野鳥の父、中西悟堂をめぐる人々』(杉並郷土博物館、二〇一五年)。悟堂は井荻町(善福寺池の近く)に暮らしていた。
 他にもなかなか見ることのできない詩集を何冊か手にとる。ふと今年田村隆一生誕百年だったことをおもいだす。一九二三年三月十八日生まれ。関東大震災の年、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一少年百周忌でもある。

 三鷹から吉祥寺までの道は歩いていて楽しい。中町通りはひさしぶり。ずいぶん雰囲気が変わった気がする。

 吉祥寺の防波堤は地図なしで行けるかどうかちょっと不安だったが、無事辿り着けた。横田順彌著『SF事典 異次元世界の扉を開く』(広済堂ブックス、一九七七年)など。「史上最短のSF」は「時間は終わった。昨日で」(ロジャー・ディーリー作)とのこと。

 そのあと吉祥寺の七階建てのユニクロにはじめて入る。長袖ベージュのヒートテックがほしかったのだが、なかった。