2026/04/30

白子と平坂

 街道の研究をはじめたのは二〇一六年六月(この年の五月末に父が亡くなった)からなので、まもなく十年になる。三重の郷土史、郷土文学の本を集めるようになったのも同じころか。
 街道と絡めて郷里(三重県)の歴史もちょこちょこ調べているのだが、今さらながら三重県の場合、陸路(東海道、伊勢街道)だけでなく、海路も重要だったことに気づく。伊勢商人は海運によって栄えた豪商である。

 わたしは東京と三重の往復でJRの在来線(東海道本線)によく乗る。在来線は車窓がいいし、途中下車して宿場町を散歩するのも楽しい。
 豊橋駅~名古屋駅の間は東海道沿いということもあって名鉄に乗ることが多い。

 次に帰省するときはJR東海道本線の海に近い駅を歩きたい。Googleの地図で三河地方のJRの駅周辺を見ていて、平坂街道を知った。
 平坂街道の始点の小坂井はJR飯田線の小坂井駅の近く。平坂街道は三河地方の塩を運ぶ「塩の道」でもあった。

 すこし前の西部古書会館の均一祭で買った海の博物館、石原義剛著『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』(風媒社、一九九六年)の目次を見ていたら第十章「三河湾全域 西尾から豊橋まで」という章があった。
 同章に「名残り少ない平坂湊」という小見出しがあり、「西尾市の観光や文化財地図に、三州五ヶ湊の一つだった平坂湊の史跡を伝えるものはない」と記されている。

 同書によれば「平坂湊は、現在、平坂入江と呼ばれる水筋の奥にあった」とのことだが、正確な場所は不明――。

 三州五ヶ湊は大浜(現・碧南市)、鷲塚(現・碧南市)、平坂(現・西尾市)、犬飼(現・蒲郡市)、御馬(現・豊川市御津町)で、一六三五(寛永一二)年に定められた。
 平坂湊は白子湊(三重県鈴鹿市)ともつながりがある。

 本多隆成、酒井一編『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)の第三章「東海道と伊勢湾の地域と民衆」の「伊勢湾の海運と伊勢商人」の項に「白子と平坂」という見出しがあった。読んでいたはずなのに記憶にない。知らない地名、固有名詞を読み飛ばしている。たぶんこの癖は治らない。

 江戸時代に白子湊と平坂湊は木綿などの運搬が盛んな港だった。この二つの港は尾張の物資の集荷も担っていた。

《白子廻船が運賃値上げを要求したり、洩積や拾荷などによって仲間荷物の運送に支障をきたしたときは、しばしば平坂が白子の代替港としての役割を担わされた》

 古代から伊勢と三河は伊勢湾をはさんで舟運が行われていた。白子湊も三河と行き来があった港の一つである。
 尾張や美濃の荷物を江戸に輸送するさい、なぜ伊勢湾対岸の白子湊が利用されたのか。

『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』の「鈴鹿 白子港と大黒屋光太夫」の項には「江戸初期から紀州藩の所領だった白子はその親藩としての特権を活用して、商売を発展させた」とある。

 江戸時代の白子湊は伊勢松阪や知多の木綿を集め、江戸に運んだ。庶民の衣料が麻から綿に変わり、木綿を染めるための型紙(伊勢型紙)が発展したのも当時の流通経路と関係ある。
 ちなみに松阪も紀州藩の飛地だった。

 白子湊から江戸に木綿を運び、帰りは房総半島で生産された干鰯(ほしか)を運んだといわれている。干鰯は鰯を乾燥させた肥料で木綿の栽培にも利用された。千葉には伊勢神宮の神領もあった。

 木綿商といえば、国学者の本居宣長の家(三重県松阪市)も江戸に店を持つ木綿問屋だった。宣長自身は商いに興味がなく(若き日に奉公に出るが一年くらいでやめて郷里に帰っている)、ひたすら書物と趣味に耽溺したいと願った道楽者である。地図(絵図)好きでもあった。自作の地図も残している。

 わたしが就職もせず、古本ばっかり読んでいる人生を送るようになったのは本居宣長の「好信楽」の教え……ではないけれど、街道の研究をはじめて以降、松阪は好きな町になった。
 鈴鹿と松阪、滋賀と松阪のつながりにも興味がある。
 鈴鹿もそうだが、松阪も伊勢参宮の往来によって情報が集まり、文化が育った——といろいろな本に書かれている。わたしもそうおもっていた。しかしやはり舟運、商人の情報網は無視できない。

 歴史を知ることで地理の感覚が変わる。地理を知り、歴史の認識が変わる。そういうことが今の自分には面白い。

2026/04/26

平坂街道

  寒暖差か気圧のせいだろうか、今週、軽い頭痛が続いていた。もう治ったが、今は様子見といったところ。
 ちょっとした不調でも不安になる。そして酒を控える。

 週末、西部古書会館。久々に予算オーバー(五千円超)。文学展パンフと街道の図録を大量に購入した。ガレージで『旅』特集「川の旅情」(一九七四年九月号)、『旅』特集「街道と町並みの旅」(一九八六年九月号)――日本交通公社を二冊。幸先よい。特集「街道と町並みの旅」の号は持っているかもしれないとおもいつつ、記憶にない表紙だったので買った。わたしが持っていたのは『別冊るるぶ愛蔵版13 街道と町並みの旅』(交通公社のMOOK、一九八二年)だった。『旅』と『別冊るるぶ』、特集のタイトルは同じだが、内容はちがう。

 日本交通公社出版事業局は『旅 別冊(愛蔵版)』というムックも刊行していた。『旅 別冊』の特集「地図 夢・謎・愉しみ」(一九八四年)、特集「花 情熱・神秘・驚異」(一九八五年)、特集「鉄道 追憶・熱狂・冒険」(一九八五年)の三号集めた。どの号もすごい。

『別冊るるぶ愛蔵版』はよく見る号とあまり見かけない号がある。ある特集の号を気長に探している。

 四、五十年前の『旅』を読むと、もうこの風景は見れない、ということ以上に、細部にまで力を入れ、熱のこもった雑誌を毎月作るのは不可能だという気持になる。

 家に帰り、東海圏の地図を見る。JR東海道本線の愛知御津(あいちみと)駅の周辺から三河湾に向かう平坂(へいさか)街道という道があることを知った。最初は数kmの短い道かとおもったら、約四十kmも続いている。江戸時代の感覚だと徒歩で丸一日の距離である。

 平坂街道は東海道の吉田宿(豊橋)と御油宿の間の小坂井(JR飯田線小坂井駅がもより駅)から分岐し、蒲郡を通り、平坂湊(西尾市)に至る道である。地図(Google Map)でルートを調べていて、何度も道を見失う。

 平坂湊は西尾市平坂町にあった。かつては西三河の水運の要所だったが、矢作川の河口付近は埋め立てられている。街道の終点の港があった場所を探す。「平坂港前」というバス停(平坂町丸山)があるが、わからない。

 今週の土日は高円寺びっくり大道芸開催。火を吹く人と高い所に吊るされて回る人と足に棒をつけて歩く人などを見る。高円寺図書館に行き、『週刊ベースボール』のバックナンバーを読み、街道の本を借りる。
 そのあと阿佐ケ谷散歩。南口のパールセンター商店街のカルディ、ココスナカムラで買物する。
 帰りは阿佐谷東公園を通り、桃園川緑道へ。阿佐谷東公園の隣の保育園に藤棚が見えた。阿佐ヶ谷神明宮の藤もそろそろ見頃か。藤を見るのは梅、桃、桜の次の楽しみになっている。

2026/04/21

四月の花

  四月だけど、初夏のような空気。毎年冬に貼るカイロを三箱(一箱三十枚入り)用意しているが、二年連続で一箱余る。
 二十代のころ、一九九〇年代の話——四月、明け方は冷え、コタツをつけていた記憶がある。
 ここまで書いたところで、夕方、地震。長い揺れ。テレビをつける。三陸沖、マグニチュード7.5(しばらくして7.7に変わった)。岩手・青森・北海道に津波警報が出る。
 高円寺駅北口広場の喫煙所の隣にいつの間にか阿波踊りの銅像ができている。広場に近くにハナミズキが咲いている。

 高円寺駅南口の高南通り(桃園川緑道のすこし南)にヤマモモの木がある。今年になって知った。桃園川緑道はキリシマツツジ、ムラサキシキブが咲いていた。

 日曜日、妙正寺川を散歩。寿橋の近くの西大和公園で藤棚を見る。藤棚の周辺は蜂がけっこういる。
 高円寺の散歩道に藤棚のある平屋の家があったのだが、すこし前に取り壊されてしまった。

『フライの雑誌』136号の特集は「春の渓流を釣り上がるこの一本」。表紙に「ずっと春、希望。」という言葉。「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれる魚がいる。魚へんに「春」と書くサワラもそう。郷里にいたころ、よくサワラを食べた。母方の祖母が暮らしていた志摩市はサワラで有名な土地である。

 野中豪さんの「水辺の履歴書」を読み進めているうちにどんどん面白くなる。小学生のころ、フライフィッシングを知り、のめり込んでいく。フライフィッシングを好きになったから、おかしくなったのか、もともとおかしかったから……。
 ニック・ホーンビィの『ハイ・フィディリティ』(森田義信訳、新潮文庫、ハヤカワepi文庫)に通じる問いがこのエッセイにある。『ハイ・フィディリティ』は音楽の話だが。

 大学生になり、車の免許をとり、行ったことのない川に向かう。

《水辺には家や学校とは別の時間があった》

 わたしは同号に「『からだ』と千曲川 南木佳士」というエッセイを書いた。
 ここ数年、タイトルに「からだ」という言葉が入った南木佳士の本を愛読している。南木佳士は長野県佐久市の病院に勤務しながら、私小説を書き続けている(釣りの小説もある)。
 わたしは小説より先に『天地有情』(岩波書店、二〇〇四年)を読んだ。作者が五十二歳のときに刊行されたエッセイ集で同書の「ランプ」にこんな一文がある。

《病者の思考は明日への楽観を欠くぶん、きょう一日の生活の積み重ねでしかない人生の本質に迫りやすくなる気がする》

 作家であり、医師でもある南木佳士はパニック障害を抱えている(うつ病歴もあり)。小説、随筆でも病いの話をよく書く。

 病者の思考とはちがうかもしれないが、わたしも先のことを考えるのが得意ではない。将来の悲観はあまり言葉にしたくない。
 散歩して本を読み、季節の草花の名前を覚える。道や川の名を知る。中高年になると平穏をありがたいとおもう。

(追記)二十四日(金)の明け方、コタツをつける。 

2026/04/15

橘曙覧

 四月十一日(土)、都内は最高気温二十七度の夏日、静岡は三十度超の真夏日だった。睡眠時間ズレる。たぶん寒暖差も関係している。夏用の肌掛けを洗濯して干す。

 昼すぎ、西部古書会館。先週の大均一祭で買った本がほぼ積読状態のため、あまり買わないよう心がける。『橘曙覧入門』(福井市橘曙覧記念文学館、二〇〇二年)、『モダン都市の文学誌 描かれた浅草・銀座・新宿・武蔵野』(江戸東京博物館、二〇一五年)、『特別展 金沢文庫の名宝』(神奈川県立金沢文庫、一九九二年)など。値段は百円から三百円。

『橘曙覧入門』は第三刷(二〇〇七年)。福井市橘曙覧記念文学館に行きたくなる。足羽神社の近くのようだ。同市の福井ふるさと文学館も気になる。
 橘曙覧(たちばなあけみ/たちばなのあけみ)は幕末の歌人で国学者(一八一二~六八年)。本居宣長に傾倒し、何度か伊勢神宮に行っている。宣長の墓参りもしている。

「橘曙覧関係地図」には一八六一(文久元)年、福井からの伊勢参宮の旅の足取りが記されている。琵琶湖の東岸から関ヶ原古戦場、養老の滝、多度山をまわる。現在の鉄道でいえば、養老鉄道のルート(養老街道)を通っている。
 伊勢国の一宮は鈴鹿の椿大神社といわれているが、近年、多度山の多度大社が一宮だったのではないかという説を見聞きする。一宮問題はややこしい。

 その後、多度から名古屋に向かい、佐屋街道を通り、桑名、白子、松阪、伊勢へ。
 帰りは伊勢から松阪に戻り、奈良、大阪、京をまわり、再び、琵琶湖東岸を通り、福井へ。橘曙覧が歩いた名古屋から伊勢、奈良、大阪をまわるルートは近鉄っぽい。橘曙覧にちょっとシンパシーを覚える。

 橘曙覧、享年五十六。今の自分の年齢だ。生きていると年下の過去の偉人が増えていく。

《たのしみは 朝おきいでて、昨日まで
    無りし花の 咲ける見る時》

 一九九四年六月十三日、米大統領ビル・クリントンは天皇皇后両陛下の訪米歓迎式典で橘曙覧のこの歌をスピーチで取り上げた。

 橘曙覧は「たのしみは~なんとかの時」という形式の歌をたくさん作っている。お笑いコンビのいつもここからの「悲しいとき~」は曙覧に通じる気がする。

 散歩中、花を見るのが好きになった。老いてゆく中にも楽しみはある。

『モダン都市の文学誌 描かれた浅草・銀座・新宿・武蔵野』は二十数ページの冊子だが、表紙に龍膽寺雄の名前と顔写真あり。「西郊の玄関口・新宿」の章は、龍膽寺雄の「新宿スケッチ」と共に当時の新宿の絵、写真、広告、小田急電車案内(鳥瞰図、昭和初期)などが載っている。龍膽寺雄はシャボテン(サボテン)の研究家で収集家でもあった。龍膽寺雄は高円寺に住んでいたこともある。

『特別展 金沢文庫の名宝』――冒頭付近の真鍋俊照の「金沢文庫の文化財」のところを読んでいたら、ある連歌が引用されていた。

《すみそめの色にも身をはなしつれど 道
 又この春も花をこそみれ      理》

 金沢文庫所蔵の「連歌懐紙」のなかの句。真鍋氏はこの句を「墨染めの衣をきて俗世間を離れる身になってしまったが、また今年の春も花を観ると感慨にふけり物思いにしずんでしまう」と解説している。

 名歌鑑賞の解説は、春に花(桜)を見ることがある種の感傷や儚さと結びつけていることが多い。中世の人にも橘曙覧の「たのしみは~」という感覚はあったのではないか。昔の人の心の機微みたいなものがよくわからない。

 今の人と昔の人の感覚は同じではない。でも何がどうちがうのかわからない。中世の絵巻物の図録を見ていると、どれもこれも同じような絵におもえる。不案内な分野はたいていそうおもう。

2026/04/10

わからないまま

 先月末から高円寺駅と阿佐ケ谷駅の間の高架下のビッグ・エー杉並阿佐谷南店が改装のため臨時休業していたのだが、リニューアルオープン。ビッグ・エーでコーヒー豆とビールをよく買う。高円寺に引っ越して以来、中央線のガード下を数えきれないくらい往復している。ビッグ・エーができたのは何年ごろだったか。昔からあったようにおもえるし、つい最近のようにもおもえる。
 夜、近所の飲み屋。日付が変わり、隣に座っていた常連客の誕生日になった。三十八歳になったらしい。
「ハンカチ世代だ」と口に出る。ハンカチ王子、二十年前か。時の流れは早い。

 福原麟太郎の随筆「命なりけり」の題名は西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」からとっている。一一八六(文治二)年、西行六十九歳の歌である。
 学生のころ、鎌倉幕府ができた年は一一九二年(いい国つくろう鎌倉幕府)と習ったが、今は一一八五年説が有力になっている。西行の「命なりけり小夜の中山」は鎌倉時代の歌ということになる。

 小夜の中山(静岡県掛川市)は東海道の日坂(にっさか)宿と金谷宿の間にある峠で東海道の三大難所の一つ。
 わたしは西行の「年たけて」の歌を知り、歌枕に興味を持つようになった。
 街道の本を読んでいると西行と芭蕉の名がやたらと出てくる。二人はわたしの郷里の三重県とも縁が深い。鈴鹿の歌、句もある。東京と三重の間に歩きたい道、見たい川がたくさんある。

 西行が出家したのは二十三、四歳。出家の理由は諸説あり。調べれば調べるほど、わからないことだらけ。「命なりけり小夜の中山」はいつごろの作品なのかわかってる。しかしわからない歌のほうが多い。

 くらもちふさこ『花に染む』(クイーンズコミック、全八巻)を読み返し、この題も西行の歌からとっていたのか……と今さらながら気づく。気づくのが遅い。

 文学にせよ歴史にせよ地理にせよ、雑学のカケラが頭の中に散らばっている状態だ。何かを理解するには知識の整理整頓が必要なのだが、そういうことを怠ってきた。興味がとっちらかっている。そのおかげで古本趣味が続いているともいえる。
 何がやりたいのかわからない。だから本屋(古本屋)に行く。本に反応して何かしら考える。気がついたら、五十歳半ばを過ぎていた。あと干支が一回りで西行の「命なりけり」の年になる。
 十二年前のわたしは四十四、五歳。そのころ、自分は何に興味を持っていたのか。二〇一四年四月六日のブログに「隠居欲」という記事を書いている。

《この先、生活の「縮小」がテーマになる気がしている》

 五十歳のわたしは生活の「縮小」ができなかった。今のわたしはとっちらかった興味を「縮小」したい。それは容易ではない。たぶんできない。

2026/04/07

大均一祭

 春先、飲み屋でひとり暮らしをはじめた若者に会うと「一日五分でもいいから毎日部屋を換気したほうがいいよ」と助言していた。とくにインドア趣味の人。家に長時間こもっていると空気が澱む。
 最近は同世代の酒飲みに水分補給の大切さを説いてしまう。酒を飲んだ翌朝(翌昼)、寝起きに足をつったりするのは水分不足のせいだ。風呂に入る前や後も水を飲む。五十代以降、咽の渇きが鈍くなった。散歩のときも気をつけている。

 四月四日(土)から西部古書会館の大均一祭(初日一冊二百円、二日目百円、三日目五十円)。三日連続で行く。
 初日は『第八回特別展図録 絵図の世界 ふるさとの風景の移りかわり』(土浦市立博物館、一九九二年)、『ダブル・インパクト 明治ニッポンの美』(芸大美術館ミュージアムショップ/六文舎、二〇一五年)、『少女ロマンス 高橋真琴の世界』(PARCO出版、二〇〇四年)、吉田健一『吉田茂・大磯清談』(文藝春秋新社、一九五六年)、富岡多恵子著『歌・言葉・日本人』(草思社、一九七二年)など。

 今回買った本はハンコが押してあったり、鉛筆の書き込みがあったり、背焼けしていたり、読む分には問題ないが、やや難ありのものが多い。『絵図の世界 ふるさとの風景の移りかわり』は茨城県土浦市内の絵図を収録した図録である。水戸街道の土浦宿、旧街道の風景が残っている。鎌倉古道も通っていた。前に、土浦を歩いたのは雪の日だったので、晴れの日に訪れたい。
『吉田茂・大磯清談』は何年か前に手放してしまったので買い直した。大磯も好きな宿場町だ。西に向かって歩いていると富士山が正面に見える。
 富岡多恵子著『歌・言葉・日本人』は装丁が気になって手にとる。扉を見たら湯村輝彦だった。
『ダブル・インパクト 明治ニッポンの美』はボストン美術館と東京藝術大学のコレクションを合わせた展覧会図録。これは当たりの予感。同図録の「日本画誕生」によると、「日本画」は「西洋画に対して自国の絵画を対峙させるために〈必要とされた〉絵画ということができる」とある。
 明治以降、「西洋画」が入ってきたことで「日本画」という新しいジャンルが生まれた。絵にかぎらず、文学や音楽もそうした流れがあるようにおもう。

 二日目は鳥越憲三郎・文、柴田秋介・写真『カラー 吉備路の魅力』(淡交社、一九七九年)、「江戸川ブックレット 古文書にみる江戸時代の村とくらし② 街道と水運』(江戸川区教育委員会、一九九一年)、『古地図ライブラリー2 嘉永・慶応 江戸切絵図で見る 幕末人物・事件散歩』(人文社、一九九五年)、『自然読本 夢・眠り』(河出書房新社、一九八一年)、フィリップ・ホセ・ファーマー著『異世界の門 階層宇宙シリーズ〈2〉』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、一九七四年)など。

『カラー 吉備路の魅力』は初日に見なかった。見落としたのか補充したのか。今回の大均一祭で一番の収穫だった。写真もいい。あとがきに「吉備はわたしの故里である。古代史の研究に手をつけはじめてから、故里だけに解明したいという熱望に燃えていた」とある。鳥越憲三郎は環境社会学の鳥越皓之の父でもある。
『幕末人物・事件散歩』は「江戸幕府鉄砲組百人隊」(江戸幕府鉄砲組百人隊保存会)の資料のコピー(二〇〇二年?)が挟まっていた。古本は嬉しいおまけが付いてくることもある。
『異世界の門』は深井国の装丁。深井国(一九三五年〜)は一九六〇年代につげ義春と同居生活を送っていたこともあるイラストレーター。
 原題は「THE GATE OF CREATION」。階層宇宙シリーズが「The World of Tiers」で直訳すると「階層世界」。浅倉久志はこのシリーズ名から『異世界の門』と訳したのかもしれない。

 月曜の大均一祭のあと、馬橋公園散歩。東側の芝生で花海棠(ハナカイドウ)を見る。バラ科リンゴ属の落葉低木。西側の喫煙所の近くに牡丹桜も咲いていた。牡丹桜は染井吉野より咲くのが遅い——というのは尾崎一雄の短篇「苔」を再読して知ったばかり。馬橋公園からすこし歩いてお伊勢の森のバス停のちかくの大和町の蓮華寺で枝垂れ桜を見る。葉桜になりかけ。御衣黄(ギョイコウ)という薄緑の花の桜もある。八重桜の一種らしい。

2026/04/05

下曽我へ

 三月三十一日(火)、尾崎一雄の命日。小田原市の下曽我へ。新宿から小田急で新松田駅、そこからJR御殿場線の松田駅に乗り換える。松田駅から国府津駅方面の電車は一時間に一本くらい。すこし時間があったので松田駅周辺を散歩した。ロマンス通りを歩いて酒匂(さかわ)川へ。酒匂川、いい名前の川だ。十文字橋を渡る。渡ってすぐ戻る。松田駅〜下曽我駅は六・四キロ。今度下曽我に行くときは松田駅から歩きたい。

 尾崎一雄の幻の新聞小説『とんでもない』(春陽堂書店)の主人公は小田急小田原線に沿って道に迷いまくりながら徒歩で下曽我にやってくる。学生時代、尾崎一雄は徒歩で下曽我〜東京を往復している。片道八十キロ。
 下曽我駅午前十時十八分着。待ち合わせは午前十一時前だったのだが、雨が強くなってきたので駅のちかくの小田原市梅の里センターに寄り、在りし日の雄山荘の写真を見る。

 大森のカフェ「昔日の客」の関口夫妻、『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)の田中敦子さんと宗我神社に向かい、そのあと墓参り。さらに雨が強くなる。寒くない日でよかった。

 神道の墓参りの作法をほとんど知らなかったので事前にインターネットで調べた。数珠はいらない。
 榊の葉は関口さんが用意してくれた。酒を供えるとき、尾崎一雄が酒をやめていた時期の話になる。
 晩年はウイスキー(オールドが好きだった)を飲んでいた。こんな話で盛り上がる機会はなかなかない。

「昔日の客」の関口直人さん、『父のおじさん』の田中さん——ふたりの父親は尾崎一雄の小説のモデルになっている。

 天気がよければ、関口夫妻と田中さんを弓張の滝や曽我丘陵の近くまで案内するつもりだった。雨が強くなってきたので雄山荘跡へ。太宰治『斜陽』の舞台、太田静子が『斜陽』の元になった日記を書いた雄山荘(大雄山荘)が火災で全焼したのは二〇〇九年十二月二十六日である。太田治子は雄山荘で生まれている(一九四七年十一月生まれ)。

 宗我神社の周辺、晴れていれば富士山がよく見える。

『新編 閑な老人』(中公文庫)に「苔」という短編を収録した。元の『閑な老人』にも入っている。

《神社の大きな四、五本は染井吉野なので、すでに葉桜なのは当然だが、上隣りや向いの八重桜もしぼんだのに、わが家の牡丹桜だけまだ見られるというのはどういうわけだろう》

 尾崎一雄の作品を読みはじめた三十歳前のころは「苔」のよさがピンとこなかった。ただ、この作品の最後の一行は印象に残っている。七十二歳の短篇。

 下曽我駅から小田原駅へ。国府津駅の乗り換えのさい、ホームから海が見える。「ここから、相模湾、近いですよ」といったら「見に行きましょう」となって、みんなで途中下車する。国府津の海、雨で波が荒れていた。

 小田原駅で食事をして小田原城へ。駅の案内板の地図、川崎長太郎の小屋跡が記されている。「キャッと叫んでろくろ首になる」の牧野信一も小田原生まれ。

 なぜか小田原は私小説作家と縁がある。

2026/04/01

中野の花見

 土曜日、中野散歩。四季の森公園の桜を見る。花見客がたくさんいた。桜だけでなく、花桃(ハナモモ)が咲いている。
 中野通り沿いの桜並木をすこし歩いて、駅南口に向かい、桃の花を見る。南口のサンロード中野・桃商会の通りには照手桃(テルテモモ)があった。花桃の一種で小栗判官の照手姫から名前をとっている。照手桃は相模原市で品種改良された桃(ほうき性樹型)である。
 このあたり昔は桃園町という町名だったからか、桃の木がけっこうある。

 中野のコープみらいで冷凍チャーハン(わりとあっさり味)を買い、桃園川緑道を通って高円寺に帰る。自分でもチャーハンはよく作るが、冷凍チャーハンの進化には敵わない(あと安さも)。

 日課の散歩(一日一万歩)で歩きたい気分じゃないときでも歩いているうちに、樹木や草花が好きになった。同じようなことのくりかえしの中にも変化がある。

 二〇二六年になって、まだ三ヶ月ちょっとだが、世の中の話題展開の速度についていけない。
 インターネットはその時々の気になる情報が自分の許容量を超えて集まってくる。どこかで制御しないと自分の思考が拡散してうやむやになってしまう。
 半世紀以上前の古本(古雑誌)を読んだり、音楽を聴いたりするのは、頭を冷ますのによい。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』Vol.16に「ブログの話」を書く。最初「ブログ二十年」という題をつけていたが、原稿を送る直前に変えた。なぜ変えたのか、よくわからない。

 年に一回発行の同誌でわたしは私小説風のエッセイを書いてきた。連作ではないが、古本の話、住まいの話、散歩の話など、どこかでつながっている。

 日曜日昼すぎ、西部古書会館(木曜日から開催していた)。『浅野竹二の木版世界』(府中市美術館、二〇一七年)、『武者小路実篤記念 新しき村美術館』(新しき村美術館、一九八八年)、滝田ゆう『寺島町奇譚 ぬけられます 現代漫画家自選シリーズ』(青林堂、一九七一年)、佐藤春夫著『打出の小槌』(講談社学術文庫、一九九〇年)など。

 浅野竹二の図録は手にとってパラパラ見ているうちに気に入った。一九〇〇年十月二十四日京都生まれ、一九九九年二月十日没(同図録の年譜)。インターネット上はウィキペディアをはじめ、一九九八年没になっている記述も多い。いずれにせよ長生きだ。

 浅野竹二、若いころは繊細な風景画を描いていたが、途中で画風が大きく変わり、九十代になるとポップアートみたいな絵になる。

 画家の中にはずっと同じような絵が描き続ける人もいる。そういう人も面白い。

 ブログの話に戻るが、ずっと同じことを続けていると、どこかで飽きてくる。そこから模索がはじまり、工夫を重ねる。そうした模索や工夫を経て、何がどう変わるのか。
 年々、働かないおじさん(おじいさん)の日記になりつつある。それもまたよし。

(追記)浅野竹二の生年を「一九九〇年」と書き間違える。さらに「一八九〇年」と間違えて直してしまう。注意力散漫。あと佐藤春夫著『打出の小槌』を講談社文芸文庫と書いていた。訂正した。