街道の研究をはじめたのは二〇一六年六月(この年の五月末に父が亡くなった)からなので、まもなく十年になる。三重の郷土史、郷土文学の本を集めるようになったのも同じころか。
街道と絡めて郷里(三重県)の歴史もちょこちょこ調べているのだが、今さらながら三重県の場合、陸路(東海道、伊勢街道)だけでなく、海路も重要だったことに気づく。伊勢商人は海運によって栄えた豪商である。
わたしは東京と三重の往復でJRの在来線(東海道本線)によく乗る。在来線は車窓がいいし、途中下車して宿場町を散歩するのも楽しい。
豊橋駅~名古屋駅の間は東海道沿いということもあって名鉄に乗ることが多い。
次に帰省するときはJR東海道本線の海に近い駅を歩きたい。Googleの地図で三河地方のJRの駅周辺を見ていて、平坂街道を知った。
平坂街道の視点の小坂井はJR飯田線の小坂井駅の近く。平坂街道は三河地方の塩を運ぶ「塩の道」でもあった。
すこし前の西部古書会館の均一祭で買った海の博物館、石原義剛著『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』(風媒社、一九九六年)の目次を見ていたら第十章「三河湾全域 西尾から豊橋まで」という章があった。
同章には「名残り少ない平坂湊」という小見出しがあり、「西尾市の観光や文化財地図に、三州五ヶ湊の一つだった平坂湊の史跡を伝えるものはない」と記されている。
同書によれば「平坂湊は、現在、平坂入江と呼ばれる水筋の奥にあった」とのことだが、正確な場所は不明――。
三州五ヶ湊は大浜(現・碧南市)、鷲塚(現・碧南市)、平坂(現・西尾市)、犬飼(現・蒲郡市)、御馬(現・豊川市御津町)で、一六三五(寛永一二)年に定められた。
平坂湊は白子湊(三重県鈴鹿市)ともつながりがある。
本多隆成、酒井一編『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)の第三章「東海道と伊勢湾の地域と民衆」の「伊勢湾の海運と伊勢商人」の項に「白子と平坂」という見出しがあった。読んでいたはずなのに記憶にない。知らない地名、固有名詞を読み飛ばしている。たぶんこの癖は治らない。
江戸時代に白子湊と平坂湊は木綿などの運搬が盛んな港だった。この二つの港は尾張の物資の集荷も担っていた。
《白子廻船が運賃値上げを要求したり、洩積や拾荷などによって仲間荷物の運送に支障をきたしたときは、しばしば平坂が白子の代替港としての役割を担わされた》
古代から伊勢と三河は伊勢湾をはさんで舟運が行われていた。白子湊も三河と行き来があった港の一つである。
尾張や美濃の荷物を江戸に輸送するさい、なぜ伊勢湾対岸の白子湊が利用されたのか。
『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』の「鈴鹿 白子港と大黒屋光太夫」の項には「江戸初期から紀州藩の所領だった白子はその親藩としての特権を活用して、商売を発展させた」とある。
江戸時代の白子湊は伊勢松阪や知多の木綿を集め、江戸に運んだ。庶民の衣料が麻から綿に変わり、木綿を染めるための型紙(伊勢型紙)が発展したのも当時の流通経路と関係ある。
ちなみに松阪も紀州藩の飛地だった。
白子湊から江戸に木綿を運び、帰りは房総半島で生産された干鰯(ほしか)を運んだといわれている。干鰯は鰯を乾燥させた肥料で木綿の栽培にも利用された。千葉には伊勢神宮の神領もあった。
木綿商といえば、国学者の本居宣長の家(三重県松阪市)も江戸に店を持つ木綿問屋だった。宣長自身は商いに興味がなく(若き日に奉公に出るが一年くらいでやめて郷里に帰っている)、ひたすら書物と趣味に耽溺したいと願った道楽者である。地図(絵図)好きでもあった。自作の地図も残している。
わたしが就職もせず、古本ばっかり読んでいる人生を送るようになったのは本居宣長の「好信楽」の教え……ではないけれど、街道の研究をはじめて以降、松阪は好きな町になった。
鈴鹿と松阪、滋賀と松阪のつながりにも興味がある。
鈴鹿もそうだが、松阪も伊勢参宮の往来によって情報が集まり、文化が育った——といろいろな本に書かれている。わたしもそうおもっていた。しかしやはり舟運、商人の情報網は無視できない。
歴史を知ることで地理の感覚が変わる。地理を知り、歴史の認識が変わる。そういうことが今の自分には面白い。