2021/12/31

終末のはじまり

 ちょっと前に稲井カオル『そのへんのアクタ』(白泉社)の二巻を読んで……何か感想を書き残しておきたいとおもいつつ、なんとなく、バタバタした日々を過ごしているうちに忘れていた。
 重厚な作品ではないので「名作」っぽさはないのだが、二〇二〇年代最重要作品になるかもしれない漫画だとわたしは予想している。

 ある日突然、「イズリアン」と呼ばれる地球外生命体が来襲し、人類の存亡をかけた死闘がはじまる。主人公のアクタは「終末の英雄」と呼ばれた戦士である。ところが、地球外生命体と人類の戦いは膠着状態に陥り、アクタは千葉基地から鳥取支部に「左遷」されてしまう。
 アクタは戦うこと以外は人付き合いをはじめ、とにかく不器用で出来ないことばかり。

 鳥取支部は元々ドライブインだった店舗がそのまま基地になっていて、隣のレストランはふつうに営業している。鳥取支部に来たアクタの最初の仕事は犬の散歩だ。そして廊下の拭き掃除を頼まれる。

 もちろん鳥取にも地球外生命体は襲来する。赴任後、初のイズリアンの襲来にアクタはようやく出番がきたと勇ましく出動しようとする。しかし副隊長の百福さんは彼を制止し、夜食の準備を手伝うことを命じる。
 百福さんはアクタにこう語りかける。

《私達が暮らすのは言わば「終わりそうで終わらない でもちょっとだけ終わりそうな世界」です》

《しかし私達はどんな時でも 毎日を過ごしていかなくてはなりません》

“戦闘マシーン”のような日々を送り、人間らしい思考と感情を削ぎ落としたアクタは鳥取に来て、食事の手伝いをしたり掃除をしたり散歩をしたり子どもと遊んだり「戦い」以外のことを学んでいく。

 わたしが子どものころに読んでいた漫画の「終末」は核戦争や隕石の衝突などで廃墟になった世界が舞台になっているものが多かった。弱肉強食の食うか食われるか、生きるか死ぬかのサバイバルの物語だ。しかしある時期——二〇一〇年代以降、じわじわと破局に向かうゆるやかな「終末」を淡々と暮らす作品が増えてきた。

『そのへんのアクタ』もその流れにある作品といっていい。地球外生命体との戦いは一進一退——いっぽう少子高齢化や過疎化による人口減の社会もさりげなく描かれている。でも悲愴感はない。緻密に練られたコントのような味わいもある。

『そのへんのアクタ』は、なかなか決着のつかない世界における長期戦、持久戦の心構えが描かれている漫画なのだ。
 人類の存亡をかけた戦いの中でも鳥取支部の隊員たちは、家事を怠らず、息抜きをし、冗談をいい合う。いろいろな仕事を掛け持ちしている。

《しかし私達はどんな時でも 毎日を過ごしていかなくてはなりません》

「終末の英雄」と呼ばれるような無敵の存在だったアクタが、左遷された理由もそこにある。自己を戦闘能力に特化し、まったく感情のブレがなく、ひたすら任務を遂行しようとする彼は知らず知らずのうちにまわりに無言のプレッシャーをかける。
——どうしておれと同じように自分の全てを捧げ、敵と戦わないのか。
 アクタはそんなことはいわないが、そういう雰囲気を発散し続けている。周囲の隊員たちはみんな息苦しくなる。

 いかに人類存亡の危機——に直面していようが、自分を犠牲にして、ずっと緊張し、集中し、戦いのことだけを考えるような毎日を過ごすのは「そのへん」の人には不可能である。イズリアンとの戦いはずっと続く。自分が生きている間には終わらない可能性もあるのだ。

 鳥取支部の隊員たちは緊張感がなく、みんなノリが軽く、いい加減だ。他愛もないことで笑ったり冗談をいったりふざけたりしている。戦うのが怖くて逃げ出してしまう隊員もいる。
 勝っても負けても、たとえゆるやかに衰退していく世界だったとしても、日々楽しく生きる。それがゆるやかな終末を生きるための知恵だろう。

『そのへんのアクタ』は今の時代に必要な思想——人生哲学をギャグをまじえて描いた作品ともいえる。もちろん、息抜きに読むにも最適な漫画だ。

2021/12/29

戦力外の話

 二十八日夜、年末恒例——「プロ野球戦力外通告」を観る。今年は番組には三十歳の投手が二人取り上げられていた(その二人以外では楽天を戦力外になった牧田和久投手も)。

 三十歳の選手は二人とも結婚していて子どもがいる。
 彼らは他球団から声がかからなければ、独立リーグに行くか海外でプレーするか現役引退か——そうした岐路に立っている。福岡ソフトバンクホークスの投手は引退し、球団職員の道を選び、今年台湾にいた元阪神タイガースの投手はトライアウトを受けたが期日までにオファーがなく、もう一年頑張ることに決めた。
 引退しても球団の職員、スタッフとして野球に関わる仕事ができるのはかなり恵まれた選手といっていい。

 真面目で練習熱心で試合に出ていないときでも味方の選手を大きな声で応援する。陽気でチームメイトに愛されている。そういう選手は引退後も球団のスタッフとして残ることが多い気がする。あと球団と出身校の関係なども左右することがある(ホークスの球団職員になった選手は福岡県の野球の名門校の出身だ)。逆に自分のことしか考えてなくて、ベンチの雰囲気をギスギスさせてしまうような選手はそこそこの成績を残していても戦力外候補になりやすいし、裏方としても声がかかりにくい。

 選手としては同じくらいの成績だったとしても、日頃の小さな積み重ねによって引退後の明暗は分かれる。

 戦力外になる選手は年齢もそうだが、プロとしての技術面で何らかの課題があるということだ。どんなに球が速くてもノーコンだとか、打撃は光るものがあっても守備がまずいとか、走攻守のセンスはあるけどケガが多いとか……。若いころは「伸びしろ」を期待され、多少の欠点があったとしても試合に出してもらえる。しかし三十歳の選手はそういうわけにはいかない。監督やコーチは同じような課題を抱えている選手であれば、若手に経験を積ませたいと考える。
 育成の期間が過ぎた三十歳前後の中堅の選手は確実性——計算できる選手かどうかが問われてくる。野手の場合でいえば、ゲーム終盤一点差で負けている局面でランナーを確実に送るバッティングもしくはバントができるかどうか。一アウトで三塁ランナーをホームに返すバッティングができるかどうか。レギュラーではない中堅選手であれば、複数のポジションを守れるユーティリティとしての能力も必要になってくる。投手なら四球が少なく三振がとれる——のが理想だが、とにかく簡単には崩れない、粘り強いピッチングができるようにならないと大事な場面を任せてもらえない。

 ベテラン選手になれば、自分の成績だけでなく、チーム全体のことまで考えないといけなくなる。そのときどきのチーム事情に応じ、様々な役割が求められるようになる。苦しいときにチームの士気を高める行動がとれるかどうかも大事な仕事だ。

 三十歳前後で戦力外になる選手は、自分のことで一杯一杯でまわりが見えていない。それからプロで生き残るための貪欲さみたいなものが足りない。

 一年前に戦力外通告を受け、今年台湾の球団にいた選手が妻にトライアウトの結果がダメだったらどうするのか——といったことを問い詰められる。選手は「今は考えられない」と答える。
 プロになるような選手はみんなアマチュア時代は野球の超エリートである。アルバイトなんてしたことがない選手が大半だろう。そういう選手が戦力外になった後、どういう人生を歩むのか……。

 一軍のレギュラーになれる選手は一握りである。そして本人の納得にいく形で引退できる選手はもっと少ない。野球好きとしては、みんな幸せになってくれることを願うばかりだ。

2021/12/24

大勢順応 その七

  午前中、銀行に行ったら店舗の外まで人が並んでいる。スーパーも混んでいた。諦める。自由業でよかったとおもうことの一つは混雑時を避けようとおもえばいくらでも避けれるところだろう。しかし長年、密を避ける生活を送っていると人混や行列にたいする耐性が落ちてくる。コンビニでも二人くらい並んでいると諦め、別の店舗まで足を延ばす。

 多くの人が集まる時間や場所をすぐズラそうとする。極力、他人といっしょに行動しない。わたしはそういう生活習慣がしみついてしまっている。

 三十代——というか三十歳前後、「大勢順応」しているフリして場数を踏んで経験値を上げよう作戦を考えた。わたしはおとなしそうにおもわれがちなのだが、協調性がまったくない。何でもかんでも自分のペースでやろうとする。要するに、しめきりさえ間に合わせれば、途中経過はどんなやり方をしてもいい——という感覚がどうやっても抜けない。
 経験値を上げよう作戦のさい、そこを直そうと考えた。そして無理なことがわかった。

 五十二歳の今のわたしが三十代前後の自分に助言するとすれば、「ちゃんと寝ろ」といいたい。昔のわたしはしょっちゅう徹夜し、体調を崩していた。睡眠と休息をとる。それから仕事する。そのほうが仕事も捗る。それがわかったことは大きな収穫だった。

 橋本治のいう「能力の獲得」とはちがうかもしれないが、自分の向き不向きや体調管理の大切さなど、失敗から学んだことはいろいろある。だから経験値上げ作戦は無駄ではなかった……とおもっている。

 その時代の「一つの価値観」に合うか合わないかの話でいえば、わたしの好きな戦中派の作家たちは十代二十代のときに「支配的な一つの価値体系」が崩壊する瞬間を目の当たりにした。昨日まで正しいとされていたものが一夜にして“悪”になる。とすれば、今日の“善”が明日“悪”に変わったとしても不思議ではない。

「みんな『いい人』の社会」は、自分に非がなく、“悪”は自分の外にある——それが集団になり、個人を排除、追放する。後になって、その個人に何の罪がなかったと判明しても、責任をとる人は誰もいない。それが「独裁者抜きのファシズム」の怖さである。法律も証拠の有無も関係なく、気分で人を裁く。一度動き出してしまうと歯止めが効かなくなる。

「独裁者抜きのファシズム」を止めるにはどうすればいいのか。個人で対処しようとすれば、一対百、一対千、一対万の争いになりかねない。こちらが「一」批判すれば、瞬時に「百」や「千」の反論が返ってくる。

 だから個別の戦いはできる限り避け(おそらく気力と体力が持たない)、その構造を解き明かすための地道な作業が必要になる。

 二十年以上前に橋本治は青年漫画誌の活字の頁でそういう作業をしていた。
「みんな『いい人』の社会」が「楽園」だとすると「失楽園」は「楽園」を失った世界——「支配的な一つの価値体系」が崩れ、消え去った世界とも解釈できる。

 では「失楽園」の「向こう側」に何があるのか。どうすればその「向こう側」に辿り着けるのか。
 おそらく「能力の獲得」というテーマも絡んでくるとおもうが、今のわたしはこの話を続ける余裕がない。もうすこし勉強し、体調を整えてから、この続きを書きたい。

(……未完)

2021/12/23

大勢順応 その六

 二十世紀の終わりに橋本治は「みんな『いい人』の社会」や「独裁者抜きのファシズム」について論じていたころ、三十代前半のわたしは仕事や生活が行き詰まり、社会への関心が薄れていた。だから『広告批評』の連載で「そして二十世紀は終わった」を読んだときも「独裁者抜きのファシズム」といった話よりも次の言葉のほうが印象深かった——記憶がある。

《私が「不自由」を感じるのは、自分とは違う他人の価値体系に侵される時である。私は、「自分とはなんだ?」とか、そういう哲学的な悩み方をしたことがない。根本で、自分のことをかけらも疑っていない》

《「根本で確固としている自分を展開するために必要なのは、能力の獲得である」としか思っていない》

「支配的な一つの価値体系」に自分の考え方や感じ方が合わず、「みんな『いい人』の社会」から脱落する。
 そうなると何をいっても書いても、落ちこぼれの変わり者がおかしなことをほざいているという状況に陥ってしまう。その状況を打破するにはどうすればいいのか。「大勢順応」しているフリをして、「いい人」そうだけど、ちょっと「ヘンな人」くらいのポジションに身を置くという方法もなくはない。極力、周囲との摩擦を避け、いろいろ制約がある中で自分のやりたいことをやる。あるいは隙間産業に徹する。そうやってすこしずつ信用を積み重ね、交渉力を身につけ、やりたいことができる機会を増やしていく。それも「能力の獲得」の一種だろう。

  三十代のわたしはそんなふうに仕事ができるようになることを目指した。

(……続く)

2021/12/22

大勢順応 その五

 橋本治が『ビッグコミックスペリオール』で「失楽園の向こう側」を連載していたころ、『広告批評』に「ああでもなくこうでもなく」という時評を書いていた。その連載は『さらに、ああでもなくこうでもなく』(マドラ出版、二〇〇一年)にまとめられた。同書の「そして二十世紀が終わった」に「独裁者のいないファシズム」という言葉が登場する。

《昭和というのは、「一つの価値観」しか持たない時代だった。支配的な一つの価値体系があって、そこに合致したものと合致しないものとの間には、歴然たる区別があった》

 この「支配的な一つの価値体系」が「独裁者抜きのファシズム」を読み解くキーワードになる。戦前戦中の軍国主義の時代には「支配的な一つの価値体系」から外れた者は「非国民」と呼ばれた。戦後の日本の一九七〇年代後半以降、「中流意識」が「支配的な一つの価値体系」になる。

《「支配的な一つの価値体系」は、「価値観の違う他者」の存在を許さない。たとえ譲歩しても、その存在を好まない》

 橋本治は「支配的な一つの価値体系」を成り立たせるのは「強制」ではなく「信仰」だと論じている。「中流意識」は「中流」を目指し、「横並びの均等」の実現を願った信仰ともいえる。

《日本的ファシズムの特徴は、「明白なる独裁者が存在しないこと」である。(中略)そこに「統合のシンボル」がありさえすれば、日本人はたやすく、「独裁者抜きのファシズム」を実現させてしまえるらしい》

 富国強兵も一億総中流も「支配的な一つの価値体系」への信仰によって支えられてきた。
 その後、そして今の「支配的な一つの価値体系」は何なのか。そんなものはもうない——のかもしれない。
 ただしいつの時代も自分たちの価値観を「支配的な一つの価値体系」に押し上げようと躍起になっている人たちがいる。「独裁者抜きのファシズム」は「支配的な一つの価値体系」に多くの人が順応することで達成される。

 国民一丸となって、国を強くしよう、社会を豊かにしよう、日々刻々と更新されるトレンドを広めよう。違いがあるとすれば、強さや豊かさは世代をこえて理解しやすく、体感しやすいが、日々更新されるトレンドは“情報通”にならないと付いていけないところだろう。一早くトレンドに同調できない人は“悪”だ“時代錯誤”だといわれても、多くの人は戸惑う。だから本人たちがどれだけ自分の正しさを立証しようとしても「支配的な一つの価値体系」になるのはむずかしい。もっとも、わかりやすければいいというものではない。

(……続く)

2021/12/21

大勢順応 その四

 橋本治の文章を読むと「何か大事なことが書いてある」ということは直感するのだが、真意を理解するまでにけっこう時間差が生じる。五年後十年後あるいはもっと時間がかかることがある。『貧乏は正しい!』シリーズ(小学館文庫)のときもそうだった。
『失楽園の向こう側』は二〇〇〇年から二〇〇三年の連載が元になっていて、「みんな『いい人』の社会」は約二十年前に書かれた批評だが、この五年くらいの社会情勢の変化と照らし合わせることで「独裁者抜きのファシズム」がどういうものか、わたしはなんとなくイメージできるようになった。

 真面目で善良な人々が、弾圧に加担している自覚のないまま、個人を追いつめ、職を奪おうとしたり、その土地に住めなくさせたりする。
 わたしたちは「いい人」である。「いい人」であるわたしたちが不快に感じるものは“悪”である。“悪”を排除することは正しい。その“悪”を擁護する人も“悪”の味方だから追放する。

 戦前戦中は「非国民」という言葉で他人を責めた。自分が「非国民」といわれないためには、誰かを「非国民」と罵るのが手っ取り早い。「非国民」に相当する言葉は時代によって変わってくる。今の欧米(そして日本も)では「差別主義者」や「排外主義者」がそれに当たる。

「独裁者抜きのファシズム」は日本特有のものではない。

 二十世紀末に書かれた時評を今読み返し、あらためてわたしは橋本治のすごさを再確認した。「みんな『いい人』の社会」は「独裁者抜きのファシズム」に転じる可能性がある。要約すると、そういう論旨になる。しかしこの話は要約してはいけないのかもしれない。
 橋本治がその気になれば、もっとすっきり書くことも不可能ではないだろう。なぜそうしないのか。自分は正しいと信じて疑わない「いい人」は「全体主義者」に転じる怖れがある——そういってしまった瞬間、その「全体主義者」もまた「非国民」や「差別主義者」と同じレッテルに転化してしまうからだ。

 ややこしい問題を簡単に説明する。「みんな『いい人』の社会」は「独裁者抜きのファシズム」である。そうまとめてしまうと「よかった、自分は全体主義者ではないからセーフだ」くらいの納得の仕方で自分には関係ないと安心する。

 ひょっとしたら知らず知らずのうちに「人並」な「いい人」の価値観に染まり、“悪”は自分の外にあるとおもう人間になっているのではないか。そう考えることがこの問題を理解するための糸口になる。

(……続く)

2021/12/19

大勢順応 その三

『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」を読み進めていくと「大勢順応」の例として、企業のリストラと学校のイジメの話が出てくる。「みんな『いい人』」の「いい人」は“悪”を引き受けない人という逆説を含んだ言葉であることがわかってくる。

 会社の業績が悪化する。その責任は社長をはじめ会社の上層部にある。しかしリストラの対象になるのは彼らではない。責任者たちは会社を立て直すためにリストラを敢行する。

《リストラとは、“悪化”という下り坂を転がりながら、経営悪化とは無関係な立場にいた人達が、順にクビを切られて行くことになっている。(中略)「君、会社を辞めてくれないか。君の責任じゃないんだが、このままじゃ会社が成り立たないんだ」と言われて、「はい」と言ったら、もうそこまでである。「会社を辞めた人間に対して、会社が責任を持つ必要はない」ということになる。辞めずに居座ったら、いやがらせの嵐がやって来て、辞めずにはいられなくなるのだが、そうなってもしかし、辞める時には必ず、「本人の意志によって」である》

「みんな『いい人』の社会」の「いい人」は“悪”を引き受けない。「イジメの構造」も同じだ。いやがらせをしたり、排除したりする側はそれを“悪”とは考えない。会社を立て直すため、クラスの和を取り戻すため——くらいの気持なのだ。
「人並」を達成した「いい人」にとって、“悪”は自分の外にある。自分が不快と感じれば、その原因は自分以外の誰かのせいだと考える。

《多くの人が一つの建前を信じて、それに基づいて共同生活をしている中で、ただ一人異を唱える人が出て来ると、その生活共同体の安全が脅かされる——だからこそ、これへの排除が必要になって、「村八分」という制裁も生まれる》

「村八分」に参加している人たちは、当然自分たちのことを“悪”とおもわない。村の安全のために一致団結し、平穏を取り戻そうとしているだけだ。そして排除される人も孤立する人も自分の意志で選んだことにされてしまう。

《日本では、「独裁者によって社会への適合を強制される」という事態があまり起こらない。たとえば、太平洋戦争へと向かう日本的ファシズムの中に、ヒトラーやムッソリーニのように強力な独裁者はない。だから、「誰が悪いのか」が明確に分からない》

 橋本治はそうした構造を「独裁者抜きのファシズム」といった。「独裁者抜きのファシズム」という言葉は『失楽園の向こう側』ではなく、同時期に橋本治が書いた他の本に出てくる。

 強力な独裁者が国民を同じ方向(価値観)に導くのではなく、国民自らが「大勢順応」し、社会への適合を果たすために努力する。「大勢順応」の努力を怠ったり、異を唱えたりする人を排除する。
「みんな『いい人』の社会」はそういう社会なのである。

(……続く)

2021/12/18

大勢順応 その二

『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」で橋本治が論じた「大勢順応」について、もうすこし考えてみたい。

『失楽園の向こう側』は文庫オリジナルで刊行は二〇〇六年三月。二〇〇〇年から二〇〇三年にかけての『ビッグコミックスペリオール』の連載を大幅加筆したものだ。橋本治は一九四八年三月生まれ、連載開始時、五十二歳だった。

 解説は熊田正史さん(京都精華大学教授)が書いている。

《十数年前、私は『ヤングサンデー』というコミック誌の編集をしていた。(中略)つまり、『ヤングサンデー』はコミック誌なのに橋本治が載っているというヘンなコミック誌だったのだ》

 学生時代のわたしは『ヤングサンデー』の連載「貧乏は正しい!」(連載時のタイトルは「こう生きるのが正しい」)を毎号愛読していた。同連載中「夏三泊四日の橋本治漬けセミナー」も開催していた。わたしはこのセミナーの第一回(一九九二年)の卒業生である。この合宿に参加した年に大学を中退した。

『失楽園の向こう側』は二〇〇〇年代はじめの連載で、当時三十歳前後の読者を想定した(連載開始時、わたしも三十歳だった)。
 わたしは同書の「みんな『いい人』の社会」を文庫化されてから読んだのだが、そこに書かれている内容を当時理解できていなかったとおもう。

——「人並」には「その先がない」の話はこう続く。

《ゴールが「人並」である以上、自分のやっていることは、「誰でもやっていること」なんだから、そこに「反省」などというものが入る必要はない。だから、モラルというものは低下する》

 大学を出て十年前後、ようやく仕事に慣れてきた三十代の読者はどうおもったかわからないが、文庫刊行時二〇〇六年の三十六歳のわたしは週三日のアルバイトをしながら原稿を書いている身だったから自分のことを「人並」とおもえる状況ではなかった。だから他人事として読んでいたのではないか。

《大勢順応が“善”だから、多くの人は大勢に順応する。大勢順応はさらなる大勢順応を呼んで、気がついた時には、そこにストップをかける人間がいなくなる》

 この部分にしても昨今のポリコレやキャンセルカルチャーをおもい浮かべる人もいれば、与党の政治家やその支持者のことを指していると考える人もいるだろう。この橋本治の発言は自分の価値観(傾向)に合わせて、好きなように解釈できてしまう。

「大勢順応」は自分の思考や志向や嗜好ではなく、自分の属している集団の価値観、ルールを優先しがちな人に当てはまる。と、わたしは解釈している。保守だろうがリベラルだろうが、集団の価値観に「適応」——「順応」することを“善”と考える人たちがいる。「みんな『いい人』の社会」は「適応」できない人を“悪”として「放逐」する社会でもある。「適応」できない人がいなくなれば、世の中は楽園になる。では、「みんな『いい人』の社会」で「いい人」ではないと認定されてしまった人はどうなるのか。その「いい人」の基準は誰が決めるのか。当然、そういう疑問が出てくる。

(……続く)

2021/12/17

大勢順応 その一

 経験上、体が冷えてくると気持も沈みがちになる。わたしはある種の精神論——気合や根性を否定する気はないが、とりあえず体を温めることのほうが手っ取り早いと考えている。

 何年も会っていないが、二十代のころ「とにかく起きたらすぐお湯で手を温めろ」と助言してくれた先輩ライターのNさんにはいまだに感謝している。冬になるたびにその言葉をおもいだす。Nさんの名前は橋本治著『失楽園の向こう側』(小学館文庫、二〇〇六年)の巻末に「企画協力者」として記載されている。

《日本社会で一番重要なのは、「適合」である。「適合」を完了した状態を「人並」と言う。日本での「人並」というのは、ある種の到達点だから、その先はない》(「みんな『いい人』の社会」/同書)

 子どものころから世の中への「適合」を目指し、それなりの収入を得て「人並」になる。その結果、自分は正しい、もしくはそれほど間違っていないと考える。ようするに自分を疑わなくなる。「人並」の自分と違う意見を見聞きすると「人並」以下の未熟な人間の妄言とおもってしまう。

《多くの人間が共有する「建前」は、それが共有されているものであればこそ、多くの人達にとって、「自分たちを成り立たせてくれる重要なもの」なのだ。だから、それに対して「違う」と言ったって、聞く方には意味が分からない。意味をなさないものに対して、多くの人は耳を傾けられない》

《「他人とは違う意見を言う人」は、ただ「不思議な人」で、そんな人間がなにかを言っても、「不思議なことを言う人がまた不思議なことを言っている」にしかならない》

《大勢順応が“善”だから、多くの人は大勢に順応する。大勢順応はさらなる大勢順応を呼んで、気がついた時には、そこにストップをかける人間がいなくなる。「大勢順応は悪だ」と言ったら、「大勢順応をとげている多くの善人を混乱させた」という罪に問われて放逐されてしまう——だから「違う」と言う人間がいなくなってしまう》

『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」は今の言論状況にも当てはまる。仮に「建前」が正しかったとしても、行き過ぎてしまうことはいくらでもある。しかしその行き過ぎに異論を唱えると「『大勢順応をとげている多くの善人を混乱させた』という罪に問われて放逐されてしまう」のである。

 「みんな『いい人』の社会」に「平均値が大好きな日本人は、平均値と基準値を同じものだと思ってしまう」という一文もあった。高血圧の人が多い村は、その平均値も高くなる。彼らは自分が暮らす外の世界の基準値を知らない。

《全員が高血圧の中に、一人だけ低血圧の人間がいて、普段から「起きて調子が出ない」なんてことを言っていたら、それはもう特別な仲間はずれの変わり者で、怠け者である》 

 そして「病気」ということになる。「病気」なら適切な治療を施せば治るだろう。その理屈は「大勢順応」に異論を唱えるような人にも適用されがちである。あなたが我々の正しさに疑問を抱くのは正しい情報を知らず、正しい判断ができていないからだと……。

(……続く)

2021/12/12

昼寝夕起

 金曜日、午前中から西部古書会館。毎年楽しみにしている歳末赤札古本市。木曜日が初日だったが、二日目も図録充実——けっこういい本(あくまでも自分の好み)があった。この日は早起きしたわけではなく、前日からずっと起きていた。
 古書会館で街道関係の図録や文学展のパンフレットを見ていると、同じ人の蔵書がまとまって出品されているのではないかとおもうことがよくある。郷土史料館の半券が同じ場所に貼ってあったり……。これだけ集めるのに何年くらいかかったのか。
 自分が集めている本や図録もいつかは手放すときがくる。古本屋に流れ、個人の蔵書は循環していく。生きているうちに読める本には限りがある。旅もそう。日本中の宿場町を歩いてみたいが、どう考えても時間が足りない。再訪したい場所をまわるだけでも道半ばで終わるだろう。
 古書会館から帰って寝る。起きたら夕方四時半。ひさしぶりに目が覚めた瞬間、朝か夕方かわからないかんじを味わう。
 三日連続、夕方に起きている。今日はこれから寝るのでたぶん夜起きる。

 先月、西部古書会館で柴田秀一郎著『バス停留所』(リトルモア、二〇一〇年)を買った。横長の変形本——素晴らしい写真集である(刊行時に気づけなかったのは不覚。十一年前はまだバスに興味がなかった)。全国各地の路線バスの停留所の写真(モノクロ)を見ているとたまらない気持になる。ほぼ見たことのない風景だけど、むしょうに懐かしい。時とともに価値が増す写真集かもしれない。わたしは写真をまったく撮らないのだが、こういう旅がしたいとおもった。
 柴田さんは一九六三年東京・杉並区生まれ。あとがきによると「サラリーマンと写真家の二足の草鞋を履いている」とある。

……ここまで書いて話が変わるが、田中敦子著『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)という本が出た。「note」連載中から「すごいものを読まされている」と本になるのが待ち遠しかった。

 田中さんの父の一家と尾崎一家の縁を語りつつ、尾崎一雄の作品を紹介している。尾崎一雄の文学の奥深さだけでなく、その人間味まで田中さんの温かい文章から伝わってくる。尾崎一雄の小説の続きを読んでいるような気分になる。

 今、わたしは尾崎一雄の本(刊行は来年)を作っていて、『父のおじさん』と関係している作品も収録している。田中さんの父が結婚したとき、その仲人を尾崎一雄、松枝夫妻がした——という話が出てくる随筆である。

2021/12/07

危機回避

 月曜日午後三時、ある本を受け取るため、西荻窪へ。帰りは荻窪まで歩く。途中、ミニコープ、ワイズマートで食材と調味料を買う。たまに西荻〜荻窪間を歩く。「上荻本町通り(商店会)」という道がある。長年この通りの名を知らずにいた。

 ワイズマートで買物中、万歩計の電池が切れる(よくある)。鞄から予備の電池を出し、交換する。その日歩いた歩数が消える。

 すこし前にバーバラ・N・ホロウィッツ、キャスリン・バウアーズ著『WILDHOOD 野生の青年期 人間も動物も波乱を乗り越えおとなになる』(土屋晶子訳、白楊社)を読んだ。
 書店で立ち読みしていたら「フライフィッシングをする優しそうな男性も、それがたとえおじいちゃんでも、実際には、太古からの捕食者のだましのわざを駆使する熟練したハンターだといえる」とあり、購入を決めた。海外のノンフィクションを読んでいると、釣りの本以外でもフライフィッシングの話をちょくちょく見かける。

 警戒心の弱い大人になったばかりの魚のほうが擬似餌の標的になりやすい。たぶんそうなのだろう。捕食者から身を守り、安全に生きるための知恵をつけること。それが生物(動物)の成長にとっては欠かせない。
 人間の子どももそうだ。一切の危険から遠ざけて育てようとすれば、危機回避能力は身につかない。
 同書で印象に残ったのは次の一節である。

《ここで、特筆に値するのは、モルモットからオマキザルまで、青年期に仲間と荒っぽい取っ組み合いごっこをたくさんした者たちは、ほかの個体と出会ってもすぐに戦いを始めたりはしない点である。(中略)遊びを通して、動物の若者はダメージを受けずに、対立の折り合いのつけ方を試すことができる》

 この部分を読んでいるとき、色川武大著『うらおもて人生録』(新潮文庫)の「野良猫の兄弟——の章」をおもいだした。色川武大は野良猫のオスの兄弟を観察する。兄は「なかなか戦闘的で、なおかつ開放的」でよく懐いた。弟は「どうにもひっこみ思案」で警戒心が強く、なかなか人に近づこうとしない。

《はじめ、俺は、警戒心の強い臆病猫は生き残るんじゃないかと思った。積極的な猫は、危険なことにもたくさんぶつかるはずだからね。
 ところが、ちがうんだ》

 臆病な猫は長生きできず、積極果敢な人懐っこい猫は何年も元気に生きた。色川武大は「危険を避けているだけじゃ駄目なんだねえ」と書いている。この兄弟猫の件はたまたまそうだっただけかもしれないが、危険を避けてばかりでは安全に生きられない。

 人生にも通じる教訓のような気がする。

2021/12/04

戦中派のこと

 気がつけば十二月。金曜日、昼すぎ西部古書会館。平日開催だけど、けっこう混んでいた。『品川区史料(十一)品川の古道』(品川区教育委員会、一九九八年)、『鎌倉街道と中世のみち 狭山丘陵の中世』(東村山ふるさと歴史館、二〇一〇年)など。

 部屋の掃除中、田村隆一著『退屈無想庵』(新潮社、一九九三年)の「余命」をパラパラ読んでいたら、こんな記述があった。

《十二月四日(水) 晴 暖。
 真珠湾奇襲攻撃五十周年をひかえて、TVでは、しきりと当時の映像を送る。(中略)ぼくは、あのとき、ブッシュ大統領とおなじように大学生であり、ぼくは十八歳、ブッシュ老人は十七歳だったのだ》

 五十周年ということは一九九一年、三十年前になる。文中のブッシュ大統領は“パパ・ブッシュ”のほう。同随筆は『新潮45』の連載で、当時、田村隆一は六十八歳だった。このころは戦中派の詩人や作家で存命の人が多かった。田村隆一と同世代だと遠藤周作、吉行淳之介、司馬遼太郎、山田風太郎といった作家がいる。

 五年前に亡くなったわたしの父は一九四一年十月生まれ。生きていれば、今年八十歳だったのだなと……。
 ちなみにわたしは先月五十二歳になった。三十年前は二十二歳だった。後にバブルといわれる時代だが、風呂なしアパートに住み、古本屋で第三の新人と「荒地」の詩人の本を買い漁っていた。
 戦後の平和主義教育を受けてきたせいか、戦中派作家の回想を読んで戦争観が大きく変わった。

 鮎川信夫著『すこぶる愉快な絶望』(思潮社、一九八七年)の菅谷規矩雄との対談「〈戦争〉と〈革命〉が終わった時代へ」では、戦中、小学生や中学生で空襲に怯え、ひもじいおもいをした世代と軍隊にいた自分たちとは戦争にたいする感覚がちがうといった話になり——。

《鮎川 (略)軍隊だけは食い物の心配もせずにたらふく食えるし、それに軍隊は攻撃する立場だから敵襲というものに対する感覚がすでに違う。つまり内地なんかの一方的にやられて逃げまどう立場と較べて、こっちもやってるんだから襲って来るのが当り前だというくらいの受け止め方なんです。そういうかなりな違いというのがある。同じように、戦争体験だけでなく占領体験でも、どのくらいの年齢だったとか、どこに住んでいたかということでも相当違うんです。
 菅谷 そうですよね。占領軍の基地の周辺に住んでいた人もいれば、占領軍の兵隊と一度も顔を突き合わせることのないまま、占領時代が終ってしまう人もいたでしょうね》

 いつどこに生まれ育ったか。自分の生まれた時代、場所のちがいで感覚も風景も変わる。当たり前といえばそうなのだが、すくなくとも二十歳前後のわたしはそうおもっていなかった。もっと単純に考えていた。家や仕事を失った人もいれば、何も失わず無事切り抜けた人もいる。同じ軍隊にいても将校と歩兵ではちがう。

 そういうことは戦時中にかぎらず、あらゆる時代にも当てはまるだろう。今のコロナ禍にしても、学生と社会人、都市と地方——生まれた時代、どこに住んでいるかで経験が変わる。それがどんなふうに歴史にまとめられていくのか、ちょっと興味深い。