2026/03/28

宿酔の読書

 夜、日付が変わった時間、飲み屋の帰り、ちょっと寄り道して高円寺駅の南口の枝垂桜を見る。梅も見る。この日、小雨の中、桃園川緑道、馬橋公園の桜も見た。どうやって家に帰ったのか、記憶がない。

 昼起きて『朝に俗銭を得て 夕に詩をつくる 木下夕爾随筆集成』(藤井基二編、中央公論新社)を読みはじめる。読み終えるのがもったいない。
 木下夕爾は広島県深安郡上岩成村(現・福山市)の生まれ。
 木下夕爾は井伏鱒二のつながりで知った。二人とも福山生まれである(編者の藤井さんも)。木下と井伏は釣り仲間である。木下の詩と俳句は読んでいたが、随筆はほぼ未読だった。
 ふくやま文学館は二度行った。そのときだったか、岡山在住のカメラマンの藤井豊さんが「木下夕爾という詩人がええんじゃ」みたいなことを言っていた記憶がある。この記憶に自信がない。
 表題「朝に俗銭を得て 夕に詩をつくる」という随筆に「はじめ早稲田にいましたが中途また叔父に死なれ、その業をつぐべく名古屋の薬専にうつりました。この学校は西行の歌で有名な鳴海町の丘の上にあります」とある。

 藤井基二さんの解説によると、薬専は愛知高等薬学校(後の名古屋薬学専門学校)とのこと。解説、研ぎ澄まされた、心のこもった文章だった。

 家業を継ぎ、郷里福山で詩や俳句を作る。校歌もたくさん作っている。そういう文学の道もある。

 寝転んでぱっと開いたページに「鮠釣りのことなど」というエッセイがあった。井伏鱒二に釣りを教わる話。友人の近江卓爾も登場する。すべての行がいい。文末に「一九六五年三月」という日付がある。木下夕爾(一九一四年十月二十七日生まれ)が亡くなったのは一九六五年八月四日。五十歳。
 梅崎春生(一九一五年二月十五日生まれ。六五年七月十九日没)と生没年が近い。
 二十代後半から、わたしは作家や漫画家の没年が気になるようになった。文学展のパンフレットの収集をはじめたのもそのころで、暇さえあれば年譜を見ている。
 一年一年、年をとる。その没年を知り、木下夕爾の文章を読む。生きたいと願う。その願いが詩になる。

 本の内容と関係ない感想がいろいろ浮かんでくる。夜、また酒を飲む。

2026/03/23

雑記

 三月中旬、確定申告をすませた。毎年書類が変わる。杉並税務署からまっすぐ西に行くと善福寺川が見えてくる。杉並税務署周辺の道、どういうわけか方向感覚がおかしくなる。このあたりで川が大きく曲がる。その近く、鎌倉街道といわれる道も通っている。阿佐ヶ谷パールセンターは鎌倉街道の枝道だった。

 善福寺川の相生橋から東に向かい、梅里中央公園へ。蠟梅、まだ花が残っている。青い芽が出ていた。すこし南に向かい、五日市街道を歩く。路上から富士山は見えなかった。まだ見たことがない。

 別の日、野方に散歩した帰り道、高円寺のサンカクヤマの店頭で『祝祭都市 江戸東京 江戸東京博物館所蔵浮世絵版画コレクション』(東京都江戸東京博物館、二〇一七年)。横長の図録。百八十七頁。浮世絵関係の図録としてもかなりいいものかもしれない。

 同図録の最初に出てくる浮世絵が橋本貞秀の「東都両国ばし夏景色」。一八五九(安政六)年。江戸の川開きは旧暦五月二十八日から三ヶ月。貞秀の絵、橋の上にめちゃくちゃ人がいる。川に船がいっぱい描かれている。
 橋本貞秀は「空飛ぶ絵師」といわれた歌川貞秀の別名。一八〇七(文化四)年生まれ。二十歳ごろ、十返舎一九の「諸国万作豆」の挿絵などを手掛けている。歌川貞秀は五雲亭とか玉蘭斎とか、画名が複数あってややこしい。歌川何とかという名前も多すぎて混乱する。

 土曜日、午前十一時ごろ、西部古書会館。図録(物語絵巻、街道関係)が安かったので買い漁っていたらカゴ山盛りになる。
 ガレージで福原麟太郎著『生活の中にある教養』(河出新書、一九五五年)を見つける。鉛筆線引きあり。百円ならよし。古書展の棚を見るとき——単行本と文庫に目がいってしまい、新書を見落としがちになる。

 同書「文学について」に「生活が一番大切である。文学はそれを教え、その為の良き忠告を与えるかも知れないが、生活の次のものである」という箇所があった。

《文学というものは面白い楽しいものだ。然し、余計なもの、ひまな時や草疲れた時に読めば結構なものだ》

 それから『えすとりあ』季刊3号の水木しげる特集(えすとりあ同人、一九八二年)を買い、家に帰って読んでいたら、田村治芳「キャラメルひとついかが。悪魔くん」というエッセイがあった。田村さんは『彷書月刊』の編集長である。

 この日一番の収穫は文学展パンフレットの『阿部知二 抒情と行動 昭和の作家』(姫路文学館、一九九三年)。初日の午前中に行ってよかった。阿部知二(一九〇三〜七三)は一九三二年から六九年まで荻窪に住んでいた。

 久しぶりに古書会館でCDを買う。『Runt.The Ballad of Todd Rundgren』(ビクター、一九九九年)。紙ジャケ限定版(帯付)がおにぎり一個分くらいの値段だった。アルバム(セカンドアルバム)は一九七一年発売。CDは何度か復刻されているが、ジャケットが不穏すぎて、これまで買わずにいた。二十代のころ、トッド・ラングレンの初期のアルバムやユートピアのアルバムは入手難だった記憶がある。

 このアルバムを聴いた後、ダリル・ホールとトッド・ラングレンがセッションしている映像をユーチューブで観た。あらためて二人の歌唱力のすごさを思い知る。二人の声質は似ている気がする。
 ちなみに、トッド・ラングレンのファーストアルバムのタイトルも『Runt/ラント』。こちらは長年の愛聴盤。『Runt』の「We Gotta Get You a Woman」に「歩いたほうがいいよ」という歌詞がある。いい曲だ。 

2026/03/18

先ず、睡眠

 季節の変わり目だからか、夕方四、五時に起きる日が続いている。夜の散歩。馬橋公園、喫煙所の近くでギターの練習をしている若者がいる(姿は見えない)。

 池波正太郎著『男のリズム』(角川文庫、単行本は一九七六年)の「私の一日」に「人間、五十を越えると、先ず、睡眠である」という一文があった。

 このエッセイを書いたころの池波は五十代前半。

《いまの私の一日は、つまるところ、一日の終りの眠りを主体にして組み立てられているようだ》

 わたしも睡眠優先の生活を送っている。寝不足は健康の大敵である。
 以前は旅行のとき、出発前まで仕事して、ほとんど寝ずに家を出ることもあったが、そういうことはやめた。予定を組まず、調子がよければ行く、調子がよくなかったら日程を変える。郷里の三重に帰省するさい、午前中に起きたら途中下車しながらの旅、昼すぎまで寝てしまったら新幹線に乗る。仕事より趣味より睡眠である。

 池波正太郎は一九二三年一月生まれ。亡くなったのは一九九〇年五月。享年六十七。

 わたしは今年五十七歳になる。池波正太郎の没年まで十年。いつまで生きるわからない。春が来て夏が来て……一年が過ぎる。年をとる。マルエツ若宮店に向かう途中の妙正寺川沿いの桜は蕾だった。

 話は変わるが、日本の古本屋で『前川千帆名作展』(リッカー美術館、一九七七年)を注文した。五百円(+送料)。図録の古書価はわからないのだが、もっと高いかとおもっていた。リッカー美術館の入場券の半券(三百円)がはさまれていた。嬉しいぞ。同名作展は東海道の新居宿、土山宿の肉筆画も収録している。
「前川千帆・その資質と作品」(吉田漱)の解説にも東海道の話が出てくる。

《大正10年5月1日、中央美術協会の主宰で日本漫画会の東海道五十三次漫画紀行が計画され、岡本一平、池部釣、近藤浩一路、細木原青起、代田収一、寺(幸?)内純一、中西立頃、池田永治、小川治平、森島直三、服部亮英、山田みのる、在田稠、宍戸左行、水島爾保布、清水対岳坊、等と参加》

……いずれも名のある画家(漫画家)なのだが、彼らの多くは新聞社にいた。前川千帆も読売新聞や國民新聞などに所属していた。
 幸内(こううち)純一、図録は「寺内」となっている。誤植かな。「寺」と「幸」、似ているといえば似ている。

 大正時代、鉄道の普及、車道の整備が進んだ結果、東海道ブームのようなものがあったのかもしれない。岡本一平は東海道好きとしても有名で、当時、日本漫画会の街道の絵は大きな話題になった。

 絵や漫画も時代の空気を帯びている。

2026/03/15

前川千帆

 三月十九日(木)に発売予定の本の雑誌編集部『この作家この10冊(3)』(本の雑誌社)が届く。わたしは「吉行淳之介の10冊」を書いた。吉行淳之介のエッセイ集が中心の選書である。最初はもうすこし小説とエッセイのバランスをとったほうがいいのではないかと考えた。しかし自分が読み返すのはほぼエッセイなので致し方ない。初出は『本の雑誌』二〇二〇年六月号。

 十四日(土)、昼すぎ、西部古書会館(木曜日から開催だった)。気になる図録があったのだが、状態がよくなかったので棚に戻した。しかし帰り道に「買わなかったら後悔しそう」と折り返し、『平木コレクションによる 前川千帆展』(千葉市美術館、二〇二一年)を買う。
 絵の好みは自分の軸みたいなものがない。巧拙もわからない。今は人物画より風景画に惹かれる。

 年譜を見ると、前川千帆(せんぱん)は一八八八(明治二十一)年、京都生まれ。一九六〇年没。戦前、「おてんばチャッピー」という漫画も描いている。田中冬二の『故園の歌』(アオイ書房、一九四〇年)の装丁、挿絵も前川千帆。アオイ書房は詩誌『新領土』を刊行していた出版社でもある。

 前川千帆は関西美術院で浅井忠、鹿子木孟郎に学んだ。浅井忠は、夏目漱石『三四郎』の深見画伯のモデルといわれる洋画家。津田青楓も浅井、鹿子木の教え子である。漱石の周辺、面白そうな画家がけっこういる。

 鹿子木孟郎は「津の停車場」などの作品で知られる洋画家でパノラマ地図の吉田初三郎の恩師でもある。鹿子木は三重県尋常中学校(現在の津高校)の図画の先生もしていたことがある。

 晩年、前川千帆は杉並区荻窪二丁目に住んでいたこともある。

 バラバラに買った図録が年譜の中でつながる。自分は絵が好きというより、図録の年譜が好きなのかもしれない。

 今週、荻窪を二度散策していた。古書ワルツの前から青梅街道に向かう道(ラーメン二郎荻窪店などがある)はドコモタワーがよく見える。高円寺は駅のホーム以外、ドコモタワーが見えるところが少ない。

 ビーンズ阿佐ケ谷のカルディ。気に入っていたさぬきシセイの乾麺(細めのうどん)は売ってなかった。
 乾麺でいえば、金トビの名古屋きしめん、みうら食品の日本そばと中華そばも常備している。いずれも多めに茹でて冷凍している。

2026/03/09

神遊び

 三月四日(水)、昼すぎ、三重に帰省した(二泊三日)。行き帰りはひかりに乗った。名古屋駅のエスカでスガキヤラーメン、金券ショップの自販機で帰りの新幹線の自由席の切符(八百円くらい安い)を買い、みどりの窓口で日付変更する。神戸(かんべ)公園(神戸城跡)から遊歩道(四季の道)を歩いて港屋珈琲でアイスコーヒー。遊歩道ができたのは一九八六年。約一キロ。わたしが上京したのは一九八九年なのだが、鈴鹿にいたころはこの道のことを知らなかった。
 生前の父は四季の道をよく散歩していたと母に聞いた。父が亡くなってもうすぐ十年になる。
 母は神戸城を本多城と呼ぶ。遊歩道の周辺は神社や寺が多い。伊勢街道の宿場町の神戸宿は寺社町でもあった。

 鈴鹿滞在中、司馬遼太郎の『この国のかたち』(文春文庫、全六巻)を再読。同エッセイの連載は『文藝春秋』一九八六年三月号から。このシリーズと橋本治著『貧乏は正しい!』(小学館文庫、全五巻)はキンドルに入れていて、旅行中によく読む。

《——日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている》

『この国〜』の冒頭の言葉である。友人の著作のどこかにあった言葉らしいのだが、司馬遼太郎は記憶がなく、正確な引用はできないと断っている。司馬遼太郎の史談は、あやふやな話から論を展開させたり、飛躍させたりする。
 この連載では「話は変わるが」という脱線も珍しくない。あることについて書こうとおもっていたが、別の話になってしまった——という回もよくある。
 話が二転三転するのは、随筆、随想の醍醐味である。

 神道は仏教が普及したことで、それ以前、それ以外の精神習俗に名前がつけらた——そんな話をわたしは『この国〜』の二巻で知った。新しい思想(宗教)の影響で昔の思想が体系化される。文学史にもそういうところがある。

 二巻は、砂金に関する話も興味深い。空海が唐に行ったさい、二十年くらい滞在できる砂金を持っていったが、二年くらいで切り上げ、その金で膨大な経典を入手し、持ち帰った。
 古来、日本人は金を“知”に変えることを好んだ。江戸期の蘭学、明治期の文明開化もそうだろう。
 それでは現代はどうか……と想像が膨らむ。

『この国〜』の二巻は私小説についても書いている。

《日本特有のものといわれる私小説は、私にとっていっそう気安い。
 この国の神々は、山川草木のなかにいる。ときに谷に降りたり、浜辺に出たりして、神遊びをするのである。
 志賀直哉はしばらく措くとして、瀧井孝作、尾崎一雄、外村繁、上林暁、川崎長太郎、木山捷平などの諸作品は、作者らしい人物が、多少のfをまじえつつ、神遊びをするのである。(中略)ふと思い出したが、神遊びのなかには、作者らしい小説家が、他の文壇人らしい人を相手に碁をうつだけの作品もある》

「GとF」と題した回の話。Gはゴッド、Fはフィクションの頭文字である。文中、大文字の「F」と小文字の「f」を使い分けている(読み返したが、わたしはそのちがいが理解できていない)。

「山川草木」は尾崎一雄がよく揮毫した言葉でもある。尾崎家は代々神官の家系(宗我神社)でもあった。父・尾崎八束は神宮皇學館(後の皇學館大学)の教授で三重県とも縁がある。

《ヨーロッパ思想の絶対は、むかしなりの日本の土着思想からみれば架空であり、勇を鼓していえばウソである》

 司馬遼太郎は「GとFの土壌から科学がおこった」と考えている。

2026/03/03

一九八九年

『ユリイカ』三月号、特集「眠い」に「寝たり起きたり 眠気と読むこと」というエッセイを書いた。雑誌に原稿用紙十五枚(六千字)の文章を書くのは久しぶり、というか、記憶にない。睡眠に関する半自叙伝みたいな話になった。

 それから『東京人』四月号、特集「私の東京物語」に「中央線、平成のはじまり、『貧乏は正しい!』」というエッセイを書いた。自分の上京話と橋本治の話である。

 二〇二六年になってまだ二ヶ月ちょっと。国際情勢が激動している。なんとなく一九八九年のことを思い出した。『東京人』に上京エッセイを書いたことも関係している。昭和から平成になって、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、冷戦終結……。
 上京して大学に入ってライターになって高円寺に引っ越した年でもある。
 ライターの仕事をはじめたのは八九年六月。同じ仕事場に出入りしていたすこし年上の先輩は中国から日本に亡命してきた学生の取材に奔走していた。イランのホメイニ師が亡くなり、アリー・ハメネイ大統領(当時五十歳)が最高指導者になったのもほぼ同じころだ。
 ハメネイ師の最高指導者としての期間(三十六年八ヶ月)はわたしのライター歴とほぼ重なる。

 一世代三十年。ライター生活三十年目は二〇一九年——五十歳になり、だんだんニュースにピントが合わなくなってきた(正確には、もともとピントがズレていたが、さらにぼやけてきた)。橋本治が亡くなったのもこの年だった。『中年の本棚』(紀伊國屋書店)の連載の最終回のしめきりが五十歳の誕生日で橋本治のことを書いた。

 二月末、東横線の白楽駅を散歩した。暖かい日だった。六角橋商店街を抜けたあたりから、コンパスのみで歩く。坂道が多くて楽しい。地形に沿ってひたすら歩く。古そうな道を歩いていくとやがて大きな通りにたどり着く。

 途中、神之木公園で河津桜を見る。満開だった。