2020/09/28

石川三四郎

 すこし前に鶴見俊輔著『戦後を生きる意味』(筑摩書房、一九八一年)を読み返していたら「石川三四郎」と題した評論で臼井吉見の「何百人という人たちに、『安曇野』には登場してもらいましたが、一番敬愛する人は誰かと訊かれれば、石川三四郎を選びます」という言葉を紹介していた。

 臼井吉見著『教育の心』(毎日新聞社、一九七五年)からの引用である。鶴見さんの本を読み、気になったので『教育の心』をインターネットの古本屋で注文したのだが、『中年の本棚』の作業と重なり、積ん読のままになっていた。

 すると、大澤正道著『石川三四郎 魂の導師』(虹霓社、二〇二〇年)が届いた。虹霓社は新居格の『杉並区長日記』を復刊した静岡県富士宮市の出版社である。
 先日、鈴木裕人さんの『龍膽寺雄の本』もそうだが、新居格や石川三四郎に関する本が“新刊”で読めるとは……。

『石川三四郎 魂の導師』で、大澤正道は石川の「私は保守主義者である。私は私の善いと思ふことを固守するが故に保守主義者である」という言葉を紹介している。

 アナキズムと保守は対立概念ではない。むしろ二項対立の構造を崩していくこともアナキズムなのだ――とわたしは考えている。日露戦争から一貫して反戦の立場をとっていた石川三四郎だが、戦後は天皇を擁護していた。アナキストとしては“異端”の立場だった。『自叙伝』の「無政府主義宣言」では石川の天皇擁護の部分が差し替えになっている。

『石川三四郎 魂の導師』でも「天皇と無政府主義者」の章で大澤正道自身、差し替えを進言した一人だと告白している。

《しかし、今にしておもえば、小人、師の心を知らずで、わたしも「主義」の「熱病」につかれていたにすぎない。慚愧に堪えぬ思いである》

 鶴見俊輔は、石川の思想の根底に「非暴力直接行動」があると指摘し、「おだやかな社会思想」とも述べる。

 最後に臼井吉見の石川三四郎評を紹介したい。

《石川三四郎は、人間とは何か、ということをはっきりした形でつかんでいた人だと思います。人間とは、命を終える瞬間まで、二つの闘いをやりぬく存在である。そういう考えであります。二つの闘いとは何かというと、一つは、外なる社会の不合理と闘うということ。もう一つは、内なる自分と闘うということ、自分の内なる“無明”と闘うということです》(「歴史と教育 『安曇野』にことよせて」/『教育の心』)

 石川にとって“無明”とは「人生は何のためにあるか、何のために人生を生きるかっていうことにさえ無関心で、考えようもしない」状態のことだった。また臼井吉見によると、石川が一番大切に考えていたのは「教育」だったそうだ。

2020/09/24

「S」さんの放出品

 たまたまなのかもしれないが、JR総武線に乗っていたら、車内の広告がスカスカだった。脱毛と育毛、転職、墓の広告がちらほらあり、中吊りはほぼJRの自社広告である。電車に乗ったら、まず週刊誌の中吊りを見るのだが、それがない。新型コロナ不況は関係あるのか。

 連休中、ふらっと高円寺のあづま通りの中古レコード屋に入ったら、コレクターの「S」さんの放出品のコーナーがあった。七、八〇年代の洋楽、邦楽の名盤がぎっしり箱に詰まっていた。この日はジェームス・テイラーの『Gorilla』と『In the Pocket』の二枚買う(CDは持っている)。『In the Pocket』のジャケットはポーズを決めた後ろ姿なのだが、裏ジャケを見ると『Gorilla』のジャケットがプリントされたシャツを着ている。

 久しぶりに『Gorilla』を聴いてみたら「自分が好きな音楽はこれだ」という気持になった。平穏な美しいメロディの宝庫。声も音の質もやわらかい。

「S」さんのコーナー、二十年くらい前にアパートの立退のさい、売ってしまったレコードが十数枚あった(七〇年代の洋楽アルバム)。 箱ごと欲しい。二十代のころの自分が探していたレコードが格安で売っていた。

 昨日の深夜、ペリカン時代でその話をし、「S」さんは誰それさんではないかという話になる。ここ数年、若い人のあいだでレコード人気が復活している話も聞いた。

2020/09/20

郷土文学三昧

 昨日、杉並郷土博物館に行き、『杉並文学館 井伏鱒二と阿佐ケ谷文士村』など、未入手の文学展パンフを買った。杉並文学館は十月三十一日から。『井伏鱒二と阿佐ケ谷文士村』には「杉並の作家」という地図が付いていて、黒島伝治が高円寺(東高円寺)にいたことを知る。黒島家から青梅街道を渡ると龍膽寺雄と中野重治の家がある。京都の古書善行堂の棚みたいだ。ただし当時の作家はしょっちゅう引っ越していたので、時期が重なっていたかどうかはわからない。

 吉川英治は高円寺のどのあたりに住んでいたか。今の住所だと高円寺北三丁目あたりか。北原白秋も高円寺と阿佐ケ谷のあいだくらい。藤原審爾は阿佐ケ谷と荻窪も中間くらい。柏原兵三の家もそのすぐ近く。この地図だと新居格は高円寺ではなく、阿佐ケ谷時代の住まいが記されている(家の場所だけでなく、住んでいた時期がわかるといいのだが、それを調べるのはものすごく大変だ)。これほど見ていて飽きない地図はない。

 鈴木裕人さんの『龍膽寺雄の本』が届く(装丁は山川直人さん)。前述のように龍膽寺雄は高円寺に暮らしていた時期がある。そのあと中央林間に広大な土地を買い、引っ越した。拙著『古書古書話』(本の雑誌社)の「シャボテンと人間」で龍膽寺雄の話を書いた(初出は『小説すばる』二〇〇八年七月号)。鈴木さんは山川直人さんの漫画に龍膽寺雄が出てきて驚いたそうだ。 「シャボテンと人間」にも書いたが、久住昌之原作、谷口ジロー絵『孤独のグルメ』(扶桑社)にも龍膽寺雄らしき人物が描かれている(名前は出てこない)。龍膽寺雄はシャボテン(サボテン)研究者としても知られていた。

 高円寺にいた昭和の作家ではわたしは新居格のことを追いかけている。新居格を知ったのは龍膽寺雄の「高円寺時代」という作品だった(『人生遊戯派』昭和書院)。

 《その頃マルクシズムを標榜するプロレタリア派にも与せず、私たち新興芸術派にも与せず、アナーキストを名乗って独自の立場をとりながら、豪放磊落にして洒脱な風貌で一つの地位を保っていた評論家の新居格も、中央線沿線に住んで異彩を放っていた》

 二人の共通点では自宅もしくは近所の喫茶店を“サロン”にしていたことだろう。一九三〇年代のはじめ、若き文学者たちは龍膽寺雄や新居格に会うため高円寺に訪れていたのである。

2020/09/18

だらだら過ごす

 最近、生活リズムが乱れ気味。レコードを聴きながら押入を掃除する。久しぶりにノーマン・グリーンバウムを聴く。レコードを持っていたことすら忘れていた。これもジャケ買いか。『BACK HOME AGAIN』という一九七〇年のアルバムなのだが、髭とノースリーブと花のコントラストが斬新である。裏ジャケではノーマンが山羊の乳しぼりをしている。

 先週の西部古書会館では河島悦子著『伊能図で甦る古の夢 長崎街道』(一九九七年)を買った。長崎街道は街道に興味を持ちはじめてから、ずっと気になっている。
 江戸時代、海外の調味料は長崎街道を通って全国に広まった。象やラクダも通った道だ。今の九州の旧街道(長崎~佐賀~福岡)や宿場町の保存や整備の状況を知りたい。
 ただ、全国を追いかけるには時間が足りない。いずれは範囲を限定し、掘り下げていく必要がある。三十代から街道の研究をはじめていれば……とおもうが、そうすると別の人生になっていた。これまでのノープランの旅を活かしていくほかない。

 この日もう一冊『滝田ゆう作品集 ぼくの昭和ラプソディ』(双葉社、一九九一年)も買えた。遺稿作品集にもかかわらず「あとがき」がある。滝田ゆうが病床で亡くなるまで取り組んでいた本だった。絵もいいが、ちょっとよれよれの書き文字もいい。「北九州の朝」と題した絵がよかった。滝田ゆうが描いた昭和の風景はどのくらい残っているのか。知らない場所なのに懐かしくおもえるから不思議だ。

 昭和ではなく、平成の町並も消えつつある。

2020/09/16

岸部四郎の古本人生

 先日、岸部四郎さんが亡くなった。享年七十一。かつて『小説すばる』二〇一三年九月号に「岸部四郎の古本人生」というエッセイを書いたことがある(後に『古書古書話』本の雑誌社、二〇一九年刊にも収録)。以下はその再掲(最後の一行は単行本に収録したものではなく、元原稿のほうのオチである)。 

「岸部四郎の古本人生」 

 古本マニアのタレントといえば、岸部四郎(岸部シロー)である。
 グループサウンズ時代はザ・タイガースのメンバー、その後、俳優(『西遊記』の沙悟浄役など)や司会(『ルックルックこんにちは』の二代目司会者)としても活躍した。
 岸部四郎の父は、京都で店舗を持たずリアカーで古本を売る商売をしていた。
『岸部のアルバム 「物」と四郎の半世紀』(夏目書房、一九九六年)は、自らの蒐集哲学を綴った異色のエッセイ集である。
 第一章の「ノスタルジーとしての初版本」によると、古本が好きになったのは下母沢寛原作のドラマ『父子鷹』(関西テレビ、一九七二年)に出演したのがきっかけだった。幕末を舞台にした時代劇に出演したさい、その原作を読み、たちまち本の世界に魅了される。
「それまでは音楽に夢中であまり本を読む習慣はなかったが、それからはもう江戸の風俗や勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛をはじめとする幕末群像に関するものを、むさぼるように読みはじめた」
 さらに西山松之助、三田村鳶魚など、江戸文化の時代考証もの、明治期の日記や評論も読みふけった。二十代前半の岸辺さんの読書傾向はかなり渋い。
 それから夏目漱石に耽溺し、明治の文人の初版本を集めるようになる。
「近代日本の象徴ともいうべき漱石の大ファンになってしまったぼくは、作品を読めば読むほど、あるいはこれら弟子たちの書いた漱石を読めば読むほど、もっともっと漱石のすべてを理解したくなった」
 そのためには当時の雰囲気を感じながら読まなければいけない。
 岸部四郎はそう考えた。
 初版本だけでなく、読書環境もなるべく漱石の時代に近づけたいとおもい、アパートを借り、六畳一室を自称「漱石山房」にする。明治の家具や什器を揃え、座布団も芥川全集の装丁の布とそっくりなものを民芸屋で探してもらい、わざわざ作った。
 暖房もガスや電気ではなく、火鉢に炭を使い、部屋にいるときは和服ですごす。
 漱石、安倍能成、芥川龍之介、内田百閒、森鷗外、永井荷風、島崎藤村、志賀直哉と近代文学を次々と読破し、その初版本かそれに類する本を集めた。
 漱石の次は芥川龍之介も熱心なコレクションの対象になった。神保町の古本屋・三茶書房の店主・岩森亀一が自ら額装した芥川全集の木版刷り(売り物ではない)も頼み込んで譲ってもらった。
「芥川を蒐めだしたころは、ぼくは三茶書房のご主人がその道の権威だとは知らなくて、ただの偏屈な古書店の親父だと思っていた」
 続いて興味は芥川から永井荷風に移る。
「荷風に凝れば、どうしても私家版の『腕くらべ』『濹東綺譚』『ふらんす物語』が欲しくなるのは人情だ。これらはコレクターズ・アイテムのシンボルみたいなもので、だれでも欲しがるが、もう最近ではほとんど市場に出てこない」
『腕くらべ』の私家版は友人たちに配られたもので限定五十部。岸部四郎が探していたころ(おそらく一九八〇年前後)の古書相場は五十万円くらいだったそうだが、一九九〇年代半ば、店によっては二百万円くらいになった。『ふらんす物語』は発禁になり、印刷工場に残っていた予備を好事家が装丁したもので、『腕くらべ』が五十万円のころ、三百五十万円くらいしたという。
 しかし自称「漱石山房」は妻との離婚により幕を閉じ、蔵書の大半も売却した。中には売りたくないものもあったが、「それを隠したのでは値段がつかない」。
 自分の不要な本だけ売っても、なかなか高値で買い取ってもらえない。
 古本屋がほしい本(店に並べたい本)をどれだけ混ぜるか。このあたりの駆け引きは古本を売るときの醍醐味といえる。
 彼の趣味は、絵画、骨董、玩具、楽器、オーディオ、ヴィンテージバッグ、ヴィンテージジーンズなど、多岐に渡っている。
「趣味は貯蓄」といい、八〇年代にはお金儲けに関する本(『岸部シローの暗くならずにお金が貯まる』、『岸部シローのお金上手』いずれも主婦の友社)を刊行していた彼が自己破産に陥ってしまう。離婚の慰謝料、借金の保証人など、様々な事情もあるのだが、蒐集対象を広げすぎたこともすくなからぬ遠因になったとおもう。
 岸部四郎といえば、二〇一一年一月、昼の情報番組の企画で風水に詳しい女性タレントが部屋の運気を上昇させるという名目で、彼の蔵書を某古本のチェーン店に売り払ってしまう“事件”があった。
 蔵書の中には吉田健一の著作集(全三十巻・補巻二巻、集英社)もあったのだが、買い取り価格は六百四十円……。
 全集の古書価は下がっているとはいえ、今でも吉田健一は古本好きのあいだでは人気のある作家で、著作集はかつて十万〜十五万円くらい売られていた。
 放映後、番組にたいし「岸部さんが不憫すぎる」といった批難が殺到した。
 ただ、この騒動のおかげで岸部四郎が漱石、芥川、荷風から、英文学者でエッセイストの吉田健一まで読み継いでいたことを知り、ただ単に「物」としての本ではなく、心底、文学が好きな人だとわかったのは収穫だった。
 ちなみに、『岸部のアルバム』には、自称「漱石山房」時代、同じアパートの別の階に森茉莉も住んでいて、その交遊も記されている。
 なんと森茉莉は、鷗外よりも○○のファンだった。

2020/09/09

私小説風

《戦時中の中学時分に上林暁氏の短篇集にふと眼をとおし、たちまち馴れて、他の作品集を買い漁り、耽読したことがある。変哲もない日常の時間を確かに在る時間に仕立てあげる作者の腕前のせいであることはもちろんだけれども、私は性のいい知人を知り得た気になり、書物の上での交際をやめることができなかった。後後まで上林暁氏のお名前を活字で見るたびに眼が和んでくる。同じようなことが木山捷平氏にもあった》

 色川武大著『ばれてもともと』(文藝春秋)の「風雲をくぐりぬけた人」の冒頭の一節である。上林暁と木山捷平の小説が好きだった作家といえば、山口瞳もそうだ。

 先月から大岡昇平の『成城だより』を読んでいる。私小説風の味わいがある。三巻目では『堺港攘夷始末』(中公文庫)の執筆中の話が綴られている。

《堺出身の河盛好蔵氏に電話、堺町は紀州街道と高野街道分岐点にて、高野山の門前町と考えられたることあり。大小路東方、大仙陵側の大和街道を出て、南に分れしや、それとも町の南方にて分れしやを質問す(古地図には両道あり)》

『成城だより』のこの記述はまったく覚えてなかった。とりあえず付箋を貼る。大和街道は奈良街道(長尾街道)のことか。街道名はややこしい。昨年秋に奈良の山の辺の道を歩いた後、大阪の街道のこともすこし調べた。
 明治初期の堺県は奈良が編入されていた時期もある。堺は何度か行ったことがあるが、街道を意識して訪れたことはなかった。大阪に行きたくなる。

『成城だより』三巻の続き——。

 《読者の活字離れすすみ、今年純文学作品の売行落ち込みは春秋の二段階あり。事態深刻なり、という。つまり現象的にいえば、これは出版社の経営的決定にかかわり、文学者がかれこれいってもはじまらぬ問題である》

 《文学者としての問題は、そのようなことにはなく、このような事態に起り勝ちな世態風俗への迎合的傾向にあろう》

 大岡昇平、一九八五年十二月十日の日記である。

2020/09/07

惰性の効用

 最近、なんとなく惰性というか低迷していると感じる。後になってふり返ると、そういう時期に次のテーマみたいなものを見つけていることがよくある。

『野間宏と戦後派の作家たち展』(神奈川近代文学館、二〇〇一年)のパンフレットを見ながら、二〇二〇年の今、「戦後派の作家たち」——安部公房、梅崎春生、大岡昇平、椎名麟三、島尾敏雄、武田泰淳、中村真一郎、花田清輝、埴谷雄高、福永武彦、堀田善衞は、どのくらい読まれているのか、と考える。学生時代のわたしは第三の新人と「荒地」の詩人に夢中で戦後派の作品を読む余裕がなかった。第三の新人と「荒地」のあとは私小説や中央線文士を追いかけるようになった。戦後派(第一次・第二次)の本は古書展に行って「今日はあんまりほしい本がないな」とおもったときに、ちょこちょこ買っていた。はじめて梅崎春生を読んだのも三十代に入ってからだとおもう。

 金曜日、昼すぎ、荻窪のささま書店の場所にできた古書ワルツ。本がすこしずつ増え、前に来たときより棚が整っていた。『日本橋絵巻』(三井記念美術館、二〇〇六年)は、日本橋を描いた絵を集めた図録。渓斎英泉の「江戸八景 日本橋の晴嵐」は素晴らしい。あと日本橋と富士山がいっしょに描かれた絵が多い。巻末付近の「現在の日本橋」の写真を見ると悲しくなる。

 レコードで持っているザ・バンドの『カフーツ』のCDを買う。昔レコードで買ったときの五分の一以下の値段。ザ・バンドは中古レコード屋では人気があった。高円寺にZQがあったころは古本ではなく、CDをよくジャケ買いしていた。髭のミュージシャンばかり。髭のミュージシャンが好きになったのはザ・バンドの影響である。令和になっても読んでいる本と聴いている音楽は昭和のままだ。レコードとCDは二十年前に半分以上手放してしまった。残ったものをくりかえし聴いている。Web平凡の山川直人さんの連載『はなうたレコード』を読んでいると中古レコード屋に行きたくなる。

 荻窪から阿佐ケ谷まで青梅街道を歩く。江戸時代には石灰を運んだ道だ。阿佐ケ谷でアーケードの商店街で期間限定の沖縄の物産品店に寄り、一時期、常備していた沖縄そばの濃縮スープを買う。味噌汁にも合う。毎日、同じような料理ばかり作っているが、すこしずつ味やら調理法は変化している。

2020/09/04

五十歳散歩

 八月末、「街道文学館」と「半隠居遅報」を更新。『中年の本棚』増刷決まる——。

 仕事でつかっているメールソフトが不調。送信はできるのだが、受信はできたりできなかったり。旅行用の予備の軽量パソコンでメールをチェックする。

 火曜日、JRお茶の水駅から神保町。文学展パンフ『野間宏と戦後派の作家たち展』(神奈川近代文学館、二〇〇一年)などを買う。『野間宏と戦後派~』は年表がいい。『成城だより』の二巻目を読んでいたら、大岡昇平は、岸井良衞と青山学院中学部時代の同級生だったことを知る。岸井良衞の『五街道細見』(青蛙房)、『東海道五十三次』『山陽道』(いずれも中公新書)は街道研究では欠かせない本だ。

 神保町から九段下にかけて古本屋めぐり。街道本を探す。西岡義治著『みちのくの宿場を歩く』(新樹社)を買う。この本は知らなかった。大人の休日倶楽部に入会したら、東北の街道を歩きたいのだが……。東北の街道といえば、古山高麗雄も七ヶ宿(たしか父方の郷里)の話を書いている。七ヶ宿は十年以上前にすこしだけ歩いた。さらに九段下から市ケ谷まで歩き、市ケ谷から四ツ谷駅まで外濠公園の遊歩道を歩く。歩きながら考えていたのは、これから何をするか(しないか)だ。五十歳になって以降、そのことばかり考えている。

 色川武大著『引越貧乏』(新潮文庫)の「暴飲暴食」で昨年五十歳になった「私」が同い年の病院の副院長に語った言葉が頭をよぎる。

《「一生というものが短すぎます。私などはやっと今、プロローグの段階が終って、これから仕事でも遊びでも本格的にと思ったら、もう残された時間がすくなくて、何をするにも時間制限が気になります」》

 四十歳のときのわたしは今ほど「残された時間」のことを考えなかった。むしろ考えないようにしていた。『引越貧乏』の話は『中年の本棚』にも書いた。もともと「五十歳記念」の題で刊行が予定されていた本である。五十歳のときに読むと格別の味わいがある。もちろん五十歳でなくても読んでほしい。

 車の通らない道を歩くのは気分がいい。お茶の水から四ツ谷まで寄り道しながら歩いたところ、まだ八千歩くらい。高円寺に帰って、スーパーなどで食材その他の買物をしているうちに一万歩になった。