2021/09/02

きりがない世界

 先日、おそらく四半世紀ぶりくらいに村松友視の『夢の始末書』(角川文庫)を読み返し、いろいろ忘れていたことをおもいだした。

《私は、好きな作家しか担当しなかった。そして、その作家たちは、それぞれにきわめて個性的な存在だった》

 村松の好きな作家の一人に後藤明生もいた。後藤明生が亡くなったのは一九九九年八月。わたしは没後しばらくして古書価が上がりはじめてからちょこちょこ読むようになったが、生前は守備範囲外の作家だった。

『夢の始末書』の中では後藤明生は重要な登場人物の一人である。

《「挟み撃ち」を読んで、私は後藤明生に長文の手紙を書いた》

《手紙は、原稿用紙をかなり費やし長ったらしいもので、封筒に入れて宛名を書くときに、その厚さに私自身がおどろいた》

 それが『海』の「夢かたり」の連載(一九七五年)につながる。同作はつかだま書房の『引き揚げ小説三部作』にも所収——。

 村松友視は後藤明生の担当編集者だったが、後藤は作家志望の村松に小説を書くことをすすめ、文章の指導をした(当時、後藤は平凡社の『文体』の責任編集者でもあった)。

《「ぼくはね、歌うたいと同じだと思うんですよ」
「歌うたい……」
「つまり、風呂やトイレの中でいくらうまく歌っているつもりでも、客の前で歌ってみなければ、駄目だということですね」
「駄目、ねえ……」
「つまり、一回恥をおかきなさいってことですかねえ」》

 このあたりのやりとりも読んでいたはずなのにおぼえていなかった。今回の再読で「風呂やトイレの中で……」のセリフが強く印象に残った。

《「載ったあとは、作品のひとり歩きですよ」
「はあ……」
「誰か編集者が喰いつけば成功」
「喰いつかなければ……」
「また、新たに挑戦する」
「はあ……」
「きりがない世界ですよ、これは」》

 物書の世界は下手な鉄砲ではないが、どれだけ弾を撃ち続けられるか。何だったら小説——文学にこだわる必要もない。武田泰淳は開高健に小説が書けなくなったらルポを書きなさいと助言した。いろいろ書いているうちに、自分に合ったジャンルが見つかることもある。