2024/01/09

愛発関

 先週、西部古書会館で買った『古代の宮都 よみがえる大津京』(大津市歴史博物館、一九九三年)を読む。
 前回のブログで「古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り」と書いたが、愛発関は七八九(延歴八)年に廃止されている。謡曲「山姥」は室町時代の作なので、厳密には「愛発(あら地)の関」ではなく「愛発(あら地)と呼ばれる山域」と書くべきだった。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社、一九六四年)の「天下の三関」の項には「三関とも近江の国境で大津の外側におかれていることから、大津京の守りのために設置されたのであろう」と記されている。

『古代の宮都 よみがえる大津京』に「大津京時代の近江における東山道」(足利健亮)には、大津京(近江京)以前「東海道は飛鳥から出て伊賀盆地を経、柘植から鈴鹿を通って東国へ向かっていた」とある。後のJR関西本線に近いルートだ。ちなみに江戸期の東海道は柘植を通らない(近江の土山宿から鈴鹿峠を越える)。

 東海道も東山道も時代によって様々なルートがある。それを調べて何になるのか。小人が不善をなさないための閑つぶしになる。

『完全踏査 古代の道』によると、古代三関のうち愛発関の場所は「考古学的な確証はまだ得られていないが、おおむね近世の塩津街道(現国道8号)と七里半越の西近江街道(現国道161号)との合流点である敦賀市疋田が有力視されている」とのこと。

 愛発関は疋田以外に新道野、追分、道ノ口、関屋などの説もある(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』大明堂、一九七八年)。

 謡曲「山姥」で百万山姥は、陸路ではなく、琵琶湖を船で渡り、そこから「あら地」を通る。
 琵琶湖のどこまで船で行ったかで「あら地」への道も変わってくる。
 仮に琵琶湖最北の塩津あたりまで船で行ってそこから陸路を辿ったとすると、百万山姥は近世の塩津街道(現国道八号)を通り、深坂峠から追分、疋田を通った可能性が高い。これはほぼ現在のJR北陸本線のルートなのである。

 古代三関の鈴鹿関、不破関も明治期に開通した鉄道のルートと重なることを考えると、愛発も北陸本線のどこかにあったのではなかろうかと想像する。

 街道の研究をしていると、つい水路のことを忘れがちである。とくに土地鑑のない場所だとそうなる。

 街道にかぎらず、何か一つのことに熱中している時期はそれ以外の視点を見失いやすい。

 今のわたしは古典を読んでいても、ストーリーより作中人物の移動のことばかり考えてしまう。何年か後に読み返したら「え? こんな話だったの?」となるかもしれない。若いころは地理や歴史をすっとばして人生の教訓みたいなものを探り当てたいとおもっていた。

 そのときどきで読み方が変わる。読書は面白い。