2024/01/06

北陸道

 土曜昼、今年最初の西部古書会館。後藤淑他編『元和卯月本 謡曲百番(全)』(笠間書院、一九七七年)など。

 年末、福原麟太郎の随筆を読み、謡曲「山姥」を知り、古代・中世の北陸道について調べていた。
 謡曲「山姥」が作られた室町時代、京から善光寺に向かうさい、北陸道、中山道(東山道)のどちらがよく利用されたのか。

「山姥」の遊女(百万山姥)は京から西近江街道を通って……と考えていたのだが、『謡曲百番(全)』を読むと「志賀のうら船こがれ行、末はあら地の山越えて、袖に露ちる玉江のはし(以下略)」とあった。
 百万山姥は琵琶湖を船で渡り、古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り、玉江のはしに至る。

 木下良監修、武部健一著『完全踏査 古代の道』(吉川弘文館、二〇〇四年)によると、北陸道は海岸の近くまで山が迫り、陸路の移動がむずかしかったので「水路あるいは海路による交通が盛んであった」そうだ。

 ここ数年、愛読している『全国鉄道絶景パノラマ地図帳』(集英社、二〇一〇年)の大糸線の頁のパノラマ地図を見ると、山姥神社の近くの市振から親不知、青海(旧北陸本線、現えちごトキめき鉄道)にかけては海岸線と山が近い。『完全踏査 古代の道』でも「親不知は、古来から現在に至るまで交通の難所としては全国有数の場所である」と記されている。

 親不知〜青海の海岸の道はこんな感じだった。

《ここを通る旅人は、切り立った海岸縁の断崖の下の狭い砂浜を、波が退いたときをねらって走り抜け、波が寄せたときは岩穴に身を避けて辛くも切り抜けた》(『完全踏査 古代の道』)

 謡曲「山姥」の遊女は海岸沿いではなく、上路の里に迂回して山道で迷い、まことの山姥と出会う。

 ここから(作中には描かれていない)善光寺までの道のりが知りたい。「山姥」の里から青海まで出て、鉄道の大糸線に近いルートで姫川沿いの谷間を抜け、白馬〜簗場あたりから信濃の善光寺に向かったのか。直江津から信越本線に近いルートもあるが、室町時代の道路事情を考えると糸魚川〜直江津間も大変そうである。

 今すぐ答えが知りたいわけではないので気長に調べることにする(答えがあるのかどうかもわからない)。