2024/01/17

上路

 土曜昼すぎ西部古書会館。大均一祭初日(一冊二百円)——『別冊山と溪谷 歩く旅』(NO.1、一九九九年)含め九冊。『歩く旅』の特集は「中山道六十九次を歩く」。綴込付録「中山道533kmを歩く パーフェクト・ガイド&マップ」(三十五頁)。
 午後三時、新中野まで散歩。途中、小雨そのあと雪(霙)がすこし降る。

 室町時代の作・謡曲「山姥」の百万山姥は琵琶湖北岸から礪波山へ。
 礪波の関は万葉集——大友家持の歌「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添え君を留めむ」の歌でも知られる。

 礪波山は越中と加賀の国境にあり、標高二百七十七メートル。もうすこし高い山かとおもっていた。場所は金沢と高岡の中間くらい。北上すれば能登半島である。

 木下良編『古代を考える 古代道路』(吉川弘文館、一九九六年)の「北陸道 その計画性および水運との結びつき」(金坂清則)の付箋を貼ったところを読み返す。

《京への公式日数は、越前が六日、加賀が八日、能登と越中が二七日、越後が三六日、佐渡が四九日であり、越後と佐渡の日数は出羽の五二日次いで長かった》

「加賀が八日、能登と越中が二七日」——地図を見るとこんなに日数の差が出るのは信じ難い。それほど難路だったのか。古代の道、わからない。

 北陸道は「重要な水運ルート」で湊を兼ねる駅が多かった。積雪期に陸路が通れなくなると船で移動した。

 謡曲「山姥」の場合、百万山姥は従者を連れていて、途中、乗物(駕籠?)も利用している。琵琶湖以外は船に乗っていないと仮定すると京から礪波山まで十日、あるいは二週間くらいかかっているかもしれない。

 礪波山を経て、いよいよ百万山姥は境川へ。

《雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとゞ都は遠ざかる、さかひ川にも着にけり》

 三越路(みこしじ)は越前・越中・越後の三国、または三国への道である。
 越中と越後の境を流れる境川から山姥の里までは上路(あげろ)を通る。現在の県道115号と上路はほぼ重なっている。

 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂、一九七八年)の「滄海駅」の項に「境川を渡った後、さらに海岸をたどると親不知子不知の天険を通ることになる訳で、平野団三は『境川を過ぎた駅馬は上路を越え歌に下ったと思われる』と述べている」とある。

 百万山姥も親不知を避け、上路を通り、山姥の里に迷い込む。

 上路は滄海に通じる。滄海から信濃の善光寺までの道は謡曲「山姥」には記されていない。
 古代の北陸道から善光寺までは水門(みと)から上越妙高を通る道がある。ちなみに、水門は現在の直江津あたり。古代の国府も直江津にあった。

 百万山姥の歩みに関して、糸魚川から姫川沿いに歩いて白馬経由で善光寺に向ったのではないかと考えていた。しかし海沿いの難路を迂回したことを考慮すると、多少遠回りになっても水門(直江津)から善光寺に向かう安全なルートを選んだかもしれない。

 仮に百万山姥が善光寺に辿り着いていたとしたら、帰路は東山道(中山道)を通った可能性もある。行きと帰りで別の道を通るのは江戸期の伊勢参りなどでもよくあった。