2007/07/18

青い部屋の詩人

 なんとなくやる気がでない。理由はわかっている。
 飲みすぎだ。昼夜逆転生活がさらに逆転して、ふつうの早寝早起の規則正しい生活になっているのだが、ものすごくだるい。時差ボケのようなかんじといえばいいか、頭がまわらず、ぼーっとしている。

 それで横になってテレビを見ている。新潟県中越沖地震のニュースが流れている。昼夜逆転生活なんて、電気が止まったら、それでおしまいだ。完全に文明依存体質である。災害の備えもとくにしていない。急に水とかロウソクとかの買い置きでもしとこうかという気になる。いい気なものだともおもう。

 夕方、チャンネルをかえたら、不運というほかない境遇の女性が駆け込み寺の尼僧のところを訪れる番組がやっていた。

 二十代前半の女性はホストクラブ通いがやめられない。尼さんは、夢とか才能とか、そういった生きる支えを見つけなさいという。お説教というよりは、親身に語っているかんじだ。女性もその言葉に感激して泣いている。

 人生相談は、言葉よりもいかに親身になれるかが大事なのかもしれない。彼女がこのままホストに散財しても、なんにも残らない。いや、借金が残るか。だから尼さんは、将来のために無駄遣いをやめて貯金しなさいという。

 わたしも、夢とか才能とか、そうした漠然とした曖昧なものを心の支えにしていたりするわけだが、それはとても不安定なのである。それより日々のなんてことのない、ただただ平穏な生活に喜びを見出すことができたらいいなあとおもう。もちろん、それも簡単ではない。しかも地味だ。

 水道ひねって水が出るだけで、喜んだりはできない。どこかの貧しい国のように川で洗濯したり、井戸まで何キロも歩いて水をくみにいったりしなくてもすむことに感謝することもなく、ぶつくさいいながら、毎日食器を洗っている。

 夢とか希望とかいったものは、元気なときにはいいのだが、そうじゃないときは、負担になる。ヘタに励ますと、余計に落ちこませてしまうこともある。

 ほんとうに弱っているときの支え。自分は無力だなあとおもうときの支え。貯金か。

 夜中、『吉行理恵レクイエム「青い部屋」』(吉行あぐり編、文園社)を読んだ。昨年五月四日に六十六歳で亡くなって、そのちょうど一年後に出版された本である。

 自費出版の詩集『青い部屋』に兄の吉行淳之介が附記を書いている。その中に中学二年生のときの吉行理恵の作文が全文掲載で紹介してある。この作文は吉行淳之介がずっと残して置いたもので、そのことは書いた当人も知らなかったことだという。

《一つの事をしていてもお姉さんには出来ても私は姉より取柄がないのだから出来なくてもしかたがないという気持が起って来る。こんな気持でいては人間は成長しない。私はこれから心も体も成長して行かねばならない。私はもう少しすれば出来る事を途中でやめる癖がある。それも直さなくてはと思う》

 詩そのものには感心しなかったと吉行淳之介はいうが、この作文を読んだとき、詩を書く必然のようなものがあるとおもったともいう。

《目の前は真白です
 それというのも 貧血を
 わたしが起こしていることに
 誰も気づいてくれないから

 まして倒れてしまうなんて
 私には出来ません
 人のお世話になることが なんとなく
 きらいだから》
      (「きっかけ」抜粋)

 中学生のころの作文もこの詩も、同じ人物の、同じ心の場所から出てくる言葉だ。
 こういう人には気休めの言葉は通じない。