2020/01/06

年明け

 三日、氷川神社に初詣。今年、高円寺のスーパーは四日から営業のところが多い。
 三十年くらい前は年末三十日から三日までチェーン店以外の店はほとんど閉まっていた。二十代のころは年末年始に帰省しなかったので、その間、ちょっとした非日常を味わえた。地方出身で帰省する友人から冷蔵庫の中身をよくもらった。
 年末年始の食事はたいてい鍋だった。それからうどんと雑炊、そして雑煮。あとカレーか。

 二〇二〇年の初読書は山田風太郎著『秀吉はいつ知ったか』(ちくま文庫)。山田風太郎のエッセイは読むたびに感銘を受ける。「政治家の歴史知識」は自分の知識のなさゆえ、初読のときには山田風太郎の慧眼に気づけなかった。

 たとえば、次の文章——。

《外務省の「終戦史録」をみると、昭和二十年八月九日、米内海相は部下の高木惣吉少将にむかって
「総理は口をひらくと、小牧長久手だの大坂冬の陣だの、そんなことばかりいっているのだからね。……」
 と、嘆声をもらしている。いうまでもなく総理は鈴木貫太郎である。鈴木はこのとき数え年で七十九であった》

 この部分だけ読むと、敗戦の直前に「小牧長久手だの大坂冬の陣だの」と寝ぼけたことをいっている困った総理という印象だ。もちろん、そうではない。

《では、小牧長久手の戦いとはいかなるものであったか。これは秀吉と家康の戦いだが、家康はこのとき秀吉の心胆を寒からしめる痛烈な一撃を与えてから和睦を結んでいる。のちになってみれば、秀吉はこれで家康に舌をまき、この一撃が家康の後半生を護る遠因になったのである。
 鈴木首相は、負けるにしてもなんとかもう一度アメリカに一泡吹かせてから、と熱願し、その思いが右の言葉となって出たのだろう。空頼みとはいえ、望みとしては別に時代錯誤な歴史知識ではなかったのである》

 本能寺の変(一五八二年)から関ヶ原の戦い(一六〇〇年)までの十八年間は、日本史の激動期で……要するにややこしい。わたしは高校時代、世界史を選択していたので、小牧長久手の戦いのこともうろ覚えだった。小牧長久手の戦いが、その後の歴史に与えた影響の大きさについて考えたことすらなかった。
 昨年、鈴木貫太郎の郷里の千葉の関宿を歩いた。終戦時の首相が鈴木貫太郎だったことは昭和史の幸運のひとつだ。

 山田風太郎を読んだあと、山田芳裕の『へうげもの』(講談社)も再読。小牧長久手の戦いの場面はあっさりしていた。全二十五巻。しかし読みはじめたら止まらない。