2024/10/04

夜景

 水曜夜七時、神保町から東京メトロ東西線の竹橋駅方面に向かい、代官町通りを歩いて千鳥ケ淵へ。千鳥ケ淵警備派出所の近くから東京スカイツリーと東京タワーが見える。東京タワー方面の夜景がいい。坂道を下り、東京メトロ有楽町線麹町駅、JR四ツ谷駅から新宿通り(旧甲州街道)を散策する。当初は四ツ谷駅からJR中央線で高円寺に帰る予定だったが、先週秋花粉(ブタクサ)の症状が出て、外出を控えていたので、もうすこし歩きたかった。東京メトロ丸の内線の四谷三丁目駅から新宿御苑駅に向かう途中、ドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見えた。
 ドコモタワーは二〇〇〇年九月竣工。二十四年前。わたしは三十歳だった。アルバイトしながら、同人誌にエッセイを書いていた。

 今の自分のいる場所から何が見えるか。散歩中、そんなことを意識するようになった。東京の風景は目まぐるしく変わる。夜景も変わる。

 新宿駅に着いたのは午後九時前。タワーを見るためにうろうろしたので、その分、時間がかかった。

 新宿は「江戸四宿」のひとつ。もともと甲州街道の第一宿は高井戸宿だった。新宿=内藤新宿は一六九八(元禄十一)年に設けられた新しい宿場(だから「新宿」という)。新宿は甲州街道と青梅街道の「追分」でもある。

 新宿駅の東口は工事中。ドコモタワーを近くで見るため、南口に向かう。

 ひさしぶりに新宿駅南口のエスカレーターに乗る。若いミュージシャンが何人か歌っている。

 夜中、高円寺の南口、高南通りのミニストップ高円寺南2丁目店のすこし北の斜めの道(松應寺などお寺が並ぶ通り)に入るあたりから東(新宿方面)に歩いている途中、ドコモタワーが見える。ライティングの色によって見えるとき、見えないときがある。

2024/10/02

玉川上水

 気がつけば十月。忘れていたが、先月八月下旬、わたしは生まれて二万日になった。インターネットの「生まれて何日チェック」で知った。一万日は二十七歳——一九九七年四月。何をしていたかおぼえていない。

 土曜夕方四時すぎ、西部古書会館刻『市街線入 東京最新全図(明治時代の東京地図)』(帯付、すずき印刷)を買う。明治三十八年改正版の地図の復刻版で「発売元(有)すずき印刷 立川支所」とシールが貼ってある(復刻年不詳)。さらに『最新大東京地図』(大正十四年版の復刻)もセットで五百円だった。お買い得。

 前回、国木田独歩の『武蔵野』が渋谷から小金井あたりが舞台と書いたが、この日の古書会館には北村信正他著『小金井公園』(東京公園文庫、一九八一年、一九九五年改訂版)があったので、買うことにした。『武蔵野文学散歩展』の江戸東京たてもの園(江戸東京博物館分館)も小金井公園内にある。

 部屋の掃除していたら『玉川上水散策』(坂上洋之:文、桜井保秋:写真、羽村市教育委員会、一九九五年)が出てきた。
 何年か前に西部古書会館で買った冊子。小金井桜、境浄水場の写真も載っている。羽村市は福生市のすこし北に位置する。『大菩薩峠』の中里介山が羽村生まれ(一八八五年四月)。羽村は神奈川県西多摩郡西多摩村だったが、一八九三年に東京府に編入——。

「三鷹駅のせせらぎ」というページに「駅北口東側の交番の後ろに、武蔵野市が建立した、『山林に自由存す』で有名な『独歩詩碑』があります」と記されている。

《駅北口から西側のけやき橋までの間の上水路は暗渠になっていて、その上がせせらぎの流れる小公園になっています》

 一九九三年七月、三十年以上前の写真なので、三鷹駅周辺の風景は今とかなり変わっている。

 二万日も生きていると、世の中も変わる。もちろん望ましい変化ばかりではないが、玉川上水にかぎらず、各地の川は昭和後半と比べて、きれいになった。
 同冊子の地図には玉川上水と野火止用水の分岐しているあたりに「清流復活放流口」とある。東京都水道局小平監視所の近くに「清流の復活の碑」(小平市中島町)があり、野火止用水にも「清流の復活の碑」(小平市向原)がある。

 一九六六年四月「玉川上水を守る会」 、一九七四年七月「小平市玉川上水を守る会」などが発足。いくつもの保護団体が行政に働きかけ、一九八一年に清流復活事業計画が具体化し、導水管敷設工事がはじまった。一九八四年八月に野火止用水、一九八六年八月に玉川上水の清流が復活した。

 以前、板橋から川越まで二日かけて川越街道を歩いたとき、JR武蔵野線の新座駅の手前に野火止という地名を見かけた。新座市(埼玉県)は野火止用水が通っている(野火止緑道もある)。

 昭和の終わりから平成のはじめにかけて、河川や大気の汚染を改善しようという動きが広まった。一九六〇年、七〇年代の反公害運動からの流れもあるだろう。

 社会が豊かになり、そして行き詰まり、ようやく経済成長の負の部分を見直すことができるようになったともいえる。

 昭和から平成になって「失われた何年」みたいなことをいわれ続けてきたが、高度成長期以降、失ったものを取り戻そうとした歳月でもあったのではないか。

 年をとり、いずれこの世から去る身であることを自覚するにつれ、きれいな河川、海、山を次世代に残したいとおもうようになった。おもうだけで何もしていない。