2012/10/29

内側の技術(二)

《誰でも、最高の能力を発揮したり、経験したときに、この「リラックスした集中」状態に達した記憶はあるはずだ。知覚力も注意力も極限に達する瞬間には、努力しなくても全身がスムーズに動き、人生そのものまでもがシンプルで、完全に調和が取れているように感じられる》(「集中力という土台」/『新インナーゴルフ』)

 感覚の話は言葉にしにくい。文章で書いても伝わるのか伝わらないのか、あまり自信がない。
 わかりやすい説明は、いろいろなものを端折った要点にすぎない(ミもフタもないのことをいえば、誰にでもすぐわかり実行できるようなことには、それほど価値はない)。

「リラックスした集中」は、一日、二日で習得できる技術ではないだろう。体得のレベルもピンからキリまである。
 自分でもよくわからないまま、気がついたら「リラックスした集中」を経験していたというレベルもあれば、自由自在に「リラックスした集中」を操ることができるという達人級のレベルもある。

 ものすごい高いレベルの「リラックスした集中」をマスターするには、当然、厳しい修業が必要だし、場合によっては、私生活を犠牲にする覚悟もいる。

 会社勤めをしたり、生活費を稼ぐための仕事をしたりしながらでも、ガルウェイの唱えている「リラックスした集中」の境地に辿りつくのは不可能ではない(とおもう)。

 さらにいえば、「リラックスした集中」ができたとしても、当然、元の能力に左右される。いくら「リラックスした集中」状態にあっても、草野球の選手が、プロ野球選手の投げる球が打てるわけではないし、テニスのサーブのスピードが格段に上がるわけでもない。
 でもなんてこのないゴロをエラーしたり、ダブルフォールトしたりすることは減らせる気がする。
 つまり「リラックスした集中」は、今の自分のできる範囲で最善にちかいものを発揮するための技術といえるかもしれない。

 今のわたしが「リラックスした集中」を駆使して文章を書いても、他人が読んでおもしろいものになるかどうかは別の話である。
 それでも「リラックスした集中」をすれば、そうでないときより、執筆中の充足感は大きい。これは読書についてもいえる。

 ガルウェイのいう「リラックスした集中」は、「今の米国では『イン・ザ・ゾーン』(IN THE ZONE)とか『ゾーン』と表現するのが流行」しているそうだ。
 日本のテレビのスポーツ番組などでも「ゾーン」という言葉はよく取り上げられている。

《最高の集中状態に達するための魔法の方式や方程式は、残念ながら存在しない。頭で考えて得られるものではないし、考えること自体が極限の集中への妨げになる》(同前)

 たぶんわたしがよく躓くのもここである。「考えるひまがあったら、手を動かせ」というような助言もこの話に通じる。

 たとえば、このやり方で集中できた、リラックスできたという経験があったとしても、毎回、同じ手順でやってみたとしても、おもいどおりになるとはかぎらない。
 でも、そこそこ「リラックスした集中」に達する方式はある気がする。

 自分に合う方法、合わない方法をいろいろ試していく中で、すこしずつ勘所のようなものが見えてくる。

 いろいろ試す過程では『禅ゴルフ』のときに論じた「イメージ」も役に立つかもしれない。
 あと自分の性格(嗜好)にも左右される。大雑把なやり方のほうが合う人もいれば、緻密な手順のほうが合う人もいる。

 一日のうち、だいたいこの時間からこの時間に「リラックスした集中」状態に持っていこう——そう漠然と考える。
 そうすると、その時間から逆算してその日一日のペース配分をする。
 フリーランスの場合は、月のはじめが忙しいとか、もしくは月末が忙しいとか、仕事の量に波があることも多い。
 あくまでも「イメージ」でしかないのだが、その日その日、その月その月のピークに合わせて、自分の調子を上げていく意識を持つ(自己暗示でもいい)。

 でもそうやって苦労して作り上げた「リラックスした集中」状態も、ほんの些細なことで崩れる。すると、わたしは平静を失い、不機嫌になる。

 調子が崩れたときの立て直し方も研究したいとおもっている。

(……続く)