2025/01/17

帰省

 先週の金曜から四泊五日で三重と香川に行って帰ってきた。
 郷里の鈴鹿には小田急+在来線(熱海駅〜浜松駅はこだま)+名鉄+近鉄を乗り継ぎ、のんびり移動した。
 小田原〜熱海間の在来線の車窓は海がよく見える。この日は雪の富士山もきれいだった。
 名鉄は神宮前駅で名鉄津島線に乗り換え、午後四時前、須ヶ口駅で降りる。寒い。住宅街を歩いていたら、屋根に薄ら雪が積もっていた。
 須ヶ口駅近辺は美濃路、津島街道、旧鎌倉街道などが通っている。当初は五条川を渡って上萱津、中萱津、下萱津の旧鎌倉街道を散策するつもりだったが、日没がせまっていたので、またの機会にする。このあたりは伊勢廻り東海道と美濃廻り東海道の合流地点で時間をかけて歩きたい。「小栗判官」の舞台の一つにもなっている地でもある。

 津島街道を歩いて名鉄の甚目寺駅から木曽三川を渡り、弥富駅へ。すこし歩くと近鉄弥富駅がある。弥富駅はJR、名鉄、近鉄の乗り換え可能だが、郷里にいたころは降りたことがなかった。
 名鉄津島線は佐屋駅もある。佐屋街道は宮(熱田)〜桑名の七里の渡しではなく、東海道を陸路で行き来する人が通った道で津島線ともすこし重なっている。

 近鉄弥富駅から桑名駅。桑名のアピタ内のスガキヤで肉入りラーメンを食べ、ビールとつまみも買って夜八時すぎ鈴鹿の家へ。

 今回は電車の移動に時間をつかいすぎて、おもうように歩けなかった。ちょこまか途中下車したい欲と一つの町をじっくり歩きたい欲は両立しない。

 翌日は午前八時すぎに家を出て、近鉄の伊勢中川駅、伊勢中川から大和八木駅まで特急に乗る。大和八木駅から急行で鶴橋駅、そこから尼崎(阪神)まで直通の電車に乗る。この電車、神戸に行くのに便利だ。今までは梅田に行って阪急で神戸に向かうことが多かった。尼崎から三宮、三宮から高速バス(フットバス)で高松へ。三宮の駅から近くバス乗り場もわかりやすい。当初、船で高松に行こうとおもっていたが、冬は寒そうなのでやめた。
 高松中央インター南から『些末事研究』の福田賢治さんの車に乗り、そのまま仏生山温泉に寄ってもらう。

 昨年九月下旬に仕事部屋の取り壊しが決まり、先月までずっと引っ越し(業者は頼まず)に追われていた。このブログでも掃除の話ばかり書いていた気がする。引っ越しは終わったけど、本は箱に入ったままの状態で整理はこれから。まだ机の置き場所、座る場所もない。三月中にはなんとか作業スペースを作りたい。

 引っ越し中、気が滅入ってくると「終わったら高松に行って、温泉に入りたい」とおもい続けてきた。念願がかなった。

2025/01/08

眼の馬力

 五十代以降は充実した日々を送るより、のんびり静かに暮らしたいという気持が強くなった。
 長年の経験上、体が冷えてよかったことがない。腰に貼るカイロを装着し、部屋を暖かくして、温かいものを食べる。汁物にはほぼ生姜を入れる。しかし野菜が高い。白菜はまだましか。近所のスーパーだと四分の一カットの白菜が百六十八円。すこし前まで百円以下だった。

 中野重治著『本とつきあう法』(ちくま文庫、一九八七年)の表題のエッセイはこんなふうにはじまる。

《このごろ私はなかなか読めない。からだが弱くなったうえに眼が弱くなった。からだ全体に馬力がなく、その上眼に馬力がない。そのせいでかなかなか読めないが、何かのきっかけで読むとなると、読むということはやはりほんとに楽しいことだなと思う》

 初出は一九六五年。中野重治は一九〇二年一月生まれだから、六十三歳のときのエッセイである。
 わたしも「眼が弱くなった」という実感はある。それ以上に集中力が途切れやすくなった。本を読んでいても、以前と比べると、心が動かなくなった。音楽もそう。それでも本を読むし、音楽を聴く。衰えていく過程ではじめて気がつくこともあるだろう。

 四日昼すぎ、今年初の西部古書会館。三冊縛りはやめた。岩壁義光編『横浜絵地図』(有隣堂、一九八九年)、加太こうじ、木津川計、玉川信明著『下町演芸なきわらい』(駸々堂、一九八四年)、多くの作家と画家のサイン(印刷)入りの手拭いなど。『横浜絵地図』はプラカバ付の美本。地図だけでなく、写真も多数ある。

 日頃、朝寝昼起の生活なのだが、年明けから昼寝夜起になり、そのあと夕方に寝て深夜に起きる睡眠時間ズレ周期になる。深夜一時すぎ、早稲田通りを阿佐ケ谷方面に向かって散策した。高田馬場方面に向かう空車のタクシーがけっこう走っている。

「日本の古本屋」で注文した『旅別冊 特集 地図 夢・謎・愉しみ』(日本交通公社、一九八四年)が届く。送料込みで六百円ちょっと。「自東部西国筋 旅中懐宝」(結城甘泉、一八五二年)を十七頁にわたって掲載している。現物は七メートル余もあった。

《雑誌での全巻一挙掲載は、もちろん本誌が初めてである》

 江戸から大隅諸島、永良部島まで描いた見事な鳥瞰図だ。結城甘泉は筑紫(福岡)の人らしい。東海道は四日市や鈴鹿を通る伊勢廻り。関から上野、初瀬から奈良への道も描かれている。
 鳥瞰図は、城や家も描かれているので当時の町の大きさもわかる。

 あと瀬戸内航路が細かく記されていて勉強になる。「室は瀬戸内航路の要」とある。室は播磨の港町。室の津。岡山の牛窓も金比羅航路として栄えていた。

 古地図(鳥瞰図)を見ていると、鉄道や車が普及する以前の地理の感覚がおぼろげながらわかってくる。町と町のつながりも見えてくる。

2025/01/02

新年

 新年あけましておめでとうございます。初詣はまだ(人が多かったのでやめた)。近所を散歩する。町に人が少ない。店も開いているところが少ない。西友で寿司を買う。

 紅白、年をとっても変わらない声量を維持している歌手を見ると、すごいなと感心する。曲調もあるけど、演歌勢の安定感もさすがだなと。

 年末の土曜夕方、西部古書会館。『なかの史跡ガイド』(中野区立歴史民俗資料館、一九八九年)、『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』(中野区企画部広報課、一九九〇年)、『旅別冊 鉄道 追憶・熱狂・冒険』(日本交通公社、一九八五年)など。

『なかの史跡ガイド』は二冊目。手持ちの冊子は書き込み有でボロボロだったので買い直した。『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』は二十頁ちょっとの冊子。手書きの地図がいい。ここ数年、日課の散歩で中野区の大和町、野方界隈、西武新宿線沿線の町をよく巡回している。バスにもよく乗るようになった。初夢もバスの夢を見た。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』によると、中野の地名の由来は「武蔵野の中央に位置するから中野といわれたようです。(中略)昔は一村名ではなく相当広い地域を含む総称だったようです」とある。

 中野区は一九三二(昭和七)年に中野町と野方町が合併してできた区である。中野区の「野」は野方の「野」も含んでいる(という説もある)。

 中野区の「地名の由来」はいくつか囲み記事があり、野方は「江戸時代、多摩郡には、幕府直轄領と旗本の知行地が入り混じっていましたが、その広い範囲を『野方領』と呼んでいたといわれます」とのこと。

 以前、近所の飲み屋で杉並区方南町の「方南」の由来の話になった。
 もともと方南町は和田村で、字で「方南」という地名がついていた。和田村の南説、杉並村の南説などもあるようだが、野方の南説も候補のひとつらしい。
 地図で見ると、西武新宿線の野方駅から環七をほぼまっすぐ南に向かうと、東京メトロ丸の内線の方南町駅である。

『旅別冊 鉄道』は、カラー頁が多くてきれい。鈴木一誌のデザイン。冒頭に小野十三郎の詩「機関車に」(『古き世界の上』より)が載っている。ほぼ原型を復元した機関車「パシナ」の写真(潘陽)を見る。パシナ、水色だったのか。二十代のころ、お世話になった人が『パシナ』という同人誌を作っていて、その雑誌名の由来はパシナ号からとったと聞いた。

 古本好きは変わらないけど、そのときどきの関心で読むものが変わる。今は地理や歴史に興味が移っているが、今年はどうなるか。その日、自分が何を読んでいるのか予想がつかないところも古本趣味の面白さである。