季節の変わり目、朝寝昼起、昼寝夜起、夜寝朝起と毎日睡眠時間がズレる周期に入る。ただしけっこう熟睡できているので調子はそこそこいい。
すこし前、小雨降る中、阿佐ケ谷散歩。高円寺駅付近からガード下を通り、アーケードの商店街を歩くと傘なしでも歩数を稼ぐことができる。雨の日、桃園川緑道も人が少なく歩きやすい。パールセンター商店街の薬局、カルディ(乾麺のうどん。細くてうまい)。一時期、冷凍うどん派だったこともあるが、乾麺派に戻った(乾麺はすこし多めにゆでて冷凍している)。
駅南口の八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店(旧・書楽阿佐ヶ谷店)に寄る。高円寺の徒歩圏だと新刊書店は中野か阿佐ケ谷に行くことが多い。
阿佐ケ谷駅北口アーケード街のマリヤ洋品店が八月三十一日で閉店した。先々月あたり閉店が決まってから、靴下を何足か買った。
コンコ堂で『三重県立美術館所蔵作品集』(二〇〇三年)、『尾崎士郎/中谷孝雄』(新学社近代浪漫派文庫、二〇〇四年)など。
五十歳前後、老年に向かう途で郷土文学や郷土史に興味をおぼえるようになった。文学も歴史も範囲が広大でキリがない。老いゆく身には未来もそんなにない。しかし「郷土」もしくは「地元」に絞れば、残り少ない時間の中でも見えてくるものがあるのではないか。
中野区大和町の仕事部屋の掃除をしていたら『文藝春秋SPECIAL』特集「老後の楽園」(二〇一二年秋号)が出てきた。渡辺京二「連嶺の夢想」というエッセイを読む。題の「連嶺の夢想」は伊東静雄の詩「わが死せむ美しき日のために 連嶺の夢想よ!」(曠野の歌)の一節からとったものとおもわれる。
《もともと人はおのれの棲みかを選びとったのではない。何かの事情でたまたまそこに住みついた。どうしてもそこが合わぬというのなら、住まねばならぬ事情が解消し次第、より気に入ったとこへ移ればよい。だが、たいていの人が余儀なく住んだ場所と折り合ってゆくのは、その場所で自分なりの生息圏を構築しているからだ》
渡辺京二は一九三〇年京都生まれ。北京、大連で過ごし、一九四七年に大連から引き揚げ、熊本市に暮らした。
熊本に移り住んだ後、五高時代に大喀血し、熊本市近郊のサナトリウムで四年半過ごすことになった。療養所生活がなければ、東京の学校に進む予定だった。
そのあと東京に出るが、すでに妻子がいた。一九六五年、生活が行き詰まり、熊本に戻る。
《熊本へ帰れば親族友人がいるし、何とかなるだろう》
「連嶺の夢想」を読み、「生息圏」という言葉が頭に残った。新居格は「生活地帯」といった。
わたしの生息圏は東京といっても中央線高円寺界隈の徒歩圏内である。昨年十二月、仕事部屋を中野区大和町に移した。妙正寺川と西武新宿線の野方駅が近くなった。
大和町に引っ越す前、高円寺、野方、鷺ノ宮と転々とした編集者で作家の古木鐵太郎、それから野方に長く暮らした福原麟太郎の著作を読み、西武線沿線の町をよく散歩するようになった。
四十代後半あたりから、本を読んで感じとるものと同じかそれ以上に町歩きから得られるものを大切におもうようになった。夜、人の少ない川沿いの道を歩く。空が広く感じる。気持のいい風が吹いている。隣の町の公園や神社に立ち寄る。楽しい、というか、落ち着く。いや、歩かないと落ち着かない体になってしまった。
長く住んでいる生息圏でも知らない道がいくつかある。その道の先に知らない場所がある。
郷里に帰省したとき、離れていた時間がある分、町歩きが面白くなった。鈴鹿の家は徒歩圏内(まあまあ歩くが)に東海道と伊勢街道が通っている。それ以外にも旧街道っぽい曲がりくねった道がある。
東海道の亀山宿と伊勢街道の神戸宿を結ぶ脇街道のような道だったのではないかとおもいながら、その道を歩く。
特集「老後の楽園」は「全国52カ区 地方紙が選んだ『我が郷土の楽園』」という企画が秀逸だった。紹介されている町を地図で調べているだけであっという間に時間が過ぎる。
三重県は松阪市殿町と多岐郡大台町大杉谷地区が選ばれている。大台町はJR紀勢本線三瀬谷駅がもより駅。わたしは行ったことがない。