2007/06/05

自然でもなく、必要でもない欲望

 仕事の原稿を書き上げて寝ようとしたら、眠れなくなったので、なんかちょっと書いてみようとおもう。
 おそらく今日もまたとくに予定のない日にありがちなことをするだろう。つまり部屋を掃除して、洗濯して、食料品を買い物して、古本屋をまわって、喫茶店で本を読んで、酒を飲んで、家に帰ることになるだろう。

 あんまりものは持ちたくないが、知らず知らずのうちにものが増えてゆく。

 学生時代、「現代のソクラテス」といわれたアン・リネル(1861-1938)に関する本の中に、彼の部屋の壁は床から天井まで本にうめつくされていたが、そこには「不必要な必要物」は何もなかったというようなことが書いてあるのを読んだ。
 アン・リネルの部屋には敷物がなく、着ているものも百貨店の「つるし」で売っているような質素な服だったという。
 当時は文学よりも、哲学や思想の本ばかり読んでいた。古典だけ読んでいればいいんじゃないか、そんなふうにおもっていた。今でもたまに頭がごちゃごちゃしてくるとそうおもう。

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/06/04

グーグルアース

 今更の話題かもしれないけど、グーグルアース、おもしろすぎる。簡単にいうと、衛星画像をはりあわせた精密な地球儀。どんどん地表に近づいていくと、建物や車まで確認できてしまう。先月、京都で扉野さんに教えてもらって、ひまだったので、昨晩(あ、日付が変わってしまった二日の夜)十一時くらいにちょっとやってみようかなと……。

 まあ、最初はいま自分の住んでいるところを見て、それから生家をさがそうとしたら、雲がかかっていてよくわからない。とりあえず、目印の鈴鹿サーキットから中学のときの通学路をとおって、ようやくそれらしき場所が……自信なし。浜島の祖母の家にも行ってきた。小学六年の夏以来、二十五年ぶりだ。なつかしいなあ。

 こんなことやっている場合ではないのだが、北方領土とか竹島とか尖閣諸島とかも見た。中国にわたって、三国志ゆかりの地もまわってみた。もしそのころ、こんな便利なものがあったら、いくさも楽勝だったろうに、孔明も。
 大航海時代のルートを追いかけて、リスボンからマラッカに着いたころ、朝七時になっていた。これはいかん、自制心がきかん。アマゾン川だ、ナスカの地上絵だ、エベレストだ。上空十キロくらいの高度に設定して、北緯三十度あたりをゆっくり移動する。地形をずっと見ているだけでも飽きない。印があって、そこをクリックすると、その土地の写真も見ることができる。町や遺跡らしきものが見えたら、さらに高度を下げる。部屋にいながら世界旅行ができる。世界三大運河(スエズ、パナマ、キール)も遊覧してきた。百時間でも二百時間でも遊べそうだ。しかし、そんな時間は、そんな時間は、ないのだ。今は。

 そのまま起きつづけて、西部古書会館の古書展に行く。なにを買うかあまりかんがえず、五千円分買うことにする。 
 物欲がうすれると、勤労意欲もうすれる。

 軽く寝てから、中野の図書館に雑誌のバックナンバーを調べにいったが、貸し出し中だった。図書館で雑誌の貸し出しをするのはまったく意味ない。即刻やめてほしいとおもう。いつも無駄足になる。日比谷図書館まで行くかどうか三分くらい悩んだが、めんどうくさいので家に帰る。

2007/06/01

都会と田舎

 なぜか、最近、海とか山とか川とか……いや、田んぼでも畑でも用水路でもいい、木とか草とか土とか岩とか、そういうものにむしょうに見たくなることがある。
 京都の友人の家でしばらくすごした。家から歩いてすぐのところに川が流れていて、大きな神社もあって、何の用もなく、ぶらぶら歩いているだけでも楽しくて、もうすこし自然の豊かなところに住みたいなあとおもった。

 田舎に住んでいたところは、そんなことはかんがえもしなかった。ひたすら都会にあこがれていた。でも東京に暮らして十八年、十九年とたつうちにだんだん自然にあこがれるようになった。たぶん田舎に引っ越したら、また都会に住みたくなるだろう。
 ようするに、いつだってわたしはないものねだりをしているわけだ。

 十年ちょっと前、建設関係の業界紙の仕事をしていたころ、いろいろおもしろい話を聞いた。
 この先、二十一世紀の公共事業はこれまでに人間の作ったものを壊して、なるべく自然に戻すための工事をすべきではないかという人がいた。
 たとえば、道路の舗装にしても、アスファルトではなく、砂利とか砂とか、なるべく自然のものをつかったり、コンクリートで護岸した川をもういちど自然に戻したり、そういうことにお金をつかったほうがいいという。
 その人は、水を吸収する砂の舗装の研究をしていて、子どもが裸足で歩ける道をどんどん作りたいと語っていた。

 そうなればいいのにとおもった。