問:中村光夫の本で、今、新刊書店で買える本は何冊あるでしょうか?
答:一冊。三島由紀夫との共著『対談 文学と人間』(講談社文芸文庫、二〇〇三年刊)のみ。
ただし中野区と杉並区の図書館には中村光夫全集が揃っているようなので、とりあえず一安心だ。
昨日から中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』『文学回想 憂しと見し世』『戦争まで』(中公文庫)の三部作を読んでいる。
学生時代に先輩の高見順から、文壇デビューしたあとの心がまえを教えてもらったり、小林秀雄や中原中也や青山二郎といっしょに飲んだりしている。そういう場所に居合わせることも才能だとおもう。
この三部作は再読だけど、読みはじめると、この世界にずっとひたっていたいという気分になって、読み終えるのが惜しくなる。
中村光夫は、学生時代に左翼文学の同人誌にかかわっていたことがある。でもしだいに関心が薄れていったという。
《要するに、そのころ僕が気付いたのは、世の中の不正や不合理は相変わらずであるにしろ、自分にとって革命とは厭世の一形式にすぎず、結局、年少な嫌人家である自分に、たしかな元手は自分自身しかないということです》
そう考えつつも、中村光夫は「その元手が、あまりゆたかなものではなさそうだ」と悩んでいた。わたしは「元手」という言葉が好きなのだが、これは吉行淳之介の影響かもしれない。
『今はむかし』を読んでいて、印象に残ったのは「文学共和国」という言葉だった。
中村光夫は、横光利一が「純粋小説論」を発表したころの反響を回想し、次のように語る。
《当時の僕は、国境と時代を越えたひとつの「文学」を信じていました。西洋という子供のときからことばで聞いているだけの世界を理解しているつもりでいました。同時代の多くの人々と同様に、世界の中心は西欧であり、日本は辺境と思っていましたが、文学という形のない共和国では市民はだれもが平等、少なくともそうあるべきだと信じていました》
さらに中村光夫は、今の日本の社会を描くには、十九世紀の西洋を代表する作家たちの技術が必要で、近い将来、そうした技術をきちんと消化した作家がわが国にもあらわれるだろうと考えていた。
《当時の氏(小林秀雄)はやはり世界的な文学共和国の住人であり、その地図には横光(利一)氏や僕と大差なかったのです》
そんな「文学共和国」を夢見ていた中村光夫だったが、そのころの純文学作家、批評家は貧乏だった。
《むろん、だからといって卑屈になったり、恥じたりすることはまったくなく、金はなくともみんなしたいことはしていたし、今では考えられない爽やかな貧乏でしたが、大体がその月暮らし、住居は借家で、電話はひいていない、というのが一般の状態でした》
わたしは「世界の文学」ということはほとんど考えたことはない。むしろ中村光夫が批判しているような日本の私小説が好きである。私小説が世界に通用しないともおもわない。時代とか、読んだときの年齢とか、そうしたちがいは大きい。私小説の全盛期だったら、わたしも私小説を読まなかったかもしれない。
中村光夫は時代をこえて読まれてほしい。中村光夫が夢見たような日本の文学も読んでみたい。
話はかわるけど、中村光夫は、大学三年生くらいから文芸時評の仕事をしている。今では考えられないし、当時でも「早すぎる」という反対者がいたようだ。中村光夫自身、知識や経験不足でうまく書けないこともあったと述懐しているが、そういう失敗もふくめた場数をふんでいかないと成長しない。
編集者はもっと冒険してもいいのではないかと……。
2007/12/08
中村光夫を読んで寝る
これからすこしずつ中村光夫を読んでいこうとおもっている。そうおもいながら、五、六年の月日が流れている。全集を買おうかなとおもったら、高いんだね、知らなかった。
読みたいのは、エッセイと文学論関係だけなので、地道に集めることにする。
中村光夫に「作家の文明批評」と題するエッセイがある。初出は一九四七年八月の『文學界』で、わたしは『百年を単位にして』(芳賀書店、一九六六年刊)で読んだ。
《作家はその生きる時代の性格を把みこれを批評する間に、まずその与えられた環境のなかで、どういう風にうまく立廻るかを考えるようになりました。「現実」という合言葉が、この場合絶好の遁辞になりました。これは世の中が世知辛くなったためかも知れませんが、同時に文学の堕落だったと言えましょう》
《その日暮らしの無気力、自分の無能にさえ気付かぬ怠惰、お互に自分だけ有利な地位をしめようとするこすからい競争心、こういった気風が、——戦後の社会一般と同様に——文学界を風靡しているようです。文学とはこんなところまで「時代の鏡」にならなければならないのでしょうか》
文学が「時代」にたいする何らかの役割を担っていたというのは、昔話になってしまったという気がする。テレビやインターネットのスピードにはかなわないし、活字の分野でいえば、週刊誌、新書、漫画がかろうじて「時代の鏡」になっているかもしれない。もしくはケータイ小説か。
中村光夫がこのエッセイを書いたのは、三十六歳のときである。昔の批評家は二十代、三十代でこういうことを考えていたのかとおもうと、ちょっと感慨深いものがある。
その日暮らしの無気力にどっぷりつかっている。
世の中が複雑になった、というのは言い訳にすぎないが、文学は文学、政治は政治、経済は経済、科学は科学、さらにそれぞれのジャンルの専門化が進んで、大まかに文明を論じる余裕がなくなった。
わたしが無気力になっている理由をあげるとすれば、「なにをいってもしかたがない」とか「なるようにしかならない」といった諦めの気分があるのはたしかだ。
中村光夫というと「私小説批判」の人という印象があったのだが、読んでみて、そんなに単純ではないこともわかった。
「自分と他人」と題するエッセイでは、「自分のために小説を書くのと、他人のために書くのと、どっちがむずかしいか」と問いかける。
《私小説の作家は、他人を描くむずかしさを捨て、自分を描くむずかしさに徹することで、ともかく一つの新しい道をひらいたのですが、今日の作家はこういう根本の問題にふれないところで、自分の職業を成り立たせているようです》
《考えてみればものを書くという行為が自分のためだけということはありえません。放っておけばそのまま消えてしまう思想や感情を紙の上にのこすのは、ひとりの読者を予想してはじめて成り立つことで、この読者は、かりに自分であっても、いまの自分とは他人です》
《他人のために書くことは、今日の多くの作家にとって、他人の思惑に忖度して気に入りそうなことを書くことです。この場合、彼が読者に示すのは、彼のなかの計算された部分だけであり、両者の間に芸術的交流はおこりません。こういう計算のもとに文学(芸術)がつくれると思っている人は、他人を面白がらせようと思えば、思いどおり面白がらせることができると考えている点で、自他の区別がはっきりしない精神の持主です》
中村光夫の意見にかならずしも同意するわけではないが、「根本の問題」を考えさせられる人だとおもう。さらっと読めるが、考えはじめるとキリがない問題でもある。
中村光夫には「文学信仰」がある。
《中村 もっともらしくいえばね、ぼくなんかも同じだな。やっぱり信じるに足るものは文学よりほかないんじゃないか、せめて文学を信じたいというような気持にいろんな原因で青年時代になるでしょう。
三島 なるね。
中村 その点は少なくとも戦争中くらいに文学を志した人までは同じじゃないかと思うんだ
三島 ぼくも絶対そうです 〉(中村光夫、三島由紀夫『対談 人間と文学』講談社文芸文庫)
いろいろ本を読んでいるうちに、自分が好きになる作家、詩人は、いずれも「文学信仰」の持ち主だったということに気づいた。
はっきりそのことに気づいたのは、二十代後半くらいで尾崎一雄の「暢気眼鏡」を読んだときだったのだが、吉行淳之介や鮎川信夫も文学にしか「自分の生きる場所」はない(なかった)というようなことをいっている。
中村光夫は、いまの人は自由で、追いつめられていないから、金を儲けようとか、名声をえようとか、そういう気持で文学をやっていて、でもそれはそれで不純とはいえないともいっている。また人間、齢をとると、視野が変わってきて、だんだん文学でなければいけないとおもえなくなってきているとも……。
そんな話を三島由紀夫と対談していたころの中村光夫は五十代半ばすぎである。
ひょっとしたら「文学信仰」が弱まっているから、わたしは無気力になっているのかもしれない。すくなくとも切実に本が読めなくなっている。活字にたいする飢えがいやされてしまったからだろうか。それもあるとおもう。齢をとって、本を読んでも、自分の考え方や感じ方をゆさぶられることがすくなくなったせいもあるだろう。「文学信仰」を強化するような読書に励むか、それとも青年時代の「文学信仰」が薄らいでしまった先の読書のありかたを考えたほうがいいのか。
その先の読書生活を充たしてくれる本はあるはずだ。毎日のように新刊書店、古本屋に通い、読みきれないほどの本を買い漁り「読書疲れ」している人間のための文学が、きっと。
中村光夫はけっこういけるかも。
読みたいのは、エッセイと文学論関係だけなので、地道に集めることにする。
中村光夫に「作家の文明批評」と題するエッセイがある。初出は一九四七年八月の『文學界』で、わたしは『百年を単位にして』(芳賀書店、一九六六年刊)で読んだ。
《作家はその生きる時代の性格を把みこれを批評する間に、まずその与えられた環境のなかで、どういう風にうまく立廻るかを考えるようになりました。「現実」という合言葉が、この場合絶好の遁辞になりました。これは世の中が世知辛くなったためかも知れませんが、同時に文学の堕落だったと言えましょう》
《その日暮らしの無気力、自分の無能にさえ気付かぬ怠惰、お互に自分だけ有利な地位をしめようとするこすからい競争心、こういった気風が、——戦後の社会一般と同様に——文学界を風靡しているようです。文学とはこんなところまで「時代の鏡」にならなければならないのでしょうか》
文学が「時代」にたいする何らかの役割を担っていたというのは、昔話になってしまったという気がする。テレビやインターネットのスピードにはかなわないし、活字の分野でいえば、週刊誌、新書、漫画がかろうじて「時代の鏡」になっているかもしれない。もしくはケータイ小説か。
中村光夫がこのエッセイを書いたのは、三十六歳のときである。昔の批評家は二十代、三十代でこういうことを考えていたのかとおもうと、ちょっと感慨深いものがある。
その日暮らしの無気力にどっぷりつかっている。
世の中が複雑になった、というのは言い訳にすぎないが、文学は文学、政治は政治、経済は経済、科学は科学、さらにそれぞれのジャンルの専門化が進んで、大まかに文明を論じる余裕がなくなった。
わたしが無気力になっている理由をあげるとすれば、「なにをいってもしかたがない」とか「なるようにしかならない」といった諦めの気分があるのはたしかだ。
中村光夫というと「私小説批判」の人という印象があったのだが、読んでみて、そんなに単純ではないこともわかった。
「自分と他人」と題するエッセイでは、「自分のために小説を書くのと、他人のために書くのと、どっちがむずかしいか」と問いかける。
《私小説の作家は、他人を描くむずかしさを捨て、自分を描くむずかしさに徹することで、ともかく一つの新しい道をひらいたのですが、今日の作家はこういう根本の問題にふれないところで、自分の職業を成り立たせているようです》
《考えてみればものを書くという行為が自分のためだけということはありえません。放っておけばそのまま消えてしまう思想や感情を紙の上にのこすのは、ひとりの読者を予想してはじめて成り立つことで、この読者は、かりに自分であっても、いまの自分とは他人です》
《他人のために書くことは、今日の多くの作家にとって、他人の思惑に忖度して気に入りそうなことを書くことです。この場合、彼が読者に示すのは、彼のなかの計算された部分だけであり、両者の間に芸術的交流はおこりません。こういう計算のもとに文学(芸術)がつくれると思っている人は、他人を面白がらせようと思えば、思いどおり面白がらせることができると考えている点で、自他の区別がはっきりしない精神の持主です》
中村光夫の意見にかならずしも同意するわけではないが、「根本の問題」を考えさせられる人だとおもう。さらっと読めるが、考えはじめるとキリがない問題でもある。
中村光夫には「文学信仰」がある。
《中村 もっともらしくいえばね、ぼくなんかも同じだな。やっぱり信じるに足るものは文学よりほかないんじゃないか、せめて文学を信じたいというような気持にいろんな原因で青年時代になるでしょう。
三島 なるね。
中村 その点は少なくとも戦争中くらいに文学を志した人までは同じじゃないかと思うんだ
三島 ぼくも絶対そうです 〉(中村光夫、三島由紀夫『対談 人間と文学』講談社文芸文庫)
いろいろ本を読んでいるうちに、自分が好きになる作家、詩人は、いずれも「文学信仰」の持ち主だったということに気づいた。
はっきりそのことに気づいたのは、二十代後半くらいで尾崎一雄の「暢気眼鏡」を読んだときだったのだが、吉行淳之介や鮎川信夫も文学にしか「自分の生きる場所」はない(なかった)というようなことをいっている。
中村光夫は、いまの人は自由で、追いつめられていないから、金を儲けようとか、名声をえようとか、そういう気持で文学をやっていて、でもそれはそれで不純とはいえないともいっている。また人間、齢をとると、視野が変わってきて、だんだん文学でなければいけないとおもえなくなってきているとも……。
そんな話を三島由紀夫と対談していたころの中村光夫は五十代半ばすぎである。
ひょっとしたら「文学信仰」が弱まっているから、わたしは無気力になっているのかもしれない。すくなくとも切実に本が読めなくなっている。活字にたいする飢えがいやされてしまったからだろうか。それもあるとおもう。齢をとって、本を読んでも、自分の考え方や感じ方をゆさぶられることがすくなくなったせいもあるだろう。「文学信仰」を強化するような読書に励むか、それとも青年時代の「文学信仰」が薄らいでしまった先の読書のありかたを考えたほうがいいのか。
その先の読書生活を充たしてくれる本はあるはずだ。毎日のように新刊書店、古本屋に通い、読みきれないほどの本を買い漁り「読書疲れ」している人間のための文学が、きっと。
中村光夫はけっこういけるかも。
2007/12/03
地盤さがし
日曜日の駅前の薬局で「温楽」(衣類に貼るカイロ)を「箱」買いする。去年から、外出時には欠かせなくなった。三十個入りで六〇〇円くらいなので一個二〇円。年間九〇個つかうとして、一八〇〇円。このカイロのおかげで、二、三回は風邪をひかずにすんでいるかもしれない。
昼前に西部古書会館に行く。少年サンデー編集部=編、根岸康雄=取材・文『オレのまんが道』(全二巻、小学館)を買う。「温楽」三十個分とほぼ同じ値段だった。まんが家のインタビュー本なのだが、刊行年が一九八九年、一九九〇年ということもあって、今となっては貴重な本になっている。
なかでも若いころの浦沢直樹が「ぼくは売れることがまんが家としての第一条件だと思う」という発言は興味深い。
かけだしのころ、編集者から「いい作品だけども、これじゃ売れない」といわれた浦沢直樹は、いちから漫画の勉強をしなおそうと決意する。
《半年間ペンを持たずに、バイトのかたわら本を読みまくり、映画を見まくった。その中で、自分にとって面白いものはどれだったか、逆に面白くないものはどれか、ベストテンみたいに並べて、自分の中でメジャー性を捜す作業をしたんです》
(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)
昼前に西部古書会館に行く。少年サンデー編集部=編、根岸康雄=取材・文『オレのまんが道』(全二巻、小学館)を買う。「温楽」三十個分とほぼ同じ値段だった。まんが家のインタビュー本なのだが、刊行年が一九八九年、一九九〇年ということもあって、今となっては貴重な本になっている。
なかでも若いころの浦沢直樹が「ぼくは売れることがまんが家としての第一条件だと思う」という発言は興味深い。
かけだしのころ、編集者から「いい作品だけども、これじゃ売れない」といわれた浦沢直樹は、いちから漫画の勉強をしなおそうと決意する。
《半年間ペンを持たずに、バイトのかたわら本を読みまくり、映画を見まくった。その中で、自分にとって面白いものはどれだったか、逆に面白くないものはどれか、ベストテンみたいに並べて、自分の中でメジャー性を捜す作業をしたんです》
(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)
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