2009/05/11

高円寺界わい

 先週末、音羽館に行ったら、『長谷川七郎詩集』(皓星社、一九九七年刊)を見かけた。

 長谷川七郎は、高円寺に住んでいたこともある詩人で、アナキスト詩人の植村諦、岡本潤、また菅原克己とも交遊があった。
 とはいえ、わたしはその名前を知るだけで、詩を読んだことがなかった。なんとなく、高円寺の詩があるんじゃないかと頁をめくっていたら「高円寺界わい」と題した詩があった。

  看板は喫茶店だが
  酒も飲ませたし
  なにより女がごろごろしていた
  ロートレアモンを気どったへっぽこ詩人が
  目のまわりに隈のできた女を相手に
  《毒素》とがなって酒を呷っている
  潜伏中の共産党員が
  度の強い近眼をしょぼつかせて
  出稼ぎ女をねちこく口説いている
  野獣派の絵描きくずれが
  酒場づとめの女房から
  飲み代をせびってくる相棒を待って
  いらついている
  洋服屋のひものうれない文士が
  隅の方でとどいたばかりの《ヴォーグ》や
  《アーバス バザー》を
  女のためにせっせと訳している
  絵描き 音楽家 文士 新聞記者 その他正体不明
  見まわしてまともなやつはいない
  いつもきまった顔ぶれで
  がやがや夜が更けてゆく

 この詩がおさめられた詩集『演歌』は一九八七年、長谷川七郎、七十四歳のときに刊行されている。
 年譜によれば、長谷川七郎が高円寺の喫茶店に下宿していたのは一九三〇年代なのだが、そのころ中央線沿線にいたかもしれない「洋服屋のひものうれない文士」のことが気になる。

 今はそれを調べる時間がない。

2009/05/09

無理は承知

 東京に戻ってから、中野高円寺阿佐ケ谷を散歩する以外、ほとんど家でごろごろしていた。体力と気力の回復に専念。脳細胞が減った気がする。

 休日にやりたいこと掃除と本のパラフォンがけというのはどういうことなのか。欲望とか意欲とかそういうのがないといかんとおもう。気がつくと、古本屋通い、本を読むことが惰性になってしまう。

 過去にも新しいことに興味がもてなくなる時期があった。そういうとき、どうしていたかというと将棋とか音楽とか漫画とかに走っていた。でも、それもすぐマンネリ化する。

 新しいことをはじめたいなとおもうと、人があんまり興味をもたないような地味なことだったり、すっとんきょうなことだったり、なんとなく、すきま産業みたいなことになってしまう。なんかちがうぞとひっかかる。マイナーなことはもういいや。夜中、ふとそんなことをおもう。年に何回かそんな気持になるのだが、結局、自分は地味なものが好きなことを再確認する。

 十年二十年といい仕事を続けている同業者をいろいろ見ていておもうのは、サービス精神が旺盛な人が多いということだ。自分のこと以外にも、時間、金、労力を払っている。いろいろな損を引き受けている。自分のやりたいことをやろうとおもったら、恩や義理の積み立てがあるのとないのとではずいぶんちがう。遠回りが近道というか、なんというか、経験を積むと、いろいろ処理速度が上がる。処理速度が上がると、これまで無理だったことが、無理ではなくなる。とはいえ、無理しすぎると潰れてしまう。

 そういうことも経験を積まないとわからない。年に何回か、仕事量を増やして、自分の限界に挑戦してみようという気持になる。ちょっと忙しくなると仕事を断り、その後、まったく依頼されなくなって、気がつくと生活に困るということを繰り返してきた。若いころ、もうすこし無理していたらよかった。無理をすることによって身につく能力を軽視していた。

 仕事にとりかかるまでに時間がかかりすぎる。四十前にして、この問題に取り組むのはけっこうきつい。

2009/05/03

帰省して

 四月二十八日(火)から京都へ。二十九日(水)に出発するかどうか迷っていたのだけど、仕事も終わって、ぷらっとこだまのチケットがとれ、あとネット予約するとホテルが格安になることを知り、行ってしまえということになった。

 京都に着いて、ブックオフに行って、ラーメン食って、酒飲んで、寝た。

 翌日、徳正寺でパーティー。京都のミュージシャンが次々と登場する。オクノ修さん、かえるさんの歌を至近距離で堪能した。

 近鉄電車の中で読む本を買いにジュンク堂へ。『橋本治という考え方』(朝日新聞出版)を買う。前作よりもトーンダウンしている気がする。いつもより思考のうねりが少ない。疲れているかんじがする。感想は後日また。

 三重に帰省。父が仕事をやめたというか、自動車産業の大不況で年金生活になる。

 十八歳から六十八歳まで、途中、失業期間があったようだが(わたしが生まれたころ)、五十年も働き続けた。企業年金は五〇%くらいカットされるらしい。頼りにならないひとり息子の親は大変である。

 それから家の近所が様変わりしていた。家から歩いて数分のところにブックカフェがオープンし、リサイクルショップとインターネットカフェ、「古本ラッシュ」という大きな新古本屋もできていた。万代書店の系列店のようで、漫画、ゲーム、フィギュア、CD、DVD、古着、釣具から金、プラチナの買い取りまで、何でもありの店だった。

 巨大リサイクルショップが並ぶ通りを歩いていると、この先、新しいものを作らなくても、今あるものを再利用するだけでも、生きていけるのではないかとおもえてくる。  

 あと前からおかしいとおもっていたのだが、母は家を出て以降のわたしに関する情報を一切知りたくないということがわかった。今の自分の話をしようとすると、突然、まったく関係ない話(テレビの話とか地元の選挙の話とか)をまくしたて、何もしゃべらせまいとする。わざと、というより、本能でそうしているかんじがした。悪気はなく、ただ、理解できないものを拒絶しているにすぎない。

 長年の疑問が氷解したのはいいが、対処の仕様がない。両親の家に一泊し、午前中に名古屋に出る。リブロ名古屋店に寄ってから、それから上前津、鶴舞の古本街をまわった。

 いつもこのパターンだ。帰省のストレスで大量に古本を買ってしまうのも……。