2010/07/12

活字と自活の話

 まもなく(七月十三日予定)、新刊『活字の自活』(本の雑誌社)が発売になります。
 表紙は山川直人さんに描いていただきました。古本屋と中古レコード屋と喫茶店のある町の絵。すごく気にいってます。

 昨日、西荻ブックマークで古書現世の向井透史さんとトークショー。

 三年前にメルマガの早稲田古本村通信で「高円寺だより」という連載をはじめたころ、向井さんから「今二十代くらいの若い人に向けた文章を書いてみては」というようなことをいわれた。
 ちょうど同じ時期に、無責任な立場ながら、わめぞの活動に参加させてもらうようになり、それまでどこにいっても若手だったのが、いつの間にか、自分が年輩組にいることに気づいた。
 仕事が長続きしない。人間関係がうまくいかない。生活に困っている。
 今の二十代で本に関する仕事をしている人の境遇は、わたしが二十代のころよりもはるかに厳しい。

 若い人といろいろ話をしているうちに、こうすればよかった、ああすればよかった、とおもったことがある。昔の自分にやれといっても、たぶん、できなかったことかもしれないけど、そういうことをいったり、書いたりしてもいいのではないかとすこしずつ気持が変化していった。
 そのきっかけになったのが、向井さんの一言だったのである。

『活字と自活』は、不安定な仕事をしながら趣味(読書)と生活(仕事)の両立する上での試行錯誤をつづったコラムとエッセイを集めた本といえるかもしれない。

 トークショーの最後のほうで、しどろもどろになりながら、今回の本で紹介している中井英夫の『続・黒鳥館戦後日記』のことを話した。
 西荻窪のアパートに下宿していた若き日の中井英夫は「僕に、どうにか小説を書ける丈の、最低の金を与へて下さい」と綴っている。
 この日記には次のような理想の生活を書いてある。
 お客がきたら米をごちそうし、一品料理でもてなしたい。新刊本屋、古本屋をまわって好きな本を買い集めたい。レコードがほしい。ウイスキーや果実酒を貯蔵したい。友達に親切にしたい。芝居や映画が見たい。
 自分の生活が苦しいときに、現実を忘れさせてくれるような壮大な物語を読みたいとおもうときもあるのだが、どちらかといえば、わたしは直視したくないような現実をつきつけられつつ、それでもどうにかなるとおもえるような本が好きだった。

 気がつくと、トークショーでは貧乏話ばかりしていた。

2010/07/06

ミケシュの謎

 金曜日、西部古書会館。初日の午前中に行く。

 気長に探すつもりだったジョージ・ミケシュの『これが英国ユーモアだ』(中村保男訳、TBSブリタニカ、一九八一年)があった。二百円。ミケシュの翻訳本で読みたかったものはこれでほぼ揃う。

 ミケシュの本にかぎらず、英米のコラムやエッセイは、ビジネス書や自己啓発書みたいなタイトルの本(例:ジョージ・マイクス著『不機嫌な人のための人生読本』ダイヤンモンド社)が多く、古本屋のどこの棚にあるのか見当をつけにくい。この見当がつかないまま本を探している時期が楽しいともいえる。未開拓の領域が広がっているかんじがすると、古本屋通いにも熱がはいる。もちろん未開拓であれば何でもいいというわけではなく、何かしらのフックがないといけない。

 日頃、ぼんやり考えていることが、こんがらがって、形にならないまま、自分の中に沈殿している。ところが、ある本を読んだ途端、沈殿していたものがかきまわされて、もういちど考えてみようという気になる。考えがこんがらがるのは、わたしの問題点の立て方がズレているからだろう。とくに正論と自分の思考との“ズレ幅”を把握できていないときに混乱しやすい。

 ジョージ・ミケシュはそうした世間と自分との“ズレ幅”をよくわかっている気がする。正論や常識からすれば、間違っているとおもわれる意見や主張でも、直せばつまらなくなるところは直さない。他人からすれば、欠点であっても、それがあるおかげでもの考えたり、文章を書いたりすることもある。ミケシュのエッセイやコラムは、理路整然とした文章から導き出せない結論に辿り着くことが多い。しかも結論付近でお茶をにごす芸(煙に巻く芸)が素晴らしい。

 ミケシュは、ユーモアには、よいものとよくないものと謎がふくまれているという。

《よいのは、ユーモアが面白いということで、悪いのは、ユーモアが攻撃的性格を帯びていること、謎なのは、いったい、私たちは何がおかしくて笑うのかということなのである》(「ユーモアとは何か」/『これが英国ユーモアだ』)

 ユーモアについて論じた一文だが、ミケシュの考え方は、善悪の分別よりも、答えが出ない謎に向かう。否、わざわざ謎を探しているといったほうがいいかもしれない。わたしが読みたいのは「いいかわるいか」という議論を混乱させる謎に充ちた本である。でもなかなかそういう本は見つからない。

2010/07/01

ふぉとん叢書

 三木卓著『雪の下の夢 わが文学的妄想録』(冬花社)を読んだ。今年二月に刊行されていたのだが、まったく気づかなかった。
「ふぉとん」という文芸誌に書いたものを中心にまとめたもので、わたしはその雑誌のことも知らなかった。
 この本のあとがきを読んでいたら、その文芸誌を「自分にもよくわかっていないことを考える場にしよう、と思った」と記してあった。

「現場をめぐって」「今の文学について」「批評について」といった文学エッセイもおさめられている。

 宮沢賢治は、没後、その作品が見出され、今なお読みつがれている。しかし同時代の文化にかかわることはできなかった。

《いうまでもなく、それは作家の責任ではない。作家は内心の声にしたがって書くよりない。精一杯仕事をしたとき、それが無人島に生まれついて、そこで一人で生きたのではないかぎり、必ず時代と社会にかかわるものとなるはずである。それに、どう現在の読者がプラグを接続することが出来るか》(現場をめぐって)

 この文章は、自分の中でくすぶり続けている不安定な気分をすこしだけ和らげてくれた。
 誰もおまえのことなんか知りたくない——そうおもう人が大多数であることを前提に文章を書いている。
 とはいえ、わたしが好んで読んでいるのは、いってもしょうがないようなことが書いてある本なのだが。

 わたしも「自分にもよくわかっていないこと」を考えようとおもいながら、文章を書くことが多い。小学校高学年くらいのころからそうしていた。書かないと考えることができない。
 癖であり、習慣であり、職業病である。

 仕事の場合、なるべく読みやすくしよう、できればおもしろくしたい、とおもいながら書くよう心がけている。
 その技術が身につけば、考える幅も広がるということはあるかもしれない。

 すこし前にペリカン時代に行ったら、カウンターの上に三木卓のエッセイ集と同じふぉとん叢書の東賢次郎著『レフトオーバー・スクラップ』という短篇集があった。昔、旅先で知り合った人が書いた本だと聞いた。飲みながら読んで、冒頭から引き込まれ、圧倒される。現実と非現実のまざり方が色川武大みたいだなともおもった。

 どうしてこんなにすごい作品がもっと話題になっていないのか不思議でしかたがない。

 元編集者で今は京都でミュージシャンをしているらしい。