2013/12/04

試行錯誤 その三

 三十歳になって、文章の主語を「私」から「わたし」に変えた。瑣末なことかもしれないが、わたしにとっては大きな変化だった。

「私」が主語の文章と「わたし」が主語の文章では意識がちがう。そもそも主語を「わたし」に変える以前、商業誌ではほとんど主語なしで文章を書いていた。

「主観はいらない。情報を書け」

 編集者にそういわれ、ずっと違和感をおぼえていた。違和感をおぼえた理由は一読者としてそういう文章が好きではなかったからだ。情報を書くにせよ、好き嫌いはある。屁理屈をいわせてもらえば、「主観はいらない」という意見だってその人の好き嫌いではないのか。

 また、語尾を「おもう」「気がする」「かもしれない」と書いて、よく怒られた。「断定できないようなことは書くな」というのもひとつの意見だろうけど、自分には断定調の文章がしっくりこなかった。どうしてあやふやで曖昧な気分を書いてはいけないのか。そういう文章に共感する人もいるのではないか。すくなくとも自分はそうだ。
 でもそのことを自信をもって言い切ることはできなかった。

 そうこうするうちに、アンディ・ルーニー、マイク・ロイコ、ビル・ブライソンといったアメリカのコラムニストを知った。

 自分の視点、あるいは自分の日々の生活から世の中を切り取る。私小説風のコラムもあれば、身辺雑記風のコラムもある。政治も経済も科学もスポーツも「わたし」という立場から書くことができる。しかも文句なしにおもしろい。

 今の自分は未熟でヘタクソだから通用していないけど、方法論はまちがっていない。
 だけど、わたしは「おまえ、誰やねん」という存在でしかない。
 無名の書き手が「わたし」という主語をつかえば、どうしても「わたし」の説明がいる。

 三十歳、フリーライター、高円寺在住。就職経験なし。趣味は古本と中古レコードと将棋。食事は自炊。車の免許と携帯電話はもっていない。朝寝昼起。ほとんど家でごろごろしている……。

 毎回、冒頭で自己紹介するわけにもいかない。

 そんなこと別に知りたくないという人もいるだろう。でもどこの誰だかわからない人の読んだ本の話や音楽の話だって知りたくない人もいるとおもう。
 何かを語ろうとすれば、結局、自分を語ることになる。たぶんそのとおりだ。
 三十歳のころのわたしはそうおもうことができなかった。

(……続く)

2013/12/02

試行錯誤 その二

 はじめて行った場所で行き先のちがう電車に乗ってしまう。すぐ降りて引き返したほうがいいのか、快速や急行の止まる駅で引き返したほうがいいのか。
 おかしいとおもいながらも、何もできず、自分の行きたい場所からどんどん遠ざかっていく。

……そういう夢をよく見る。夢とはいえ、目がさめたあと、ぐったり疲れる。

 当時は、何をやってもうまくいかない時期だった。何をやっても裏目で、努力しようにもその方向性がわからない。

 編集者と会う。「最近、どんな仕事をしてますか」と聞かれても、何も答えられない。
 自己紹介も困る。「ライターをしてます」といえば、「どんなものを書いてますか」と聞かれる。言葉をにごすしかない。
 たまに雑誌の仕事をして、プロフィールを求められても、生年月日と出身地以外、書くことがない。

「自分はこういうものです。こんな仕事をしています」と答えられるようになりたい。

 三十代になって、ようやくそういう気持になった。でも何をどうすればいいのかというところで足踏み状態が続いた。

 お金ほしさにどんな仕事でもする。好きでもないものを褒めたり、興味のないものに興味のあるふりをしたり、自分の価値観に反するような文章も書かざるをえない。
 食べていけないんだから、しょうがない。自分で自分に言い訳する。その分、自分の言葉の信用がどんどん失われていく。

「今の名前を捨てて、まったく別のキャラクターで新人として再デビューしようかな」

 再デビュー用のペンネームも考えた。そのくらい気持が追い詰められていたのである。

 とりあえず、自分の行きたい場所から遠ざかっていくような仕事はやめよう。生活費が足りなくなったら、バイトすればいい。
 世間の基準から外れてもいいから、自分の声質にちかい文章を書いていきたい。

 当時、知り合った中央線沿線のバンドマンと毎晩遊んでいるうちに、だんだんそうおもうようになった。

 新しいペンネームは封印した。

(……続く)

2013/12/01

試行錯誤 その一

 三十歳以降、漫画をあまり買わなくなった。映画を観なくなった。それからインタビューや対談や座談会の構成の仕事をやめた。
 あれもこれもと手をひろげてしまうと、どうしてもひとつひとつのことが薄くなる。

 そのころ、アパートの立退きになって、「このまま高円寺に住み続けるか、もっと蔵書を増やすために郊外に引っ越すか」で迷っていた。
 当時のわたしは昔の学生寮の二階を三部屋丸ごと借りていた。本もレコードも置き場所を気にせずに買うことができた。

 高円寺内で引っ越すとなると、広い部屋には住めない。
 かなり頑張っても2Kか2DKが限度だろう。
 だったら、その居住スペースを前提とした生き方をするしかない。

 上京以来、年に四桁(冊数)ペースで本を買ってきた。当然、そんな買い方をしていたら、あっという間に置き場所がなくなる。本棚から溢れた分はどんどん売る。
 場所をとる大判の本、巻数の多い漫画は買わない。SF、ミステリ、時代小説には手を出さない。
 CDやレコードもくりかえし聴くもの以外、売ってしまった。

 そのころ、漠然とだけど、半隠居がしたいとおもっていた。
 不安定な生活に関してはそれなりに免疫がある。だったら、あまりお金をつかわず、なるべくやりたい仕事だけしよう。

 三十代はそのための試行錯誤に費やした。
 しかし「こうしよう」とおもっても「そのとおりにならない」ことが多い。

 十年かかって、ようやくそれがわかった。