2018/03/13

悲しい釣り

 月曜日、荻窪・ささま書店。福山市教育委員会(井伏鱒二追悼一周年事業実行委員会)の『井伏鱒二の世界』(一九九四年刊)を買う。限定五〇〇部の内二七号。
 二十年くらい前から文学展のパンフをちょこちょこ集めているのだが、これは知らなかった。大判の本を見逃しがちなのは、置き場所がなくて見て見ぬふりをしてた時期が長く続いたからかもしれない。井伏鱒二の字(書)は味わい深い。愛用していた将棋盤や釣り竿の写真も収録されている。

 火曜日、神保町で仕事帰り(ひさしぶりに対談のまとめをすることになった)、鳥海書房で伊藤桂一の『釣りの風景』(六興出版)を買う。平凡社ライブラリーの版は持っていたのだが、六興出版のちょっと大きめの新書サイズの随筆集はつい手にとってみたくなる。神田伯剌西爾で読みはじめる。御茶ノ水から総武線の各駅停車で高円寺まで没頭して読んだ。「悲しい釣り」は何度読んでもいい。

《釣りは、ふつう、たのしい遊びだが、沈んだ気分をまぎらすために、釣り場へ出かける人も多いのである。この世で、志を得られないとき、自分で自分を慰める最良の手段として、釣りが残されている。釣りしかないだろう》

 伊藤桂一は同郷(三重)の作家で二〇一六年秋に九十九歳で亡くなった。『フライの雑誌』に追悼エッセイを書いたときにも同箇所を引用した。釣りにかぎらず、ひとりでも楽しめる趣味は救いになる。

2018/03/06

アワの一粒

 尾崎一雄の『沢がに』(皆美社)は、もともと署名なしの本を持っていたのだが、七、八年前に署名本を見つけ、買い直した。どこで買ったのかは忘れてしまった。この本の「生きる」という随筆が好きで、何度読み返しているかわからない。

《巨大な空間と時間の面に、一瞬浮んだアワの一粒に過ぎない私だが、私にとってはこの世こそかけ換えのない時空である。いつの世でも、いろんなさまたげがあってそうはいかないけれど、すべての生きものは、生まれたからには精いっぱい充実した時をかさね、やがて定命がきて自然と朽ちるようにこの世を去りたいものだ》

 尾崎一雄の小説や随筆は、ほとんど身辺の話を材にとっているのだが、そこから時空や宇宙、あるいは自然の話に飛ぶ。
 自分という「点」を掘り下げながら、同時に巨大な「面」「空間」を書く。

 自分のことばかり考えると、どんどん狭い穴に落ちていく気分になる。でもそんな自分も「巨大な空間と時間」の中では「アワの一粒」にすぎない。そう考えると、人とはちがうやり方だろうが何だろうが「とりあえず、生きてりゃいい」とおもえてくる。

 若いころから、わたしは「ふつう」に生きるのがしんどかった。むしろ若いころのほうがつらかった。朝起きることができないし、午前中は、ほぼ調子がよくない。いまだに人ごみが苦手で、周囲と足並を揃えようとすると、それだけで疲れてしまう。
 今も同じだ。ただし五十歳ちかくまでどうにかこうにかやってきた。
 平均からはズレた生き方かもしれないが、休み休みでも十年二十年三十年と続けていれば、自分なりの道ができてくる。
 そういう生き方があるということを尾崎一雄から学んだ。

2018/03/03

人生設計

 土曜日、西部古書会館。金曜日が初日だったから二日目。昨年の秋くらいから読書欲が低迷気味だったのだが(仕事が難航していた)、三月になってすこし回復してきた。

 昔から「何のために働いているのか」みたいなことを考えすぎるのは精神衛生によくない気がしている。
 自分の住みたい町でなるべく快適に暮らしていきたい。あとは、本が読めて、週二日か三日、飲み屋で酒が飲めて、年に二、三回、二泊三日の国内旅行ができれば、それでいい。

 郷里にいたころから「将来、おまえみたいなやり方は社会で通用しない」といわれ続けてきた。今も「老後はどうするの?」「親の介護はどうするの?」と訊かれると言葉に詰まる。
 そもそもいつまで生きるのかさえわからない。だからこそ、それなりに備えが必要なのかもしれないが、わからない未来よりも今のほうが大事だ。日々の暮らしが厳しくなったら、そのときは全力で改善に取り組みたい。