昨日は夕方五時、今日は昼三時に起きる。部屋で西日本豪雨のニュースを見続けている。あまりにも広範囲すぎて、情報を把握できない。
金曜、月曜のしめきりが多く、週末、家にこもりがちになる。久しぶりに荻窪へ。電車でたった二駅が遠くかんじる。
夕方、ささま書店、タウンセブン。タウンセブンの近くのはなやで鶏だしのラーメン。昼酒組が何人かいて落ち着く。
ささま書店で古木春哉著『わびしい来歴』(白川書院、一九七六年刊)を買う。古木春哉は古木鐵太郎の息子。
佐藤春夫のこともいろいろ書いている。中村光夫や大岡昇平の批判にたいする擁護派だ。わたしは佐藤春夫の「うぬぼれかがみ」はまだ読んでいない。図書館に行きたい。
「わが出発」というエッセイを読んでいたら、父の郷里の鹿児島県の宮之城町(さつま町)に滞在せず、「私の生まれた高円寺の町をなぜか思い出しながら、バスが通り過ぎるままこの先の湯田温泉にその晩は一泊する」と書いている。
表題の「わびしい来歴」では「私は少年の一時期を野方という町で過ごした。(中略)一家の私たちはその場末に、南に隣接する大和町から、さらに前をいえばその南にある私の生まれた高円寺の町から追われて来たのである」と記す。
高円寺から北に歩くと、大和町、それから野方にたどりつく(徒歩圏内)。さらに古木一家は、野方の隣の鷺宮に移る。
ささま書店で『わびしい来歴』を手にとり、函から出して頁をひらいたら「高円寺」の文字が出てきて買うしかないと……。
古木鐵太郎は読もう読もうとおもいつつ、なかなか読めずにいた作家だった。息子の本を先に読むことになるとはおもわなかった。
2018/07/05
六十点主義について
五年くらい前に刊行された本だけど、福満しげゆきの『遠回りまみれの青春タイプの人』(青林工藝舎)は、若いフリーランスの人が読んでも参考になる本ではないかとおもっている。
このエッセイ集は、漫画家になるまでの「遠回り」を僻みとユーモアまじりの文章で綴っている。結局、凡才がデビューするには、才能よりも工夫、そして数なのだ。もちろん、福満しげゆきは単なる凡才ではなく、絵も文章も非凡なんですけどね。
絵がうまい人はいくらでもいる。おもしろい話を作る人もいる。でもずっとコンスタントに描き続けられる人は、あんまりいない。本書の「プレッシャーで、なかなか描き出せない人は、60%理論で」は、漫画にかぎらず、あらゆるジャンルに通じる凡才向けの優れた方法論だろう。
福満さんはマンガの制作は「60点くらいの出来…」でいいという。
《100点をめざすデメリットは「なかなか作品が仕上がらない」ことです。逆に言えば「100点を目指しても作品がジャンジャン仕上がる人」は、全然目指してもいいのです》
「100点の原稿」を「1年半」かけて仕上げるよりも「60点の原稿」を同じ期間に4本描いたほうがいい。なぜなら前者の100点より、4本目の60点のほうが「上になる可能性がある」と——。
わたしも『日常学事始』(本の雑誌社)で「家事は六十点主義でいい」という回を書いたのだが、この福満理論とほぼ同じである。
《今の自分の家事力で「頑張ったな」とおもえるレベルを百点とすれば、だいたい六十点くらいをキープできれば合格です。長年、家事をやっているうちに、すこし手抜きをおぼえ、楽になる。(中略)今は六十点くらいの手抜き料理ですら、昔の百点よりおいしいものが作れるようになった》
完璧主義から脱却したほうが、長続きするし、上達も早い。
わたしが「六十点」という言葉を意識するようになったのは、竹熊健太郎の『私とハルマゲドン』(ちくま文庫)の「人生六十点主義」の影響もある。二十代半ばのわたしはこの考え方にものすごく感銘を受けた。
《ある分野でプロを自称するためには、少なくとも八十点はコンスタントに取らなければプロとはいえない。それには何年も苦しい訓練を積まねばならないが、六十点くらいなら、そこそこ頑張れば素人でも取れる。そしてここが肝心なのだが、プロの六十点はけなされても、素人の六十点は褒められるのである》
そこで竹熊さんは「プロの素人」として戦う道を選ぶ。
「六十点でいい」というのは、六十点が最終目標ではない。六十点でいいから、その分、無理なく続けて数をこなす。
毎回、六十点くらいのものを目指しているうちに、たまたま頭がさえていたり、体調がよかったりすると、(今の自分にとっての)百点といえるレベルのものができることもある。
昨晩、家で作ったチャーハンがそれだった。
このエッセイ集は、漫画家になるまでの「遠回り」を僻みとユーモアまじりの文章で綴っている。結局、凡才がデビューするには、才能よりも工夫、そして数なのだ。もちろん、福満しげゆきは単なる凡才ではなく、絵も文章も非凡なんですけどね。
絵がうまい人はいくらでもいる。おもしろい話を作る人もいる。でもずっとコンスタントに描き続けられる人は、あんまりいない。本書の「プレッシャーで、なかなか描き出せない人は、60%理論で」は、漫画にかぎらず、あらゆるジャンルに通じる凡才向けの優れた方法論だろう。
福満さんはマンガの制作は「60点くらいの出来…」でいいという。
《100点をめざすデメリットは「なかなか作品が仕上がらない」ことです。逆に言えば「100点を目指しても作品がジャンジャン仕上がる人」は、全然目指してもいいのです》
「100点の原稿」を「1年半」かけて仕上げるよりも「60点の原稿」を同じ期間に4本描いたほうがいい。なぜなら前者の100点より、4本目の60点のほうが「上になる可能性がある」と——。
わたしも『日常学事始』(本の雑誌社)で「家事は六十点主義でいい」という回を書いたのだが、この福満理論とほぼ同じである。
《今の自分の家事力で「頑張ったな」とおもえるレベルを百点とすれば、だいたい六十点くらいをキープできれば合格です。長年、家事をやっているうちに、すこし手抜きをおぼえ、楽になる。(中略)今は六十点くらいの手抜き料理ですら、昔の百点よりおいしいものが作れるようになった》
完璧主義から脱却したほうが、長続きするし、上達も早い。
わたしが「六十点」という言葉を意識するようになったのは、竹熊健太郎の『私とハルマゲドン』(ちくま文庫)の「人生六十点主義」の影響もある。二十代半ばのわたしはこの考え方にものすごく感銘を受けた。
《ある分野でプロを自称するためには、少なくとも八十点はコンスタントに取らなければプロとはいえない。それには何年も苦しい訓練を積まねばならないが、六十点くらいなら、そこそこ頑張れば素人でも取れる。そしてここが肝心なのだが、プロの六十点はけなされても、素人の六十点は褒められるのである》
そこで竹熊さんは「プロの素人」として戦う道を選ぶ。
「六十点でいい」というのは、六十点が最終目標ではない。六十点でいいから、その分、無理なく続けて数をこなす。
毎回、六十点くらいのものを目指しているうちに、たまたま頭がさえていたり、体調がよかったりすると、(今の自分にとっての)百点といえるレベルのものができることもある。
昨晩、家で作ったチャーハンがそれだった。
2018/07/03
W杯雑感
W杯、日本・ベルギー戦、惜しい、悔しい、いい試合だった。ベルギー、巧いし、速いし、デカいし、バテない。
延長までもつれていたとしても、かなり厳しかった気がする。交替枠は日本のほうが残っていたけど、へとへとだった(観戦していたわたしも)。
日本代表は強くなったとおもうし、しぶとくなった。
決勝トーナメントで勝ち上がっていくには、グループリーグで燃え尽きるような戦い方をしているうちはむずかしい。賛否両論あったし、賭けの要素もあったが、三戦目で主力を温存する作戦をとることができた。この経験は大きいとおもう。
勝てそうな試合を勝ち切るのは大変だ。
あのパスが、あのシュートが、あのファウルが……。そうした悔しさを積み重ねてすこしずつ強くなっていくのだろう(経験値がリセットされてしまうこともよくある)。
今日はターンオーバーの日にする。
延長までもつれていたとしても、かなり厳しかった気がする。交替枠は日本のほうが残っていたけど、へとへとだった(観戦していたわたしも)。
日本代表は強くなったとおもうし、しぶとくなった。
決勝トーナメントで勝ち上がっていくには、グループリーグで燃え尽きるような戦い方をしているうちはむずかしい。賛否両論あったし、賭けの要素もあったが、三戦目で主力を温存する作戦をとることができた。この経験は大きいとおもう。
勝てそうな試合を勝ち切るのは大変だ。
あのパスが、あのシュートが、あのファウルが……。そうした悔しさを積み重ねてすこしずつ強くなっていくのだろう(経験値がリセットされてしまうこともよくある)。
今日はターンオーバーの日にする。
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