2020/03/09

日常

 日曜日、雨。昼三時半起床。夕方四時すぎ、二日目の西部古書会館。人が少なくてのんびり棚を見ることができた。葛西善蔵の『椎の若葉・湖畔手記』(旺文社文庫)は家にあるのは扉が切れていたので、つい買ってしまう。はじめて葛西善蔵を読んだのも旺文社文庫版だった。

 福原麟太郎の『人生十二の智慧』(新潮社一時間文庫)も買う。ビニカバがきれいに残っていた。二十代のころに買った記憶があるが、今は行方不明(たぶん売ってしまった)。「失敗について」がすごくいい。

《人生が失敗であつたとか、成功であつたとかいうことに、どんな意味があるのかとも言つてみたい。死んでしまえば萬事終りで、人は一生を、何とかして過ごして来たというだけのことなのだ。誰も大した生きかたはしていない》

 あと『草野心平のすべて展』(大黒屋デパート)は、はじめて見た。二百円だった。一九八三年に開催された文学展のパンフレット。文学館ではなく、百貨店系の文学展パンフはたまに見かけるのだが、未知の領域だ(誰か研究している人がいるのだろうか)。地道に調べていくしかない。

 二月二十八日から高円寺ではトイレットペーパーとティッシュが店頭から消えたが、三月五日、六日あたりから値段が高めのものは夕方くらいでも見かけるようになった。しかし週末また品切れ。もちろんマスクはない。土日は買い出しの人が多いのか、スーパーの棚もすかすかになる。一週間くらいで通常モードに戻るんじゃないかという予想は外れた。

 食料品にかんしては今のところそれほど困っていない。店によっては納豆が売り切れのところもあったが、すこし値段が高めのやつは残っている。先週末はレトルトと冷凍食品、缶詰の棚がガラガラの店もあった。

 ふだん調味料はなくなりそうになったら買い足すようにしているが、いつ品切になるのかわからないので、すこしだけ早めにストックしてしまう(ごま油とか)。買い占めというほどでもない、(自分も含めた)人々の小さな備蓄が積み重なると、棚がすかすかなるのだろう。週一回くらいしか買ってなかった納豆(三個入り一パック)を先週は二回くらい買った。棚にあと二、三個しか残ってないと次来たとき買えないのではないか、売れ残りの高級品(?)しか買えないのではないかと考えてしまう。

 こうした心理は古本を買うときにも働く。(好き嫌いと関係なく)よく見かける本よりもあまり見かけない本をつい優先して買ってしまいがちだ。何年か前、そういう買い方はやめよう、読みたい本だけを買おうと決めたにもかかわらず、人間の習性というのはそう簡単には変わらない。

 週末、仕事で節酒していたので今日は飲みに行きたい。

2020/03/05

第四稿

 寒くて風が強い。夕方神保町。東京メトロ東西線の九段下駅から中野駅、そこから歩いて高円寺に帰る。
 すこし前に買って積ん読していたジョン・マクフィー著『ピューリツァー賞作家が明かすノンフィクションの技法』(栗原泉訳、白水社)を読む。
 ライター関係の技術書、入門書は買う。読んですぐ役に立つアドバイスもあれば、時間が経ってから有益な知識もある。何がどう役に立つか、そう簡単にはわからない。わかれば誰も苦労しない。

 原書の題は「Draft No.4」、つまり「第四稿」である。このタイトルだと内容がわからない。しかし、いい題名だ。わたしが書店で手にとるのは『ノンフィクションの技法』だけど、読後、家の本棚に並べたいのは『第四稿』だ。

 この本の中でも「第四稿」が読みごたえがあった。
 行き詰まって書けないときは、自分の能力不足に関する愚痴など何でもいいから書けというようなアドバイスする。ライター歴三十年のわたしも実践している。

 テーマと関係ないことを書いているうちに力が抜けてくる。ジョン・マクフィーは最終稿ではその部分を削れというが、わたしはわりと残す。そのあたりがノンフィクションとエッセイの技法のちがいだろう(たぶんちがう)。どうでもいいことを書いているうちにエンジンがかかってくる。すくなくともわたしはそう。

 また「わたしの文体っていつも、そのとき読んでいるものと同じか、さもなければ、自己意識の強い、ぎこちない文になってしまう」というジェニーの悩みにたいし、マクフィーはこう答える。

「そりゃ、困ったことだね、もしきみが五十四歳だというなら。だが、二十三歳ならそれが当たり前だし、重要なことでもあるんだ」

 この続きの言葉もいい。何が書いてあるかは読んでのお愉しみということで。

2020/03/01

備蓄

 今年は閏年だったかと数日前に気づいたのだが、とくに予定なし。

 二十代のころは曜日の感覚がめちゃくちゃで、しょっちゅう火曜日だとおもって一日すごしていたら水曜日だったということがよくあった。今はそういうことはない。
 曜日をしょっちゅう間違えていたころは、生活リズムもめちゃくちゃで時計を見て五時三十分くらいだと、「朝? 夕方? どっち?」と焦ることが月に二、三日はあった。
 曜日の感覚がおかしくなったり、朝か夕方かわからなくなったりしたのは徹夜したり、半日くらい酒を飲んだりした次の日に十二時間とか十四時間とか寝ていたからだろう。

 今は朝か夕方かわからなくなる日は年に二日か三日くらいしかない。

 もはや生活リズムがデタラメだったころの感覚が思い出せなくなっている。今も規則正しい生活を送っているわけではないのだが、徹夜はしないし、飲みに行っても二時間くらいで切り上げる。

 九年前の東日本大震災後も町からトイレットペーパーとペットボトルの水と乾電池が消えた。菓子パンやカップ麺も品切になっていた気がする。ただ、当時の記憶もあやふやになっている。

 朝寝昼起の生活をしていると物不足のときに対処が遅れる。午前中でいろいろなものが売り切れ、午後は棚がすかすかになる。開店前に薬局でマスクの整理券を配っている。昨日か一昨日あたりから、急にトイレットペーパーとティッシュが売り切れの店が増えた。
 子どものころ、鹿児島にいた明治生まれの祖父が郷里の家に来たとき「ティッシュなんて贅沢だ。鼻は古新聞かチラシでかめばいい」といっていた。母は「ケチクサイ」と文句をいっていたが、ちり紙(チリシといっていた)がなくなったとき用のやわらかい紙のチラシをためていた(家は長屋で水洗トイレじゃなかった)。昭和五十年代の話である。

 数週間後には平常運転に戻るとわかっていても、いざ店にものがないと不安になる。家にあるものでもすこし買い置きしておこうかなとおもってしまう。ひとりひとりのそうした心理が積み重なって、町からものが消える。

 ものを備蓄するのも大事だが、なければないでどうにでもなる——とおもって日々をすごすのも生活の智慧だ。ほんとうにないと困るものは何か。そういうことを常日頃から考えておくのはわるくない。