2020/06/05

中野桃園町

 木曜日、仕事の帰りに中野の郵便局に行ったら十九時以降の夜間窓口がまだ営業再開していなかった。地味に困る。寿楽でラーメンと半チャーハン、桃園商店街を通って高円寺に帰る。

 丸谷才一著『低空飛行』(新潮文庫)に「中野桃園町」というエッセイがある。

《今は中野区中野三丁目だろうか、味気ない地名になったけれど、以前は中野区桃園町であつた。わたしは英文科の学生のころから結婚するときまで、かなり長いあひだこの桃園町に下宿してゐたのである》

 丸谷才一が中野の本屋をまわっていると「セヌマ先生」と呼びかける声が聞こえた。
 セヌマ先生は瀬沼茂樹である。後にふたりは同じ町内に住んでいたことが判明する。

《われわれの同時代人のうち、最も高名な中野桃園町の住人はおそらく北一輝だらう》

『低空飛行』の解説は山口瞳でこれがめちゃくちゃ面白い。吉行淳之介著『軽薄のすすめ』(角川文庫)と並ぶ山口瞳の名解説だ。

 山口瞳が書き下ろしの長編を書いたとき、丸谷才一に解説をかねた推薦文を依頼した。

《しばらくして、私は、思わず頭をかかえてしまうようなことになった。私は、ほとんど、私小説しか書かない。(中略)ご承知のように、丸谷才一さんは、まっこうから私小説を否定する側に立つ人である。はたして、丸谷さんの推薦文には次の一節があった。
「この人はずいぶん私小説に義理があつて、それを新しい時代に即応させることに必死なんだなと、わたしは改めて感心した。感心したり呆れたりしたと言ふほうが正しいかもしれない。それは律義な男もゐればゐるものだといふ気持だつた」》

 山口瞳は「辛い仕事」を頼んでしまったと申しわけなくおもう。わたしはこの時代の文壇の雰囲気が好きだ。書評だろうが推薦文だろうが、いうべきことはいう。自分の立場を崩さない。

 丸谷才一と山口瞳は『男の風俗・男の酒』(TBSブリタニカ、一九八三年)という対談集もある。

《山口 しかし、酒にしろ、身なりにしろ、言葉にしろ、風俗への関心というのは大事なことですね。
 丸谷 生き生きとした態度で生きていくためには、どんなつまらないことであろうと、現世の風俗というものに関心を持つべきですね。僕はそれは、非常に大事なことだと思いますよ。それをやらないと老けちゃうんですね。小説家が、わりに老けないのは、それなんじゃないかな。くだらないことに関心を持つから気が若い。
 山口 井伏先生なんか今でもすごいですよ。いつだったか、こういう話をした人がいたんです。その人は午前三時頃タクシーを待っていたんですって。タクシーはなかなか来ない。すると豪華な毛皮を着た女性が二人、やっぱり車を待っている。で、一緒に乗りましょうと相乗りしたら、六本木で降りていったというんですね。その話を聞いた井伏先生は、「君、それからどうした、どういう女だ」とどんどん聞くんですよ。僕はすごいと思ったな。あの先生の好奇心みたいなものに感動しましたね。僕はそういうのを聞いても、「ああそう、面白いね」で終わっちゃうんです。井伏先生はすごいですよ、いまだに。
 丸谷 それが小説家というものなんだな……。われわれは、そういう意味じゃいい商売を選びましたね。なんだか趣味と実益を兼ねるようなところあるでしょう》

 丸谷才一はいわゆる文壇ゴシップが大好きだった。何度かわたしは丸谷さんから文壇の噂話を伺う機会があった。吉田茂が亡くなったあと、遺産の問題でごたごたしていたとき、吉田健一が「そんな金、飲んじまえばいいんだ」といい放った逸話も丸谷さんから聞いた。

 後日、山本容朗著『作家の生態学(エコロジー)』(文春文庫)の「野坂昭如」のところを読むと次の文章があった。

《丸谷才一も、野坂人脈には、欠くことが出来ない。なにしろ、野坂の旧制新潟高校の先輩で、その上、結婚式の仲人である。丸谷は、今、目黒のマンションにいるが、その前、中野にいた。目と鼻の先に住んでいた私は、時々遊びにいった》

 山本容朗も中野桃園町の住人だったとは! 瀬沼茂樹と山本容朗が近所に住んでいたら文壇ゴシップには事欠かなかったにちがいない。

 丸谷才一が中野に移り住むさい、野坂昭如が引っ越しを手伝った。

 丸谷夫人は「当日、戦争中の防空演習の時のような格好して、朝早くやってきたの。そして、こちらが、マゴマゴしているうちにどんどん片づけちゃうの。助かったわ。野坂さんって、見かけによらず引越しの天才ね」と回想している。

(追記)
 もともと先月の「散歩と読書」に書いた話だけど、山本容朗の逸話を書き足したくなったので分けることにした。

2020/06/04

ノーシンとビール

 数日前に高円寺界隈で歩いたことのなかった道を歩いた。北口の北中通りのコクテイル書房の横の道からガード下を抜け南口のエトアール通りに出る細い道——三十年以上住んでいてもまだ知らない道がある。

 部屋の掃除をしていたら『海』と『群像』の武田泰淳追悼号(どちらも一九七六年十二月号)が出てきた。

『海』の武田泰淳追悼特集は埴谷雄高の「最後の二週間」がいい。埴谷雄高の人物評は観察がきめ細やかで読ませる。

『群像』の追悼号は大岡昇平、埴谷雄高、野間宏の座談会が面白い。

 大岡昇平は「脳血栓をやるまで彼のシステムは、ノーシンを飲んで頭をはっきりさせて、ビールでそれを動かす、(笑)そういうふうに自分ではいっていたけれども、そう理屈どおりにいくわけがない」といい、それにたいし埴谷雄高が「あれはヒロポンをうんと使ったあと。初めは焼酎で、それからヒロポン。それがヒロポンが市販されなくなったので、やみで手に入れてたけれども、それもとうとう手に入らなくなってしまった。それでノーシンになった」と……。

 武田泰淳の「システム」を今の時代に推奨する気はない。わたしもシラフで仕事している。
 規則正しい生活を送り、ストイックに執筆するほうが、長く安定した作家人生を送れるだろう。スポーツや碁将棋の世界もそうなっている。

 この座談会で埴谷雄高は「本当に彼がえらいと思うのは、彼は書いたら読み返さないんだよ。(笑)だからヒロポン時代なんか、メチャクチャな文章があるけれども、それで直さないで渡しちゃう。実際ぼくはえらいと思う」といい、大岡昇平も「座談会だって、彼は全然直さないんだ」。

 こうした姿勢を「えらい」という人もいまや少数派だろう。

 武田泰淳が六十四歳で亡くなったとき、武田百合子は五十一歳。今の自分と同い年か。泰淳が山梨に山荘を建て、東京と山梨を行き来するようになったのは五十二歳だった。
 わたしもそういう生活に憧れていた。山梨に中古の家を探しに行ったこともあるが、新型コロナのゴタゴタで今はそういう気分ではない。

 石和温泉に行きたいですな。

2020/06/02

新しい非日常

 先週、久々に新宿に行った。
 西口のよく行く金券ショップに寄ったら新幹線の回数券が一枚も売ってなかった。長年、新宿の金券ショップを利用しているが、はじめての光景だ。安く売ってたら名古屋か大阪の切符を一枚くらい買おうとおもっていたのに。
 図書カードは一万円分が九千五百円だった(過去最安値かも)。

 そのあと青梅街道の宿場町が描かれたトンネルを抜けて東口へ。喫煙コーナーが閉鎖されていた。紀伊國屋書店に寄る。地下一階の水山で天ぷらうどん。人もいつもより少ない。

 新宿の追分から甲州街道を歩いて四ツ谷まで。快速一駅分だけど、散歩にちょうどいい距離である。歩道も広くて歩きやすい。

 学生時代、四ツ谷と麹町の中間あたりの編集プロダクションに出入りしていたことがある。
 仕事は電話番。暇だったからパソコンにインストールされた上海やソリティアで遊んでいたら戦力外通告を受けた。

 麹町の事務所に出入りしていたころ、Tさんというライターの先輩がいた。
 Tさんは今はテレビに出たり、大学で教えたり、多忙な日々を送っているが、当時は阿佐ケ谷に住んでいて貧乏だった。平日昼間に馬橋公園でキャッチボールをしたこともある。出版社の草野球の試合に出るから、その前に肩慣らしがしたいと誘われたのだ。
 キャッチボールをしていたとき「魚雷君はさあ、ルポやノンフィクションじゃなくて、荒俣宏さんみたいな資料を読んで書く仕事のほうが合ってんじゃないか」といわれた。
 わたしが二十二、三歳くらい、T先輩が二十七、八歳のときだ。

 T先輩は適当にいったのかもしれないが、わたしは勇気づけられた。